第五十八話 いいことしか言わない説明は、だいたい危ない
エリュシオン合同文化コミュニティセンターの大会議室に着いたのは、政府主催の国民説明会「水の未来」が始まる、午後二時の十分前だった。
家に残ったのは、ドーラとキューとオギー。
三人は、自分たちの夕食用にパンをこねると言っていた。
受付の女性は、あくびをかみ殺しながら通信機から顔を上げた。
「ご参加ですね。お席は自由です。お土産のお水が席に置いてありますので、お帰りにお持ちください。スポンサーさんからです」
名前も聞かれない。
女性は、私たちが奥へ進むのも見ずに、また通信機に目を戻した。
大会議室は、百席ほどある。そのほとんどが空いていた。居眠りをしている老紳士、課題を通信機に打ちこんでいる制服の少年、おしゃべりをしているご婦人がふたり、何かの勝敗予想の表に見入っている帽子の男性。それから最前列の、スクリーンのちょうど正面に、背筋のぴんと伸びた男性がひとり。通信機を膝に置いて、壇上を見つめている。私たちのほかに、全部で六人。
ロミオは、その男性を一度見てから、演壇のすぐ横の端の席に腰を下ろした。ここなら、演者の声も表情も、いちばんよく見えるのだと思う。
私は、いつものようにロミオの隣の席に座ろうとした。そのとき、ロミオが座ったまま腕を伸ばして、私の横にいたパックの襟をつかんだ。
「パックは、ここだ」
「なんで俺が真ん中なんだよ」
「君は、寝る。そして、席を立つ。真ん中なら、どちらも防げる」
「どっちもしねぇよ。……たぶん」
パックがぶつぶつ言いながら、ロミオの隣にどさっと座らされる。私は、座るはずだった席の前で、足を止めたままだった。ロミオは、私の動きに気づいていない。
でも、パックが退屈で席を立って、外へ遊びに行ってしまったら、説明会どころではなくなるわ。ロミオの判断は正しい。私は、パックの隣の席に座った。ロミオの横顔は、パックの頭越しに見える。
席に置かれたボトルを手に取ったパックが、「なんだこれ、ロゴ入り」と声をあげた。
胴に、三つの水滴を重ねた丸いマークと、「ウェルスプリング」の文字。
その下に、「あなたの水の未来を、お守りします」と小さく書いてある。
パックが一口飲んで、「うまっ」と目を丸くした。私も一口いただく。
冷たくて、くせがなくて、すごく飲みやすい。エリュシオンの水は、本当においしいわ。
開始時刻になり、壇上に、白髪をきっちり撫でつけた、痩せた男性が現れた。スクリーンに「水道局 技術顧問 ハロルド・ベイル」と映し出される。その斜め後ろに、スーツの男性がもうひとり、にこやかに立っていた。
「本日は、お越しくださり、ありがとうございます」
ハロルド氏は会場を見わたして、気に留める人は少ないだろう、ほんのわずかな間を置いてから、説明を始めた。
「この国の水は、山に降った雪が岩の層を抜けて、泉となって湧いたものです。湧く量は、国民が毎日使う量を、はるかに上回っています。蛇口からも、公衆浴場や学校のプールにも、これほど惜しみなく水を使える国は、世界にも多くありません。水が足りなくなる心配はありません」
画面に、山から街までの地図が映った。細い線が、びっしりと走っている。
「ただ、この水を各家庭の蛇口まで運んでいるのは水道管です。建設から長い年月が過ぎ、更新が必要な水道管が年々増えています。今こうして飲んでいるおいしい水が、いつまでも手に入るとは限りません」
水の話をしているあいだ、ハロルド氏の声は、あたたかかった。まだ何か続けようとして、口が開く。
「更新に必要な費用は、毎年──」
「ありがとうございます、ハロルドさん」
斜め後ろの男性が、すっと前に出て、マイクを受け取った。ハロルド氏が目をそっと伏せて後ろに下がった。
「そのご心配を解消するのが、本日ご説明する私どもの取り組みです。ウェルスプリング社のエンリッチと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
深く頭を下げてから、ゆっくりと顔を上げた笑顔は、一見とてもさわやかで、感じがよかった。後方に座っているご婦人方から、「イケメンね〜」という声が聞こえる。
私はあまりそう思わないけど。
ハロルド氏は、演壇の脇に置いてある椅子に座った。
「私どもは、世界の多くの国で水道事業を運営してまいりました。その知識と最新のデジタル管理で、漏水を早く見つけ、古くなった水道管の入れ替えも、一気に進めてまいります」
画面が切り替わった。蛇口から流れる水を、両手ですくって笑う子どもの映像に、「あなたの水の未来を、お守りします」の文字が重なる。ボトルに書かれていたのと、同じ言葉だった。
「料金は安定し、国の財政の負担も軽くなります。水源の森の保全も、私どもが責任をもってお預かりします」
話しながら、担当者は、ときどきハロルド氏の方へ視線を送る。ハロルド氏は、一度も目を合わせず、正面だけを向いていた。
「もちろん、現場で働く皆様の雇用も守ります。皆様はこれまでどおり、蛇口をひねるだけで、おいしい水をお使いいただけます」
聞いているうちに、胸の奥が冷えてきた。
────危ない。
言っているのは、いいことばかり。悪いことが、ひとつも出てこない。
どんな仕組みにも、うまくいかないときはあるはず。それを一言も話さないのは、話せない理由があるからだわ。継嗣学の教材には、危険の説明を省いた発表は、あとで必ず問題になると書いてあった。
膝の上で、ボトルを握る指が冷たくなっていく。隣で、あくびをしていたパックが、いつのまにか黙っていた。
「……なあ」
パックが、ロミオと私にだけ聞こえる声で言う。
「あの兄ちゃん、顔は笑ってんのに、目の奥が笑ってねぇ。やな感じだな」
+++
私も、同じことを考えていた。
官民が手を組む政策の説明は、利点を話したあとに、課題やリスクと、問題が起きたときの責任の所在を話して終わるものだ。今回は意図的に「説明していない」感じがしてならない。こういう手合いの男は、ムストの議会にも大勢いた。利点を並べるときだけ声が明るく、都合の悪い点は「別途」「個別に」で済ませるのが手だ。薄っぺらい言葉の裏に聞かれたくないことがあるのだろう。
演壇横に座るハロルド氏を見る。さっきまで水の話をしていた表情が、抜け落ちていた。担当者が話を進めるたびに、開きかけた口が閉じるのを繰り返している。
きっと、反論があるのだろうな。さて、どうするか。
「以上でございます。ご質問は、ございますか」
進行役の職員が、時計に目をやりながら言った。
最前列の中央は、議会でも講義でも、私がいつも選ぶ席だ。そこに最初から座っていた男がスッと立ち上がった。
「無所属議員のエドガー・ハーンです。採決の二十七日まで、あと十日です。議会で水道会計の予算を審議している者として、質問します」
声が広い会場によく通った。エンリッチ氏の笑顔が、ほんのわずかに固くなったのを私は見逃さなかった。
「料金の安定とは、現在の変動性の料金徴収を取りやめて固定化するという意味か?また、御社との契約を打ち切るような事態になった時、今ある技術を手放した水道局には、水道事業を運営する技術者が残っているのか疑問だ。そこを、技術顧問に伺いたい」
「技術顧問は水の専門家でして、契約の細部は私から」
「契約の話ではなく、技術の伝承が途絶えたら、委託先に問題が起きた時に対応できなくなるのではないかという話だ。ハロルドさん、お答えください」
ハロルド氏が、立ち上がった。担当者の方を一度見てから、口を開く。
「……公開されている資料のとおりでございます。私の立場で、申し上げられることはございません」
ハーン議員は、しばらくハロルド氏を見ていた。それから、肩を落として、長いため息をついた。責める目ではなかったが、その表情からは強い落胆が見受けられた。
おそらく、質問の答えを「言えない」ことがわかっているのだろう。ハーンという議員は、不自然な回答で誤魔化されるような人間に見えなかった。
「貴重なご意見をありがとうございました。個別のご質問は窓口で承ります。本日の説明会は、以上といたします」
進行役が言い終わる前に、私の手は上がりかけていたが、右の袖がぐいと引かれる。
「やめとけ、デンカ」
パックが、声を落として言った。
「あのおっちゃんの顔、見ろ。ここで聞いたら、あのおっちゃん、もっと困る。聞くなら、あとだ」
ハロルド氏は、立ったまま、唇を強く結んで、床を見ていた。説明会が終わり、客席の人たちが帰っていく。演壇から降りてきたハロルド氏に、私たちは近づいた。
「ハロルド殿。貴殿の水の話はわかりやすく、素晴らしかった。ひとつだけ教えてほしい。これほど大切な説明なのに、なぜ参加者がこんなに少ないのだろうか」
ハロルド氏は低い声で答えた。
「……水が、止まったことがないからでしょう。蛇口をひねれば出る。それが当たり前の国ですので」
それから、さらに声を落とす。
「水道は、国じゅうの暮らしを支えるものです。山あいの小さな村のように、使う人が少なくて儲からない土地にも、水を待っている家があります。民間に預けたあと、その村に誰が水を届けるのでしょうか。私は、そのことばかり考えています」
私たちにしか聞こえない大きさだった。出口の方で、エンリッチ氏がこちらを向きながら、
「ハロルドさん、このあと関係者のお打ち合わせです。お急ぎください」
作り物のような笑顔で言った。
ハロルド氏は、私たちに一礼してから、出口の方へ歩き出す。
すれ違いざま、私にだけ聞こえる声で、
「水道局の三階の奥に、技術顧問室がございます。いつでもおります。誰も、来ませんので」
とささやき、会場から出て行った。
「……行こう」
私が言うと、ジュリエットとパックが頷いて、歩き出した。
出口へ向かう途中で、足が止まる。
会場には、ハーン議員のほかに誰も残っていなかった。最前列の正面の席に、ハーン議員だけが立っている。壇の方ではなく、私たちの方へ、まっすぐ顔を向けていた。
私が手を上げかけたのは、説明に課題とリスクの項目がないことへの疑問だった。議員は、そのリスクの中身を先に突いてくれていた。
私は、ハーン議員に向かって会釈した。議員は、私たちの顔を順に見て、深く頷いた。何かを確かめるような目だった。
廊下に出ると、窓からの光が、手の中のボトルに当たった。
三つの水滴のマークが、光って見えた。




