第六十九話 それぞれの想いをかける、覚悟の四百万
【常連客 / グレンside】
最終戦の日の野球カフェは、開店と同時に満席になった。
俺はいつものカウンターの端に陣取って、大画面の試合中継を見上げながら、手元の通信機を立てかけた。こっちではミラちゃんの配信を流す。試合を見ながらミラちゃんの解説を聞くのが、俺の野球観戦の楽しみ方だ。
この前の試合の日は、この店でミラちゃん本人を見かけて「配信しないの?」なんて声をかけちまったけど、結局中止にしちゃったんだよなぁ~。調子が狂った、狂った。今日はちゃんとやってくれてるみたいだ。おっ、始まるぞ!
「みんな〜、お待たせ。ついに来たよ、最終戦!ここまでは、ブルードルフィンズもスノーフォックスも一勝ずつで、全てがこの最終戦で決まるワクワクの展開!!今日は最後まで一緒に——」
いつもの明るい挨拶が、そこでぶつっと切れた。
え?なに??回線トラブル???
周りも少しざわつき始める。なんだ、みんな結構ミラちゃんの配信、見てるんだな。何も映していない画面を注視しながら回復を待っていると、画面が一瞬パッと暗くなって、次に映ったのは、兎だった。
兎男?いや、白くて長い耳の、作り物の兎の頭をかぶった男が、カメラの真正面に立っている。後ろには椅子に座らされたミラちゃんと、その横に狐の頭をかぶった女の人、かな。ミラちゃんの手首には縄が巻かれていた。
「配信をご覧の諸君!この配信は、我々『エリュシオンの水道を本気で憂う正義団』が占拠した」
兎男は背筋をぴんと伸ばしたまま、大真面目に宣言した。
「なんだよ、余興か?正義団が占拠っておかしいだろ」
思わず声が出た。周囲も口々に突っ込みを入れている。それより、ミラちゃんだ。
縛られてるし、通報したほうがいいのか?
その場にいる人たちが画面から目を離せずにいると、戸惑いを隠せない中で兎男は話をつづけた。
「我々の要求は一つ。議場を映し、国民がそれを見ることだ」
画面が二つに割れた。左に兎男とミラちゃん、右には、だだっ広い部屋に議員がずらっと並んでいる映像。国の議会の中継だ。そんなもん、生まれてこのかた一度も見たことがない。
「画面の右に映っているのは、議会の公式中継そのものだ。この配信を見ている者は、そのまま議会中継を見ている者として数えられる。昨年の優勝決定戦の視聴数である四百万人を、議会中継の視聴数が超えた時点で人質を解放する!」
画面の端に、数字が二つ並んだ。上は『四百万』、兎男の言った昨年の優勝決定戦の数字だ。下の数字は、二百そこそこだったのが、見ている間に跳ね上がって一気に千二百を超えた。
「おい、ミラちゃんの配信、乗っ取られてるぞ!」
通信機を掲げると、隣の席の連中が身を乗り出してきた。
「なんだこれ、兎?」
「正義団だってよ。名前、長ぇな」
「兎男、偉そうだな」
店のあちこちで笑いが起きる。そのうちに、兎男の後ろを狼の頭の被り物をした男がうろうろして、カメラに向かって両手を振り始めた。
「狼男まで出てきたぞ」
兎男が狼男の腕をつかんで、画面の外へ引っぱっていく。店がまたどっと沸いた。
「四百万人って、去年の最終戦の数字だろ?国が大喜びで発表してたやつじゃねぇか」
「議会の中継なんて、誰が見るんだよ」
「見るだけでミラちゃんが助かるなら、見てやろうぜ」
「でもよ、野球の最終戦でミラちゃんの配信見るやつ、四百万人なんて超えるか?」
「超えなきゃ、ミラちゃんどうなっちまうんだ?」
カフェ内の空気が静まり返る。
一人、また一人と、自分の通信機を取り出して、配信画面を開いていく。
下の数字が、一万五千、二万と増えていく。
占拠画面を左から右に流れていくコメントも、目で追えないくらいの速さになってきた。
『ミラちゃん大丈夫!?』
『議場ってなに』
『水道の話?』
『見るだけでいいの?開いたよ』
突然の配信占拠に視線がくぎ付けになっていると、
「おーい、今日のルーキー、全然ダメだわ」
と、配信ではなくカフェの試合中継を見ていた誰かが声を上げた。
ちょうど、今の場面を振り返る映像が流れるところだった。ルーキーが思い切り空振りして、ブルードルフィンズが三者凡退と、実況が叫んでいる。前の試合じゃ、全打席ホームランだったのに。少し試合に気を取られて、通信機に目を戻す。議会中継の数字は、十万を超えていた。
そのとき、画面の中で、兎男の横から鹿の頭の男が一歩前に出た。
「今度は鹿男かよ!!」
+++
鹿の頭の中は、思っていたよりずっと暑かった。
倉にしまいっぱなしだったせいで、塗料と古い木のにおいがこもっている。目の穴は小さくて、前がよく見えない。見えるのは、正面のカメラに灯った赤い光と、その奥の壁にかかった大きなモニターだ。モニターには配信の画面がそのまま映っていて、視聴者のコメントが左から右へ次々と流れていく。
『鹿きた』
『今度は鹿かよ』
『動物園か?』
膝が笑っている。手を握っても、指の先の震えが止まらない。祭りで舞を奉納するときだって、こんなに震えたことはない。あのときは、水神様の祭壇と村の連中の顔しか見ていなかった。今は、画面の奥で何万人もの知らない人が俺を見ている。
隣で、兎の頭のロミオさんが小さく頷いてくれた。勇気を振り絞って、声を出す。
「俺は、レテ高地の水源地に住んでる者だ」
声がかすれた。咳払いをして、もう一度、腹に力を入れる。
「うちの集落はな、ずっと沢の水を汲んで暮らしてきた。飯を炊くのも、畑にまくのも、全部その水だ。それが今は柵が立って、勝手に汲んだら駄目だってことになってる。土地を買った会社のもんだからってな。年寄りは、山の下まで水を買いに行かなきゃならねぇ。もう、本当に困ってるんだ」
埋め尽くされていたモニターのコメントが、少しだけ減った気がした。
「何度も国に陳情に行った。窓口に行けばあっちの課だと言われて、あっちに行けばこっちだと言われて、結局、誰も話を聞いてくれなかった。困っても、国は助けてくれねぇ。だから、こんなもんかぶってでも、多くの人に話を聞いてもらいたかった」
鹿の頭の中で、自分の息の音がうるさい。
それでも、言わなきゃならないことが、まだある。
「うちの集落にも、法外な価格で土地の買い取りの話がきて飛びつき、先祖代々の土地を売ったやつがいる。今になって、あんな話に乗るんじゃなかったって、夜も眠れずにいるよ。自分たちの飲み水がなくなるなんて、思わなかったって。そういう人が、これからもっと増える。水は命と同じだ。なくなってから気づいても遅いんだよ。頼む、他人事だと思わねぇでくれ」
言い終えて、頭を下げた。かぶり物が重くて、首ががくんと前に傾く。
顔を上げると、モニターに流れるコメントが変わっていた。
『あの鹿、何言ってんだ?水はいつでも飲めるだろーが』
『土地売ってお金もらってるんだから、文句言えなくない?』
『水源地って、買い占められたらやばくないの?』
『鹿男さん、話してくれてありがとう』
笑うコメントばかりだった画面に、見知らぬ誰かの、俺と同じ思いが混ざり始めている。言い切った。誰にも聞いてもらえず、届かなかった想いが今日、この国の誰かに届いた。
占拠画面の数字は、三十万を超えていた。
【ミラ / ノーマンside】
縄は、本当は少しもきつくない。今朝、ベアトリスさんが「痛かったら言ってちょうだいね」と三回も確かめながら、ふんわり結んでくれたものだ。それでも私は、人質らしく肩をすぼめて、下を向いている。
すぐ横では、狐の頭のベアトリスさんが、カメラに向かって話し始めた。
「わたくしの手元に、この十年の水道代の数字がございます。一般的なご家庭で、十年前の一・五倍。水道管が古くなって、取り替えにお金がかかるから、と説明されてまいりましたわね。けれど、取り替えが進んだというお話を、皆さまお聞きになったことがあるかしら。民営化されれば、値上げを決めるのは国ではなく、一つの会社になりますのよ?」
上品な声で、数字をすらすらと並べていく。
モニターに、
『水道代一・五倍!?』
『もっと上がるの?』
『水道代、うちも上がった』
『年金から払うの、正直きつい』
というコメントがいくつも流れて、狐の頭が満足そうに少し揺れた。
水の話は、正直まだよく分からない。でも、ここにいる人たちが本気なのは分かる。鹿の頭のグレンさんは、話し終えてからずっと、隅の椅子で大きく肩を上下させている。
私の目は、どうしても、スタジオの隅の小さな画面に向いてしまう。スカイが流しっぱなしにしてくれている、最終戦の中継だ。右翼の守備位置に、ルーキーが立っている。
ノーマンさんに会わせてほしいと頼んだのは、飯会の夜だった。帰り際、玄関で靴を履いていたロミオさんの袖を、私はこっそり引いた。
「ロミオさん。あのノーマンって人に、会わせてもらえませんか」
ロミオさんは少し驚いた顔をしてから、声を落とした。
「理由を聞いてもいいだろうか」
「二十七日、試合が面白かったら、みんな試合を見ちゃうんです。優勝決定戦の日なんて、隣で火事があっても画面から目を離さない人ばっかりなんだから。ルーキーがまたありえないホームランを打ったら、誰も配信なんか開いてくれない。だから最終戦だけは、ノーマンさんに何もしないでほしいって、頼みに行きたいんです」
そこまで言って、私は手首のブレスレットを握った。
「それに、一回でいいから見たいの。誰の手も入ってない、本当の野球を」
ロミオさんは、しばらく私の顔を見て、
「分かった。ノーマン殿には、私から連絡を入れておこう」
と言って、頷いてくれた。
三日前、古い喫茶店の奥の席で、ノーマンさんは私の話を最後まで聞いてくれた。ノーマンさんの目が、私の手首のブレスレットで止まる。小さな『99』のチャームを、しばらくじっと見ていた。
「……考えさせてほしい」
画面の中で、相手の打者が鋭い打球を右中間へ飛ばした。ルーキーが頭から飛び込む。前の試合のルーキーなら、あれをスーパーキャッチして、球場中を沸かせていたはずだ。だけど、実際の打球はグラブの先を抜けていった。球が外野の奥へ転がるあいだに、走者が二人、本塁へ帰ってくる。スノーフォックスのタイムリーツーベース。ルーキーは芝の上に手をついたまま、しばらく起き上がれないようだった。
私は縛られた手を、膝の上でぎゅっと握りしめた。
────ノーマンさん!
議会中継の数字は、八十万を超えていた。
+++
制御盤のランプが、全部、緑のまま並んでいる。私の手は、膝の上に置いたままだ。今日は一度も、制御盤に触れていない。
横の画面では、ミラの配信を流していた。仕事中にこっそり聞くのは、もう何年も前からの習慣だ。以前の配信では、オーギュストのことを誰よりも楽しそうに褒める声が流れていた。勝手に同志のように思い、応援していた。
画面のミラは、縄で縛られて下を向いている。けれど、その目がときどき画面の外の同じところへ向く。あれは、試合を見ている目だな。その時、バタバタと階段を駆け下りてくる足音がして、扉が勢いよく開いた。
「おい、どうなってる!ルーキーが打席で三振、守備でもあの様だぞ!」
上司が肩で息をしながら、制御盤の前に回り込んでくる。即座に制御盤のランプを見て、それから驚愕の表情で私の顔を見た。私は通信機の画面を上司のほうへ向けた。兎男と狼男と狐の女と鹿男、それに縛られた女性配信者が映っている。
「ご覧のとおり、野球配信が乗っ取られています。同じ連中の仕業でしょうね。先ほどから、制御盤も入力を受け付けません」
「制御盤まで……乗っ取られたのか?」
「そのようです」
私がいくつかボタンを押すふりをしてみせると、ランプは緑のまま、何の反応もしなかった。押していないのだから、当たり前だ。上司は真っ青になって、通信機でどこかに連絡を入れながら、また階段を駆け上がっていった。
一人になった地下で、試合の画面に目を戻す。ルーキーではない他の打者が、低めの球をすくい上げた。打球はふらふらと上がって、二塁手の後ろにぽとりと落ちる。ホームランでもなんでもない、不格好なヒットだ。それでも、球場が沸く声が、地下まで響いてきた。
私は胸のポケットの上から、色あせたイルカのキーホルダーを押さえた。誰の手も入っていない野球を、この球場で見るのは何年ぶりだろう。今日は最後まで、私は何のコントロールもしないと決めている。みんなが覚悟を決めたのだ。
私だって、同じ気持ちでここに座っている。
【エンリッチ / ハーンside】
傍聴席から見下ろす議場は、いつもどおり退屈だった。
議員たちは決まりきった答弁を読み上げ、決まりきった拍手をする。水道事業の採決は、試合が終盤に入るころの予定だ。国中が優勝の瞬間を待っているそのときに、この国の水は誰にも気づかれないまま私たちの手に渡る。
上着の内ポケットで、通信機が震えた。一度、二度。止まったと思ったら、また震える。傍聴席で通信機を見るのは決まりに反するが、これだけ続くと放っておけない。部下からだった。『至急』の文字と、配信の画面へのつなぎ先だけが送られてきている。
開いて、目を疑った。画面の右半分に映っているのは、今、私がいるこの議場だった。左半分には、動物の頭をかぶった連中と、縛られた女の配信者。
画面の端に、数字が二つ並んでいる。上は四百万、何の数字だ?
少し考えて、昨年の優勝決定戦の視聴者数だと気づく。さんざん利用してきた数字だ。では下は?
少し配信の様子を眺めていると、うなぎ上りに数字が跳ね上がっていくのがわかった。リアルタイムの視聴者数か。議会中継の視聴数で、いつもはせいぜい二百人がいいところ。だが、今日はどうだ?すでに百五十万を超えていた。画面右上には、四百万を超えたら人質を解放する、という固定字幕まで映っている。
見下ろせば、議員たちの何人かが、机の下で同じ画面を見ている。
すると、左の占拠画面で熊の頭の男が前に出てきた。
「水道管の破裂や、地下の水道管が壊れて道路が陥没した事故のニュースを、並べてみました。この国では、水道管の事故が一年に二万件を超えております。皆さんの住む町の名前も、きっとこの中にございます。取り替えにはお金がかかります。だから直せない、予算がないからそのまま。水道事業でそれは国民の命や生活を脅かすことになるのではないでしょうか?」
確かに聞いたことがある声が、話を続ける。
「先ほど、水道料金が上がり続けていると同志からお話しました。では、皆さんが支払ったその高い水道料金で、水道管は修理され、元通りに水が出るようになってるのでしょうか?水源地の同志は、水を汲めなくなって困っています。皆さんの『水』を国が守っているといえるでしょうか?もし、すでに国にその力がないのだとしたら────」
「この熊男の声は……水道局、技術顧問のハロルドか」
口元から笑みが消えたのが、自分でも分かった。私は通信機の画面を切り替えて、指を走らせた。
+++
議場のあちこちで、通信機の画面の光がちらついていた。
最初は一人、二人だった。今は、ざわめきが議場の端から端まで広がっている。誰かが机の下で音を消し忘れたのだろう。熊の頭をかぶったハロルドさんの声が、かすかに漏れ聞こえてきた。
「水は、一つの企業に独占されていいものでしょうか」
職を辞する覚悟で話すと言っていた。その覚悟が、今、この議場にまで届いている。さっき一度だけ、手元の通信機で配信を確かめた。鹿の頭のグレンさんの声は、震えていた。それでも最後まで話し切っていた。
私は資料に目を落としたまま、奥歯を噛みしめた。計画どおりに進んでいる。けれど、それを喜ぶ顔は、まだ見せられない。
ふと、傍聴席を見上げた。
エンリッチがいた。説明会で、耳障りのいい言葉しか言わなかった男だ。採決の前には、いつもあそこで笑っている。議場を見下ろして、こちらの負けを最初から知っている顔で。その男が、今、こわばった顔で通信機を握りしめていた。
初めて見た。私がこの議場でどれだけ声を上げても、あの顔色が変わったことは一度もなかった。数で負けて、資料を突き返されて、それでも一人で質問を重ねてきた。そのあいだ、あの男はずっと笑っていた。
今、声を上げているのは、私一人ではない。そして、名前も知らない百五十万もの人が、画面の前でこの議場を見ている。
それなのに、議員の私がここで黙って座っているわけにはいかない。この国の水を、この国の人の手に残す。そのために、私は議員になったのだ。
私は立ち上がり、まっすぐに手を挙げた。
「議長、採決の前に発言を求めます」




