有紗は性獣
有紗先輩と温泉デートをすることが決まってから一週間後の朝方。俺は、温泉デート当日を迎えていた。
温泉デート当日を迎えた俺は、昨晩ほとんど眠ることができずに少し眠気を覚えていた。だが、今日は待ちに待った有紗先輩との温泉デート当日だ。今日の俺は、らしくない朝五時頃という時間帯に目が醒めていた。
スーツケースに服などの持ち物を入れ、準備は万端だ。現在時刻は朝の五時半頃。後は、六時になったら家を出て最寄り駅に行き、そこから電車に乗って東京駅まで行って、そこから新幹線に乗って草津へと向かう。新幹線を降りてからは、バスで行くとかなんとか言ってたっけ。
この時間帯にこれほどまでに機嫌が良いことなんてほとんどなかった。早起きは三文の得と言うが、確かにこんな清々しい気持ちになれんだったら、一文くらいはあるかもなと俺は思った。
時刻が六時になった。俺はスーツケースを玄関まで持って行き、靴を履いた。
さて……と。デートは目的地に辿り着くまでもデートだし、帰ってくるまでもデートだ。さぁ、待ちに待った有紗先輩との温泉デートがいよいよ始まるぞ――
内心ワクワクが止まらない俺は、数時間後のお楽しみを考えながら玄関のドアを開けた。すると、そこには一人の女が立っていた。
それが有紗先輩ではないことは自明だった。それは……自分の母親だった。
玄関のドアを開けた先にいたのは、商売女のようなドレスを着て、俺の全く見知らぬ男を連れた、自分の母親だった。
俺は血の気が引く感覚に襲われた。いや、実際に全身の血液がさっと全身から引いていって、俺は頭が少しクラクラしはじめた。俺は、これまで抱いていた清涼でワクワクした気持ちを、一瞬にして史上最悪な感情へと塗り替えられてしまった。
俺は、吐き気を覚えはじめた。その目の前の女の顔を見ただけで、今まで忘れていた、忘れるように努めてきた様々な記憶が、全て湧き上がってきてしまった。
俺は明確に恐怖を覚えていた。目の前の女の一挙手一投足に、神経が過敏になっていた。次の瞬間、俺の神経は目の前の女の言葉によって激しく揺れ動いた。
「あぁ……いた。起きてたんだ、珍しいね。こんな朝早くになんて起きてないと思った」
俺は俯いた。俯くことしかできずに、その言葉に対しても、うん、ということしか言えずに。
「ちょうどよかったから紹介するけど、この人光彦さん。今日から一緒にこの家に住むから。あんたも仲良くしてね」
目の前の女は、自分の後ろにいる柄の悪く人相も悪い男を俺に紹介してきた。
俺は言葉にならない感情を感じた。憤りでも、怒りでも、悲しみでも、諦めでもない――そんな甘っちょろい言葉では表現しきれない根源的感情を全身に宿した。
俺は、何故だか目が潤んできた。涙を流すほどこの人に想い入れなんてないはずなのに……何故だか、涙が、今にも溢れはじめようとしていた。
俺は思った。早く、有紗先輩に会いたい。早く有紗先輩に会って、俺のことを受け入れてほしい、慰めてほしい……。
俺は、女の言葉に「うん」と事務的に返すと、目の前の女は俺の足下にあったスーツケースに目をやった。そのことに俺は勿論気がついて、俺は、頭の中で言葉の用意を始めた。
「あんた……どっか行くの?」
俺は、未だ俯きながら、自分でも訳が分からないほどモジモジしながら、頷いた。そして俺は、頭の中で用意していた言葉を口に出した。
「そ、そう。どこか、どこか誰も俺のことを知らない遠くに行ってくる。誰も俺のことを知らない場所であれば、どこまででも行く。俺はもう……この家には帰ってこないっ!」
俺はスーツケースの持ち手を取ると、勢いよく引っ張って、女や男を無理やり押しのけながら玄関から外に出た。そんな俺を見てか、背後から女の罵声に似た声が飛んでくるのが分かった。でも、もう女の言葉など俺は、聞こえてはいるが聞いてはいないし、もうどんな否定が飛んでこようとも、俺の進むべき道は目の前にしかなかったから、俺は一切振り返ることなくただただ前へ進み続けた。
速歩きで前へ前へと進んでいるはずなのに、背後から飛んでくる女の大声は、何故だか次第に近づいてきている気がする。俺は最初それはただの違和感だと思ったが、いや違う。女の性格的に、こういうときは必ず追いかけてくる。次第に近づいてくる女の大声に、俺はその考えが合っていることを確信すると、もっと速く前へ前へと歩きはじめた。
前へ、前へ、前へ、前へ、前へ、前へ、前へ、前へ、前へ、前、前、前、前、前。無我夢中に、俺はただ前へ前へと歩き続けた。
気がついた時には俺は、もうよく分からない見知らぬ場所にいた。いつからだろうか、もう背後からの女の罵声に似た大声は聞こえやしない。俺は息が完全に切れていた。「はぁ……はぁ……はぁ……」と、肩で息をしながら俺は辺りを見渡してみると、そこは、辺り一帯田んぼしかない田園地帯だった。
どこだ……ここ……。
そんなに遠くまで来た覚えはないが、全く知らない場所に辿り着いたことに、俺は正直困惑した。そうして俺は、このときやっと、背後を振り返ってみることにした。
それは世界を全てひっくり返すくらいの大きな勇気が必要な行為だった。本当であればしたくなかったし、そんなことしない方が平穏は保たれる。だがそれが偽りの平穏であることも分かっていたし、たった一瞬、勇気を出して振り返ってみることだけが、中々簡単にできない。でも、俺は勇気を振り絞って背後を振り返ってみた。
「よかった……逃げ切れた」
思わず言葉が溢れるほど、嬉しかった。
「えっ……逃げ切れた?」
俺は思わず、もう一回現実を丁寧に確認してみた。辺り一帯を見ても、人の姿というのは全く見えない。あの女の姿も、もうどこにもない……。まるで夢のような現実だった。
俺は、強い脱力感に襲われて、その場に座り込んでしまった。スーツケースの持ち手をそうしてようやく手放すと、俺は自分の手を見た。スーツケースの持ち手をずっとぎゅっと握りしめていた俺の右手は、内出血を起こしていた。俺はそんな自分の右手を見て笑った。高校生の男が、なんでこんなに無我夢中でたかが母親から逃げてんだよ。そう思うと、なんだか自分のことが馬鹿馬鹿しく思えて笑えてきた。
人っ子一人見えない田園地帯に、俺の馬鹿笑いが大きく響き渡った。
……さぁ、行こうか。
俺はその場に立ち上がると、スマホを見た。現在時刻は六時半。有紗先輩との待ち合わせまでにはあと三十分もある。俺は地図アプリで現在地を確認した。……って、あれ? ……どうやら俺は、駅と真反対の方向に逃げてきてしまったようだった。
最寄り駅までは、家から最短でも十五分は絶対にかかる。ということは……やばい、めっちゃ急がないと絶対に間に合わない。
俺はスーツケースの持ち手をまたさっきみたいに強く握りしめると、大急ぎで走って最寄り駅まで向かった。
今日はなんだか、走ってばっかりだ!




