第三話 静けさは、初めて知る秘密の入り口
大広間の床は、磨き上げられすぎて、滑って転ばないように気をつけないと。慣れないかかとの高いヒールは、女性を美しく見せてくれるかもしれないが、すべてを台無しにするリスクも併せ持つ。
ネヴァの継嗣がみっともない真似はできない。
ジュリエットは淑女の微笑みの裏でかなり緊張していた。
広間中央を縦に貫く防護ガラスは、そのままネヴァとムストの距離をあらわす。
向こう側と混じらないよう国境線があるのと同じ、超えてはならない透明な壁。
式典ではそれぞれの刻印の意匠であるアネモネとリンドウの花を片手に持ち、もう片方の手をこのガラスの壁越しに形だけ合わせる。これは十二年前に分国した際の儀式の踏襲で、平和的解決を維持していることのアピールだ。
ジュリエットは父の一歩後ろを歩く。頭に差した金のかんざしが、シャンデリアの灯りを受けてキラキラと光る。
艶のある美しい黒髪の両サイドが艶やかに編み込まれている。前髪の生え際から伸びる幅広い白の毛束は二連の三つ編みの形で後ろに流され、かんざしを挿している辺りで花のような形にまとめられている。
瞳の色と同じシンプルな薄紫のドレスの裾が、歩くたびにふわりと広がる。
この場にふさわしいネヴァの継嗣の装いに、周囲は見惚れているが本人はそれどころではない。
────どうかどうか、失敗しませんように。
足の裏から、震えが上がってくる。ガラスの壁の向こうに、叔父の義務国総領主のレムスとロミオが見えた。
(やっぱりかっこいい……)
目線がどうしてもロミオに行ってしまう、その時
「両国のご継嗣、前へ」
司会役の声が、大広間に響く。
ガラスの壁を挟んで、両国の重鎮からなる使節団がずらりと並ぶ。
ロミオが前に進み出る。やっぱり背筋はまっすぐ、ピンとしている。
心配していた顔色の悪さは、消えようだ。
儀式の緊張か、ロミオの前だからかわからないくらい、心臓がうるさい。
私の心拍数はこのまま限界突破してしまうんじゃないかと真剣に思う。
ジュリエットがそんな状態だというのにロミオは少し目線を下げながら、粛々とガラスの壁へ手を向けていた。
少し慌ててジュリエットも進み出て、手を合わせようとする。その際、国花を落としてしまった。
「あっ……」
恐怖で体がすくむ。皆の見ている前で失敗してしまった。
ロミオがかっこいいだなんて、儀式の際中に考えていたからだ。
私はどうしていつもこうなのか……大事なところで上手くいかない。
涙が迫り上がってくるけど、ここで泣くわけにはいかない。
涙が溢れ出るのを堪え、付き添いのマーサが拾ってくれた国花を持ち直し、もう一度手を合わせる。
ロミオと目を合わせるのが怖かった。失望したんじゃないか。
そう思うと目線をあげられなかった。
「これにて、今年度の平和調印式が無事なされました。両国の平和を担う次代の継嗣に幸あれ!」
司会役が高らかに宣言し、儀式は終了した。
ロミオが踵を返して使節団と共に下がっていく。
結局、一度も目を合わせず、言葉さえ交わせなかった。来年まで会えない。
平和調印式。
敵対する二国が本心を隠して笑顔で並ぶ日。
私は失敗してしまったのだ。
ジュリエットは、横目で見る父の沈んだ表情に胸が締め付けられる。
────こんな自分、大嫌い!
+++
彼女は大丈夫だろうか……
ロミオは可哀想なくらい緊張して、花を落としてしまったいとこの姿を思い浮かべる。
綺麗になった。もうすっかり大人の女性だった。
もっとよく姿を見たくて、でもジロジロと見るのは失礼に当たると、目線を下げながらガラス壁に手を置いた。
彼女の目にたまる涙を拭ってやりたい、大丈夫だよ、心配しないでと言葉をかけてやりたい。
侍女の拾った花を持ち直し、ガラス壁に手を合わせてきた彼女と目が合うことはなかった。
平和調印式など、しょせん茶番だ。
分国時の儀式を当時幼かった自分たちがやったことで、形式的に踏襲しているに過ぎない。
今年はようやく両国の継嗣が儀式に参加するということで注目を集めていたのは確かだが、大した意味などない。どうか彼女が叱られませんようにと、祈るしかない。
ただ、少し不思議なことがあった。彼女と手を合わせた瞬間、音が消えた。
うなじの奥で、低く低く唸っていた音。常に聞こえているからもはや誰も気に留めず、ないものとして扱っている音。
うなじの奥の低い唸りが、十二年来初めて黙った。
両国の国民のうなじには、それぞれの国花を模した刻印が刻まれている。
ルールを破ると、刻印が違反のアラートを響かせる。
オーレン先生が義務違反をしたときも音が鳴った。ルールを破れば、検閲局に「狩られる」
それとは別に、うなじの奥では低い唸り——刻印の作動音が生活の中に溶け込んでいる。
さっきジュリエットと手を合わせたときに消えたのは、その作動音のほうだ。
気のせいか? いや──
式典の静寂でも唸りは続いていた。無音になったからこその違和感。
もう一度、確かめたい……
「ベン、どうにかしてネヴァの継嗣と話せないか?」
「殿下、本気ですか?」
「本気も本気だ、刻印の音が消えたんだ」
「音が?ありえないでしょう」
「だから確かめるんだ」
「むちゃぶりが過ぎますよ、ホント……」
有能な側近はそっと使節団を離れて姿を消した。
あいつは専属護衛だが、わりと簡単に主のそばを離れる。
いや、こっちがそう指示したんだけども、私の剣の腕を信用しているということにしておこう。
しばらくして、ベンが戻ってきた。
「5分です。それ以上は無理です」
「わかった」
気配を消して使節団から離れ、ベンの後をついていく。
+++
ネヴァ用の控室のような小部屋。ジュリエットはマーサを伴いソファに座っていた。
気持ちがひどく落ち込んでいるので、しばらくの間一人にしてほしいとお父様に頼み込みんだら、「少しだけなら」と許可が出た。
ノックがなる。入室の許可を出すとロミオがベンと一緒に部屋に入ってきた。
「久しぶりだね、ジュリエット。君が四歳の時に会ったきりだから話したいことはたくさんあるが、今は時間がないので要件だけですまない。確認したいことがあるんだ」
「……なんでしょう?それよりも先程は儀式を失敗してしまい、申し訳ありませんでした」
「貴女が気にやむとわかっているが、本当に気にしなくていいんだ。たいしたことではないから。それよりも教えてほしい。二人で手を合わせた時のことだ」
「手を合わせてた時ですか?」
「ああ、うなじの音が消えた気がしたんだ、君は気づいた?」
正直、ジュリエットは気が動転していて、涙を堪えるのに全集中していたので、全く気づかなかった。
素直にそう告げると、ロミオは
「今ここで、直接手を合わせても良いか?」
と聞いてきた。平和調印式でガラスの壁越しに手合わせの儀式があるため、この会場内は接近禁止のアラームが起動しないよう、あらかじめ設定されていた。
手を合わせても警告音は鳴らない。
だが、しかし!
ジュリエットの心の中が大騒ぎになり、ちょちょちょ、直接っとアワアワしてるが、ロミオの側近のベンが「殿下、時間がありません」と警告してくる。
(ええぃ、女は度胸よ!!)
ありったけの勇気を振り絞って、ロミオの差し出した手に自分の手を合わせる。
彼の手の温度が、熱く伝わってくる気がした。
「えっ?」
ずっと唸っていたはずの何かが、消えた。
息が、喉の奥で詰まった。世界が、急に軽くなった。
頭の中に、いつも薄く張っていた膜が、今だけ剥がれたような感覚。
自分でも驚くほどの衝動が込み上げた。
次の瞬間、彼と目が合った。碧い瞳が、大きく見開かれている。
戸惑い。驚き。
それから——
一瞬だけ、焦点が変わった気がした。彼の目は自分の顔ではなく、もっと幼い誰かを見ているようだった。
「殿下、時間切れです!」
ロミオはベンとともに部屋を出て、走っていってしまった。
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走りながら考える。
ジュリエットと手を合わせた時、明らかに音が消えた。
やはり気のせいなんかじゃなかった。
彼女から離れると、あの低い唸りがまた戻ってきた。今度ははっきりと、うるさい。
十二年前のあの日、国が二つに分かれた日。私たちは式典のために同じ部屋にこどもだけで時間が来るのを待っていた。知っている大人がだれもいないからか、少し怯えていた小さな女の子。
黒い髪、紫の大きすぎる目は不安に揺れていた。
私も子どもだった。五歳と四歳だったんだ。
これから自分たちが何をしなければならないかなんて、わかっていなかった。
ただ、大人から手渡された儀式用の何かをなくさないようにと言われ、ギュッと握っていたのは覚えている。
──調べてみるか
国境から総領主館に戻り、専用の書庫へ向かう。鍵は十二年前の分国の儀。
その時の記録があるはずだ。
ガラんとした棚を一つずつ調べ、ようやく古ぼけた薄い冊子を見つけて開く。
内容のほとんどは式次第と参列者名簿だったが、小さめな注釈が添えられているのを見つけた。
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(注:発動条件)
国分けの儀の際、両国の刻印の意匠となる国花が標された紋を持ったまま両国継嗣が向かい合わせに立ち、手のひらを合わせるとシステムが起動し、「発動」する
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と書かれている。
「発動ってなんだ……」冊子を読み進めてもそれ以上のことは書かれていない。
だいたい、書庫とは名ばかりで、碌な文献が置いていないのだ。
『紙』が失われて久しく、デジタルがデフォルトの世界からは『本』も失われている。
「くそっ、極秘ファイルにアクセスするしかないのか」
所管の文官と総領主だけがアクセスできる、ムストの極秘事項が記載されているファイル。
継嗣の立場でも閲覧することはできない。
どうしても知りたい、音が消えた理由を。
「またベンにむちゃ振りって言われるな……」
口元が歪んだ、ジト目で睨む側近の顔を思い浮かべながら、書庫を後にした。
頑張ったのに失敗しちゃった、絶対的経験不足のジュリエットですが、少しづつ成長していきますので、皆さま暖かく見守ってやってください。




