神奈川有紗という女⑧
全てがまるで夢の中みたいな、淡く輪郭が滲んだ時間が俺達を包み込んだ。
水族館デートを始めた俺達は、流れのままに水の生き物を見て回った。水族館の中は当たり前に暗く、淡く、ゆっくりとした時間が流れていた。俺はこのデート中、魚なんかよりも有紗先輩の方をずーっと見ていたが、有紗先輩はそんな俺に「ねぇ、魚見なよ、私のことなんていつでも見れるじゃん」と言ってきた。
俺はそう言われた時だけは魚の方へ視線を動かしたが、やっぱりすぐさま魚を見るのは飽きて、有紗先輩の絵画のような横顔をずっと眺めていた。有紗先輩は『私のことなんていつでも見れるじゃん』って言ってきたけど、俺からしたら魚の方こそスーパー行けば見れるからいいじゃんと思った。まぁ、スーパーの魚は死んでるけど。
一通り魚を見て回っても、有紗先輩はずっと嬉しそうに楽しそうな表情を浮かべていた。こんなに豊かな表情をした有紗先輩はこれまで見たことがなかった。こんな綺麗な女性と、手を繋げて、ベロキスもできて、俺はもう今死んでも何も悔いなどないと断言出来る。
昼時になって、俺達はフードコートで魚モチーフのご飯を食った。特段美味いというわけではなかったが、有紗先輩がそのご飯を見て、可愛い可愛いと連呼していたのが俺からしたら一番可愛かった。有紗先輩が、こんな普通の女の子みたいな反応するとは思わなかった。
ご飯を食べ終わると、俺はもう水族館は終わりなのかと思ったが、有紗先輩はまだ続きが見たいと言って俺を連れ回した。有紗先輩に強く手を引っ張られるがままに連れて行かれた先は、これまでの一方通行の流れのある狭い道とは違って、広々としている場所だった。
広々しているからといって大水槽などがあるわけではなかったが、小さな水槽が何百個も点在していた。その小水槽は気持ち悪いくらいに綺麗に均等に置かれていて、それが少し不気味に感じた。なんか入っちゃいけない場所に入り込んでしまったみたいな気分に俺はなった。
ここは水族館の中でも奥にある場所だから、あまり人がいなかった。だから、ストレスに弱い魚などが置かれているのだろうなとか勝手に思いながら、俺達は点在する小水槽を見て回った。
人が少なすぎて、どこかで動いているモーターの音が聞こえる。見渡す限り、この広々とした場所に人は俺達を含めて八人ほど。なんかおかしい。俺は胸に妙なざわめきを感じた。
だが有紗先輩はなんでもないように楽しげに魚を見ていた。じゃあ、俺の勘違いなのかな。
そのとき。
「大翔君はさ、私が淫魔であること、信じているの?」
「え?」
有紗先輩は水槽の中をじっと見つめたまま、淡々とした口調で言ってきた。俺はその光景が少しシュールに思えて、腑抜けた声が出た。
「ま、ま、まぁ……それってただの噂でしょ? 俺は噂なんてものは話半分くらいに聞いてますよ。でも、有紗先輩がもし人間じゃなくて本当に淫魔だったとしても、俺は有紗先輩のこと嫌いになんてならないっす」
俺は有紗先輩が本当に淫魔であるという確信をしていた。いや、有紗先輩は淫魔だ。だが、面と向かってその事を本人に言うことはやめておいた方がいい気がしてそう答えた。
「やっぱり、君は私が見込んだ男の子だ。そう言うと思っていたよ」
有紗先輩は嬉しそうに少し口角を上げながら言ってきた。
「ねぇ……大翔君、なにか気づかない?」
なにか? ……なんだ?
「周りを見てごらん。もう、私達以外に人は居なくなっちゃったね。聞こえるのは換気口が回る音とどこかで動くモーターの音と、自分の心臓の音のみ。でも大丈夫だよ、私があたなを護るから」
……な、何を言ってるんだ? た、確かにさっきまで居た人達の姿はもうここにはないけど、『私があなたを護るから』って、なんだ?
俺はその言葉を不思議に思いながら、何故だか血の気が引いていくような感覚を得ていた。俺はこの時、水族館デートに来たことを少し後悔した。そう後悔を抱えてしまうくらい、今のこの状況と、そして有紗先輩の横顔は美しいながらも不気味過ぎた。
「来る――」
有紗先輩の呟いた言葉が、俺の視線を勝手に自分達の背後へと持っていった。
俺はその光景に、絶句した。俺が背後を振り返ったその視線の先には、大勢の自衛隊員の姿があった。自衛隊員は大勢いて、俺達の方を見ていた。そしてその全員が、銃をこちらに構え、許可ひとつで俺達のことを今にも撃ち殺そうとしているみたいだった。俺は焦った、内心焦りすぎて言葉ひとつ出なかった。
「さぁ、来なさい」
有紗先輩は大勢の自衛隊員達に向かって、大きく両手を広げて、魔女のような顔をしながら言った。




