第五十二話 それぞれの欠けた朝に、無心で振る音が重なる
朝の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいる。
隣の寝台で、ドーラが規則正しい寝息を立てていた。ときどき「バゲット……あと、二本」と寝言が混ざる。
私は天井を見上げたまま、昨日のオギーのことを考えていた。スプーンを持つ手の震え。ぽたぽたと皿に落ちた涙。持ち上がったまま震えていた口の端。
とても、とてもつらいことがあったんだと思う。どこか、壊れてしまいそうな危うさがオギーにはあった。
パックは他人の痛みに敏感だ。ロミオが養子だと分かったとき、地下でパックやキューと話したことで救われたと、以前教えてくれた。昨日も、オギーの胸に穴が空いていると言っていたし、パックには人の苦しみが見えるのかもしれないわね。
ドーラが作るご飯は元気が出るし、ここにはオギーを責める人は誰もいない。オギーの心が癒されて、胸にぽっかりと空いた穴がふさがることを心から願うわ。
そしていつか、心と体が完全に回復して、本来の彼に戻ったら────
私と野球の話をしてほしい!!『九回裏のプロポーズ』も『満塁の恋は止まらない』も、本物の選手だった人に聞いたら、なにか分かるかもしれないのよ!? ホームランボールはヒロインが素手で捕れるものなのかしら?とか、野球選手は本当に超絶美人なヒロイン級の人としかつきあわないのかとか、現場を知る彼なら詳しく教えてくれるかもしれないじゃない。
枕を抱えて、足をばたばたさせたくなる。
……ううん、だめ。落ち着くのよ、ジュリエット。
昨日の様子から、オギーはロマンスに疎い可能性があるわ。憔悴していなくても、恋バナなんてしないかもしれない。冷静に見極め、機が熟すのを待つのよ。私は、空気を読むのだけは得意なのだから。
来たるべきいつかに備え、オギーに聞きたいことリストを作ることにした。
「幸運の女神は準備されたところにやってくる」って、言うものね!
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衣擦れの音で、目が覚めた。
書斎の床には、来客用の布団セットが二組、敷いてある。薄いマットレスでも、野宿とは比べものにならないくらい、寝心地が良い。ありがたい。
昨夜は通信機で遅くまで野球のルールを読み、基本からエリュシオンでの野球の位置づけ、プロスポーツとしてどういう状況に置かれているかなど、頭に叩き込んでから横になった。それでも、隣で人が動く気配には、体が先に反応する。
毛布が滑る音。足の裏が、床を探る音。蝶番を鳴らさないように、扉へ向かう体重の運び方。
────もう、起きたのか。
私は体を起こした。
「眠れなかっただろうか」
扉の前で、オギーの肩がびくりと跳ねた。両手が、見えない何かを握る形のまま、宙に浮いている。握って、離して、また握る。
「……すみません、起こして。癖で。……もう、辞めたのに」
言い終えてから、自分の手を見て、ぎゅっと握り込んだ。
癖。毎朝の習慣、ということか。胸の奥に、覚えのある感触が、トンと触れた。
「素振りか」
「……はい。バットがなくても、やらないと気持ち悪くて」
「私も毎朝、振っている」
「バットですか?」
「いや、木剣を」
言ってから、かつて毎朝一緒に素振りをしていた相棒の不在に心が揺れる。
「昨日は暗くてよく見えなかったんですけど……庭、広いですよね」
「手ごろな木の棒があれば、振れるだろう」
「……ありますかね、棒」
「探そう」
二人でそっと庭に出て、キョロキョロとあたりを見回す。隅の方に、植木の添え木が束ねて立てかけてあった。三本抜いて、長さと重さを見比べる。バットの長さに近い一本をオギーに渡し、木剣に近い一本を自分で握る。
オギーは受け取って、握りを確かめた。
「……ちょっと細いスけど、全然いけます」
「それは何よりだ。私もこの棒で試すとしよう」
朝の空気は少し冷たい。露を含んだ土が、足の下で小さく鳴る。私は中段に構えた。オギーも足を肩幅に開いて、膝を軽く落とす。
合図はなかった。どちらからともなく、棒を振り始める。
ひゅ、ひゅ、と風を切る音が二つ。最初は少しずれていた音が、数を重ねるうちに重なっていく。オギーの振りは、頭の位置が一度も動かない。腰のひねりが、棒の先まで途切れずに届いている。何年も、毎日積み重ねてきた体の動きだ。
そう思ったとき、隣の気配に、別の面影が重なった。
毎朝、右隣にあった。同じ数だけ木剣を振り、呼吸もいつの間にかそろってくる感覚。
────ベン。
連絡は、まだ取れない。メッセージは未読のまま、電話もずっと繋がらない。
どうか、無事でいてくれ。ベンの安否だけでも知れたら。
棒の先が、わずかにぶれた。
「乱れてますよ」
隣から、声がした。オギーは手を止めていない。私を見てもいない。
『殿下、集中!』
耳の奥で、聞き慣れた声が響いた気がした。まるでそばにいるかのように。
奥歯を噛んで、握りを締め直す。余計なことは考えない。
木剣のようにひたすら振る。数を数える。
肩の力を抜いて、腰から、一本の線で振り抜く。
振る、振る、無心で振る。
隣の音と揃っていく。二人とも額から汗が流れていた。
最後の一振りの手前で、胸の奥に溜まっていたものが、汗と一緒に体の外へ押し出されていく気がした。
私とオギーは、同時に息を吐いた。
ベンの無事を案じる気持ちが、消えたわけではない。ただ、素振りを終えた今、体だけではなく心も少し軽くなった。
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家に入ると台所から、出汁と卵の匂いがしていた。小麦の文化圏という意味ではムストと同じだが、エリュシオンはスポイルのような出汁とお米といった食文化はあまり発展していないはず。ドーラと暮らし始めてから覚えた出汁の味にすっかり魅了されている私は、漂う香りにお腹が鳴るのを止められずにいた。
隣からも似たような音が鳴る。振り方は違えど、素振り百回後の私たちは、かなり空腹だった。
「ドーラ殿、ご飯はまだだろうか」
「デンデン、オギー、お腹減ったのかい?」
「二人とも限界に近い」
ワハハっと笑って、ドーラが言った。
「早く手を洗っておいで!先に食べたって、みんなは文句言わないよっ」
「ありがたい!オギー殿、行こう!」
そそくさと二人で手洗いに行く。本当は軽くシャワーを浴びたほうがいいのかもしれないが、お腹が待ちきれないと言っている。ここだけの話だが、昨日のバゲットは足りなかった。
まだまだ食べ盛りの十七歳。バゲット一本は六人で食べるには少なかった。
食卓に着くと、熱々の黄金色のおつゆに浮かぶ青ネギが美しい、ものすごく食欲をそそるうどんが出てきた。
「エリュシオンの小麦で作ったうどんだよ。食べとくれ!」
自然と笑顔になる。スポイルで初めて手打ちうどんを食べて以来、私の大好きな麺料理TOP3に入るのだ。オギーは、うどんを食べるのが初めてのようだ。
「心配しなくてもよい。間違いなく絶品だ」
「熱いから、冷ましながら食べるんだよ」
一緒にフーフーと冷ましながら、つゆを一口すする。
「沁みわたる……」
「うますぎる……」
私たち二人の恍惚とした表情に満足げにほほ笑むドーラ。
サッとだし巻き卵も出してくれる。最高だ。
オギーが、
「こういう麺料理を食べたことなかったんスけど、マジで美味しいです!」
と言った。
「だし巻きは口に合うかい?」
「はいっ、いつもはオムレツなんですけど、こっちの方が好きかも」
「同感だ。私も故郷ではオムレツを食べていたが、ドーラのだし巻き卵は世界で一番美味しいと思う」
「デンデン……くぅーっ、あんたら、こっちの浅漬けも食べとくれよ。あ~~食材が足りない!!」
ドーラの何かに火が付いた時、二階からパックとキューが寝癖のついた頭で降りてきた。
ひょいとパックがだし巻き卵を一切れ食べて「うめー」と言い、ドーラにゲンコツを落とされていた。懲りない。
「つまみ食いするんじゃないよっ、行儀悪い。早く顔洗っといで!」
「へーい」
「ん……」
キューは眠そうにしながら、洗面所へパックを引っ張っていった。
私は早々に食べ終えたので、ジュリエットを呼びに行くことにした。部屋をノックすると、「もう少しなの~」という声が聞こえた。体調が悪いとかではなさそうなので、朝食がうどんであることだけ伝えて、階下に降りる。
パックとキューがすでに席についていた。オギーと二人、食後のお茶を飲みながら食卓でしばしくつろぐ。少ししたらジュリエットも降りてきて、全員揃った。
「ドーラさんのおうどん!大好き」
「姫ちゃんは今日も可愛いねぇ。たくさん食べとくれよ!」
みんなで食卓を囲み、全員のお腹も満たされたところで、ドーラが、
「さて!」
と言って、お玉で鍋の縁をカンっと叩いた。
「今日は市場に行くよ!せっかく外国に滞在するんだ。この国の食材を美味しく食べたいじゃないか!!旅の間、料理ができなくてストレスが溜まってたんだよ。パック、キュー、荷物持ちだよ!」
「やった、市場!」
「……俺も?」
「あんた以外、誰がパックの暴走を止められるんだい?」
「わかった」
確かに、キューにしかできないことだ。では私たちは?
疑問が顔に出ていたのだろう。ドーラが私とジュリエット、そしてオギーの顔を見ながら言った。
「デンデンと姫ちゃんは留守番。オギーを頼んだよ」
「はーい」
「承知した」
「俺は……」
ドーラが、オギーのほうを向いた。
「それとね。オギーあんた、遠くに家があるって言ってたけど、しばらくここにいたらどーだい?部屋も布団もあるし、誰も嫌だなんて言わないよ」
「まだ、ここにいていいんですか?」
「もちろんよ!」
「いなよ〜、飯、うまいだろぉ」
「ドーラ殿の言う通りだ。急いで出ていく必要はない」
「……遠慮はしなくていいと思う」
オギーは、少し逡巡してから頭を下げた。
「……ありがとうございます。やっかいになります。すみません」
「謝ることなんてないさ」
ドーラが優しく目を細めて言った。




