第四十九話 二度目の国境越えは、一部を除きスムーズ
宿を出てから三日目、芽月十四日の昼。パックが川に一度落ちた以外は何事もなく歩き通して、私たちはエリュシオンの国境に着いた。
スポイルを出てから、ちょうど五日。かかとはドーラの絆創膏のおかげで、かさぶたになりかけている。がんばったわね、私のかかと。
国境は、思っていたよりずっと軽やかな場所だった。
白い石造りの大きな屋根の下に、入国ゲートがずらりと並んでいる。読み取り板に代表が通信機をかざして、ピッ。それだけ。
「審査が緩すぎるのではないだろうか」
ロミオが不安そうにつぶやいたけれど、ゲートの向こうから係員さんが「ようこそ、エリュシオンへ!」と満面の笑みで手を振ってくれたので、そのまま通り抜けた。
「見ろよ、焼きたてパンだ!」
ゲートを抜けた広場に、小麦の香ばしい、甘い香りが流れている。パックの目が、獲物を見つけた猫みたいになった。
「あっ、待ちな」
ドーラが言い終わるより早く、パックは売店へ駆けていった。
店には、野球ボールそっくりの丸いパンが並んでいる。縫い目の模様まで焼き印で入っていた。
「これ! 一個!」
ピッ。
ブーッ。
通信機から、聞いたことのない種類のエラー音が鳴った。
「ごめんなさいねぇ、決済できなかったみたい。エラー原因は登録外通貨。国境にあるお店あるあるだけど、お兄さん!エリュシオンのお金でお願いしますねぇ」
売店のお姉さんは、にこにこしたまま言った。
「また?」
「またなの?」
「またなのか」
私とロミオとドーラの声がそろった。
キューだけが、また?と首を傾げている。スポイル入国の時と同じ展開だって、キューは知らないものね。私はドーラとの出会いにもなった、一連の出来事をかいつまんで説明すると、キューは懲りないやつとつぶやいた。
「ちが、今回は俺悪くねぇって! 宿のアイスは払えたじゃん!」
「あれは国境の外だったからだよ」
「街道は国際通貨でもよいが、ローカル通貨しか使えないお店もあると、スポイルの時に説明しただろう」
ロミオとドーラとが額を押さえながら、パックを諭す。キューが広場の入り口を指さして言った。
「ゲート出てすぐ、でかい看板が立ってただろ。『国内ではエリュシオンの通貨のみ』って。ちゃんと見ろっ」
そこには確かに、ロミオの背丈ほどもある光る看板が立っている。
「……パンの匂いが、看板より先に来た」
パックが真顔で言った。脊髄反射のように言わないでほしい。広場の端に、両替の端末が一列に並び、ローカル通貨へ両替する人が並んでいた。
「まずは両替だよ!パンはそれからだ」
通信機を持っている、ロミオ、パック、それと私が国際通貨から必要額をローカル通貨へ切り替える。
ロミオが思案顔で、端末画面をじっと見つめている。
「プリペイド通信機か、通貨を移せるならありだな」
「ロミオ?」
「ドーラとキューが、買い物するのに通信機がないと不便だと思ってな」
確かに。パックは無印だから個人番号が登録されていない。スポイルで通信機を取得するため、ドーラ名義で購入しているから、ドーラは端末を持っていない。キューは個人番号は再刻印の際に紐づけられたかもしれないけれど、申請で居場所が知られるリスクがある。プリペイド通信機を買って、連絡や簡単な買い物ができると便利かもしれない。
ロミオが二人に確認してからプリペイド通信機を購入し、ローカル通貨をそれぞれに移した。こういう時、ロミオの視野は広いなって思う。見ている世界が私より広くて深い。追いつきたいと思う。
「うんまぁーーー!」
気がつくと、売店の前でパックがパンを食べながら叫んでいた。
ドーラがパックの通信機で全員分買って分けてくれた。丸いパンを割ると、中からとろりとしたカスタードと、蜂蜜漬けの木苺が顔を出す。外は薄い砂糖衣がぱりっとして、中はふわふわで、木苺の酸味がカスタードの甘さをきゅっと引き締めている。
────木苺。宿で食べたアイスと、同じ味だわ。
ロマンチックな星空をロミオと一緒に眺め、き、キスしたことも思い出し、一人悶える。
「姫ちゃん、そんなに美味しいのかい?もう一個買おうか?」
ドーラの親切に、首をフルフルと横に振るしかできなかった。
+++
私たちは、エリュシオンの中心地である首都へ向かうことにした。移動方法は列車だ。国境の駅は、広場からそのまま続いているので、とてもスムーズだ。
ホームに入ってきた列車は、ムストやネヴァで走っていた乗用車やバスよりずっと長い。エリュシオンは縦に長い国なので、列車が発達したと習った記憶がある。銀色の車体が太陽の光を受けて光っていた。継嗣学では鉄道網の仕組みを教材映像で何度も見たけれど、実物に乗るのは初めてだ。
列車の中は、横に長い窓と座席が整然と並んでいた。
「あんたらはこっち、四人掛けだよ。デンデンと姫ちゃんは、通路の向こうの二人掛けにしな」
「えー! 俺、窓際!」
「窓際はそっちにもあるだろ。我慢しな」
「ドーラ、ありがとう」
ドーラがパックとキューの背中をぐいぐい押して、ジュリエットに向かって片目をつぶってみせた。何かの暗号だろうか?ジュリエットがはにかみながら頷いているから、女性陣にしかわからないことなのだろう。野暮はしない方が良いと判断する。
二人掛けの窓側にジュリエットが座り、私が通路側に座る。窓の外を、緑の丘と小さな駅が流れていく。初めて乗る列車は、とてもスピードの出る乗り物だった。車よりずっと速い。
あっという間に通り過ぎる景色を眺めていたら、駅を通りすぎるたびに増える、縦に長い旗のようなものが目についた。青い布地のものと白い布地のものがある。両方、文字がペイントされているみたいだが、あっという間に後ろに遠ざかっていくので、よく見えない。野球ボールの絵が描いてあるのだけはわかった。
「ジュリエット、あの旗」
「ええ、首都に近づくにつれて増えているみたい」
「何だろうか?」
「お祭りでもあるのかしらね?」
首都に行けば、きっとわかるだろう。
もうすぐ到着する予定だ。
____
首都の駅を出ると、大通りの両側が青と白の旗で埋まっていた。なるほど、野球の試合か。スポーツ産業に力を入れているエリュシオンらしい。
私は街道の宿で教えてもらっていた、女将の知り合いの不動産会社へ電話をする。女将が言うには、野球の大きな試合の前は首都の宿はどこも一杯になるとのことだった。女将の知り合いが短期で貸しつけている家を紹介してくれたのだ。
ありがたい。
貸家は駅から歩いて十五分、大通りから一本入った住宅街にあった。二階建ての白い壁に、赤い屋根。玄関の前に、野球帽をかぶった恰幅のいい男が立っていた。
「いらっしゃい!大家のヨルゴスです」
「電話をしたロミオだ。ヨルゴス殿、二週間ほど世話になる予定だ。よろしく頼む」
「あぁ、こちらこそよろしくお願いしますよ。詳しくは中に入って話しましょう」
家の中は、とても日当たりがよかった。部屋が三つに、広い居間。そして台所に入った瞬間、パックが叫んだ。
「台所でけぇーーー!」
「台所!?」
ドーラが走っていった。
残された私の前で、ヨルゴスさんが通信機を差し出す。契約の画面だった。
「契約者はドーラさんの名前でいいんだね。あとは画面に目を通して、同意を押してくれれば」
奥から、ドーラの声が飛んでくる。
「デンデーン!あたしゃ細かい字を見ると頭が痛くなる!代わりに読んどくれ!」
「いや、契約を他者が代読して同意するわけには」
「いーって、いーって細かいことは」
大家のヨルゴスが話を遮る。なんの問題もないという態度に不信感をいだきつつ、台所から戻らないドーラの様子に、代わりに契約を進めることにした。
本来、他人の名義で結ぶ契約を代わりに承諾するのは、褒められた行為ではない。それでも、内容を最後まで確かめたうえで、責任は私が持つと決めた。こういう時に自分の名で契約できないのがもどかしい。
ムストから国際指名手配をされるような罪を犯したわけではないので、問題ないかもしれないが、万が一に備えて私とジュリエットはなるべく足跡を残さないようにしていた。
契約期間は十四日間。延長は満了の三日前までに申請。家賃は日割りで、想像していたよりずっと安い。退去時の原状回復の範囲、共用設備の使い方、騒音の取り決め。
「契約内容について、質問してもよいだろうか?」
「ん? ああ、どうぞ」
「水道料金は事業者の定める料金体系に従い随時改定され、必要に応じて追加徴収されるとあるが、契約期間中に変動があった場合、契約時に支払った料金以外に後から請求されるという意味だろうか?」
「ああ。どこかには出てるんじゃないかな。昔からそう書いてあるんだよ」
「ここ最近、水道料金の変動が激しくてね。こちらも同一料金じゃ赤字になるもんだから、退去のときに、実際の料金と日数で精算させてもらってるんですよ」
「なるほど。追加徴収があり得るという理解でいいな?」
ヨルゴスさんは目を丸くして、それからあっはっはと笑った。
「そこまで読む人は初めて見たよ! みんな、同意のボタンを先に押すからねぇ」
「全項目を読む前に契約する人がいるのだろうか」
「たいていの人は読むふりですよ」
そういうものなのか。私が知る契約とはかなり異なるようだ。これがこの国のスタンダードなのだろうか。通信機のメモ欄に「水道料金、変動した場合は追加徴収」と書き込んで同意ボタンを押し、契約金を支払った。
台所から戻ってきたドーラの目は、きらきらしていた。
「デンデン、あの食卓、十人は座れるよ!鍋が三つ同時にかけられるコンロもあるんだよ!ここはいいねぇ」
ドーラが興奮状態で、台所のすごさを説明し続ける。良い家が借りられたのは喜ばしいことだ。
でも────
ドーラは契約に向いていない。
心のメモ帳にそっと記した。




