神奈川有紗という女⑤
翌日の昼頃、俺は学校の中で唯一とも呼べる親友の優也と、昼食を食っていた。
こうして学校の外階段の中段に座って昼飯を食べることはほぼ毎日しており、俺は学校に知り合い自体は沢山居たが、一緒に飯を食べるような人間は優也ただ一人だった。
優也は、相変わらずお母さんが握ってくれたおにぎりを三つほど頬張っていた。優也は昼飯の時、お母さんが握ってくれたおにぎり以外食べることはない。俺はというと、カップラーメンを食べていた。学校に行く最中にあるコンビニでこの昼飯のカップラーメンを買うのが日課だった。
あれから、まだ半日も経ってねぇのかぁ……。
俺は、数時間前、自分が夜の学校で飛び降り自殺をしようとしたことが頭に浮かんできた。それはまるで凄く昔に起きた出来事のように感じられ、そんな事が約半日前に起こったというのに、今の俺はそんなことなどなかったかのように平然とカップラーメンを食っていた。有紗先輩にセックスしてほしいと言われたことも、有紗先輩によって射精をさせられたことも、そしてつむぎが死んだことも……まだ一週間ほどのことだ。これまで何気なく過ごしていた日常は、いったいどこにいってしまったのだろうか。
「おーい、聞いてた?」
俺は優也の声で我に返った。
「ごめん、なにも聞いてなかったわ。ぼーっとしてた」
「今日はなんか凄くぼーっとしてるな、お前。もしかして……つむぎちゃんのことか? ……お前は悪くないって。お前はつむぎちゃんが死んだのは自分のせいだって思ってるが、全くそんなことねぇよ」
「なんか、夢みたいだった」
「なにが?」
「つむぎとのこの一年くらいが」
その言葉は無意識に出た言葉だったが、あるいは本当にそうかもしれないと俺は思った。だから俺は言った。
「人生って、全てが夢の中なのかもしれないな。もしかしたら俺が今見ている景色とか、感じている情緒って全てが蜃気楼みたいなもんなのかも。いや、そうであってほしい……。じゃないと、マジで俺死んじまうよ……」
俺は急に胸が苦しくなりはじめて、死にたい気持ちが湧き上がってきて、思わずカップラーメンを床に置いてうなだれた。俺は両膝の中に顔を埋めると、もうずっとこうしていたかった。
「そうかもな。お前の言う通り、人生って全て夢の中みたいなもんかもな」
優也も、おにぎりを食べる手が止まっていた。俺達は、しばしの間ただただ環境音に耳を澄ましていた。
誰かが喧嘩する音、誰かが談笑する音、誰かが喜ぶ音、誰かが悲しむ音、そよ風が木々を揺らす音。その全てが身体の中に入ってきて、俺達はそういった環境の全ての音と一体になった。
優也がまたおにぎりを頬張る音が耳に入ってくると、俺は顔を上げてまたカップラーメンを食べ始めた。
数分後、全ての食べ物を食べ終えた俺達は、軽く談笑していたのだが、優也がふとしたタイミングで有紗先輩の名前を出した。俺は有紗先輩の名前が出ただけで少し身構えた。有紗先輩はこの学校で一番有名な生徒だ。だから、有紗先輩の名前がこの学校で一度も出ない日などないことは分かっている。だが、今の有紗先輩は、俺からしたらただ三年生という遠い世界の存在ではなく、ベロキスもした身近な仲だった。
俺は、その動揺が少し声に出てしまった。
「あ、有紗先輩がどうしたの?」
「いやさぁ、最近の有紗先輩って、何故か俺達二年生の教室がある二階にいることが多いんだって。まぁ俺は見かけたことないんだけどよ。普通三年生って教室がある三階でしか見かけないじゃん? 三年生を二階で見かけるってだけでちょっと身構えるのに、しかもそいつが有紗先輩ってなると、ヤバくない?」
「そ、そうなんだ……。知らなかった。有紗先輩はなんで二階にいるんだろう」
「最近はその話題で持ちきりよ。大翔なら知ってると思ってたけど。だって俺なんかよりも沢山友達いるし。ねぇ、有紗先輩が二階に来る理由本当に知らんの?」
確かに、優也よりも俺の方が友達のような存在は沢山いる。だが、俺は優也以外の人間を友達だなんて認めてはいなかった。友達と認めていないような人間の話なんて、あまりちゃんと聞いてなかった。だから、本当であれば、俺からしたら友達と呼べる存在は、優也お前ただ一人なんだよと言いたかったが、恥ずかしくてそんなこと言えるはずがなかった。
「いやぁ、理由も知らないなぁ。正直、有紗先輩にあまり興味ないんだよね」
理由は、俺を捜しにきたからだろう。
「そうなんだ。なら俺としたら良かった」
「良かった? 何で?」
「いや、まぁ……これは噂程度の話なんだけどよ、有紗先輩って、淫魔だっていう噂があるじゃん? でもホントのホントに有紗先輩って淫魔らしいんだよ」
ピンポーン、大正解。
「それだけならまぁいいんだけどよ、有紗先輩って、淫魔だから男の精力奪うだろ? でもその際にとある男が精力吸われて死んじまったらしいんだよ。もしそれが本当なら人殺しだぜ? 怖くね?」
俺は一瞬、身体の全動作が止まった。
その噂を素直に信じたからではない。俺は、有紗先輩とベロキスをした人間として、有紗先輩が実際にそのようなことをできてしまう可能性を持っている存在であるということを知っていたからだ。
俺は、有紗先輩に学校裏手に呼び出されたあの時のことを思い出した。あの時、俺は有紗先輩に呼び出されたものの、つむぎの元に早く行きたくて、あまり有紗先輩の言葉をちゃんと聞いていたわけではなかった。だが、たった今、思い出した。有紗先輩はあの時、こんなことを言っていた。
『――私の同級生の中には君みたいな、チャラくて頭が悪そうでチョロそうな男も何人かいるんだ。でもね、皆私が食べちゃった』
次のターゲットは、俺ということなのだろうか。
そう思うと、急に今までの有紗先輩の関する全ての出来事が怖く感じられはじめた。でも、それと同時に――別にそれでもいいや――と思ってしまう自分も存在していた。
だから、少し悩んだ末、俺は心に決めた。
――神奈川有紗という女がどんな本性を持っていたとしても、神奈川有紗という女の存在が罠そのものだとしても、俺は別にそれでいい。
もうすぐ昼休みが終わる。気怠さを感じながらも、俺達は自分達の教室に戻った。




