第六十話 三回続く奇跡の意味は、人智を超えた先にある
選手紹介が終わると、店の熱がもう一段上がった。
隣のテーブルから、青いユニフォームの男の人が、ジョッキを持ったままこちらへ体を向けた。四十歳くらいで、お腹がふっくらしたお店の常連さん、という感じの人だ。
「おっ、ミラじゃん。今日は配信しないのか?得意のオギーの解説、また聞かせてくれよ」
「そりゃ無理な話ってもんよ。引退したんだもんなぁ〜」
周りのテーブルから、笑い声が上がる。
ミラさんは、顔を上げなかった。ジョッキの持ち手を握る指の関節が、白くなっている。唇をぎゅっと噛んで、ひと呼吸、ふた呼吸。
やっと口を開いたときも、男の人のほうは見なかった。
「今日は旅の人たちに、野球を教えてるの。邪魔しないで」
「あー、悪い悪い」
男の人は笑って、体を前に戻した。
ミラさんは長く息を吐いた。それから私たちに向き直ったときには、さっきまでのこわばりが嘘みたいに、ぱっと明るい顔になっていた。
「ごめんね、お待たせ!ちょっとだけ、説明させて。青のブルードルフィンズは南部リーグ、スノーフォックスは北部リーグをそれぞれ勝ち抜いてきてね、この優勝決定戦の三試合の勝敗でエリュシオンの総合優勝が決まることになってるの。ここ数年はずっとドルフィンズ対スノーフォックスね、宿敵同士よ」
ここまで一気に話した後に、少しだけ声のトーンを落として、
「配信ではどっちのファンにも公平に解説するって決めてるけど、ドルフィンズのファンなんだ。……あ、今のはここだけの話ね」
「それだと応援している選手につい肩入れしちゃわないか?」
パックが、ポテトを口に運びながら聞いた。
「そこは、インフルエンサーとして、あからさまな贔屓とかしないわよ」
「そうか?さっきあそこのおっちゃんに、ってぇ!」
思わずパックの足を踏んづけてしまったわ。
そこは触れないであげて。ミラさんのさっきの表情見てなかったの?
テーブルの下で何が起きているのかわからないロミオは目をぱちくりしている。
ミラさんは何かに勘付いたのか、私の方を見てほんの一瞬苦笑いした。
話題を変えようと、ミラさんの袖口からのぞく、細い銀のチェーンの話を振った。
小さな丸いチャームがついていて、「99」という数字が刻まれている。
「そのブレスレット、素敵ね」
「でしょ?」
ミラさんは隠すどころか、うれしそうにチャームを指でつまんで、私に見せてくれた。
「お気に入りなの。ずっとつけてる」
ロミオは、初めて気がついたみたいで、じっとチャームを見つめている。女性のアクセサリーに気づくタイプではないと思っていたけど、何か気になるのかしら?
その時、大画面から聞こえてくる実況の声が一段と大きくなった。
「さあ、優勝決定戦、第二戦が始まります!ブルードルフィンズの選手が、グラウンドで守備位置につきます!」
選手たちが、一人ずつ映し出されていく。外野の位置に、背の高い若い選手が駆けていって、帽子のつばを持ち上げ、観客席に手を振った。さっき紹介された、十八歳のルーキーだ。
「新時代の幕開けです!」
店じゅうが、歓声と拍手に包まれた。
ミラさんの表情が抜け落ちる。少しうつろな視線は、ルーキーではない、別の誰かを見つめているように思えた。たぶん、少し前までその位置で守備をしていた人を。
一回表のスノーフォックスの攻撃は、三人で終わった。一回裏、ブルードルフィンズの攻撃。一番打者として、そのルーキーが打席に入る。
初球だった。
乾いた音がして、白い球が高く上がった。カメラが球の行方を追う。
白球は、ライトスタンドの二階、通路のすぐ脇に落ちた。
店じゅうが総立ちになった。テーブルが揺れ、ビールジョッキを合わせる音が鳴る。隣り合う人同士が抱き合い、ルーキーの名前を叫んでいる。
ミラさんも手を叩いていた。
「すごい。初球から振って、あそこまで運ぶなんて。度胸あるなあ」
野球が好きな人の顔だった。その背中に、隣のテーブルから声が飛んだ。
「次のスターが来たぜ!」
ミラさんの手が止まった。
「まだ一打席でしょ」
冷たい声だった。笑った男の人は気づかないまま、隣の人と乾杯している。ミラさんは、私たちには取り繕わなかった。画面を見たまま、唇を噛む。
「あの辺りはね、ライトから風が押し戻すの。だから、あそこまで運べる人なんて、オギーくらいしかいなかったのに」
言い終えると、手つかずのジョッキに手を伸ばして、口をつけずに戻した。
私はなぜミラさんが今日、配信を切って初対面である私たちと同席したのか、わかってしまった。インフルエンサーの仕事と割り切れず、聞きたくない声、見たくない活躍を、この場で少しでも紛らわせるためだった。
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三回裏、新人の二打席目。
店の中の興奮は、最高潮に膨れ上がる。
一打席目と同じく、また初球。
打球は高く、遠く、ライトスタンドの二階、通路のすぐ脇に吸い込まれるように落ちた。
店が歓声で揺れた。凄まじいエネルギーの中で、ミラは呆然としていた。
「……また、同じとこ」
その時、私の腕をジュリエットがそっと引き、耳元でささやく。
「ねえ、ロミオ。ホームランって今日初めて見たけど、同じところに打てるものなのよ。恋愛小説は合ってるんだわ!観客席のヒロインめがけて、ホームランボールは落ちるの」
ジュリエットの目が、きらきらしている。非常に可愛らしいが、私には疑問が残る。
以前、私は同じ場所を狙ってホームランを打つのは、物理的に不可能だと言った。打球の方向は、投手の球種とバットに当たる位置と角度で決まる。毎回違う球が来るのに、狙った席に何度も落とせるはずがない、と。その不可能が目の前で起きた。それも、一打席目と寸分違わない場所に。
同じ投手から、狙い球を同じ方向へ打つことは可能かもしれない。プロの選手ならできるのだと、考えを改めるべきかもしれない。だが────
「つーかさ」
パックが、大画面を睨むように見て言った。
「球の方が、バットに寄っていってねぇか?」
ミラが、怪訝な顔でパックを見た。そんなことがあるわけがない、という顔だ。
「何それ。球がバットに寄っていくわけないでしょ。やっぱり期待されるだけあるっていうことだよ」
言い返したのはそれだけで、すぐに大画面へ目を戻した。
私が感じた違和感────あらかじめどこに球が来るか、わかっているかのようなバッティングに見えたのだが、パックは球の方がバットに寄って行ったと言った。
見え方は違うが、違和感を抱いたのは同じだったようだ。
この感覚を無視してはいけない。経験上、そう思った。
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試合は、ブルードルフィンズの大勝で終わった。新人は四打数四安打、本塁打が三本。三本目のホームランも、ライトスタンドの二階、通路のすぐ脇に球が落ちた。
店のあちこちで乾杯が始まり、スノーフォックスを応援していたファンはやけ酒を煽り始めた。大画面に大きな文字が出る。
『一勝一敗。優勝の行方は、最終戦である二十七日にもつれこんだ』
ミラは荷物をまとめ、立ち上がった。顔つきは、最初に見せた明るい顔に戻っていた。
「じゃ、私はこれで。今日は楽しかった。良かったら、最終戦も見て行ってね」
「ありがとう。とても勉強になった」
私がそう言うと、ミラは少し驚いた顔をして、それから笑った。
「どういたしまして、旅の人」
店を出て、人の波の中に消えていく。
「なぁ」
「ああ……」
パックが、大画面を見上げたまま言った。
「気のせいじゃねーよ、たぶん」
「同感だ」
ジュリエットは私たちのやり取りを不思議そうに見ていた。
私は、パックと私が感じている違和感をありのままに伝えた。ジュリエットは技術的に可能かどうかわからない話でも、否定したり疑ったりしなかった。
「二人が言うなら、私は信じる」
どんな仕組みかは想像もつかないが、人工的に手を加えられているのは間違いないと思う。この国の野球は、やはり闇が深そうだ。
私は上着を取って、立ち上がった。
「行こう。球場の裏口へ」
【ハロルドside】
エリュシオン合同文化コミュニティセンターの小会議室へ移動し、打ち合わせを行う。
「国民説明会『水の未来』、実施済み。参加者、九名。質疑応答あり」
エンリッチ氏は、通信機に報告を打ちこみながら読み上げた。説明会のときと同じ、感じのいい笑顔で、
「上出来です。優勝決定戦の第二戦の日にして正解でしたね。前回は休日にしたら、二十人も参加者が来てしまいましたから」
と言って通信機を閉じた。
「それから、ハーン議員のご質問ですが、『ご意見』として残しておきます。議員の方からも厳しいご意見をいただきながら、議論は十分に尽くしたと議事録に書くことが重要ですから。採決の前に、この一行があるのとないのとではずいぶん違いますよ!」
朗らかに語るエンリッチ氏の顔を思わず睨みつけた。ハーン議員の問いは、事業について疑義を呈し、懸念を整理するためのものだった。それが、議論を尽くした証として、報告の一つになるとは。
「技術者の継承についてのご質問は────」
「ハロルドさん」
エンリッチ氏の笑顔は、少しも崩れなかった。
「技術のことは、私どもにお任せください。皆さんの雇用は守ると、申し上げたとおりです。打ち合わせは以上です。社に戻って報告がありますので、私はこれで失礼します」
そう言って、エンリッチ氏は会議室を後にした。
ハーン議員のことは、よく知っていた。話したことは一度もないが、水の説明会に全回参加している。いつも最前列の正面に座り、名乗って質問をした。そして私は、毎回質問に答えられなかった。いや、答えることを許されなかった。議員はきっと気づいている。このままでは、
この国の「水」が守られないことを。
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技術顧問室に戻ったのは、日が落ちてからだった。三階のいちばん奥、以前は資材の置き場だった部屋に、机と椅子と、古い通信端末が一台。窓の外から、地鳴りのような歓声が聞こえてくる。今夜は、第二戦だ。
この部屋を訪ねてくる人はいない。
私は椅子に座り、昼間のことを思い出した。演壇から降りたとき、近づいてきた三人。若い男は、まず水の話を褒め、それから「なぜ市民がこんなに少ないのか」と聞いた。この国の者ではないだろう、それなのになぜこの説明会に参加したのか。
古い通信端末の電源を入れた。保存してある資料をひさしぶりに開く。
国じゅうの水道管の、設置年と水道管の交換予定の年月日が記載してある一覧表。
備考の欄には「延期」の文字がずらっと並んでいる。
窓の外で、また歓声が上がった。
このままでいいわけがない。そう思った。




