神奈川有紗という女⑦
翌日の土曜日、俺の姿は家から徒歩十五分の最寄り駅にあった。
時刻は朝の八時半。東京と比べたらそれほど人数は多くはないが、それでも時間帯と曜日を考慮すると駅には沢山の人達がいた。
俺達の住んでいる場所から一番近い水族館は東京にあり、そこまでは電車で一時間ほどかかる。俺は、勿論これまで学校の中以外で有紗先輩と会ったことがなかった。そのため、有紗先輩を待っている今、何故か凄くそわそわしていて、有紗先輩の存在が普段よりも凄く大きいものに感じられた。ベロキスまでした仲だというのに。
俺は駅のロータリーのベンチに座り、スマホを見ながら待っていると、声をかけられた。俺はスマホから視線を上げるまでもなく、それが有紗先輩の声であることを分かった。
スマホをしまい立ち上がると、俺の目には、麗しすぎる有紗先輩の私服姿が飛び込んできた。有紗先輩は可愛すぎないやや落ち着いた雰囲気のワンピースを着ていた。有紗先輩はワインレッド色の綺麗なハンドバッグも持っていて、その姿はまさにどこかのご令嬢のように思えた。
「おはよう大翔君。元気?」
「たった今元気になりましたっ!」
「そう。元気そうで良かった。ちょっと待たせちゃったかな? 服を選ぶのに時間が掛かっちゃって」
「全然大丈夫っす! 有紗先輩が遅かったんじゃなくて、俺が早く来すぎたんすよ。俺……今日をめっちゃ楽しみにしてて、昨日寝れなかったんす。だから絶対に遅れたくなかったんで、夜の三時くらいからここにいます!」
そう言うと、有紗先輩はあまり興味なさげな表情を浮かべながら小さく頷いた。俺はそのことにちょっとへこんだけど、ワンピース姿があまりにも可愛すぎるからヨシとした。
有紗先輩は腕時計を見ると、「さっさと行こうか」と言ってきた。俺は、歩き始めた有紗先輩の少し後ろを歩いて着いて行った。
改札を抜け、プラットフォームに降り、ベンチに座って電車を待つ。
俺はふと、隣りに座っている有紗先輩を見ると、有紗先輩は背もたれを使わず、姿勢良くベンチに座っていることに気がついた。なんなのだろう、この違和感。俺はふとしたタイミングで有紗先輩に対して違和感を抱いた。なんか、いつもの有紗先輩と違うような、そんな感じがして胸がムズムズしはじめた。
色々と考えた末に、俺はある結論に辿り着いた。――有紗先輩は、学校での姿と外での姿が大きく違うんだ。
そう思えば思うほど、そうとしか思えないようになった。でもそれはネガティブなことじゃなくて、どちらかと言えばポジティブなことだ。何故ならば、今の有紗先輩は学校での有紗先輩よりも、より一層美しく見えるのだから。
だがそれと共にもうひとつ、俺は妙な違和感を抱いていた。俺は考え悩んだ末に、実際にそのことを有紗先輩に訊くことにした。
「あのー有紗先輩、有紗先輩って、いつもこんなに沢山の人に見られてるんすか……? そうだとしたらなんかすげー居心地悪いっす……。なんか、俺は落ち着かない」
口に出してみて初めて自分でも分かったが、有紗先輩と共にいると大勢の視線に曝される。下校時、優也と共に家に帰ろうとしていた俺が有紗先輩に引き留められたあの時よりも、遙かに多くの視線が有紗先輩に、そして俺に突き刺さっていた。
すると、有紗先輩は目を瞑って、息を漏らした。そして目を開くと、気怠そうに言ってきた。
「私は自分で自分のことを綺麗だとか、可愛いだとか、思った試しがない。だから皆が私のことをそんなにジロジロ見る気持ちが分からないんだけど、だからかな、思うんだ」
「何をです?」
「私は綺麗だから皆にジロジロ見られているんじゃなくて、普通から逸脱した異常な人間だから、皆にジロジロ見られているんじゃないかって」
そう言った有紗先輩は、どこか淋しそうな表情をしていた。俺はこの時何故だか、有紗先輩のことを、どうやっても癒えることのない淋しさや虚しさを抱えている悲しき存在のように感じてしまった。
「でもね……これは学校の人は誰も知らないことなんだけど、私モデルやってるの。そんな積極的に活動してるわけじゃないけど。そしてその、数少ないモデルの活動をやってる時に常々思うことがひとつあって、それはね。――才能というのは、上手く使いこなせれば才能と呼べるけど、使いこなすことができなかったら呪いになる、ってこと。……さ、電車来たよ」
気がつくと、有紗先輩の言った通り、電車がもうプラットフォームまで入ってきていた。
有紗先輩の横顔を見ながら、有紗先輩の言葉を聞いていた俺は、電車が入ってきていることに全く気がつかなかった。何故だか有紗先輩のその言葉は、俺は心の奥底に触れた。琴線とも言えるような場所に染み込んだ言葉に、俺は少し現実から意識が遠のいた。有紗先輩がそんなことを思っていただなんて思わず、凄く驚いたのかもしれない。
有紗先輩がベンチから立ち上がり、電車に乗り込もうとするのを見て、俺も慌ててベンチから立ち上がり電車に乗った。
電車の中は凄く空いていて、座る場所を見つけるのには困らなかった。
有紗先輩に列の一番端っこの席に座ってもらい、俺はその隣りに座った。扉が閉まり電車が動き出すと、俺達はお互いに、お互いにしか聞こえないような小さな声で、なんでもないようなごくありふれた話をしはじめた。
そんなごくありふれた話をする時間は目的地に着くまで続いたけど、ずっとそうしていてもイイと思ってしまうくらいに俺達にとってこの時間が心地良かった。何も考えず、苦しみも感じず、ただ思ったことを口に出し続ける。ただそれだけの時間が、幸せだった。
電車が一時間ほどかけて水族館の最寄り駅まで辿り着くと、俺達は降りて、歩いてその水族館まで向かった。水族館までは歩いて十分ほどだった。
東京に来るのは久しぶりだった。というか、前に来た記憶がほとんど無いから、実質初めての東京みたいな気持ちだった。有紗先輩はというと、高層ビル群を見上げ口をぽかんとさせる俺と比べ、何も反応せず、よくある街に来ただけというような淡い反応をしていた。モデルの仕事でよく来るのかもしれない。
水族館はビルの中にあった。俺達はチケットを買い、中に入ろうとしたところで、有紗先輩がワクワクして早く中に入りたい気持ちの俺を止めた。
俺はなんだろうと思いながら背後にいた有紗先輩の方を振り向くと、有紗先輩は言ってきた。
「せっかくの水族館、しかもデートなんだしさ、手でも繋がない?」
俺は首を縦にブンブン振ってすぐさま同意した。
すると、有紗先輩は微笑を浮かべながら俺の手を握ってきた。有紗先輩の手はとても細く柔らかく、そして美しかった。俺はそんな手に握られただけで勃起していた。




