第五話 努力で作った完璧淑女は、初恋を沈める
ロザの時制は過去(十歳〜十六歳、一年前の婚約内定まで)、ベンの時制は現在です。
【ロザラインside】
完璧な令嬢と呼ばれるようになる、ずっと前の話。
ドミナ家の庭は、石段が多くて嫌だった。靴のつま先が引っかかる。裾が絡まる。
転ぶたびに、侍女に注意される。
家庭教師の先生に褒められたことなんて、数えるほどしかない。
「ロザラインお嬢さま、背筋! 膝! 視線を下げすぎ!」
「は、はい……!」
十歳のわたしは、何度も礼の形をやり直した。三度目で膝が震え、四度目で床に手がついた。
「ロザラインお嬢さま、センスがない者は努力するしかありません。人の何倍も努力して初めて、天性の光るものを持つ方と並び立つことができるのです。さぁ、もう一度最初から」
家庭教師の先生は私のためを思って言ってくれているのだ。
お父様とお母様も、私が淑女となることを期待している。
私はもっともっと頑張らなければならない。
ようやく午前のレッスンが終わると、庭のお気に入りの木のうろに潜り込んで膝を抱えた。
「つらい……」
お母様に聞かれないように、侍女たちに見つからないように。
ここは私だけの秘密の場所。ここでだけは本当のことが言える……。
膝に顔をうずめて一人泣いていると、頭の上から声がかかる。
「またここにいたのか、ロザ」
ふだん皮肉屋のくせに、こんな時の声はすごく優しい、隣の家に住む二つ年上の幼馴染。
みっともない顔を見せたくなくて、顔をあげられないでいる私の頭をポンポンと撫でてくる。
ズルい。よけい泣けてきちゃうじゃない!
「ロザは頑張ってると思うぞ」
「ベンはなんでも上手くできるじゃない。私とは違う……」
「同じさ。俺だってできないことはいっぱいある。ただ、できないことがあったら悩んだり悔やんだりするより先に、今できることをすぐにやると決めてるだけだ」
「なにそれ、無理……」
「最初は無理でも、ロザなら絶対できるようになるよ、俺が保証する」
「ベンに保証されてもうれしくない!」
「そりゃそうだ!」
せっかく慰めてくれているのに、嫌な言い方をしてしまった。
家庭教師の先生が言う、天性の光るものをもつ者というのはベンのような人だと思う。
まだ十二歳なのに、剣の腕は大人顔負けだって、侍女のエルザが言ってた。
ベンはものすごく才能があるのに努力家で、毎日鍛錬を怠らないのを私は知っている。
光るものを持っているのに努力をし続ける人の横に並ぶためには、その何倍も努力しないといけないというのは、本当のことなんだ。
私は光っていないから。
悩んだり悔やんだりするより先に、今できることをすぐにやらなければ全然追いつけない。
「ベン、わたし決めたわ。いつか立派な淑女になるの」
「急にどうした?」
「ナイショ」
さっきまでの落ち込んだ気持ちはすっかり晴れた。
ベンの隣にいつまでもいるために、わたしは完璧な淑女になる。
+++
ある日、両親に呼び出された。
最近、家庭教師の先生にも褒められるようになってきた。お父様たちもそれを聞いているのかもしれない。
「ロザ、正式発表は来年になるが、総領主家の継嗣様の婚約者に内定した」
「可愛いロザライン、よかったわね。あなたは将来の総領主夫人になるのよ」
頭が一瞬、真っ白になる。息が吸えない。
待って、今お父様とお母様はなんておっしゃったの?
私が継嗣殿下の婚約者になる?
「なぜ私が……」
思わず口から出た言葉に、お父様はにこやかに答える。
「お前が総領主家の色を持ってるからだよ」
黒い髪、前髪の生え際の白いひと房、紫の瞳。我が家は遠縁だが総領主家の血筋だ。
全ての色が揃っているのは家族の中で私だけだった。
家族が私の色を誇るから、私も誇りに思っていた。
だけど、色を持っているから継嗣殿下の婚約者になるなんて、夢にも思わなかった。
────だって、私にはベンが……
どうやって両親の前から退出したのか、覚えてない。
私は子どもの頃ぶりに、秘密の場所に向かった。頑張ればまだ潜り込めるかもしれない……。
「おい、やめとけよ。さすがにもう、そこに体は入らないだろ」
振り向かなくても誰かわかる、大好きな声。ベンは私が落ち込んでいると必ず現れる。
なんで?
声に出ちゃっていたのか、ベンが頭をかきながら説明してくる。
「たまたま部屋からロザの家の庭を見てたらさ、フラフラ〜とおぼつかない足取りで歩いているのが見えたからさ」
嘘。ベンの部屋からこの庭は見えないじゃない。
きっとこの婚約話を知っていて、今日私に告げられることがわかってたんだ。
だってベンは、成人した継嗣様の護衛兼側近にわずか十八歳で大抜擢されたから。
「ベン、私……婚約者が決まったみたい……」
どうしても声が震えてしまった。
「あぁ、聞いた……」
「でも、でも私は」
「ロザっっ!!!」
ベンらしくない大きな声で言葉を遮られる。
顔をくしゃっと歪めながらベンは口を開く。
「継嗣殿下はこの話をお受けした。もう決まったことだ。何より総領主様がお喜びだ」
ひどい人。私に告白もさせてくれない。
もう覆せない。私とベンが共に歩む道は完全に閉ざされた。
だからベンは私に言わせなかった。
あなたがこの想いを受け止めないと決めたのなら、
私があなたの気持ちを知る日は、一生来ない。
だから私はこの恋を沈めるの。
「ねぇ、ベン。私、継嗣殿下にふさわしい人にならなきゃね。私は色しか持っていないから、せめて完璧な淑女にならなきゃ。そうでしょう?」
ベンは、しばらく黙っていた。それから、ひどく真面目な顔で言った。
「なら、俺はもっともっと強くなって、未来の総領主夫妻を守る」
「もうムスト国で一番強いと言われているのに?」
「絶対だ、必ず守る」
「ベンに守られるなら安心だわ……」
それだけ言うのが精一杯だった。
その日、私は初恋を終わらせた。
この恋心を、深い深いところへ沈めて閉じ込めて。決して表に出てこれないようにするの。
今日だけは泣いてしまうかもしれないけれど、明日からは違う私になる。
私は継嗣殿下を愛する。
それが私の「義務」
+++
【ベンside】
婚約の儀が終わっても、広間の空気はすぐにはほどけない。総領主夫妻が退場された後も、義務の国らしいきちんとした余韻が残る。
殿下の婚約者どのと急遽決まったお茶会。
応接室への移動でベンヴォーリオは、後ろから並んで歩く二人を見ていた。
殿下の後ろ髪はうなじのあたりで切り揃えられていて、性格と同じくまっすぐだ。
隣を歩く黒髪の令嬢は美しく髪を結い上げ、前髪の生え際から伸びる白いひと房だけが、歩くたびわずかに揺れている。
二人とも容姿端麗で、ムストの継嗣とその婚約者として、誰が見てもお似合いだ。
なのに、殿下の指先だけが落ち着かない。
大丈夫ですよ、衣服の乱れはありませんと言ってやりたいが、流石に今のタイミングではない。
ロザが小さく微笑むたび、殿下の肩がほんの少しだけ強張る。呼吸が浅いな。
本人は無意識にとっている行動だし、ロザは気づいても何も言わない。
総領主夫人から「継嗣の父方の親戚筋で、総領主家の色を欠けなく持つ令嬢がいるらしいの。そなたの幼馴染と聞いているから、情報が欲しい」と言われた時、俺に拒否権はなかった。
もちろんよく知っている。幼い頃から、大事に大事に守ってきた女の子だ。
いや、もう十七歳になってとっくに成人し、美しく成長した。
努力に努力を重ね、本人の言う「立派な淑女」になっている。
この二人はよく似ている。良くも悪くも。
殿下は総領主様とあまり上手くいっていない。父が子に無関心すぎるのだ。
そのせいで「父に認めてもらえるよう、もっと努力しなければならない」という呪いに、殿下はかかっている。
ロザが完璧であろうとすればするほど、自分ももっと頑張らなければならないと、殿下は自分自身を追い詰めてしまう。
誰が悪いわけでもない。
でも、
────最悪の噛み合わせだ
平和調印式の日、殿下はどこか遠くを見ていた。最初は昔の面影を探すように、そして今に更新するように。
俺にはわかった。ガラスの壁の向こう側。
薄紫の影、落とした花、うつむいた時にさらりと流れる黒髪。
殿下は、義務で愛そうとしている婚約者以外の誰かに、心の一部を持っていかれた。
本人はまだ、それに名前をつけていない。自分のするべきことを成すために、きっと心に抗うのだろう。
婚約の儀は整ったし、互いを愛する努力をするだろうことは見て取れる。
だけど、愛とは「努力」するものなのか?
まだ、政略だと割り切った方が上手くいくかもしれない。
努力しても愛が得られない時、愛を与えられない時、二人はどうなってしまうのだろう。
『ど真面目×ど真面目』なんだよなぁ……やるせないよな。
ねぇ、殿下。そこの真面目ちゃんは俺の大切な大切な幼馴染なんです。
殿下だからこそ、俺は身を引いたんですよ?
だから頼みます。恋に落ちないで。
いや、人の心はそんな簡単にはいかないよな。
そんなの、俺が一番よくわかってる。
だって……終わってくれないんだ、初恋が。
でも、俺は守ると決めた。
殿下を、完璧淑女であろうとする婚約者殿を。
それもまた、俺個人の勝手な「義務」
ベンの恋愛経験値が低い理由です。




