第六十一話 誰かのための怒りは、限界の心を突破する
球場のまわりは、人であふれていた。
試合が終わってずいぶんたつのに、誰も帰ろうとしない。青いユニフォームの人たちが、選手の出入口の前に何重もの人垣をつくって、ルーキーの名前を呼んでいる。
「すげぇ人だな。あん中から、おっちゃん一人を探すのか?」
パックが背伸びをして、人垣をのぞきこむ。ロミオは人垣ではなく、球場の壁を見上げていた。
「あの男が球場の関係者なら、観客と同じ出口は使わないはずだ。反対側へ回ってみよう」
ロミオの後について、私たちは球場の外周を歩きだした。
歓声が、少しずつ遠くなっていく。
半分ほど回ったところで、灯りの少ない裏手に出た。大きな搬入口のシャッターの隣に、小さな門がある。門柱には「関係者専用」の札がかかっていて、脇に読み取り機が立っていた。ちょうど作業着の人が一人出てきて、首から下げた入館証を機械にかざしていく。
「ここだな」
ロミオが、小さく頷いた。
私たちは、門が見える建物の陰に立った。パックは門のすぐそばの角まで出て、出てくる人を一人ずつ見ている。目的の人物の顔を知っているのは、パックだけだ。
夜風が、少し冷たい。
上着の隙間から容赦なく入りこんでくるので、私は襟をぎゅっと握って、足先に力を入れた。指先の感覚が、だんだんなくなっていく。でも、寒いとは言えなかった。ここで寒いと言ったら、ロミオはすぐに帰ろうと言いだすから。
キューが無理をしてまで追いかけた人を、私のせいで逃したくない。
私は歯を食いしばって、門を見つめ続けた。
ふと、横から視線を感じた。ロミオが、私の顔をじっと見ている。
「唇の色が悪い」
真剣な顔だった。ロミオは何も聞かずに自分の上着を脱ぐと、私の肩にかけてくれた。それから両手で襟元を合わせて、首まで隙間ができないように直してくれる。
物音に気づいたパックが、振り向いた。ロミオが私の襟を直しているのを見て、
「これはさすがに過保護じゃねぇな」
と言うと、また門のほうへ向き直った。
「体を冷やしてはいけない」
ロミオの優しさに包まれて、一気に体温が上がったみたい。
上着から、ロミオの匂いがした。ロミオが風の吹いてくるほうへ回りこんで、私の前に立つ。私は上着の前を握って、そのままロミオの大きな背中におでこをコツンとぶつけてみた。
吹きつけていた風が、ぴたりと止む。ロミオが全部受け止めてくれていると思うと、守られている感じがして、胸の奥がくすぐったい。
「ロミオ、大好き」
すごく小さな声でつぶやいてみた。だって、パックに聞こえたら恥ずかしい。
「ジュリエット、個人的にはとても嬉しいが今は控えてほしい」
ロミオの耳が真っ赤だわ。
「はぁ~い」
本当は背中に抱きつきたかったけど、控えることにした。
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門から出てくる人は、少しずつ増えていった。みんな作業着で、疲れた顔をしている。遠くから聞こえる歓声に、振り向く人はいなかった。
何人目だったろう。
「いた」
パックが、小声で言った。
門から出てきたのは、作業着姿の中年の男だった。首から下げた入館証の青いストラップに、色あせたイルカのキーホルダーが揺れている。うつむいたまま、足元だけを見て歩いていく。遠くの歓声から、背を向けるように。
「あの人だ。市場で会ったおっちゃん」
パックが、確かめるようにもう一度言った。
男は私たちには目もくれず、灯りの少ない道へ歩いていく。私たちは顔を見合わせて、少し離れたまま、その後をついていった。歓声が聞こえなくなったところで、パックが駆けだした。
「おっちゃん!」
男の背中が、びくりと動き、歩みが止まる。
「市場で、あんたの腕を掴んだヤツがいたろ?その連れだ」
男はゆっくり振り向いて、私たちを順に見た。
それから顔をそむけ、
「人違いだ」
そう言うと、足を速めて歩きだす。
「今日の試合を、野球カフェで観ていた」
男は足を止めない。
「ルーキーは本塁打を三本打ち、三本ともライトスタンドの二階の、同じ通路の脇に落ちた。あの方角は風が押し戻すので、あそこまで運べる選手はオーギュスト選手くらいしかいなかったと、野球の配信をしている人から聞いた」
男の肩が、明らかに揺れた。
「観ていて気になったことがある。ルーキーの彼は、まるでどこに球が来るかわかっているようなバッティングに見えた」
「俺はさ」
パックが、私の隣に並んだ。
「球のほうが、バットに寄ってってるように見えた」
「私とパックが感じた違和感の正体、貴殿なら知っているのではないだろうか?」
「俺らは、何か細工があると思ってる」
男の足が完全に止まった。
しばらく誰も何も言わなかった。冷たい風だけが、私たちの間を抜けていく。男が、ゆっくりと振り向いた。
「……おかしいと思ったのか。あの三本を」
「ああ」
私が頷くと、男は長いこと黙っていた。それから、低い声で言った。
「三本とも同じ場所に落ちたのに、球場は歓声だけだった。あの中で気づいた者は、私の知るかぎり一人もいなかった」
男は、自分の両手を見下ろした。
「あの球は、私が全部あそこへ飛ばした」
まるで懺悔のように、男は苦悶の表情を浮かべて語り出した。
「試合で使う球には、全部、仕掛けが入っている。打った球がどこへ飛ぶか、球が捕れるか捕れないか、盤上で操作できる。それを動かすのが、私の仕事だ」
パックが、動いた。私が止める間もなく、両手で男の胸ぐらをつかんでいた。
「じゃあ、市場で思わず言ってたやつ。『オーギュストのミスじゃない』って。あんたがやったから言ったってことだよな?」
男は抵抗しなかった。目を伏せたまま、ぽつりと言う。
「言っちゃいけなかった。でも……事実だ」
「パック!!」
私はパックの腕を男から離して、距離を取らせた。
パックがオギーのために、怒っていた。男が、顔を上げる。
「殴っていい、殴ってくれ!」
「殴ってほしいやつを殴ったって、意味ねぇだろ」
パックに、落ち着けと声をかけて宥める。
気持ちはわかるが、今は情報を聞き出すことが先だ。
「知っていることを全部話してほしい」
男は大きく一つ頷き、乱れた襟を直しもせずに、あたりを見回した。
「ここでは話せない。警備の見回りが通る」
「では移動しよう。どこか温かい場所はあるか?」
男の話を聞くには時間がかかるだろう。ジュリエットのことが心配だった。
男は少し考えてから、言った。
「この先に、遅くまで開いている喫茶店がある。球場の人間も、客も、まず来ないような所だから、そこで話そう」
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裏通りの角に、その店はあった。小さな木の扉を押すと、からん、と鈴が鳴る。
中は静かだった。古い木のカウンターと、四つだけのテーブル。
ストーブの上で、やかんが小さな音を立てている。
壁のどこにも、大画面はなかった。通信機の画面ひとつ、点いていない。
今夜この国で大一番の試合があったことを、この店の中で思い出させるものは何もなかった。カウンターの奥から、白髪のマスターが顔を出した。
「おや、今日はお連れさんがいるのかい」
男は小さく頷いた。
「奥の席を、借りてもいいですか」
「どうぞ。いつものでいいね」
マスターは、私たちの注文も聞いてくれた。ジュリエットとパックは温かいココア、私は男と同じ珈琲にした。奥のテーブルに着いてから、私は、まだ名乗ってもいなかったことに気がついた。
「申し遅れた。私はロミオという。こちらがジュリエット、そしてパックだ。市場であなたの腕を掴んだのは、キューという私たちの仲間だ」
男は、私たちの顔を一人ずつ見た。それから、小さな声で言った。
「……ノーマンだ。球場で、技術の仕事をしている」
湯気の立つカップが運ばれてきた。ジュリエットは両手でカップを包んで、ほっと息をつく。ココアの甘い香りがテーブルの上に広がり、ジュリエットの頬に、少しずつ色が戻っていった。
ノーマンは、カップに手をつけなかった。立ちのぼる湯気を、ただ見つめている。
パックも、珍しく黙っていた。ストーブの上で、やかんがまた小さく鳴った。
やがてノーマンは、両手でカップを持ち上げた。口はつけずに、手のひらで温めるように握っている。
「全部、話す」
かすれた声だった。
「彼の一番最初のファンは、私だったと思う」




