第七十話 国を憂う正義団の、一人では届かなかった声
【エンリッチ / ハーンside】
水道局の人事担当から、返信が届いた。
『技術顧問のハロルド氏は、本日午前七時に、ご本人の電子署名つきで辞職届を提出されており、先ほど正式に退職の処理が完了しました。理由欄は「一身上の都合」の一行のみです』
エリュシオンの政府機関はすでに手中に収めている。問い合わせれば、たいていの情報が得られるのだが、してやられたな。
あの声は、しがらみを振り切った人間のものだったか。私が処分の手続きを打つより先に、すでに自分の手で職を降りていたとは。握りしめた通信機が、手の中でみしりと鳴った。
そのとき、傍聴席の後ろで扉の開く音がした。いつも私一人しか座っていない傍聴席に、作業着の男が入ってきて、きょろきょろと議場を見回している。続けて、買い物袋を提げた年配の女性、制服姿の二人組。その後も、続々と議場に国民が入ってくる。誰もが、通信機の画面と目の前の議場を、交互に見比べていた。
「ほんとにここだ。画面のまんまだ」
「前に座ってるおじいさんが、議長?」
ささやき声が、傍聴席のあちこちから聞こえてくる。画面の中の議場が実在するのか、自分の目で確かめに来たのだ。重要な議決があっても、傍聴席はいつも空だった。誰にも見られないからこそ、数の力で押し通せた。その傍聴席が、今日は人で埋まっていく。この人たちの目の前で、いや、画面を通してさらに多くの国民が「見ている」前で、水道事業を一企業に委ねる採決を通せるだろうか。
「だが、見ているだけで、本質を理解していない人間の方が多い。いける……か」
その時、通信機が短く震えた。
差出人の欄には、短く「リバー」というコードネームが一つだけ表示されている。私の上にいる、何人かのうちの一人だ。顔も知らず、声も聞いたことがない。
それでも、この名前から届く指示に背いたことは一度もない。
私のコードネームは「ブルック」、大河に注ぐ小さな支流の一つにすぎない。
『リバーより、ブルックへ。視聴数が組織の許容上限を超えました。本日の採決は延期とします。中継は止めないこと。止めた事実が広まれば、事態が悪化します。議長には、発言を許したうえで休憩を入れ、休憩明けに延期を宣言させてください。理由は、中継乗っ取りによる議場の安全確保とすること』
文面は丁寧で、疑問を挟む余地がない。もちろん、ブルックはリバーに異を唱えない。議長席に向けて、通信機に指を走らせた。
『至急案件:議長権限で配信の乗っ取りを理由に、本日の採決を延期にするように。ハーン議員の発言を許可したのちに休憩を入れ、延期の宣言は休憩明けに』
議長席で、手元の通信機に議長が目を落としたのを目視する。眉が一度だけ動き、すぐ元の表情に戻る。慣れた動きだ。
私はゆっくりと背もたれに体を預けた。想定外の動きがあったが、まだ巻き返せる。
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発言許可を求め、まっすぐ手を挙げた私を、議長が見た。急に増えた傍聴席のざわめきを気にも留めず、穏やかな声で言った。
「ハーン議員、どうぞ」
質問席に向かうため、席を立とうとした瞬間に通信機が震える。即座に内容に目を走らせる。
『視聴者は二百万人を超えました。コメントでいちばん多いのは「今日、何を決めるの?」「なぜ議場を映しているの?」「今、何が起こっているの?」です』
配信が始まってから、このような短い知らせが、ずっと届いている。議場の中にいる私には、外で何が起きているのか、コメントがどう動いているのかを見る手段がない。ジュリエットさんたちが、私の目になってくれている。
ならば、ここで戦う私にできることは一つ。
国民の、三つの疑問に答えることだろう。質問台の、マイクの前に立つ。
「議長。水道事業運営の、民間企業への全権委託に関する採決の前にお尋ねします。最新情報によると、巷で起こっている事件を通して、この議場の様子をただいま二百万人を超える国民の皆さんが見ているとのことです。事件を賛美する気はございませんが、ふだんこの中継を見ている人はせいぜい二百人ほどですので、より多くの国民が本日の採決に注目していることは、一人の議員として『人生万事塞翁が馬』の心境です。議長はこのことについて、どうお考えですか?」
「国民の皆様の関心が、本日の採決に集まっていることは、喜ばしいことと考えます」
「喜ばしい!」
あえて大げさな身振り手振りで、議長の言葉を繰り返した。それから傍聴席を、議場の隅のカメラを、ゆっくりと見渡す。
「皆さん、お聞きになりましたか。議長は今、国民の関心が集まることを喜ばしいとおっしゃいました。ならば、国民の皆さんが今ここで何が起きているのかを知ることも、きっと喜ばしいはずです。議長のお言葉に甘えて、ご覧になっている皆さんにも分かるように、お話しします」
議長の口元が、一瞬だけこわばった。自分の言った言葉を、取り消すわけにはいかない。私は議長から目を外し、議場の隅のカメラに体をしっかりと向けた。
「今日、この議場で決めようとしているのは、皆さんの家の蛇口から出る水を、これから誰が管理するのかということです。国ではなく、ウェルスプリング社という一つの企業に、水道の運営を丸ごと任せるという議案です。もしこれが採択されれば、水道料金をいくらにするのか、どの水道管を直すのか、どの町にどれだけ水を送るのか、全てをその会社が決めることになります。料金が上がっても、壊れた水道管が後回しにされても、国はもう口を出せません。そして一度任せてしまえば、簡単には取り戻せないのです」
傍聴席がざわついた。作業着の男が、隣の年配の女性と顔を見合わせている。「水道代、また上がるのか」と、誰かのつぶやきが聞こえた。
「私のもとには、水源地に住む方々から、何度も声が届いています。先祖代々汲んできた沢の水を、もう自由に汲めなくなった。言葉巧みに利益だけを聞かされて土地を売却してしまったばっかりに、今まで使ってきた水に使用料を取られるようになって困っているというものです。水道は社会インフラです。ですが民営化し、国の手を離れた水は、企業の一存で全部決められていくのです。遠い山の話だと思わないでください。皆さんの蛇口から出る水も、エリュシオンの豊かな水源地から流れてきているのです」
傍聴席で、制服の二人組の片方が「さっきの鹿の人と、同じ話だ」とつぶやいた。
「なぜ議場を映しているのかと、不思議に思われている方も多いでしょう。議会の中継は、本来、誰でもいつでも見られるものです。ただ、今日まで誰も見ていなかった。先ほどもお伝えしたように、こんなに大切な議案でさえ、わずか二百人ほどしか視聴していないのが実情です。配信を占拠した人たちのやり方に、私は賛成しているわけではありません。ですが、彼らの求めていることは間違っていないのではないか、そう思うのです。自分たちの命や生活にかかわる水の問題が決まる瞬間を、自分の目で確認することを求めているというのは、少しわかる気がします」
私は一度、言葉を切った。画面の向こうにいる、国民へ少しでも伝わるように、この機会を無駄にしないように、思いを込めて話を続ける。
「今、この国で何が起きているのかを、国民の皆さんにぜひ知っていただきたい。今日は優勝決定戦の最終戦です。この採決は、国中が試合に夢中になっている、まさにその時間に置かれていました。皆さんが歓声を上げているあいだに、皆さんの大切な水の行き先が、誰にも気づかれないまま決まるはずだったのです」
「おい、やめさせろ!」
「話が飛躍しすぎだ!」
あちこちから複数の議員、特に与党議員席からたくさんのヤジが飛ぶ。
「ハーン議員、憶測で物事を話すのは控えるように!」
議長が告げてきた言葉に、カメラから議長へ目線を移し向き直る。
「それでは議長、お尋ねします。なぜ、この日のこの時間にこのような大事な採決を置いたのですか? この国で野球の優勝決定戦がある日の街の様子はご存じのはずだ。この国の人間ならだれにでもわかること。国民の関心が集まらない日に重要な採決を執り行うのは、国民を向いた政治とは言えませんよね? 日程を決めたのは、どなたですか?」
議長は微笑んだまま答えた。
「日程は、議会運営の観点から適正に定められております」
「適正であるなら、国民の前で説明できるはずだ!」
自分の声が、議場の天井に跳ね返った。
「私は議員になって九年、水道事業の採決のたびに、この議場で反対の声を上げてまいりました。そのたびに数の力で押し切られ、国民の皆さんは、何が決まったのかさえ知らされないままでした。けれど、今日は違います。この国の人が、この場所を見ている」
私は議場を見渡した。机の下で通信機を握っている議員たちに向けて、言葉を続ける。
「議員の皆さんにお尋ねします。今日、皆さんが投じようとしている一票を、画面の前の国民に、胸を張って説明できますか。説明できない一票なら、投じるべきではありません。私は、この国の水をこの国の人の手に残すために、議員になりました。その務めを、最後まで果たします。……以上です」
議長は一度だけ手元の通信機に視線を落として、木槌を手に取った。
「ハーン議員、ありがとうございました。ただいまのご発言と、議場の外で起きている事態を受け、議事の取り扱いを協議いたします。しばらく休憩といたします」
木槌が鳴り、議員たちが立ち上がる。議長は振り向かずに退席した。自席に戻ると、心臓がまだ大きく鳴っていた。喉がからからに乾いている。机の上のボトルをつかむと、三つの水滴を重ねた丸いロゴが、手のひらの中でこちらを向いた。
飲み込まれてたまるか。
ロゴの入ったラベルに爪を立て、一息にはがす。ただの水になったボトルのキャップをひねり、一気に飲み干した。
傍聴席で、ぱち、ぱち、と手を叩く音がした。
見上げると、買い物袋を提げた年配の女性が、一人で手を叩いていた。
続けて制服の二人組、作業着の男。ばらばらだった拍手が、やがて一つに重なって、議場に満ちていく。いつも空っぽだった傍聴席で、国民の拍手が鳴っている。
九年間、一度も見たことのない議場だった。
休憩が明ければ、採決の行方が決まる。
延期か、それとも数の力で押し切られるのか。後者ならば、もう一度立つ。
延期を引き出すまで、何度でも。




