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『悪役皇女―聖女はまだ名前を知らない感情に触れる―』



 ――この世界は、分かりやすい。


 黒い髪、細い体。

 それが“正しい”。


 白い髪、丸みのある体。

 それが“間違い”。


 最初は、戸惑った。


 けれど人は慣れる生き物だ。

 繰り返し“正しい”と教えられれば、それが当たり前になる。


 ――なるはずだった。


(……おかしい)


 廊下を歩きながら、私は小さく息を吐く。


 視線を感じる。


 尊敬、期待、憧れ。


 聖女として向けられる、分かりやすい感情。


 それは、嫌じゃない。


 むしろ、役割として受け入れている。


 でも――


「あなたも、可愛いじゃない」


 あの一言が、頭から離れない。


(可愛い……?)


 この世界で、“正しい”に向けられる言葉じゃない。


 評価なら分かる。


 “美しい”“優れている”“ふさわしい”。


 でも、“可愛い”は違う。


 もっと、曖昧で。


 もっと、個人的な――


(……なんで、あんな言い方)


 思い出す。


 近すぎる距離。

 覗き込む視線。

 まるで、本当にそう思っているみたいな声音。


 計算じゃない。


 打算でもない。


 ただ、そう感じたから言っただけ。


(意味が分からない)


 思考を振り払うように、足を速める。


 そのとき。


「あ……」


 視界の端に、見覚えのある白が映った。


 思わず足を止める。


 柱の影。

 あの時の少女――ミアが、また小さくなって立っていた。


 周囲から距離を取られている。


 誰も近づかない。


 ……当然だ。


 この世界では、“そういうもの”だから。


(……でも)


 私は、一歩だけ踏み出す。


「……あの」


「っ……!」


 声をかけると、彼女はびくりと震えた。


 やっぱり、怯えている。


 私に対しても。


(当然、よね)


 私は“正しい側”だ。


 彼女からすれば、一番遠い存在。


「……さっきの」


 言葉を探す。


「皇女様と、知り合いなんですか」


「……ち、違います……!」


 即座に否定。


 でもその顔は、どこか混乱している。


「ただ……声をかけられただけで……」


 ぎゅっと自分の腕を抱く。


「……あんなの、初めてで……」


 小さな声。


 震えているのに――


 どこか、嬉しそうにも聞こえた。


(……変なの)


 おかしいのは、どっちだろう。


 この子?


 それとも――


「……可愛いって」


 気づけば、口にしていた。


「言われて、どう思いましたか」


「え……」


 ミアが顔を上げる。


 驚いたような、困ったような表情。


「……分かりません」


 正直な答えだった。


「でも……嫌じゃ、なかったです」


 少しだけ、頬が緩む。


「……すごく、変ですけど」


 その言葉に、胸の奥がざわつく。


(嫌じゃない)


 それはつまり――


「……そう」


 それ以上は、何も言えなかった。


 沈黙が落ちる。


 居心地が悪いはずなのに、なぜか離れがたい。


 その理由を考える前に。


「二人とも、何してるの?」


 軽い声が割り込んできた。


 振り向かなくても分かる。


 ――リュシエンヌ皇女。


「殿下……!」


 ミアの声が跳ねる。


 私は、少しだけ息を整えてから振り返る。


「偶然、会っただけです」


「そうなの?」


 興味なさそうに言いながら、彼女は自然に距離を詰めてくる。


 近い。


 また、近い。


「ミア、また会ったわね」


「は、はい……」


「やっぱり可愛い」


「……っ」


 迷いのない言葉。


 ミアの顔が一瞬で赤くなる。


 ――そして。


(また……)


 胸の奥が、妙にざわつく。


 理由が分からない。


 ただ、落ち着かない。


「ユリアも」


 不意に、視線が向く。


「さっきより顔硬いわよ」


「……普通です」


「そう?」


 じっと見られる。


 逃げたくなるのに、目が逸らせない。


「まあいいけど」


 あっさり引かれる。


 その軽さに、なぜか少しだけ引っかかる。


(……何なの、これ)


 理解できない。


 でも。


 ひとつだけ、はっきりしていることがある。


 この人は、“正しくない”。


 この世界の基準から、外れている。


 なのに――


(どうして、目が離せないの)


「ねえ、二人とも」


 リュシエンヌが、何気なく言う。


「今度、街に行かない?」


「街……?」


「ええ。可愛いもの探し」


 楽しそうな声。


 意味が分からない提案。


 なのに。


「……行きます」


 気づけば、そう答えていた。


 ミアも、小さく頷く。


「決まりね」


 満足そうに笑う皇女。


 その笑顔を見て、また胸がざわつく。


(……おかしい)


 本当に。


 この世界も。


 この人も。


 そして――


(私も)


 ――聖女はまだ、その感情の名前を知らない。


 ただ、“違和感”だけが、確かに芽生えていた。


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