何者
視線が合うと、薄く透けるサングラスの向こうに切れ長の目が見えた。湊には相手の目が見開かれたような気がした。
そのまま数秒、無言でお互いに目を合わせたままでいると、後ろから数人の女の声がした。
「ちょっと、大丈夫?盛大にぶつかったけど」
「ねー、さっきも言ったけど飲み行こうよ」
「あんたは、ちょっとは心配したらどうなの」
とても心配しているとは思えないくらい楽しそうな声を聞き、男は湊にまた背を向けて、
「ごめんね〜。さっきも言ったけど、無理なんだよ。また今度酔ってないときにおいでよ」
と言って手を軽く振ってみせた。
「え〜」
どうやら酔っ払いらしい女たちは、不服そうにして、男に手を伸ばそうとした。
すると突然、湊の手が引っ張られて男の前に立たせられる。
湊は何が起こったのかわからず、目をしばたかせて男を見上げた。下から仰ぎ見た男の口元は、湊の目には確実に弧を描いているようにしか見えない。 男は湊の肩を叩きながら、女たちに意味のわからないことを言った。
「ごめんね。弟が迎えに来てくれたから。最近遊び歩きすぎちゃって、心配してくれたみたいだし?」
男は湊を見下ろしながら、笑顔の黄金比を代表するかのような笑みを浮かべている。
湊には兄なんていないし、こんな人に関わった記憶もない。
こんな意味のわからない人に会ったら絶対覚えているはずだ。
確実に巻き込まれたと、体の力が抜け息を吐く。
この人たちの誘いを断るのにいいように使われたと察する。
でもそのふりをしてやってもいい。
「早く帰るよ」
そう言うと、男は肩に手を置いたまま微動だにしない。
本当に意味が分からない。
自分で弟だと言っておいて、なんでこっちがそれに乗っかってやるとそんな風になるんだ。
肩に置かれた手を除け、湊は歩き出す。男がついてこないので、少しだけ振り返った。
「早くしないと置いていくけど」
「ありがとうね、助かったよ。しつこくてさ〜」
男は女がいなくなった後も、湊から離れない。
弟のふりはしたが、馴れ馴れしくするつもりはなかった。
「そうですか、よかったですね。じゃあ、これで」
相手を振り切ろうと歩みを速めるが、それに合わせて男も歩くスピードを上げる。女よりもあんたのほうがしつこいだろと、立ち止まって男をじろりと見る。
「突然止まったら、危ないだろ〜。何どうした?」
全くこちらの気持ちが伝わらないのでだんだん腹が立ってくる。
「あの、もういいですか。もう用はないですよね」
「うん、まあ。用はないけど、ちょっとした縁だし、おしゃべりぐらいよくない?」
まただ。ニコニコとしているが、全く何を考えているか分からない。そして、しつこい。誰がこんな不審者と会話なんかするかと湊は心の中で文句を言った。
無視を決め込むことにして、歩き出した。それに合わせて、男も歩き出し諦めずに、話しかけてきた。
「俺の名前は蒼真。ここらへんでいつも飲んでるんだよね」
湊は目もくれない。視界の端に、男の身振り手振りが見切れた。
「なんでさ、キミはあそこにいたの?」
「珍しいよね。この時間帯だとキミぐらいの子は見ないよ」
無視だ。湊は一瞥もしない。
「俺じゃなくて誰か待ってた?」
答えるつもりはない。湊は男をまるで空気のように扱った。
「ね〜、さすがに傷つくんだけど」
そう言われて、つい男のほうの様子をうかがうと、口をとがらせてすねたような素振りをしていた。
「あっ、こっち見た」
湊はすぐに視線を外した。隣から視線を感じる。が、すぐにその圧がなくなった。
「まあ、しょうがないよね。キミからしたら普通に怪しい人だもんね」
「それが分かってるなら、なんで話しかけるんですか」
「あれ、おしゃべりの気分になった?」
うっかり、返答してしまった。
しかし、一度話してしまったら、もう仕方ないと思い湊は口を開いた。
「なんでそんなには話しかけてくるんですか?」
「だって、面白いから」
「何がですか」
「だってさ、普通弟だって知らない人に言われたらまず否定から入るでしょ」
先ほどのことを思い出して男は腹を抱えて笑っている。なんだか、バカだと言われている気がして不服な気持ちになって、湊は男を睨みつけた。
「だからさ、適当に丸め込んじゃえばいいと思ったけど、キミが思いのほかノリがいいから」
「巻き込まれた時点で結果が変わらないなら、あんたに適当に合わせたほうが早いでしょ」
湊が思ったことをそのまま言うと、
「そっか〜」
と男は空を見上げながらつぶやいた。
「そういえば俺の名前あんたじゃなくて、蒼真だから」
湊の方を向いて指を差しながら念を押すように言う。
「どっちでもよくないですか。また、会うわけじゃあるまいし」
「それは分かんないでしょ。人生何があるかわかんないよ」
「あんたと――」
「蒼真ね」
なんでこんなに押しが強いんだ。湊は根負けした。
「蒼真さんが、俺の人生に関わることはもうないと思いますよ。あなたと俺は違う世界線の人みたいだし」
「そうかな〜。自分とは違う人だから、興味を持つし楽しいんじゃない?」
その言葉に何も返せなかった。否定したいが、自分の言葉ではすべてを否定できない気がした。
「キミはさ、変わってて面白いよ」
湊は自然と瞬きが増える。
「……普通ですよ」
「いや、変わってる。話せば話すほど興味が湧くね」
「それって珍獣とかと同じですよね。眺めていたい的な」
珍獣、自分で出した言葉に思わず眉間にしわが寄る。
蒼真さんはふっと笑みを浮かべる。作られた笑みではなく素のように見えた。
「それとは違うかな。でも、キミをもっと知りたいって思ってるよ」
蒼真さんは目をより一層細める。瞼のすき間から見える瞳に、湊は捕らわれる。
この人の考えていることが分からない。
なぜ、会ったばかりの自分に興味を持つのか。ましてや、自分なんて。
「なんですか、それ」
湊は瞳孔を左右に揺らし、目を背ける。
「う〜ん、伝わんないか。この感覚」
蒼真さんは湊から視線を外し、何か遠く見ているようだった。その横顔に軽い雰囲気はなかった。
「とにかく俺はね、キミが変わってるから今日助かったし、話してて楽しかったんだよ」
その言葉に体がそわそわした。ありのままの自分を認めるようなこの人の発言を軽く聞き流せなかった。
「じゃあ、またね。今日はありがとうね。お礼に、何でも頼ってよ。俺はここらへんで呑んでることが多いから、なんかあったら呼んでよね」
湊のことなんてお構いなしに好き勝手に話が進んでいくのでげんなりした。あの人は手を振りながら、湊を見送っていた。
しばらくして振り返るとあの人はもういなかった。自転車にまたがり、家までの道を走らせながら、頭にふと疑問が湧く。
あの人は一度も名前を尋ねてこなかった。
ずっと一緒に歩いていたが、あの人は別れた後、すぐに消えてしまった。自分と話すためだけに歩いていたのだろうかと不思議になり、首を傾げる。
まるで、しゃぼん玉のようだ。
ふわふわと漂い、こちらが興味を持った時には消えてしまう。しゃぼん玉のように、夢と現実を曖昧にさせる。湊の心はというと、そっと撫でられて落ち着かない。
湊はしゃぼん玉に意識を奪われた幼い子のように、頭の中で渦巻いて離れなかった昨日の事は隅に追いやられていた。
湊にはあの人が完全に怪しい人、ではなくなっていた。
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