第五十九話 エラーが炎上する国は、水道代には寛容
球場へ続く大通りの角にある野球カフェに入ったのは、第二戦が始まる一時間ほど前だった。扉を開けたとたん、声の波が押し寄せてくる。
壁いっぱいの大画面に、試合前の特集が流れている。店の中は、青と白で埋まっていた。青いユニフォームを着た人、白い帽子をかぶった人、頬に青い線を描いた子ども。テーブルというテーブルが埋まり、立ったままジョッキを掲げている人もいる。あちこちで乾杯の声が上がり、そのたびに誰かが応援歌の続きを歌い出す。
さっきの会場には、私たちのほかに六人しかいなかった。
同じ街の、同じ午後なのに。
「すげぇ……」
パックが、口を開けたまま店を見回した。奥に、ひとつだけ空いているボックス席があった。ささっと駆け寄って、席を確保してくれた。頼りになるわ。
「俺、ここ!ここからでも、ちゃんと試合が見える!」
ニコニコして二人掛けの席に一人、広々と座るパック。
必然的に向かいの席にはロミオと私が座ることになる。今度は隣だ!
説明会では、パックの頭越しにしか見えなかった横顔が、今はすぐそこにある。
うれしい。浮かれている私とは対照的に、ロミオは店内やメニューの確認に余念がない。
注文を取りに来た店員さんが、私たちを見て、ちょっと首をかしげた。それから、パックの頭のてっぺんから靴の先までざっと目を走らせる。もちろん、ロミオも私も同様に何かしらのチェックを受ける。
周りを見て、やっと気がついた。
青も白も身につけていないのは、この店で私たちだけだわ。
ちょっと浮いているわね。場違い感が否めない私たちは、店員さんに、
「このお店、野球カフェでうるさく盛り上がりますけど、大丈夫ですか?」
と確認されてしまった。うっかり間違えて入店したと思われてもしかたない。
ロミオが、
「大丈夫だ。野球カフェが初めてで作法がわからないが、野球観戦を楽しみに来た」
と説明した。
「それならいいんですけど」と、注文を取り始めたので、パックがメニューを指さしながら、一気に頼んだ。
ポム・ルミエのポテトフライとラルム玉ねぎのフリッター、エクラ豚のソーセージの盛り合わせという、これぞエリュシオン!!という名物を使った料理と、チーズをのせて焼いた平たいパンを人数分。
私とロミオはミントの果実水を注文したけど、パックは「ブルードルフィン・スカイ」という、このお店のオリジナルドリンクを頼んでいた。
いったいどんな味なのかしら?
メニュー写真では、ものすごく大きいジョッキになみなみと青い炭酸水が注がれてる様子だったから、飲み切れるか不安で頼めなかったの。
料理を待っていると、隣のテーブルから、女の人がひょいと顔を出した。
二十代半ばくらいだろうか。髪を高い位置でひとつに結んで、通信機を挟んだ細い棒を持っている。その先の小さな画面が、こちらを向いていた。
「ねえねえ、旅の人?」
明るい声だった。
「この国の人じゃないよね?どっちかのチームのファン?この店で青と白を身につけていないのってめずらしいもん。野球カフェ、初めて?」
矢継ぎ早に質問されて、私がオロオロしていると、
「こういうとこ来るの初めてだ。スポイルから来たんだ」
「せっかくだから、野球観戦をしてみたいと思って、来店した」
パックとロミオがスラスラと答える。
「やっぱり!ちょっとお話、聞かせてもらっていい?私、『ミラ』って名前で野球の配信やってるの。『他国の人と優勝決定戦を観戦してみた』ってテーマで配信したら、絶対おもしろいと思うんだよね。旅の人から見たエリュシオンの野球って、どんな感じ?」
「どんな感じって……人が多い!」
「そこ!?」
ミラさんはお腹を抱えて笑い、通信機の画面をぐっと近づけてくる。
私が身を引くより早く、ロミオが手のひらを画面の前にかざした。
「申し訳ないが、映されるのは困る」
穏やかな声だったけれど、引く気のない言い方だった。
ミラさんはぱちぱちとまばたきをして、それから、あっさり頷いた。
「了解。じゃ、配信切っとくね」
画面に向かって、
「みんなごめん、今日は事情があって配信お休みにするわ~」
と手を振り、通信機を棒から外して、画面を下にしてテーブルに置く。
「人にはいろいろ事情があるもんね」
もう少し他国の話を聞かせてほしいと言って、ミラさんはパックの隣に強引に移ってきた。少し面食らってしまったけど、悪い人ではないみたいだし、ロミオもパックも拒否しないから、大丈夫そう。
そうよね?
改めて見た彼女は、さっきまで画面に向けていた笑顔とは少し違う顔をしていた。
+++
料理とドリンクが来た。さっそくみんなでいただくことにする。
ポテトフライは、外がかりっとして、中がほくほくしている。旨い。
パックはソーセージにかぶりつき、熱い肉汁が口の中を直撃して悶えていた。あわてて炭酸水を口に含み、思いっきりむせている。騒がしすぎる……
ジュリエットはアツアツの平たいパンを手に取った。
このパンは平たいだけじゃなく、丸い。
ジュリエットの顔くらいある大きな丸いパン。可愛い。
私の視線に気づいたのか、ちょっと睨んでくる。私の思考が確実に読まれている。
チラッと配信者の女性────ミラと名乗ったか、彼女の様子をうかがう。自分のテーブルにあったナッツ類のおつまみとビールジョッキを持って移動してきたが、食べ物も飲み物もほとんど手つかずのままで、ビールの泡はすでになくなっていた。
大画面から流れる映像と音声が急に切り替わる。どうやら試合の前に第一戦の振り返りをするようだ。
となると、つまり……
九回裏、二死一・二塁。打球が、ブルードルフィンズの守る外野へ飛ぶ。
グローブの先を、ボールが抜けていく映像がスローモーションで流される。
見覚えのある背中が、芝の上に膝をついていた。次
の瞬間、スノーフォックスの選手がホームベースを踏み、チームメイトが駆け寄り歓喜している映像に切り替わる。
店のあちこちから、笑い声とやじが上がった。
「出たよ、これ」
「何回見ても下手すぎて笑える」
「笑ってる場合かって。本人は笑ってたけどな!」
どっと笑いが起きる。画面では、オギーのインタビュー映像も流れていた。頭を下げるオギーが記者の質問に答えるため顔を上げると、わずかに口角が上がり、見方によっては、笑っているようにも取れた。
でも、私には泣いているようにしか見えなかった。心で泣いている顔だ。
私は、果実水のグラスを置いた。ジュリエットが、膝の上で手を握っている。
パックが、ソーセージをかじったまま画面を見上げて、ぽつりと言った。
「こんなエラーじゃなくてさ。オギーのかっこいいとこが見たかったな」
「でしょ!?」
ミラが急に身を乗り出して言った。
「オギーは本当は守備の達人なの!あんな打球、いつもなら絶対にキャッチできているんだから。この一年、エラーなんてあれが──」
そこで、口をつぐんだ。周りのテーブルを見回し、誰もこちらを見ていないのを確かめてから、声を落とす。
「はじめてだよ……って、友達が言ってた」
「その友達は、見る目あるな」
「でしょ……伝えとくわ」
急にモジモジしはじめたミラを不審に思ったが、なぜかジュリエットの目が輝きだした。私が見落とした何かがあるのだろうか。
ジュリエットに問いただそうと思った瞬間、大画面から流れる映像が今夜行われる第二戦の選手紹介に切り替わった。今日の先発に名を連ねたのは、十八歳の超大型ルーキーだという。
店の人たちが一斉に手を叩き、彼の名前を呼んだ。
異様な興奮の中、私たちの席では、誰一人手を叩かなかった。
野球配信者であるミラも。
_____
選手紹介が続いていたが、私はあえて彼女に質問することにした。
「ミラ殿、ひとつ伺ってもよいだろうか。今日の午後、水の説明会があった。政府主催の国民説明会だ。ご存じだろうか」
ミラは少し考えてから、
「あー、告知が最近流れてきてたかな。見たことがある気がする。それが何か?」
と言った。
「私たちは他国の政治や公共事業に興味関心があって、説明会に参加してきたんだ」
「旅の人なのに行ったの?エリュシオンと関係ないでしょうに」
「私たちは各国の在り方を学ぶために旅をしているようなものだ。ミラ殿は貴国の水道事業について、何か感じていることはないだろうか?」
「水道?そうね、水道代が最近上がってるのは知ってるよ。うちも、この前の請求ちょっと高くなってたし。でも、水道管が古くなってて、取り替えるのにお金がかかるから値上げするのはしかたないんだって。ニュースでやってた」
説明会で聞いたのと、同じ理由だった。彼女は知らないのではない。
知ったうえで、納得している。
「説明会でも、同じ理由を聞いた。ただ、料金がこの先どうなるのかは、安定する、としか説明がなかった」
「え、そうなの? まあ、上がっても払うしかないけどね。それよりさ。二十七日! 最終戦、もう絶対配信するんだ。一年でいちばん見られる日だもん」
「そうか。話を聞かせてくれて、ありがとう。二十七日の配信が、うまくいくといいな」
「ありがと!」
水の話は、そこで終わった。料金がこの先どうなるのかと聞いて、返ってきたのは「払うしかない」の一言だった。
彼女にとって水は、そういうものなのだろう。値上がりは困るけれど、怒るほどのことではない。それより、二十七日の試合のほうが、ずっと大事なのだ。
私はエリュシオンの説明会に、なぜ六人しか来なかったのか、少しわかった気がした。




