第六十四話 人生は奪われても、手の感覚は自分自身のもの
階段の下から、みんなの声が少し聞こえる。
熱のせいで、頭の中に薄い膜が張ったみたいだった。何を話しているのかまではわからないけれど、その声がいつもよりずっと慎重に言葉を選んでいることだけは、伝わってきた。
ロミオが話す、ノーマンの話。オギーがこれまでやってきたことを否定するような酷い内容だから、オギーのことが心配でたまらないわ。ここに初めて来たときの、オギーの様子をよく覚えているから。最近、少しずつ明るさを取り戻してきた感じがしていたのに。
その場にいて、力になれない自分がもどかしかった。
どうして私は肝心な時に役に立たないんだろう。ロミオやパックたちがオギーを支えてくれるのはわかっている。それでも、私もそばにいたかった。
どうしようもなく落ち込み、布団の中で丸くなる。
強くなりたい、頑張りたい。この気持ちが空回りしないように、どうしたらいいのか。焦ってもダメだとわかっているけど、気持ちを立て直すのが難しかった。
+++
話は、いよいよ核心に迫る。ノーマンは「上からの指示」で制御盤を操作しており、オギーの第一戦のミスはすべて仕組まれたことだった。目的は平たく言えば『金儲け』だ。スポーツくじやテレビ中継の配信料と広告料など、国民や企業からお金を巻き上げるための不正操作だ。
「上って、どこだい?」
ドーラが、低い声で口を挟んだ。
「明言はしていなかったが、胴元が国である以上、政府や国ということになる」
部屋が静まり返った。ドーラが息をのみ、キューはこぶしを固く握る。オギーは虚ろな表情のまま、黙り込んでいた。誰も口を開かない。
オギーが心配で視線を向けると、目が合った。ゆっくりとオギーが話し始めた。
「おかしいと思ったことは……何度もあったんスよ。詰まったと思った球が、スタンドまで届いたり、抜けると思った打球になぜか間に合ってグローブにおさまっていたり。打った瞬間の手応えと球の飛び方が合わないことが……何度も、あ、あったんですよ」
最後の方は声が震えていた。
「オギー、無理しなくていい」
私はそう声をかけたが、オギーは首を振り話を続けた。
「最初は疑問でした。でも、周りはみんな『絶好調だな』と言うし、数字も歓声も毎日上がっていったんス。おかしいのは俺の感覚の方なんかなって、わからないまま流されるようになりました。自分の調子が自分でわからないなんて、おかしいスよね。第一戦の日も、そうで。
九回裏の打球は、捕れるはずだった。足の運びも、グローブの位置も感覚では『捕れる球』だったんです。なのに球は芝の上で一度、ありえない跳ね方をして、グローブの先を抜けていったんスよ」
当時のことを思い出しているのだろう。オギーの顔に苦痛の色がありありと浮かぶ。
「そのとき思ったのは、『やっぱり』だったんです。やっぱり、俺はもうだめなんだ。目も、体も、自分の感覚がとっくに信じられなくなっていたから。叩かれるのも、当たり前だと思った。自分が悪いんだからって……でも、でも!違うじゃないスか!おかしいのは俺じゃなかった、全部、球のほうだった……」
「オギー、オギー、もういいよ、もうわかったから!!」
ドーラが涙目でオギーにすがりつく。私はそっとドーラの腕を取り、オギーから離した。全部、吐き出した方がいい。
「俺の感覚は、ずっと正しかった。正しかったのに、俺は自分でそれを捨てたんだ。歓声のほうを信じて。なんなんだよ……俺の実力なんて、関係ないじゃないか。何のために今まで……」
オギーの苦しみが痛いほど伝わってくる。覚悟していたはずだ。
言えばつらい思いをさせると。私は感情の吐露を促し、受け止めてやることしかできない。
「オギー」
「俺のせいじゃなかった。そうわかったのに、少しも楽にならないんスよ……」
「オギーっ」
ぼろぼろと零れ落ちる涙を、オギーは乱暴に袖で拭おうとした。その痛々しい姿に、胸の奥が焼き切れるような痛みを覚える。
気づけば、彼の体を両腕で強く掻き抱いていた。
「……人生を奪われた。怒っていい」
低く掠れた声で呟きながら、オギーの顔を自分の首筋に押しつける。私の髪や肩で彼の泣き顔を隠すように、腕に力を込めた。オギーの、必死に声を殺そうとする呼吸が伝わってくる。
対面から、パックが同じようにオギーの体を包み込んだ。キューも何も言わずにそこに加わる。最後にドーラが、私たちの頭上を覆うようにして、全員の肩を大きくその両腕で抱きすくめた。
誰も何も言わなかった。励ましの言葉さえもない。
でも、
『ここにいる』
『一人にさせない』
それがオギーに伝わればいいと思った。
_____
「すんません、少し一人にしてもらえますか?」
私たちはオギーから離れ、頷きで了承した。
玄関の扉が閉まる音が聞こえる。庭へ出たのだろう。
少しすると、素振りをする音が聞こえてきた。
いつもの、規則的な素振りではない、何かを振り切るような、荒々しく風を切る音がする。雑念を払うために素振りを行う気持ちはよくわかる。
私たちにできるのは、見守ることだけだった。
【オギーside】
庭の隅に立てかけてある、いつもの木の棒を手に取った。
握った手のひらに、古い豆の跡が当たる。
俺がだめだったから球団に切られたんじゃない。野球の出来に関係なく、金になるうちは使われて、金にならなくなる前に捨てられた。それだけだということが、受け入れられない。
棒を握る手に、力が入る。訓練生の頃、一軍の先輩が、大事な試合でありえないミスをした。俺がずっと憧れていた人だった。国中から叩かれて、翌週には引退した。
プロというものは、一つのミスが命取りになるのだと胸に刻んだあの出来事も、『金』のために仕組まれた茶番だったんだ。先輩が今どうしているかはわからない。たぶん、俺も周囲の人から同じように思われて、忘れ去られていくんだろう。
実際に制御盤ってやつで試合をコントロールしていた人、ノーマンとデンちゃんは言っていたか。何となく覚えている。成績が振るわず、このままだと契約解除もあり得ると焦っていた時に、今にも死にそうな顔をしている作業着姿の男と会って、飲み物を渡した記憶がある。そうか、イルカも渡してたんだった。
俺に何度も謝っていたとデンちゃんは教えてくれたけど、やったことは取り消せない。ただ、実行した人と命令を下した人、この場合、人なのか?わからないけど、負の感情を断ち切りたくて、俺はバットの代わりに木の棒を振る。
一振り目。金のために、人の人生を決める国へ。
棒が、風を切ってヒュンと鳴った。
二振り目。金と保身で選手生命を切ってきた、ノーマンという男へ。
力が入りすぎて、危なく棒が手から離れて飛びそうになる。
もう一度握り直して、三振り目。毎日バットを振り、捕球してきた自分の手より、人に言われたことを信じた俺自身へ。
何度も、何度も木の棒を振る。野球が上手くなるために、試合で活躍できるように毎日素振りをしてきた。でも、もう俺が素振りをする必要はない。
俺の野球人生は終わったんだ。どこか現実味がなかった『終わり』の意味が、急に実体を伴って迫ってくる気がした。
息が上がって、汗が目に入る。それでも木の棒を振り続けた。腕が重くなっていく分、胸の中に詰まっていた黒いものが、少しずつ外へ出ていく感じがする。
ラスト!そう声に出して、何も考えずにスイングする。
手のひらに残る、ジンとした痺れ。誰の記憶にも残らなくても、俺の力でなかった時があったとしても、俺が野球にかけてきた思いは消えることはないし、誰に奪われるものでもない。
……俺は、この手の感覚を信じられる。
顔を上げると、台所の窓に三人の顔が並んでいた。キューがこめかみを押さえたまま俺の方をじっと見つめ、パックは窓ガラスに額をくっつけている。ドーラは、顔を拭いたらいいと思う。泣きすぎだ。そして、庭の入り口にはロミオが立っていた。
俺は棒を下ろして、ロミオのほうへ歩いた。
「俺、ここにいていいか?」
声は、思っていたよりちゃんと出た。
ロミオは、迷わず頷いた。
「当たり前だ」
俺の新しい居場所になってくれるみんなの所へ、ロミオの肩を抱きながら戻る。
「……ありがとう」
「うむ。まずは水を飲んだ方がいいだろう」
「プハッ、お礼に言う言葉がそれかよ!」
「汗をかきすぎだ。脱水予防は大事だろう?」
わざとなのかな?俺への気遣い?
いや、でも実はちょっとポンコツだからな。真面目にそう言っている気もする。
ま、どっちでもいーか。
あの日パックに出会って、今みんなが一緒にいてくれて、本当に良かった。
心からそう思った。
_____
昼過ぎ、俺は二階の、姫ちゃんの部屋の扉を叩いた。
後ろには、しっかり番犬、じゃなくて、デンちゃんもいる。
「どうぞ」
少しかすれた声が返ってくる。扉を開けると、姫ちゃんはベッドの上で体を起こしかけていた。
「あ、寝てていいって。すぐ戻るから」
慌てて言うと、姫ちゃんは毛布を肩まで引き上げて、こちらを見た。熱のせいか、目が少し潤んでいる。
「デンちゃんから聞いた。昨日、熱が出るくらい寒い中で、球場の門の前で待っててくれたって。……俺のために」
言いながら、頭を下げた。
「ありがとう、姫ちゃん」
「やめてよ、私が行きたかったの。ロミオもパックも熱なんて出してない。私が弱かっただけ」
姫ちゃんは、眉を八の字に曲げて、悲しそうな顔をした。
「それより、もう平気なの? さっきの素振りの音、いつもと違っていたから……」
「あー……聞こえてた?」
「うん、手は大丈夫?」
俺は、まだ赤い手のひらを見下ろした。バットではなく木の棒で乱暴に素振りをしたから、手のひらがすごいことになってる。
「手、ドーラさんに言って、ちゃんと手当してもらってね?それと、ちょっとオギーに聞きたいことがあったの。背番号って、ずっと一緒?」
「ずっとじゃないな。一軍になってからはずっと101番だったけど、訓練生のころは違ったよ」
「訓練生の頃は何番だったの?」
「背番号99だよ。ちょっとかっこいいと思っていて、一軍でもその番号が良かったんだけど、欠番扱いで使えなかったんだ」
「やっぱりね」
姫ちゃんが何かを確信したように言うけど、俺にはさっぱり意味がわからなかった。チラッと後ろを振り返る。デンちゃんも訳がわからないという顔をしていた。
「……姫ちゃん?」
姫ちゃんは、完全にどこか違うところへいってる感じだった。
いや、物理的にじゃなくて、意識?思考が??
でも、この感じ、どこかで見た気がする。どこだっけ?
肩をたたかれ横を見ると、いつのまにかデンちゃんが隣に来ていて、
「恐らく恋愛小説だ。ご機嫌のために、何も言ってはならない」
と言ってきた。恋愛小説、なにそれ。
姫ちゃんは口元を両手で押さえ、少しもだえるようにブツブツ何かを言っている。
よく聞くと、
「99……ブレスレット……お気に入り、やだ、恋愛小説みたい……!」
と繰り返していた。恋愛小説って言ってる!
ほんの少し、怖い。
「え、なに? なんの話?」
「なんでもないわ!」
姫ちゃんは毛布を口元まで引き上げて、首を横に振った。どう見ても、なんでもない顔じゃない。それから少しして、毛布の上から目だけを出したまま、まっすぐ俺を見た。
「オギーさん。あなたのこと、ずっと信じて応援している人がいるの。見てる人はちゃんといるわ!!」
「……誰?」
「内緒!」
いたずらっぽく目を細めて、姫ちゃんはそれ以上教えてくれなかった。
誰なのか、見当もつかない。でも、ファンという存在が脅威に思えていた心が少しだけ軽くなった気がする。まだ、うまく笑えないけど。




