第六十二話 先行き不明の、罪を抱えて飲む珈琲
ノーマンさんは、カップを両手で握ったまま、ストーブの上のやかんを見ていた。
「私の仕事場は、球場の地下にある。制御盤の前にいる間は誰とも口をきかない。その夜も、そうだった」
パックが椅子の背から体を起こして、テーブルに肘をついた。
「オーギュストがまだ入団したてだった頃、もう六年も前の話だ。私はその日、ある選手が試合中に重大なミスを犯すように制御盤を操作した。誰のことだったかは言えない。その選手は、国民から叩かれ、翌週引退した。オーギュストの時と全く同じだ。上から指示が来て、私はシステムを操作した。選手生命を終わらせるような仕事だとわかっていた。わかっていてやったというのに、部屋を出たところで足が動かなくなった」
ノーマンさんの目が、カップの湯気の向こうへ遠のく。
「裏手のベンチに座って、どれだけそうしていたのか、わからない。若い男が練習着のまま自動販売機の前で飲み物を買って、そのまま去らずに私に近づいてきたんだ。指にテープをぐるぐる巻いて、ボロボロの手をしていた」
その時のことを思い出しているんだと思う。ノーマンさんはすごく優しい顔をした。
「私が何も言えずにいると、彼は飲み物を差し出して勝手に隣に座りだしたんだ。そして、聞いてもいないのに自分の話を始めた。『俺、今日、二軍の試合で三振三つだったんスよ。同期も昨日、一人辞めちゃって。全然、うまくいかないんスよね』と。最初意味がわからなくて混乱したよ。でも」
私はオギーの不器用な優しさが胸に沁みこんでくるようで、切なくなった。野球をやめた今でも、毎朝ロミオと一緒に素振りを欠かさない。オギーはずっと努力し続けてきた人だ。
「『俺は絶対あきらめないんで。どんだけつらくても歯ぁ食いしばって頑張るッス。だからおじさんも、なんとか踏ん張ってくださいよ。すげーつらいことあったと思うんスけど、俺もやるんで。一緒に頑張りましょうよ』って。ものすごく年下の彼に慰められちゃってね」
胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。自分もうまくいっていないのに、他人を気遣える優しい人なのだ。涙がせりあがってくる。ロミオが手を握ってくれた。私もそっと握り返す。
「それから、胸ポケットからこれを出してきてね」
ノーマンさんは、ここへ来るまでに外していた入館証のストラップをテーブルの上に出した。パックが目印にしていたイルカは、近くで見ると青色がところどころ白っぽく色が抜けている。たぶん、何度も触って、撫でて、大事にしてきたんだと思う。
「入団した日にオーギュストが自分で買ったんだそうだ。プロとして野球をやるのが夢だった。これを見ると、まだ自分はやれると思えるから、貸します!と、押し付けて走っていったんだ」
「おっちゃん、ずっとそれ持ってんのか」
パックが、ぽつりと言った。ノーマンさんは頷く。
「これがあれば、薄汚れた自分でも、まだここにいていいような気がして。オーギュストはそんなつもりで渡していないのにな。それからずっと彼を見ていた。一軍に昇格して、初めてヒットを打った日は、制御盤の前で泣きそうになったよ」
「ならば、なぜオギーに同じことをした?それほど彼の活躍を願っていながら、なぜ?」
ロミオが問いかけるその声には、抑え込むような怒りを感じた。私も視界がにじみ、唇を噛んで何とかこらえる。
「第一戦の指示が来たとき、彼を守る方法を探した。探して、探して、結局、システムを操作した。私は我が身かわいさに、私を救ってくれた人を見殺しにしたのと同じだ」
涙を止められなかった。
ノーマンさんは顔を上げて、私たちを一人ずつ見た。
「君たちは、オーギュストの何なんだ?」
「私たちは縁あって、彼と行動をともにしている。私たちは他国の者だが、オギーに対する国民の対応は正直度を越していると思っている。少しでも彼の力になりたくて、貴殿に話を聞きに来た」
ロミオが努めて冷静に言う。
ノーマンさんの唇が動いた。声になるまで、しばらくかかった。
「彼は……今、どうしている」
「人生をかけて打ち込んできた野球を奪われたのだ。心に負った傷は深い。私たちはこれ以上オギーを苛むものから守りたいと思っている」
カップが、ノーマンさんの手から滑りかけた。私が手を伸ばすより先に、本人が額を押さえて、テーブルに肘をついた。
「そうか……いま一人じゃ、なくて……よかった」
ノーマンさんは頭を下げた。額がテーブルにつきそうだった。
「すまない」と、何度も何度も繰り返した。
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ノーマンが少し落ち着いたのを見計らって、私は疑問に思っていたことを尋ねた。
「オギーは最初から操作されていたのだろうか?」
「いや、一軍に昇格して、めきめき頭角を現し、上に見つかるまではシステムの補正なしで活躍していたよ。全部、本物の実力だった」
それを聞いて、少し安堵の息が漏れる。彼の努力は実を結び、不正に汚されるまでは実力で結果を出してきたのだ。
「なぜわざと失脚させるの?意味がわからないわ」
「俺も、それがわかんねー」
ジュリエットとパックの疑問はもっともだ。
しかも、ノーマンの話を聞く限り、過去にも同じようなことを行ってきたようだ。
ノーマンは一度姿勢を正し、私たちをしっかりと見据えて尋ねた。
「これから話すことが他に漏れれば私は終わる。それだけじゃない、情報を聞いたあなた方も無事で済まない可能性がある。それでも聞くか?」
私は一瞬迷った。私たちはすでに祖国から追われているだろう身だ。この上、さらに追跡される可能性があるというなら、すぐに頷くことは難しい。そう考えてジュリエットとパックを見ると、二人とも強い意志を持って、
「聞くわ」
「聞くに決まってんだろ」
と言った。二人がそう言うなら、私にも迷いはない。
「話を続けてくれないだろうか」
「わかった。私も覚悟を持って話す。すごく簡単に言えば金のためだ」
「金?」
パックの表情が険しくなる。
「ああ。国が胴元のスポーツくじがある。どちらが勝つか先にわかっていれば、売り方も払い戻しも、国の思いどおりになる。八百長なんだよ。視聴率と広告費も同じ仕組みだ。試合が盛り上がるほど、国に入る広告料が上がる」
スポーツくじ、正直私にはよくわからない分野だ。ジュリエットだけが、「あの小説の設定と同じかも」とつぶやいている。パックが眉をひそめっぱなしだ。
「スター選手を作るのも、その座から引き落とすのも、金のためだ。選手が安定的な活躍をして人気が出ると、しばらくはそこで金を稼ぐ。だが、国民はすぐに飽きるんだ。予定調和はつまらないと言ってね。だからスターを定期的に入れ替える」
「オギーは、そんなもののために……」
ジュリエットの声が、途中で詰まった。
「より巨大な富を生み出すために、この国はスポーツに金を注ぎ込み続ける。野球だけじゃない、サッカーくじもある。金は、試合だけに使われているわけじゃない。スタンドの改修も、大画面の取り替えも、夜の試合の照明も、全部国の予算で、しかも毎年増えている。国民の熱狂を切らさないためなら、国はいくらでも出す。これがエリュシオンご自慢の、スポーツ産業だ」
そこまで言うと、ノーマンは長く息を吐いた。
「……やっと、息ができる」
その声には、ほっとしたような響きがあった。けれど、すぐにカップを持つ手が震えだした。
「明日から、俺はどうなるんだろうな」
笑おうとした顔が、歪んだ。
カウンターの奥から、マスターが出てきた。何も聞かずに、ノーマンの前に新しい珈琲を置く。
「今夜はもう少しいなよ。閉めるのは、あんたが帰ってからでいい」
ノーマンは珈琲を両手で包んだ。そして店に来てから初めて、カップに口をつけた。
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店を出ると、裏通りは冷えきっていた。ジュリエットの肩に掛けた上着の襟を直しながら、私は、ノーマンの言葉を頭の中で繰り返していた。
説明会では、水道管が古くなって取り替えにお金がかかるから、料金を上げるしかないと説明された。野球カフェで会ったミラ殿も、同じ理由で納得していた。それなのに同じ国が、スタンドの改修にも、大画面にも、照明にも、毎年国の予算をつぎ込んでいる。
水道管を取り替えるお金はないのに、金の卵への投資は惜しまない。
経済学的には正しいか?いや、国民あっての、国だ。
国民の生活の安定が優先される。
「明日、ハロルド殿に会いに行こう」
ジュリエットとパックが、顔を見合わせてから頷いた。




