008Qwen版その2
■第八章 命の選別
医療室には、まだ、温もりがあった。
第九居住区の最下層。石造りの冷たい廊下の奥に、テルトイア・ファレンストロイの領域はあった。壁には薬草の束が吊るされ、棚には調合済みの軟膏が整然と並んでいる。空気には、薄荷と蜂蜜の匂いが、かすかに漂っていた。
この居住区の中で、唯一、番号ではなく、名前で呼ばれる場所だった。
「……大丈夫だ。三日もすれば、熱は引く」
テルトイアは、寝台に横たわる老人の額に、手を当てていた。治癒術の光が、指先から、淡く、温かく、滲んでいる。
老人が、かすかに、笑った。
「……ありがとう、先生」
「先生ではない。班の医療係だ」
「先生だよ。あんたは、先生だ」
テルトイアは、何も言わなかった。ただ、治癒の光を、もう少しだけ、強くした。
老人が、目を閉じた。呼吸が、穏やかになった。
テルトイアは、手を離した。
寝台から立ち上がり、次の患者に向かおうとした。
その時、扉が、叩かれた。
「……テルトイア様。管理者が、お呼びです」
黒鉄の兜の兵だった。平坦な声。
テルトイアは、振り返った。
「……今、患者がいる」
「管理者が、即刻の来訪を、命じております」
沈黙。
テルトイアは、寝台の老人を、見た。眠っている。呼吸は、穏やかだ。
「……分かった。行く」
薬草の束を、棚に戻した。手を、洗った。
医療室を、出た。
廊下で、振り返った。
扉の向こうに、老人が、眠っている。
三日もすれば、熱は引く。
テルトイアは、廊下を、歩いた。
執務室は、城の最上階にあった。
テルトイアが、扉を開けた時、レイは、机に向かっていた。記録帳を開いている。ペンを走らせている。
机の上に、もう一冊、記録帳が、置かれていた。
黒い表紙だった。他の記録帳とは、違う。表紙に、何も書かれていない。
「……レイ」
「入れ」
テルトイアが、入った。扉が、閉まった。
レイが、ペンを置いた。顔を上げた。灰色の瞳に、疲弊があった。だが、それ以上に、何かを、決め終えた者の、静けさがあった。
「座れ」
テルトイアが、椅子に座った。机の向こうに、レイがいる。二年前、四人で焚き火を囲んでいた頃とは、違う。机が、ある。記録帳が、ある。黒い表紙の、もう一冊が、ある。
「……何だ。この記録帳は」
レイが、黒い表紙の記録帳を、テルトイアの方に、滑らせた。
「読め」
テルトイアが、手に取った。開いた。
最初の頁に、数字が、並んでいた。
二万三千人。現在、管理下にある人口。
その下に、計算があった。
食料生産能力:現状の耕地面積と魔素安定化装置の出力を基準に算出。年間生産量は、二万三千人分の配給を維持する限界値に到達。
人口増加率:現状の出生率を維持した場合、三年後に二万五千人。五年後に二万八千人。十年後に三万四千人。
結論:現行の配給システムは、二年以内に破綻する。
テルトイアが、頁をめくった。
二頁目。三頁目。四頁目。
すべて、計算だった。
食料。水。医療資源。住居の容量。魔素安定化装置の出力限界。
すべてが、数字で、書かれていた。
そして、最後の頁に、こう書いてあった。
対策案:
一、出生制限。居住区ごとの年間出生許容量を、配給余力に基づいて算出。許容量を超える妊娠に対し、出産の延期、または、中止を推奨する。
二、配給優先度の再編成。現行の三段階配給(壮年・児童・老人)を、五段階に細分化。生産性指標に基づき、配給量を再配分する。
三、医療資源の配分基準の見直し。治癒術の適用対象を、「生産性回復の見込み」に基づいて選別する。回復の見込みがないと判断された個体に対し、治癒術の適用を停止し、緩和処置のみを行う。
テルトイアが、記録帳を、閉じた。
手が、震えていた。
「……レイ」
「読んだか」
「読んだ」
「感想を、聞かせてくれ」
テルトイアが、記録帳を、机の上に、置いた。置いた手が、まだ、震えていた。
「……出生制限。配給の優先順位。医療の選別。……これを、誰が、計算した」
「私だ」
「私が、聞いているのは、計算した者ではない。……これを、実行する者は、誰だ」
レイが、テルトイアを見た。
灰色の瞳に、何の感情もなかった。
「お前だ」
沈黙。
長い、長い沈黙。
テルトイアが、椅子の背に、もたれた。天井を、見た。石の天井。松明の光が、揺れている。
「……私か」
「お前しか、いない。医療資源の配分を、数字で管理できる者は、このシステムの中に、お前しかいない。出生制限の基準を、医学的に算出できる者も、お前しかいない。……お前の頭脳が、要る」
「私の頭脳が、要る」
テルトイアが、繰り返した。
「お前は、私に、何を選別しろと、言っている」
「命だ」
レイが、言った。
平坦な。透明な。感情の一切が抜け落ちた声。
「命を、選別しろと、言っている。誰に、治癒術を使うか。誰に、使わないか。誰を、生かすか。誰を、後回しにするか。……お前が、決めてくれ」
テルトイアが、机を、叩いた。
音が、執務室に、響いた。
「ふざけるな!」
叫びだった。二年間、テルトイアが、一度も、上げなかった声だった。
「私は、治癒術士だ! 命を救うために、この手を、使ってきた! 誰かを、選ぶために、使ってきたのではない! 全員を、救うために、使ってきた!」
「全員は、救えない」
レイの声は、変わらなかった。
「資源が、足りない。二万三千人を、全員、同じ水準で、救うことは、できない。……知っているだろう。お前が、二年間、やってきたことだ。誰を、優先して、治療するか。誰を、後回しにするか。毎日、計算していた。……今回は、それを、制度にするだけだ」
「制度」
テルトイアが、その言葉を、反芻した。
「……今まで、私は、毎日、選んでいた。確かに、選んでいた。だが、それは、その日の、その瞬間の、判断だった。明日には、別の判断が、できた。後回しにした者を、翌日、優先することが、できた。……だが、制度にすれば、それは、固定される。一度、『回復の見込みなし』と判定された者は、永遠に、治癒術を受けられない。永遠に、緩和処置だけで、死を、待つ」
「そうだ」
「永遠に、だと?」
「制度は、固定される。それが、制度の意味だ。気まぐれがない。慈悲がない。……だから、公平だ」
「公平」
テルトイアが、笑った。乾いた、割れた笑いだった。
「老人を、死なせることが、公平か。病人を、見捨てることが、公平か。生まれてくる子どもを、数字のために、殺すことが、公平か」
「殺すのではない」
「同じだ!」
テルトイアが、立ち上がった。椅子が、倒れた。
「治癒術を、与えないことは、殺すことと同じだ! 出生を、制限することは、生まれるはずだった命を、殺すことと同じだ! ……レイ。お前は、私に、殺人の計算を、させようとしている!」
レイは、動かなかった。
机の向こうに、座ったまま、テルトイアを、見ていた。
灰色の瞳に、怒りはなかった。悲しみもなかった。
ただ、疲弊があった。
深い、深い、疲弊。
「……テルトイア」
「何だ」
「お前の言い分は、正しい。老人を死なせることは、残酷だ。病人を見捨てることは、残酷だ。生まれるはずだった命を、止めることは、残酷だ。……すべて、正しい」
「なら——」
「だが」
レイが、言った。
「何もしなければ、二年後に、二万三千人全員が、飢える」
沈黙。
「食料が、足りない。水が、足りない。医療資源が、足りない。住居が、足りない。……何もしなければ、二万三千人が、全員、メルヴィアになる。全員が、殺し合う。全員が、飢える。全員が、死ぬ」
テルトイアが、口を開いた。閉じた。
「……それは」
「計算だ。感情ではない。計算だ。二万三千人を、全員、生かすことは、できない。だが、二万人を、生かすことは、できる。……三千人を、犠牲にして、二万人を、生かす。それが、私の計算だ」
「三千人を、犠牲に」
「そうだ」
「……その三千人の中に、今朝、私が、熱を下げた老人が、入るのか」
レイは、答えなかった。
答えなかったことが、答えだった。
テルトイアが、机に、手をついた。
指が、白くなるほど、握りしめていた。
「……レイ。お前は、壊れている」
「壊れていない」
「壊れている。五歳の子どもを、処理しようとした。歌を歌った男を、排除しようとした。……今度は、老人を、病人を、生まれてくる子どもを、数字のために、殺そうとしている。……お前は、壊れている」
「壊れていない。計算している」
「同じだ! 感情のない計算は、狂気と同じだ!」
沈黙。
長い、長い沈黙。
レイが、机の上の記録帳を、手に取った。黒い表紙の、計算書。
「……テルトイア。一つだけ、聞く」
「何だ」
「お前は、二年間、毎日、誰を治療するか、選んでいた。……その時、後回しにした者が、翌日、死んでいたことが、何度あった」
テルトイアが、息を呑んだ。
「……三度」
「三度。二年間で、三度。お前が、後回しにした者が、翌日、死んでいた。……お前の選別が、三人を、殺した」
「それは——」
「お前の選別だ。お前の計算だ。お前の、感情の入った、気まぐれな、その日の判断が、三人を、殺した。……制度なら、それは、起きない。制度なら、最初に、基準を、決める。回復の見込みが、何パーセント以上なら、治癒術を適用する。何パーセント以下なら、緩和処置のみ。……気まぐれがない。後から、基準は、変わらない。……三人が、死ぬことは、ない」
テルトイアが、口を開いた。
閉じた。
開いた。
閉じた。
何も、言えなかった。
三度。二年間で、三度。
後回しにした老人が、翌朝、冷たくなっていた。
後回しにした子どもが、翌夕、息を引き取っていた。
その三つの顔を、テルトイアは、覚えている。
忘れられるはずが、ない。
「……レイ」
「何だ」
「お前は、私に、何を、望んでいる」
レイが、記録帳を、机の上に、置いた。
「お前に、望んでいるのは、一つだけだ。この計算書を、制度にしてくれ。出生制限の基準を、医学的に、算出してくれ。配給の優先順位を、生産性に基づいて、設計してくれ。医療の選別基準を、治癒術の適用条件として、固定してくれ。……お前の頭脳で、お前の知識で、お前の経験で、作ってくれ」
「……嫌だ」
声は、小さかった。
「嫌だ、レイ。私は、できない。……私は、治癒術士だ。命を、救う者だ。命を、選ぶ者ではない。……できない」
レイは、テルトイアを、見ていた。
長い間、見ていた。
それから、言った。
「……分かった」
エランナの時の、同じ言葉だった。
引き留めなかった。怒らなかった。脅さなかった。
ただ、「分かった」と、言った。
「……だが、テルトイア。一つだけ、言っておく」
「何だ」
「お前が、去るなら、この計算書は、別の者が、実行する。医学の知識がない者が、数字だけで、実行する。……回復の見込みが、何パーセントか、判断できない者が、ただの数字の閾値で、命を、切る。……お前が、作れば、少なくとも、医学的に、正しい基準が、できる。お前が、去れば、その基準すら、なくなる」
テルトイアが、目を、閉じた。
開いた。
「……それでも、嫌だ」
「……分かった」
レイが、頷いた。
二度目の「分かった」だった。
その夜、テルトイアは、医療室に戻った。
老人が、寝台で、眠っていた。熱は、まだ、ある。だが、呼吸は、穏やかだ。三日もすれば、引く。
テルトイアは、老人の寝台の横に、座った。
治癒術の光を、もう一度、当てた。
淡い、温かい光。
老人の呼吸が、さらに、穏やかになった。
テルトイアは、その光を、見ていた。
二年間、この光を、二万三千人に、当ててきた。
全員を、救いたかった。
全員を、救えると思った。
救えなかった。
三度。三人。
後回しにした者が、死んだ。
その三つの顔を、覚えている。
テルトイアは、手を、離した。
光が、消えた。
老人が、眠っている。
三日もすれば、熱は引く。
だが、その三日後に、何かが、変わるかもしれない。
制度が、できれば、この老人は、もう、治癒術を受けられないかもしれない。
回復の見込みが、何パーセントか、分からないから。
生産性が、ないから。
数字が、足りないから。
テルトイアは、老人の顔を、見ていた。
皺だらけの顔。痩せこけた頬。だが、眠っている顔は、穏やかだった。
先生だよ。あんたは、先生だ。
テルトイアは、立ち上がった。
薬草の束を、棚から、下ろした。調合済みの軟膏を、鞄に、入れた。医療器具を、布に、包んだ。
二年間、この部屋で、使ってきたもの。
全部、鞄に、入れた。
棚が、空になった。
壁に、薬草の跡が、残っていた。
テルトイアは、部屋を、見渡した。
寝台が、六つ。棚が、三つ。調合台が、一つ。
二年間、ここで、命を、救ってきた。
選んできた。
三度、間違えた。
テルトイアは、扉に、向かった。
開けた。
振り返った。
老人が、眠っていた。
三日もすれば、熱は引く。
テルトイアは、扉を、閉めた。
城の廊下を、歩いた。
石造りの壁。松明の光。影が、揺れている。
テルトイアの足音が、石の床に、響いた。
一人分の、足音。
廊下の途中で、グランと、すれ違った。
グランが、立ち止まった。
「……テルトイア」
「グラン」
二人は、向かい合った。
グランの目に、問いがあった。
テルトイアは、答えなかった。
答えなくても、グランには、分かった。
エランナの時と、同じだった。
「……そうか」
「ああ」
沈黙。
グランが、口を開いた。
「……レイは、何と言った」
「分かった、と」
「引き留めは」
「なかった」
グランが、頷いた。
二人は、向かい合ったまま、しばらく、黙っていた。
二年間。同じ戦場で、背中を預けた。同じ焚き火を、囲んだ。同じ血を、流した。
グランが、剣で、敵を倒した。
テルトイアが、その傷を、癒やした。
二年間、それを、繰り返してきた。
「……グラン」
「何だ」
「お前は、残るのか」
グランは、答えなかった。
答えられなかった。
残る。だが、なぜ残るか、分からなかった。
レイを、信じているからか。
分からない。
レイを、止められるのは、自分だけだと、思っているからか。
分からない。
ただ、剣を、振るう場所が、まだ、あるからか。
分からない。
「……分からん」
グランが、言った。
テルトイアが、頷いた。
「……そうか」
「テルトイア」
「何だ」
「……どこに、行く」
「分からない。ただ、ここから、出る。……命を、選別する場所から、出る」
グランが、何かを、言おうとした。
言えなかった。
代わりに、手を、差し出した。
テルトイアが、その手を、見た。
武人の手だった。剣を握り続けた、硬い、傷だらけの手。
テルトイアは、その手を、握った。
治癒術士の手だった。薬草の匂いが、染み付いた、柔らかい手。
二人は、手を、握り合った。
長い間、握っていた。
それから、離した。
「……達者で」
テルトイアが、言った。
「お前も」
グランが、言った。
テルトイアが、背を向けた。
歩いた。
グランは、その背中を、見ていた。
痩せた背中。薬草の鞄を背負った、治癒術士の背中。
二年間、その背中が、自分の傷を、癒やしてきた。
背中が、遠ざかっていく。
角を、曲がった。
見えなくなった。
グランは、そこに、立ったまま、動けなかった。
長い間、動けなかった。
城門に、着いた。
門番の兵が、二人。黒鉄の兜。
テルトイアが、門の前に、立った。
「……開けてくれ」
兵が、一瞬、躊躇した。
「……テルトイア様。管理者の——」
「管理者には、伝えた。開けてくれ」
兵が、門を、開けた。
重い鉄の門が、軋みながら、開いた。
外に、夜が、あった。
星が出ていた。風が、吹いていた。
テルトイアは、門の外に、一歩、踏み出した。
石畳が、終わった。土が、始まった。
二歩。三歩。
振り返った。
城が、背後に、あった。
窓に、明かりが、灯っている。執務室の窓。最上階。
レイが、いる。
テルトイアは、その窓を、見ていた。
長い間、見ていた。
窓の向こうに、影が、見えた。痩躯の影。机に向かっている影。
ペンを、走らせている。
記録帳を、書いている。
二万三千人分の、明日を。
テルトイアは、窓から、目を離した。
前を、向いた。
夜が、広がっていた。
星が、冷たく光っていた。
風が、吹いていた。
自由な風だった。
何の管理も、受けていない風だった。
その風の中に、テルトイアは、歩いた。
振り返らなかった。
薬草の鞄が、背中で、揺れていた。
執務室で、レイは、ペンを走らせていた。
二万三千人分の、今日の記録。
書いて、書いて、書いていた。
窓の外で、城門が、開いた音が、聞こえた。
重い鉄の、軋む音が。
レイは、ペンを、止めなかった。
書いていた。
窓の外で、足音が、遠ざかっていった。
一人分の、足音。
だんだん、小さくなって、やがて、聞こえなくなった。
レイは、ペンを、止めなかった。
書いていた。
窓の外で、城門が、閉まった音が、聞こえた。
重い鉄の、閉じる音が。
レイは、ペンを、止めた。
窓の外を、見た。
夜だった。星が出ていた。
城門の外に、誰も、いなかった。
薬草の鞄は、もう、見えなかった。
レイは、窓から、目を離した。
机の上に、黒い表紙の記録帳が、あった。
出生制限。配給優先度。医療選別。
テルトイアが、拒否した、計算書。
レイは、その記録帳を、手に取った。
開いた。
頁を、めくった。
数字が、並んでいる。
すべて、レイが、計算した数字だった。
医学的な基準は、ない。ただの、閾値だ。
回復の見込みが、何パーセント以上なら、治癒術を適用する。
その「何パーセント」を、決める者が、もう、いない。
テルトイアが、去った。
レイは、記録帳を、閉じた。
ペンを、握った。
別の記録帳を、開いた。
二万三千人分の、今日の記録。
ペンを、走らせた。
止まらなかった。
止まれなかった。
だが、その夜、レイは、一度だけ、ペンを止めた。
窓の外を、見た。
星が、出ていた。
二年前、四人で、焚き火を囲んだ夜も、星が、出ていた。
あの夜、テルトイアが、言った。
『お前が、そう言うなら、そうなんだろう。……ただ、一つだけ』
何を、言おうとしていたか、覚えていない。
いや、覚えている。
『お前は、楽しいか』
グランが、言った言葉だった。
テルトイアは、別のことを、言おうとしていた。
何だったか。
覚えていない。
いや、覚えている。
『俺は、治癒術士だ。命を救うために、この手を、使ってきた』
そう言った。
二年間、その手で、レイの傷を、癒やしてきた。
戦場で、倒れたレイを、抱き起こし、治癒の光を、当ててくれた。
その手が、もう、ない。
レイは、ペンを、置いた。
手を、見た。
墨で、黒ずんだ手。
傷が、なかった。
二年間、テルトイアが、癒やし続けてくれたから、傷が、なかった。
これから、傷は、自分で、癒やさねばならない。
いや、癒やせない。
治癒術は、使えない。
レイは、手を、握った。
開いた。
握った。
開いた。
それから、記録帳を、また、開いた。
ペンを、握った。
二万三千人分の、明日を、書いた。
ペンが、走った。
止まらなかった。
止まれなかった。
翌朝。
医療室の扉が、開いた。
黒鉄の兜の兵が、入った。
寝台が、六つ。棚が、三つ。調合台が、一つ。
薬草の束が、ない。軟膏が、ない。医療器具が、ない。
棚が、空だった。
壁に、薬草の跡が、残っていた。
寝台の一つに、老人が、眠っていた。
熱は、まだ、あった。
だが、治癒術の光は、なかった。
兵が、老人の脈を、取った。
記録帳に、書き込んだ。
九-一四七二。男。七十一歳。職能:なし。健康状態:発熱。治癒術適用:保留。
保留。
誰が、決めるか、まだ、決まっていない。
テルトイアが、去った。
基準が、ない。
老人は、眠っていた。
三日もすれば、熱は引く。
だが、三日後、治癒術が、あるか、分からない。
兵が、部屋を、出た。
扉が、閉まった。
老人が、眠っていた。
誰も、光を、当てなかった。
その日の午後、レイは、執務室で、黒い表紙の記録帳を、開いていた。
出生制限。配給優先度。医療選別。
テルトイアが、拒否した、計算書。
レイは、ペンを取った。
医療選別の欄に、書き込んだ。
治癒術適用基準:回復の見込み、六十パーセント以上。
六十パーセント。
医学的な根拠は、ない。
テルトイアが、いない。
だが、数字が、要る。
基準が、要る。
制度が、要る。
レイは、書き続けた。
六十パーセント未満の個体に対し、治癒術の適用を停止。緩和処置のみを行う。
ペンが、走った。
止まらなかった。
止まれなかった。
窓の外で、風が、吹いていた。
薬草の匂いを、運んでくる風では、もう、なかった。
ただ、冷たい、何の意味もない風だった。
レイは、書き続けた。
二万三千人分の、明日を。
誰が、生き、誰が、後回しにされるか。
その基準を、一人で、書いていた。
止まらなかった。
止まれなかった。
止まれば、二万三千人が、飢える。
第八章 了
■第九章 最後の剣
城は、広すぎた。
エランナが去って、三ヶ月。テルトイアが去って、一ヶ月。
二万三千人を管理する城の廊下に、足音は、二つしかなかった。
一つは、レイの足音。痩躯の、一定の、感情のない足音。毎朝、執務室から配給所へ。毎夕、配給所から執務室へ。同じ道を。同じ速度で。
もう一つは、グランの足音。重い、大地を踏み鳴らすような足音。兵舎から訓練場へ。訓練場から城壁の見回りへ。同じ道を。同じ速度で。
二つの足音が、交差することは、ほとんどなくなった。
かつて、四人で焚き火を囲んでいた頃が、遠い昔のように思える。エランナの魔術の光が、夜を照らしていた頃。テルトイアが、傷の手当てをしながら、文句を言っていた頃。グランが、両手剣を地面に突き立てて、腕を組んでいた頃。
今は、ない。
城は、広すぎた。
その日の朝、レイは、執務室で、記録帳を開いていた。
二万三千人分の、今日の記録。
書いて、書いて、書いていた。
ペンが、止まった。
記録帳の、ある頁に、目が、留まった。
第七居住区。住民数:三千二百人。魔力波動観測:異常検知。不穏な集積、三週連続。感情指標:怒り〇・四、恐怖〇・三、悲しみ〇・二。
特記事項:第七居住区において、元旧貴族の残党と見られる個体が、居住者に対し、組織的な扇動を行っている疑いあり。魔導監視網の解析により、反乱の計画が、段階三に進行中と推定。
段階三。
レイが、二年前に定めた基準だった。
段階一:不満の蓄積。配給の減額で対応。
段階二:私的集合の増加。管理人の交代で対応。
段階三:組織的な反乱の計画。——対応策、未定。
未定では、なかった。
対応策は、あった。
黒い表紙の記録帳の、最後の頁に、書いてあった。
レイは、その記録帳を、引き出しから、取り出した。
開いた。
最後の頁に、一行だけ、書いてあった。
段階三対応策:対象居住区を、魔導結界にて完全封鎖。魔素供給を遮断。配給を停止。反乱計画の放棄、または、対象個体の自発的投降を確認するまで、封鎖を継続する。
封鎖。
配給の停止。
三千二百人に、パンを、与えない。
レイは、その一行を、見ていた。
長い間、見ていた。
それから、記録帳を、閉じた。
立ち上がった。
扉に、向かった。
「グランを、呼べ」
廊下にいた兵に、言った。
「は」
兵が、走った。黒鉄の兜が、廊下の光を、反射した。
グランが、執務室に入った時、レイは、窓の前に、立っていた。
眼下に、九つの居住区が、広がっている。二万三千人が、同じ速度で、同じ方向に、動いている。
「……レイ」
「入れ」
グランが、入った。扉が、閉まった。
二人きりだった。
二万三千人の城で、二人きりだった。
レイが、振り返った。灰色の瞳に、疲弊があった。だが、それ以上に、何かを、決め終えた者の、静けさがあった。
「座れ」
グランが、椅子に、座らなかった。
立ったまま、レイを、見ていた。
「……何だ。顔が、違う」
「第七居住区の話だ」
レイが、机に戻った。記録帳を、開いた。黒い表紙の、もう一冊を、グランの前に、置いた。
「読め」
グランが、手に取った。開いた。
最後の頁に、目が、留まった。
対象居住区を、魔導結界にて完全封鎖。魔素供給を遮断。配給を停止。
グランが、記録帳を、閉じた。
手が、震えていた。
「……これは」
「第七居住区に、反乱の計画がある。段階三だ。三週連続で、不穏な集積が、検知されている。元旧貴族の残党が、居住者を扇動している。……このまま放置すれば、一ヶ月以内に、武装蜂起が、起きる」
「だから、封鎖する、と」
「そうだ」
「三千二百人を」
「三千二百人を」
「配給を、止める、と」
「そうだ」
「……何日間」
レイが、答えた。
「投降するまで」
沈黙。
グランが、一歩、前に出た。
「投降しなければ」
「封鎖は、続く」
「続けば」
「配給が、ない。魔素が、ない。水が、ない。……三日で、脱水が始まる。五日で、餓死が始まる。七日で、三千二百人の半数が、死ぬ。十日で、全員が、死ぬ」
グランの顔が、歪んだ。
「……三千二百人を、餓死させる、と」
「餓死させるのではない。封鎖する。投降すれば、解除する。……選択は、彼らにある」
「選択」グランが、その言葉を、反芻した。「三千二百人のうち、反乱を計画しているのは、何人だ」
「……二十三人」
「二十三人のために、三千百七十七人を、餓死させるのか」
「二十三人が、三千百七十七人を、巻き込む。武装蜂起が起きれば、居住区は、戦場になる。戦場になれば、死者は、二十三人では、済まない。三百人。五百人。千五百人。……メルヴィアになる」
「メルヴィアを、出すな!」
グランが、叫んだ。三度目の叫びだった。二度は、レイに向かって。一度は、自分自身に向かって。
レイは、動かなかった。
「事実だ。メルヴィアでは、二百九十一人が死んだ。自由の代償として。……第七居住区で、武装蜂起が起きれば、三千二百人が、メルヴィアになる。全員が、殺し合う。全員が、飢える。全員が、死ぬ。……それを、防ぐ唯一の方法が、封鎖だ」
「唯一の方法」
「そうだ」
「嘘だ」
グランが、机を、叩いた。
「嘘だ、レイ。唯一の方法なんか、ない。二十三人を、個別に、捕らえればいい。魔導監視網で、位置は、分かっているんだろう。二十三人を、夜間に、急襲して、制圧すれば、三千百七十七人は、無傷だ。……なぜ、それを、しない」
レイが、グランを見た。
灰色の瞳に、何の感情もなかった。
「二十三人を、捕らえても、次の二十三人が、生まれる。不満が、ある。怒りが、ある。配給が、足りない。自由が、ない。……二十三人を、消しても、原因は、消えない。原因を消すには、見せしめが、要る」
「見せしめ」
「三千二百人が、封鎖の中で、十日間、飢える。その事実を、他の八つの居住区に、知らせる。『反乱を計画すれば、配給が止まる。魔素が止まる。水が止まる。全員が、死ぬ』と。……そうすれば、次の二十三人は、生まれない。次の反乱は、起きない。……三千二百人の犠牲で、二万三千人の反乱を、永久に、防ぐ」
グランが、息を、呑んだ。
「……三千二百人を、犠牲に、して」
「計算だ。感情ではない。計算だ。三千二百人と、二万三千人。……どちらを、生かす」
「両方だ! 両方を、生かす方法を、考えるのが、お前の仕事だろう!」
「考えた。三週間、考えた。……両方を生かす方法は、ない。二十三人を捕らえても、原因は消えない。原因を消すには、制度を変える必要がある。制度を変えるには、配給を増やす必要がある。配給を増やすには、食料を増やす必要がある。食料を増やすには、三年かかる。……三年後まで、待てない。反乱は、一ヶ月後に、起きる」
沈黙。
長い、長い沈黙。
グランが、椅子に、座り込んだ。
両手で、顔を、覆った。
「……レイ」
「何だ」
「お前は、本当に、これで、いいと、思っているのか」
「思っている」
「三千二百人が、死ぬ。子どもが、いる。老人が、いる。反乱とは、何も関係ない者が、三千人、いる。……その者たちが、五日目に、脱水で、倒れる。七日目に、餓えで、死ぬ。十日目に、全員が、死ぬ。……それを、お前は、記録帳に、書くのか。三千二百人分の、死亡記録を」
「書く」
「……書けるのか」
「書ける」
グランが、顔を、上げた。
目に、涙が、あった。
二年間、一度も、見せなかった涙が。
「……お前は、本当に、壊れたんだな」
「壊れていない。計算している」
「同じだ。感情のない計算は、狂気と同じだ。……テルトイアが、言った言葉だ。覚えてるか」
レイは、答えなかった。
覚えていた。
『レイ、あなたは壊れてしまった。これ以上、あなたの狂気に知恵を貸すことはできない』
テルトイアが、去る前に、言った言葉だった。
グランが、立ち上がった。
両手剣の柄に、手を、かけた。
レイが、それを見た。灰色の瞳が、わずかに、細くなった。
「……グラン」
「レイ」
グランが、剣を、抜かなかった。
柄に、手をかけたまま、レイを、見ていた。
「……お前を、止める」
声が、震えていた。
「お前を、止める、レイ。……それが、お前を、魔王にしてしまった、俺の、責任だ」
沈黙。
長い、長い沈黙。
レイが、グランを、見ていた。
灰色の瞳に、怒りはなかった。悲しみもなかった。
ただ、何かを、失う者の、静かな、諦めがあった。
「……止める、とは」
「剣を、向ける。お前に。……お前が、第七居住区の封鎖を、実行するなら、俺は、お前の前に、立つ。両手剣を、抜いて、お前の前に、立つ。……お前が、俺を、斬るまで、立たない」
レイは、何も言わなかった。
長い間、何も言わなかった。
窓の外で、風が、吹いていた。
二万三千人の沈黙の上を、風が、吹いていた。
「……グラン」
「何だ」
「お前は、私の剣だった」
声が、変わった。
二年間、一度も、聞かなかった声だった。
平坦ではなかった。透明ではなかった。
疲弊の奥に、何か、温かいものが、かすかに、残っていた。
「三年前、カルデン盆地の丘の上で、お前と、出会った。お前は、両手剣を担いで、笑っていた。『俺の剣は、弱い者のためにある』と、言った。……私は、その言葉を、信じた」
グランが、息を、呑んだ。
「お前の剣が、あったから、私は、戦えた。お前の背中が、あったから、私は、前に、進めた。……お前が、いなければ、私は、メルヴィアで、死んでいた」
「レイ……」
「だが」
レイの声が、また、変わった。
温かさが、消えた。
平坦な、透明な、感情のない声に、戻った。
「お前の剣は、もう、私の背中を、守らない。お前の剣は、私の前に、立つ。……ならば、お前は、もう、私の剣ではない」
グランが、剣の柄を、握りしめた。
指が、白くなった。
「……ああ。そうだな」
声が、掠れた。
「俺は、もう、お前の剣じゃ、ない。……だが、レイ。一つだけ、言わせてくれ」
「言え」
「お前は、間違っている」
「分かっている」
グランが、目を、見開いた。
「……分かっている、だと?」
「分かっている。三千二百人を、餓死させることが、正しいとは、思っていない。子どもが、死ぬ。老人が、死ぬ。何も関係ない者が、死ぬ。……正しいとは、思っていない」
「なら、なぜ——」
「だが、止まれない」
レイの声が、震えた。
初めてだった。二年間で、初めて、レイの声が、震えた。
「止まれば、二万三千人が、飢える。止まれば、システムが、死ぬ。止まれば、メルヴィアが、もう一つ、できる。……私は、メルヴィアを、もう一つ、作れない。二百九十一人の死体を、もう一度、見れない。……だから、止まれない。三千二百人が、死んでも、止まれない」
グランが、剣の柄から、手を、離した。
抜かなかった。
抜かなかったが、握りしめていた手を、離した。
「……レイ」
「何だ」
「お前は、泣いている」
レイが、手を、頬に、当てた。
濡れていた。
分からなかった。いつから、泣いていたか。
二年間、一度も、泣かなかった。
二百九十一人の死体の前でも。五歳の子どもを、処理しようとした時も。エランナが、去った時も。テルトイアが、去った時も。
泣かなかった。
今、泣いていた。
三千二百人を、餓死させる計算を、しながら、泣いていた。
「……これは」
レイが、手を、頬から、離した。
濡れた指を、見ていた。
「……これは、計算の、誤差だ」
グランが、笑った。
乾いた、割れた、悲しい笑いだった。
「……計算の誤差、か」
「そうだ」
「……そうか」
グランが、背を、向けた。
扉に、向かった。
一歩。二歩。三歩。
四歩目で、止まった。
振り返った。
「レイ」
「何だ」
「……見事な剣だった、グラン。お前がその刃を私に向ける日まで、私はこの世界を正しく恐ろしい場所にしておくよ」
レイが、言った。
声が、平坦だった。透明だった。感情が、なかった。
だが、その言葉の奥に、何かが、あった。
三年前、カルデン盆地の丘の上で、二人が、初めて、剣を交えた時の、記憶。
グランが、笑っていた。「俺の剣は、弱い者のためにある」と、言った。
レイが、頷いた。「ならば、お前の剣を、私に貸してくれ」と、言った。
あの日の、記憶。
グランが、目を、閉じた。
開いた。
「……ああ。見事に、してくれ」
声が、掠れていた。
「お前が、この世界を、正しく恐ろしい場所に、してくれるなら、俺は、お前を、止めに、来る。……その日まで、達者で、いろ」
レイは、答えなかった。
グランが、扉を、開けた。
閉める前に、一度だけ、振り返った。
「レイ」
「何だ」
「……お前は、英雄だった。三年前、カルデン盆地の丘の上で、お前は、確かに、英雄だった。……それを、忘れるな」
扉が、閉まった。
足音が、遠ざかっていった。
重い、大地を踏み鳴らすような足音が。
だんだん、小さくなって、やがて、聞こえなくなった。
執務室に、レイは、一人、残された。
机の上に、記録帳が、二冊、あった。
一冊は、二万三千人分の、今日の記録。
もう一冊は、黒い表紙の、計算書。
対象居住区を、魔導結界にて完全封鎖。魔素供給を遮断。配給を停止。
レイは、黒い表紙の記録帳を、手に取った。
開いた。
最後の頁を、見た。
三千二百人を、餓死させる、一行の命令。
レイは、その一行を、見ていた。
長い間、見ていた。
頬が、まだ、濡れていた。
計算の誤差。
そう言った。
だが、誤差では、なかった。
分かっていた。
レイは、記録帳を、閉じた。
机の上に、置いた。
窓の外を、見た。
二万三千人が、同じ速度で、同じ方向に、動いている。
静かだった。
完璧に、静かだった。
誰も、笑っていない。
誰も、怒っていない。
誰も、泣いていない。
ただ、二万三千の体が、同じリズムで、動いている。
歯車が、回っている。
レイは、その光景を、見ていた。
長い間、見ていた。
それから、机に戻った。
記録帳を、開いた。
ペンを、握った。
二万三千人分の、今日の記録を、書き始めた。
ペンが、走った。
止まらなかった。
止まれなかった。
だが、その夜、レイは、一度だけ、ペンを止めた。
頬が、まだ、濡れていた。
手で、拭った。
濡れた指を、見た。
三年間、一度も、拭わなかったものを、今、拭っていた。
レイは、手を、握った。
開いた。
握った。
開いた。
それから、ペンを、また、握った。
記録帳を、開いた。
書いた。
二万三千一行目。二万三千二行目。
ペンが、走った。
止まらなかった。
止まれなかった。
止まれば、二万三千人が、飢える。
翌朝。
城門が、開いた。
重い鉄の門が、軋みながら、開いた。
グラン・バグットが、門の外に、立っていた。
両手剣を、背負っていた。鎧は、着けていなかった。ただ、武骨な体と、一振りの剣だけだった。
門番の兵が、二人。黒鉄の兜。
グランが、門を、くぐった。
石畳が、終わった。土が、始まった。
一歩。二歩。三歩。
振り返った。
城が、背後に、あった。
最上階の窓に、影が、見えた。
痩躯の影。机に向かっている影。
ペンを、走らせている。
記録帳を、書いている。
グランは、その影を、見ていた。
長い間、見ていた。
それから、呟いた。
「……達者で、いろ」
声が、風に、消えた。
グランは、背を向けた。
歩いた。
振り返らなかった。
両手剣が、背中で、揺れていた。
三年間、レイの背中を守ってきた剣が。
もう、守るべき背中が、なかった。
執務室で、レイは、ペンを走らせていた。
窓の外で、城門が、開いた音が、聞こえた。
重い鉄の、軋む音が。
レイは、ペンを、止めなかった。
書いていた。
窓の外で、足音が、遠ざかっていった。
重い、大地を踏み鳴らすような足音が。
だんだん、小さくなって、やがて、聞こえなくなった。
レイは、ペンを、止めなかった。
書いていた。
窓の外で、城門が、閉まった音が、聞こえた。
重い鉄の、閉じる音が。
レイは、ペンを、止めた。
窓の外を、見た。
朝だった。
城門の外に、誰も、いなかった。
両手剣を背負った、武骨な影は、もう、見えなかった。
レイは、窓から、目を離した。
机を見た。
記録帳が、あった。
ペンが、あった。
二万三千人分の、今日の記録が、あった。
他には、何も、なかった。
誰も、いなかった。
エランナが、いない。
テルトイアが、いない。
グランが、いない。
誰も、いない。
二万三千人の城で、レイ・アルマートは、一人だった。
本当に、一人だった。
レイは、机に、手をついた。
指が、白くなるほど、握りしめた。
長い間、そうしていた。
それから、ペンを、握った。
記録帳を、開いた。
二万三千人分の、今日の配給量を、計算し始めた。
ペンが、走った。
止まらなかった。
止まれなかった。
止まれば、二万三千人が、飢える。
窓の外で、風が、吹いていた。
誰も、管理していない風だった。
銀色の髪も、薬草の匂いも、両手剣の影も、運んでこない風だった。
ただ、冷たい、何の意味もない風だった。
その風が、城の壁を、叩いていた。
何の意味もなく。
何の記録にも、残らず。
ただ、吹いていた。
レイは、書き続けた。
二万三千人分の、明日を。
一人で。
止まらなかった。
止まれなかった。
止まれば、二万三千人が、飢える。
止まれば、誰も、いなくなる。
いや、もう、誰も、いない。
止まっても、誰も、来ない。
だが、止まらなかった。
止まれなかった。
ペンが、走った。
二万三千一行目。
二万三千二行目。
二万三千三行目。
止まらなかった。
止まれなかった。
窓の外で、風が、吹いていた。
誰も、いない城の上を、風が、吹いていた。
第九章 了
■第十章 大粛清
結界は、夜明け前に、張られた。
第七居住区、三千二百人。
エランナが設計し、レイが完成させた、魔導結界の最終形態。居住区の周囲一里を、半球状に覆う、不可視の壁。物理的な破壊は不可能。魔素の透過を完全に遮断。内部からの通信を遮断。外部からの物資の搬入を遮断。
配給の停止。水の停止。魔素の停止。
すべてが、止まる。
結界が張られたのは、午前三時だった。三千二百人が、眠っている間に。誰も、気づかなかった。気づいた時には、もう、壁の中にいた。
レイは、執務室の窓から、それを見ていた。
眼下に、第七居住区が、ある。三千二百人が、眠っている。同じ規格の寝台で。同じ毛布の下で。同じ沈黙の中で。
その周囲を、見えない壁が、覆っている。
レイは、記録帳を開いた。
ペンを握った。
第七居住区、魔導結界による封鎖、実施。時刻:午前三時十七分。対象人口:三千二百人。封鎖理由:段階三・組織的反乱計画の検知。対応策:黒表紙記録帳、最終頁に基づく。
書き終えた。
ペンを置いた。
窓の外を見た。
第七居住区は、静かだった。三千二百人が、眠っている。
まだ、誰も、知らない。
まだ、誰も、叫んでいない。
まだ、誰も、死んでいない。
レイは、記録帳を閉じた。
椅子に、もたれた。
目を、閉じた。
開いた。
記録帳を、また、開いた。
二万三千人分の、今日の配給量を、計算した。
三千二百人を、引いた。
一万九千八百人分。
ペンが、走った。
止まらなかった。
一日目
朝の鐘が、鳴らなかった。
第七居住区の居住者たちが、寝台から起きた時、最初の異変に気づいたのは、配給の鐘が鳴らなかったことだった。
毎朝、同じ時刻に鳴る、金属を叩く乾いた音。二年間、一度も欠かさなかった音が、今日は、ない。
居住者たちが、廊下に出た。配給所に、向かった。
配給所は、閉まっていた。
長机が、ない。配給係の兵が、いない。パンが、ない。水が、ない。
代わりに、居住区の外周に、見えない壁が、あった。
最初に壁に触れたのは、農耕班の男だった。朝の畑に向かおうとして、居住区の境界で、何かに、ぶつかった。
見えない。だが、触れると、硬い。冷たい。指先が、弾かれる。
「……何だ、これは」
男が、壁を、叩いた。
音が、しない。
壁は、音を、吸う。
叫んでも、届かない。叩いても、響かない。
一時間後、三千二百人の全員が、気づいた。
閉じ込められている。
配給所の前に、人が、集まった。三百人。五百人。千人。
叫び声が、上がった。
「何だ、これは!」
「配給は! パンは!」
「管理者に、伝えろ! 何があった!」
声が、壁に、ぶつかった。
吸われた。
届かなかった。
執務室で、レイは、記録帳に、書き込んでいた。
封鎖一日目。午前五時四十二分、第七居住区住民、配給所の閉鎖を確認。午前十時時点で、居住区外周の結界に対し、住民による物理的接触の試み、百四十七回。叫喚、推定三千二百回。外部への通信試み、検知されず(結界により遮断)。
配給停止による影響:現時点で、なし。住民の体内水分・栄養残量から推定、最初の脱水症状は三日目以降に発現する見込み。
ペンが、走った。
止まらなかった。
窓の外で、第七居住区が、見えた。
小さな点々が、壁に、群がっていた。三千二百の点が、見えない壁を、叩いていた。
声が、聞こえなかった。
結界は、音を、吸う。
レイは、窓から、目を離した。
記録帳に、目を戻した。
ペンを、走らせた。
二日目
水が、切れた。
居住区内の井戸は、魔素安定化装置の動力で、水を汲み上げていた。魔素が遮断された今、井戸は、機能しない。
貯水槽に、残っていた水が、二日目の夕刻に、尽きた。
配給所の前に、列が、できていた。配給はない。だが、人々は、並んでいた。並ぶことが、二年間の習慣だった。並べば、何かが出る。パンが出る。水が出る。
何も、出なかった。
列の先頭にいた男が、叫んだ。
「水を出せ! 水だけでも、出せ!」
声が、壁に、ぶつかった。吸われた。
誰も、答えなかった。
執務室の窓から、レイは、それを見ていた。
記録帳に、書き込んだ。
封鎖二日目。貯水槽、枯渇。住民の水分摂取、停止。脱水症状の初期兆候(口渇、倦怠感)が、夕方より発現し始めると推定。
住民の行動:配給所前での集結、継続。叫喚の頻度、増加。物理的な結界破壊の試み、継続。成果なし。
ペンを置いた。
窓の外を見た。
三千二百の点が、まだ、壁を叩いていた。
二日目。まだ、動いている。まだ、叫んでいる。まだ、生きている。
レイは、記録帳を閉じた。
開いた。
二万三千人分の配給量を、計算した。
三千二百人を、引いた。
一万九千八百人分。
ペンが、走った。
止まらなかった。
三日目
最初の脱水死者が、出た。
老人だった。九-一四七二。七十一歳。職能:なし。一ヶ月前、医療室で、テルトイアが熱を下げた老人。テルトイアが去った後、治癒術の適用が「保留」になっていた老人。
貯水槽の水が尽きてから、一日半。老人の体は、水分を失い続けていた。
朝、寝台の上で、冷たくなっていた。
隣の寝台の居住者が、気づいた。揺すった。返事がなかった。
叫んだ。
声が、壁に、ぶつかった。吸われた。
誰も、来なかった。
執務室で、レイは、記録帳に、書き込んでいた。
封鎖三日目。午前六時十二分、第七居住区九-一四七二(男、七十一歳、職能なし)、死亡確認。死因:脱水による臓器不全。封鎖開始後、最初の死者。
ペンを走らせた。
同日午後、脱水症状の住民、推定八百人。うち重症、推定百二十人。水分摂取の手段なし。
ペンを置いた。
窓の外を見た。
第七居住区が、見えた。
三千二百の点が、まだ、動いていた。だが、昨日より、少ない。動かない点が、増えている。
動かない点は、寝台の上か、廊下の隅に、ある。
レイは、記録帳に、目を戻した。
ペンを、握った。
推定:四日目の死者数、十五から二十名。五日目の死者数、五十から八十名。七日目の時点で、累積死者数、五百から八百名に到達する見込み。
数字だった。
ただの、数字だった。
レイは、その数字を、見ていた。
長い間、見ていた。
ペンが、止まった。
止まったまま、動かなかった。
頬が、濡れていた。
計算の誤差。
そう、思った。
手で、拭った。
ペンを、握り直した。
書き続けた。
四日目
叫び声が、変わった。
一日目と二日目は、怒りの叫びだった。「出せ」「開けろ」「何があった」。
三日目と四日目は、懇願に変わった。「水を」「パンを」「子どもがいる」「助けて」。
五日目には、懇願も、減った。
叫ぶ体力が、なくなってきた。
執務室で、レイは、記録帳に、書き込んでいた。
封鎖四日目。累積死者数、四十七名。うち、児童四名。老人十九名。
児童四名。
レイは、その数字を、見ていた。
四つの名前が、記録帳に、並んでいた。
九-二〇一三。女。六歳。職能:未定。
九-二八四一。男。八歳。職能:未定。
九-二九〇七。女。四歳。職能:未定。
九-三一五五。男。七歳。職能:未定。
七歳。
〇四〇のことが、頭を、よぎった。
ガルド领の、第七班の、〇四〇。七歳の女の子。配給所の前で、一人で、パンを食べていた女の子。
〇四〇は、第七居住区には、いない。第三居住区にいる。安全だ。パンは、出ている。
だが、この四人は、第七居住区にいる。
四人の名前を、レイは、書いていた。
書いて、書いて、書いていた。
ペンが、止まらなかった。
止まれなかった。
止まれば、一万九千八百人が、飢える。
五日目
反乱の計画者だった二十三人のうち、五人が、投降した。
結界の壁に、這い寄って、叫んだ。
「降伏する! 計画を放棄する! 開けてくれ! 水が、ない! 子どもが、死んでいる!」
声が、壁に、ぶつかった。
吸われた。
届かなかった。
レイは、執務室の窓から、それを見ていた。
五人の点が、壁に、這い寄っていた。他の三千二百の点は、動かない。動けない。
レイは、記録帳に、書き込んだ。
封鎖五日目。反乱計画の首謀者二十三名のうち、五名が投降の意思を表明。しかし、投降の条件は「全住民の封鎖解除」であり、段階三対応策の解除条件(反乱計画の完全放棄、および、首謀者全員の自発的投降)を満たさない。
封鎖、継続。
ペンを置いた。
窓の外を見た。
五人の点が、壁に、這い寄っていた。
届かなかった。
レイは、記録帳を閉じた。
開いた。
一万九千八百人分の、今日の配給量を、計算した。
ペンが、走った。
止まらなかった。
六日目
死体が、廊下に、並び始めた。
居住者たちは、死体を、運ぶ体力が、なかった。寝台から、廊下に、引きずり出すのが、精一杯だった。
廊下に、死体が、並んでいた。
子どもが、死体の横を、歩いていた。泣いていた。泣く体力が、まだ、あった。
老人が、死体の横で、座り込んでいた。動く体力が、もう、なかった。
配給所の前の広場に、死体が、積み上がり始めていた。
誰かが、火を、つけた。
死体を、焼くために。
煙が、上がった。
結界の中で、煙が、渦を巻いた。外に、出ない。壁が、煙も、吸う。
居住区の中に、煙が、充満した。
咳が、聞こえた。
届かなかった。
執務室の窓から、煙が、見えた。
第七居住区の上を、黒い煙が、覆っていた。結界の中で、渦を巻いていた。
レイは、煙を、見ていた。
記録帳に、書き込んだ。
封鎖六日目。累積死者数、六百二十三名。居住区内において、遺体の処理能力が限界に達する。住民による遺体の焼却が開始される。結界内での焼却により、居住区内の空気質が低下。呼吸器系への影響、推定。
ペンを置いた。
窓の外を、見ていた。
煙が、渦を巻いていた。
三千二百の点が、もう、ほとんど、動いていなかった。
動いている点は、壁に、這い寄っていた。
動かない点は、廊下に、並んでいた。
レイは、窓から、目を離した。
記録帳に、目を戻した。
ペンを、握った。
書き続けた。
七日目
反乱の計画者だった二十三人のうち、十八人が、死んだ。
五人は、投降した。だが、封鎖は、解除されなかった。
残りの十八人は、投降しなかった。あるいは、投降する体力が、なかった。
十八人の死体が、廊下に、並んでいた。
他の三千百五十九人の死体と、一緒に。
区別は、なかった。
反乱を計画した者も、計画しなかった者も、同じ廊下に、同じ姿勢で、並んでいた。
死は、公平だった。
レイが、与えた最後の公平だった。
執務室で、レイは、記録帳に、書き込んでいた。
封鎖七日目。累積死者数、千五百四十二名。生存者数、千六百五十八名。反乱首謀者二十三名のうち、生存者、五名(投降済み)。
生存者の状態:重度脱水、栄養失調、呼吸器障害。自力での歩行が困難な個体、推定九百名。
ペンを置いた。
窓の外を見た。
第七居住区が、見えた。
煙が、まだ、渦を巻いていた。
動いている点は、もう、ほとんど、なかった。
壁に、這い寄っている点も、もう、なかった。
ただ、動かない点が、廊下に、並んでいた。
千五百四十二の、動かない点。
レイは、窓から、目を離した。
記録帳に、目を戻した。
ペンを、握った。
推定:十日目までに、全住民の死亡、あるいは、完全な戦闘能力の喪失を確認できる見込み。
書き終えた。
ペンを置いた。
頬が、濡れていた。
拭わなかった。
今日は、拭わなかった。
書く手が、止まらなかった。
九日目
結界の中で、最後の叫び声が、聞こえた。
聞こえた、というのは、比喩だった。実際には、聞こえなかった。結界は、音を、吸う。
だが、レイには、分かった。
窓の外に、一つの点が、壁に、這い寄っていた。
他の三千百九十九の点は、動かなかった。
一つの点だけが、動いていた。
壁に、手を、当てていた。
何かを、叫んでいた。
届かなかった。
レイは、その点を、見ていた。
長い間、見ていた。
点が、壁から、手を離した。
崩れた。
廊下に、倒れた。
動かなくなった。
レイは、窓から、目を離した。
記録帳に、目を戻した。
ペンを、握った。
封鎖九日目。累積死者数、三千百九十七名。生存者数、三名。三名は、重度脱水により、自力での行動が不可能。
反乱首謀者二十三名:全員、死亡、または、投降済み。組織的反乱計画、完全に瓦解。
ペンを置いた。
窓の外を見た。
第七居住区は、静かだった。
完璧に、静かだった。
誰も、叫んでいない。
誰も、壁を叩いていない。
誰も、歩いていない。
ただ、煙が、まだ、かすかに、渦を巻いていた。
レイは、記録帳を閉じた。
開いた。
一万九千八百人分の、今日の配給量を、計算した。
ペンが、走った。
止まらなかった。
十日目
結界を、解除した。
午前三時。張った時と、同じ時刻に。
壁が、消えた。
第七居住区に、風が、入った。
十日ぶりの、外の風だった。
煙が、流れた。
匂いが、流れた。
城の執務室まで、匂いが、届いた。
腐肉の匂いだった。
三千二百人分の、腐肉の匂い。
レイは、窓を、開けた。
風が、入った。
匂いが、入った。
レイは、その匂いを、吸った。
吐かなかった。
記録帳を開いた。
ペンを握った。
封鎖十日目。午前三時、魔導結界、解除。第七居住区、全住民の死亡を確認。累積死者数、三千二百名。生存者、なし。
反乱計画、完全に排除。段階三対応策、完了。
他八居住区への通告:本日正午、全居住区に対し、第七居住区の処置内容を公示する。公示内容:「反乱の計画は、居住区全員の配給停止をもって罰する」。
ペンを置いた。
窓の外を見た。
第七居住区が、見えた。
動かない点が、三千二百、廊下に、並んでいた。
煙が、もう、なかった。
風が、流れていた。
静かだった。
完璧に、静かだった。
レイは、窓を、閉めた。
匂いが、消えた。
記録帳を、閉じた。
椅子に、もたれた。
目を、閉じた。
開いた。
記録帳を、また、開いた。
明日の配給量を、計算した。
一万九千八百人分。
ペンが、走った。
止まらなかった。
止まれなかった。
止まれば、一万九千八百人が、飢える。
その日の正午、八つの居住区に、通告が、出された。
黒鉄の兜の兵が、各居住区の配給所の前に、立ち、同じ文を、読み上げた。
「第七居住区において、段階三の反乱計画が検知された。対応策として、魔導結界による封鎖、配給の停止が実施された。結果、全住民三千二百名が、死亡した。今後、同様の反乱計画が検知された場合、同じ処置が、適用される。以上」
八つの居住区で、一万九千八百人が、それを、聞いた。
誰も、声を出さなかった。
誰も、叫ばなかった。
誰も、怒らなかった。
ただ、聞いていた。
聞いて、配給の列に、戻った。
同じ順番で。同じ速度で。同じ沈黙で。
パンを、受け取った。
同じ量で。同じ焼き色で。
食べて、歩いて、眠った。
誰も、笑わなかった。
誰も、怒らなかった。
誰も、歌を歌わなかった。
静かだった。
完璧に、静かだった。
その夜、レイは、執務室で、一人、座っていた。
記録帳が、机の上に、積まれていた。
二万三千人分の、十日間の記録。
三千二百人分の、死亡記録。
全部、レイが、書いた。
一人残らず。
名前も。番号も。年齢も。死因も。
三千二百行。
全部、書いた。
レイは、記録帳を、閉じた。
窓の外を、見た。
夜だった。星が出ていた。
第七居住区が、闇の中に、あった。
動かない点が、三千二百、闇の中に、並んでいた。
見えない。だが、レイには、分かった。
三千二百の死体が、まだ、廊下に、並んでいる。
回収は、明日だ。今日は、もう、体力が、ない。
レイは、窓から、目を離した。
机の上に、黒い表紙の記録帳が、あった。
開いた。
最後の頁に、一行だけ、書いてあった。
対象居住区を、魔導結界にて完全封鎖。魔素供給を遮断。配給を停止。反乱計画の放棄、または、対象個体の自発的投降を確認するまで、封鎖を継続する。
レイは、その一行を、見ていた。
長い間、見ていた。
それから、ペンを握った。
その下に、一行、書き加えた。
完了。
二文字。
それだけだった。
レイは、ペンを置いた。
記録帳を、閉じた。
引き出しに、しまった。
鍵を、かけた。
椅子に、もたれた。
目を、閉じた。
頬が、濡れていた。
拭わなかった。
今日は、拭わなかった。
三日間、拭っていなかった。
涙が、頬を伝い、顎から、落ちた。
机の上に、落ちた。
記録帳の上に、落ちた。
染みが、できた。
レイは、目を、開けた。
染みを、見ていた。
長い間、見ていた。
それから、袖で、拭った。
記録帳の染みが、薄くなった。
消えなかった。
レイは、記録帳を、開いた。
ペンを、握った。
明日の配給量を、計算した。
一万九千八百人分。
ペンが、走った。
止まらなかった。
止まれなかった。
止まれば、一万九千八百人が、飢える。
窓の外で、風が、吹いていた。
第七居住区の上を、風が、吹いていた。
三千二百の死体の上を、風が、吹いていた。
誰も、管理していない風だった。
何の意味もない風だった。
ただ、吹いていた。
レイは、書き続けた。
止まらなかった。
止まれなかった。
止まれば、誰も、いなくなる。
いや、もう、誰も、いない。
だが、止まらなかった。
ペンが、走った。
一万九千八百一行目。
一万九千八百二行目。
一万九千八百三行目。
止まらなかった。
止まれなかった。
窓の外で、星が、冷たく光っていた。
三千二百の沈黙の上に、等しく、光っていた。
第十章 了
■第十一章 最後の剣、最初の沈黙
北大陸の空が、燃えていた。
帝都アルマートの城壁から三十里。かつて「義勇軍の四英雄」と呼ばれた者たちが、最後に肩を並べて戦った平原――名を「灰の野」と呼ぶその大地に、二万の兵が対峙していた。
一方は、黒鉄の仮面を被った無音の軍団。『黒鉄の執行秩序』。感情も、怒号も、士気を高める太鼓の音もない。ただ、風の中に鉄の擦れる音だけが、規則正しく脈打っていた。
もう一方は、色褪せた旗を掲げた反乱軍。『不滅の牙』。グラン・バグットを盟主に戴き、かつてレイと共に戦った古参兵、武人の誇りを捨てられなかった戦士たち、そして「管理された奴隷として生きるくらいなら、誇り高く死にたい」と願う者たちの集まりだった。
二万対二万。
だが、この戦いの本質は、数ではなかった。
「総帥。敵本陣、確認。先鋒にグラン・バグット本人が立っています」
黒鉄の仮面の奥から、副官の声が感情なく響く。
レイ・アルマートは玉座代わりの指揮台に腰を下ろしたまま、目を閉じていた。その膝の上には、一本の剣。鞘に収められたままの、魔法剣。
「……そうか」
それだけだった。
怒りも、悲しみも、躊躇いも、その声にはなかった。ただ、確認事項を一つ処理したかのような、乾いた響き。
副官が次の命令を待っている。レイは目を開いた。灰色の瞳が、戦場の向こうに立つ一人の男の姿を捉える。
グラン・バグット。
十年前、盗賊の砦を共に落とした。飢えた子供に自分の干し肉を分け与え、笑いながら「俺が食わなきゃ俺の腹が鳴るだけだが、こいつが食わなきゃ明日が来ない」と言った男。
エランナが去った夜、黙って酒を差し出してくれた男。
テルトイアが地下に潜った朝、「俺は残る」とだけ言って、レイの隣に立ち続けた男。
その男が、今、剣を抜いてこちらを見ている。
「……全軍、停止」
レイが言った。
副官が訝しむ。「総帥?」
「全軍、その場に停止せよ。一歩も動くな。矢も放つな」
沈黙。
黒鉄の軍団が、機械のように動きを止めた。二万の兵が、一瞬で石像と化す。
レイが指揮台から降りた。
「総帥、まさか——」
「俺が行く」
腰の剣を、鞘ごと引き抜く。
「グランが望んでいるのは、俺の首だ。軍勢ではない。……俺が、行く」
副官が何かを言いかけて、やめた。黒鉄の仮面の奥で、唇を噛んだのかもしれなかった。
レイは一人で、灰の野を歩き始めた。
二万の沈黙の中を、一人の男が歩く。
黒い外套。銀の髪。腰に一振りの剣。それだけだった。魔法も、鎧も、軍勢もない。ただ、レイ・アルマートという一人の人間が、敵陣に向かって歩いていた。
『不滅の牙』の兵士たちがざわめく。
「……魔王が、一人で?」
「罠か? 魔導の仕掛けか?」
「いや……違う。本当に、一人だ」
グラン・バグットが、陣の最前列から一歩踏み出した。
「下がれ」
「大将!」
「下がれと言った。これは俺の戦いだ。……十年の、決着だ」
グランが剣を抜いた。その刃は、かつてレイが鍛冶師に特注して贈ったものだった。『お前の剣筋には、この重さが合う』と、笑いながら渡した日のことを、レイは覚えていた。
二人が、二十歩の距離で向かい合った。
風が止んだ。
「レイ」
グランが呼んだ。魔王でも、総帥でもなく、名で。
「お前を止める」
レイは答えなかった。ただ、鞘に手をかけた。
「エランナが去った時、俺は思った。あいつは弱いから逃げたんだと。テルトイアが潜った時、あいつは優しいから壊れたんだと。……だが、俺は残った。お前の隣に。お前が何をしても、俺が剣であり続けようと」
グランの声が、震えていた。
「だが、あの街を……セレンの街を、住民ごと結界で閉じた時。三万の人間を、魔素を断って、じわじわと……」
言葉が途切れた。
「あれは、俺の知ってるレイじゃなかった」
レイが、初めて口を開いた。
「グラン」
静かな声だった。
「お前が俺をどう呼ぼうと構わない。魔王でも、怪物でも。だが一つだけ、訂正させてくれ」
鞘から、剣が抜かれた。
魔法剣の刃が、夕陽を吸い込んで、血の色に光る。
「セレンの結界は、三万ではない。一万二千だ。残りの一万八千は、結界を張る前夜に、南の回廊から避難させた。……お前には、伝えなかったが」
グランの目が、見開かれた。
「……何?」
「お前に伝えれば、お前は止めた。『まだ交渉の余地がある』と。だが、交渉に費やす三日で、魔素暴走の波及は周辺の四都市に及んでいた。計算した。一万二千を犠牲にするか、十四万を失うか。……それだけだ」
「それだけ、だと?」
グランの剣が、怒りに震えた。
「一万二千の命を、『それだけ』で片付けるな!」
「片付けてはいない」
レイの声に、初めて、ほんのわずかな亀裂が走った。
「一人の名も、顔も、戸籍番号も、すべて覚えている。俺の頭の中に、一万二千の墓がある。……だが、それで手が止まるなら、俺は最初からこの剣を握るべきではなかった」
沈黙。
グランが、剣を構え直した。涙が、頬を伝っていた。
「……そうか。なら、もう言葉はいらねえ」
「ああ」
「お前を止める。レイ・アルマート。……お前を、魔王にしてしまった俺の責任だ」
レイが、わずかに目を細めた。
「……責任、か」
その言葉が、刃よりも深く胸を刺したのかもしれなかった。だが、表情は変わらなかった。
「来い、グラン」
剣が、交わった。
魔法剣と剛剣。十年前、盗賊の砦で背中を預け合った二人が、今度は正面から刃を合わせる。
グランの剣は、嵐だった。一撃ごとに大地が割れ、空気が悲鳴を上げる。武人の誇りそのもののような、真っ直ぐで、重く、熱い剣。
レイの剣は、氷だった。
最小の動きで、最大の破壊を。グランの剣筋を、呼吸を、重心の移動を、すべて「データ」として処理し、一合ごとに完璧に、冷徹に、刃を返す。
かつて背中を預け合ったからこそ、互いのすべてを知っている。
グランが右肩を沈めれば、レイは既に左に体をずらしている。レイが魔力を剣に纏えば、グランは半拍前に間合いを詰めている。
十合。二十合。三十合。
互いに一歩も退かない。
だが、三十五合目で、グランの剣がわずかに鈍った。
年齢ではない。迷いだ。
斬り込みながら、グランの目が、レイの顔を見ていた。魔王の顔ではなく、十年前に干し肉を分け合った、あの青年の面影を探していた。
その一瞬の躊躇を、レイは見逃さなかった。
見逃さなかったのではない。
――計算していた。
グランが、この瞬間に躊躇うことを。十年前から、変わらない男だということも。
魔法剣が、グランの胸甲の隙間を貫いた。
音が、消えた。
二万の兵が、息を呑んだ。
グラン・バグットが、膝をついた。胸から、刃が生えている。口から、血が零れた。
レイが、剣を引き抜いた。
血が、灰の野の土を濡らす。
グランが、倒れかけた。
レイは、抱き抱えなかった。
ただ、見下ろしていた。
「……グラン」
「……はっ」
グランが、血を吐きながら、笑った。
「……見事な、剣だった」
レイの目が、わずかに揺れた。
「お前の正義では、明日の朝、飢え死にする子供一人すら救えない。お前の言う誇りなど、この混沌の世界では、ただの贅沢品だ」
「……知ってるよ」
グランが、空を見上げた。夕陽が、その瞳に映っていた。
「……だが、贅沢品がなきゃ、人は……生きてるって言えねえだろ……」
レイが、何も言えなくなった。
「レイ」
「……何だ」
「俺を、殺したことを……計算に入れるな。……俺は、お前のシステムの、歯車じゃない。……俺は、お前の……」
言葉が、途切れた。
グラン・バグットの瞳から、光が消えた。
灰の野に、風が戻った。
レイは、剣を鞘に収めた。
手を、振るわなかった。声を、上げなかった。ただ、その場に三秒だけ立ち尽くし、そして踵を返した。
『不滅の牙』の二万の兵が、武器を捨てていた。
盟主を失った軍は、もはや軍ではなかった。跪く者、泣き叫ぶ者、呆然と空を見る者。黒鉄の軍団が、無音のまま前進し、彼らを「処理」していく。
レイは、振り返らなかった。
振り返れば、グランの顔が、また見えるから。
「……総帥」
副官が、背後から声をかけた。
「敵本陣、制圧完了。グラン・バグットの遺体の処遇を、如何致しましょう」
レイは、歩を止めなかった。
「……丁重に葬れ。軍人として。名を刻め。『不滅の牙・盟主、グラン・バグット。帝国に叛逆し、討死』と」
「……畏まりました」
副官が、一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「総帥。……お辛くは、ありませんか」
レイが、足を止めた。
振り返らない。背を向けたまま、夕陽に向かって歩く影が、ひどく細く見えた。
「……辛いと感じる器官は、十年前に摘出した」
嘘だった。
副官には、それが嘘だと分かった。だが、何も言わなかった。黒鉄の仮面の奥で、目を伏せた。
レイは、再び歩き出した。
その夜。
帝都アルマートの最深部。監視網の中枢である「玉座の間」に、レイ・アルマートは一人で座っていた。
壁一面に浮かぶ魔導の光が、大陸全土の戸籍データ、魔素安定化装置の稼働状況、配給の物流経路を、冷たい青色で映し出している。
エランナは、三年前に封印した。
テルトイアは、一年前に地下都市ごと包囲し、降伏させた。
そして今日、グランが死んだ。
三人が、いなくなった。
レイは、玉座の肘掛けに手を置いた。指先が、白くなるほど握りしめていた。
「……静かだ」
誰に言うでもなく、呟いた。
「誰も、文句を言わない。誰も、俺を名前で呼ばない。……静かだ」
魔導の光が、青く、青く、部屋を照らしている。
レイは、目を閉じた。
瞼の裏に、干し肉を分け合うグランがいた。酒を差し出すグランがいた。「俺は残る」と言ったグランがいた。
そして最後に、血を吐きながら笑ったグランがいた。
『……贅沢品がなきゃ、人は……生きてるって言えねえだろ……』
レイは、目を開けた。
光が、消えた。
「……ああ。贅沢品だ」
自分の胸に、手を当てた。
「だから、俺には要らない。俺は、生きていなくていい。……この檻が、完成するまで」
玉座の間から、人の気配が完全に消えた。
残ったのは、魔導の光と、無数のデータと、一つの呼吸だけ。
翌朝。
帝都の広場に、布告が掲げられた。
『北大陸全土の武力勢力は、これをもって完全に平定された。
本日より、帝国憲章第一条を発布する。
全人類に戸籍番号を付与する。
全人類に配給権を保障する。
全人類から、飢餓と戦争と疫病を、永久に剥奪する。
――帝国建国者、レイ・アルマート』
民は、歓喜しなかった。
恐怖も、しなかった。
ただ、黙って、その布告を見ていた。
自由は、なかった。
だが、明日のパンは、確かにあった。
その日の黄昏。
灰の野に、一つの墓が建てられた。
黒鉄の軍団が、総帥の命令通り、軍人として丁重に葬った。
墓碑には、こう刻まれていた。
『不滅の牙・盟主、グラン・バグット。帝国に叛逆し、討死。享年四十三』
その下に、もう一行。
軍団の誰かが、命令にはない言葉を、小さく刻んでいた。
『――見事な剣だった』
風が吹いた。
灰の野の草が、揺れた。
誰もいない平原で、ただ風だけが、その墓碑を撫でていた。
第十一章 了
■第十二章 檻の中の静寂
帝国暦七年。秋。
帝都アルマートの朝は、鐘の音で始まる。
だが、その鐘は信仰を告げるものではない。午前六時。配給所の扉が開く合図であり、同時に全区画の魔素安定化装置が夜間維持モードから稼働モードへ切り替わる信号だった。
鐘が鳴る。
人々は起きる。
戸籍番号の刻まれた鉄札を胸に下げ、指定された時刻に、指定された列に並び、指定されたカロリーの配給を受け取る。
パン。魔石で温めたスープ。週に二度、乾燥肉。
誰も飢えない。誰も奪い合わない。誰も、列に割り込まない。
割り込めば、黒鉄の仮面が来る。問答はない。裁判もない。ただ、戸籍番号が「一時停止」になり、三日間、配給が止まる。四度目は「抹消」だ。
抹消された者は、存在しなかったことになる。
それが、帝国の法だった。
帝都の地下深く。
「玉座の間」と呼ばれる空間に、レイ・アルマートは座っていた。
七年。
七年前にこの椅子に座った時、彼の髪はまだ銀にわずかな黒を残していた。今は、完全に白かった。顔には、剣の傷ではなく、眠らぬ夜が刻んだ深い溝がある。
壁一面を覆う魔導の光。
大陸全土、四十七都市、三百十二の村落。総人口、一千九百四十二万六千三百七。本日の配給消費量。魔素安定化装置の稼働率。出生数。死亡数。犯罪発生件数――本日、零。
零。
今日も、零だった。
七年間、ほぼ毎日、零だ。
レイは、その数字を眺めていた。表情はない。満足も、安堵も、誇りもない。ただ、数字が数字であることを確認する、機械のような目光。
「総帥」
副官が、黒鉄の仮面の奥から声をかけた。七年前、灰の野でグランの遺体の処遇を問いかけた男だった。名を、カインと言った。
「第七区画にて、戸籍番号の重複が一件発見されました。旧時代の混乱期に生まれた双子の片割れが、死亡記録なしに生存していた模様です」
「処理は」
「重複した番号の片方を抹消し、生存していた個体に新規番号を再発行。配給記録は過去七年分を遡及修正。該当者の家族には、記憶修正の魔導処置を——」
「待て」
レイが言った。
カインが、言葉を止めた。
レイは、目を閉じた。三秒。五秒。十秒。
「……その個体は、何歳だ」
「は?」
「年齢を聞いている」
「……十九と記録されております」
レイが、目を開けた。
「十九。……七年間、戸籍の外で生きていた」
「はい。配給を受けず、監視網にも掛からず。第七区画の廃魔導管の中で、野良の鼠や雨水で……」
「生存していたのか」
「……はい。本日まで」
沈黙。
レイは、指先で玉座の肘掛けを、一度だけ叩いた。
「新規番号を発行しろ。遡及修正もだ。だが、記憶修正はするな」
カインが、仮面の奥で目を見開いた。
「総帥。記憶修正を行わねば、当該個体が『戸籍の外で七年間生存していた事実』を他者に伝播する危険が——」
「知っている」
レイの声は、変わらなかった。
「だが、十九年間を、なかったことにするな。……それは、俺の計算の誤差だ。俺の網から漏れた命だ。漏れたこと自体は、俺の設計の瑕疵であって、あいつの罪ではない」
カインが、息を呑んだ。
「……畏まりました」
副官が退室する。
玉座の間に、再び、魔導の光だけが灯る。
レイは、自分の手を眺めた。
細い。七年前より、明らかに細い。剣を振るう手ではない。もう、何年も、剣を抜いていない。
「……計算の誤差、か」
呟いた。
十九年間、檻の外で生きていた人間がいた。自分の作った完璧なシステムから、一人だけ、零れ落ちていた。
本来なら、許されない瑕疵だ。システムの完全性を損なう穴だ。
だが、レイは、その穴を塞ぐ代わりに、その穴を「存在した」と認めた。
なぜか。
自分でも、わからなかった。
わからなかったことが、わからなかった。
正午。
帝都の中央広場に、レイ・アルマートの姿があった。
民の前に姿を見せるのは、年に一度。帝国憲章の発布を記念する「秩序の日」だけだった。
広場を埋める民衆は、歓声を上げない。
手を振らない。花を投げない。
ただ、跪いている。
一万、二万、三万の民が、石畳に額を擦りつけて、動かない。
恐怖ではない。敬意でもない。
「そうするように」と法に定められているからだ。
レイは、壇上に立ち、民の頭頂を見下ろした。
黒い外套。白い髪。腰には剣を佩いているが、もう何年も抜いていない。飾りだ。象徴だ。「この剣が、お前たちの自由を奪った」という、視覚的な記号。
「帝国暦七年。秩序の日に、総帥レイ・アルマートより通達する」
声が、魔導の増幅器を通じて、広場全体に響く。
「本年、犯罪発生件数は全土で三件。すべて即時鎮圧。餓死者は零。疫病の発生は零。戦争は、存在しない」
民は、動かない。
「来年も、同じ数字を維持する。そのための法改正を三件、来月施行する。詳細は各区画の配給所にて掲示する。以上だ」
それだけだった。
祝辞もない。民への労いもない。「よく生きている」とも、「ありがとう」とも言わない。
ただ、数字を読み上げて、去る。
レイが壇上を降りる時、一人の老婆が、跪いたまま、声を上げた。
「……総帥様」
黒鉄の近衛が、即座に動こうとする。レイが、手で制した。
「……何だ」
老婆が、震える声で言った。
「わしの孫が……去年、配給を三度受け損ねて……戸籍を一時停止されまして……」
「法に従った処理だ」
「はい。……ですが、その子は、足が不自由で、配給所の列に並ぶのに、人の三倍の時間がかかるのでございます。だから、三度、間に合わなかった。……怠慢では、ございません」
沈黙。
レイは、老婆を見下ろした。
「……戸籍番号は」
「は、七四〇九三——」
「カイン」
背後の副官が、一歩前に出る。
「当該番号の一時停止記録を精査しろ。身体障害による配給遅延の事例に該当する場合、法第七条第四項の例外条項を適用し、停止期間を無効化。配給を遡及支給せよ」
「畏まりました」
老婆が、額を石畳に擦りつけた。
「……ありがたき、幸せに……」
レイは、何も言わなかった。
踵を返し、広場を去った。
背後で、老婆が泣いている声がした。感謝か、安堵か、あるいは恐怖か。レイには、わからなかった。
わからなかったが、歩く速度は変わらなかった。
夜。
玉座の間。
レイは、一人だった。
魔導の光が、青く、部屋を照らしている。四十七都市の戸籍データが、川のように流れていく。一千九百四十二万の命が、数字になって、レイの目の前を過ぎ去っていく。
レイは、机の上に、三つの品を並べていた。
一つ。小さな革袋。中身は、干し肉。十年前にグランが「お前の分も取っといた」と渡してくれたもの。もう、中身は食べられない。革だけが、形を保っている。
一つ。割れた魔導石。エランナが、去る日の朝、レイの机に置いていったもの。「あなたの監視網の基盤回路よ。壊したかったけど、壊せなかった。……私が作ったものだから」と言い残した。
一つ。古びた包帯。テルトイアが、まだ四人で戦っていた頃、レイの腕の傷を巻いたもの。洗って、洗って、何年も引き出しに入れてあった。
三つ。
三人。
レイは、それを眺めていた。
表情は、なかった。
だが、指先が、革袋の紐を、何度も、何度も、なぞっていた。
「……静かだ」
七年前と同じ言葉を、呟いた。
「誰も、文句を言わない。誰も、俺を名前で呼ばない。……静かだ」
魔導の光が、流れている。
一千九百四十二万の命が、今日も、明日も、飢えず、殺し合わず、病に倒れず、静かに、静かに、生きている。
それが、レイ・アルマートの作った世界だった。
完璧だった。
完璧で、誰一人として、幸福ではなかった。
レイ自身を含めて。
深夜。
レイは、玉座を離れた。
廊下を歩く。黒鉄の近衛が、影のように付いてくる。レイが手で制した。
「来るな」
「しかし、総帥——」
「来るなと言った」
近衛が、止まった。
レイは、一人で、帝都の地下通路を歩いた。
魔導の灯りが、等間隔に並んでいる。壁には、戸籍管理の魔導回路が、血管のように走っている。この都市の、この大陸の、すべての命が、この回路の中を流れている。
レイが、作った檻。
レイが、作った天国。
歩き続けて、辿り着いたのは、帝都の最下層。
そこに、一つの部屋があった。
扉を開ける。
小さな部屋だった。机が一つ。椅子が一つ。窓はない。壁に、一枚の絵が掛かっている。
絵には、四人が描かれていた。
若い男が三人と、女が一人。
剣を担いだ大柄な男が、笑っている。魔導書を抱えた女が、呆れた顔をしている。包帯を巻いた痩身の男が、苦笑している。そして、中央に、銀髪の青年が、少しだけ、ぎこちなく微笑んでいる。
レイが、まだ、レイだった頃の絵だった。
誰が描いたか、覚えていない。エランナかもしれない。テルトイアかもしれない。グランが「おい、みんなで一枚描こうぜ」と言い出したのかもしれない。
覚えていない。
だが、この部屋だけは、監視網から外してある。
帝都の全域を覆う魔導ネットワークの中で、唯一、レイ・アルマートの存在が記録されない場所。
唯一、彼が「総帥」ではなく、「レイ」でいられる場所。
レイは、椅子に座った。
絵を、見た。
グランが、笑っている。
「……贅沢品がなきゃ、人は、生きてるって言えねえだろ」
あの声が、聞こえた気がした。
レイは、目を閉じた。
「……ああ。そうだな」
誰に言うでもなく。
「だから、俺は、生きていない」
目を開けた。
涙は、なかった。
七年前から、涙は出ない。出る器官が、もう、残っていないのかもしれなかった。
レイは、立ち上がった。
絵に、背を向けた。
扉を開け、廊下に出た。
黒鉄の近衛が、待っていた。
「総帥。お戻りですか」
「……ああ」
玉座の間へ、戻った。
魔導の光が、青く、流れている。
一千九百四十二万の命が、眠っている。
レイ・アルマートは、眠らなかった。
翌朝。
帝都の配給所に、一枚の掲示が貼られた。
『法第七条第四項、例外条項の適用範囲を拡大する。
身体障害、高齢、幼齢による配給遅延は、戸籍停止の対象としない。
該当者は、各区画の管理窓口にて、配給時刻の個別調整を申請せよ。
――帝国総帥府』
民は、それを読んだ。
誰も、喜ばなかった。
「総帥が、慈悲を見せた」とも思わなかった。
ただ、「法が、少しだけ、変わった」と理解した。
列に並ぶ。配給を受ける。パンを食べる。
明日も、同じことをする。
それが、帝国の日常だった。
その日の黄昏。
灰の野の墓に、風が吹いていた。
『不滅の牙・盟主、グラン・バグット。帝国に叛逆し、討死。享年四十三』
その下に、小さく。
『――見事な剣だった』
墓の前に、誰かが来ていた。
黒い外套。白い髪。
レイ・アルマートは、墓の前に立っていた。
花は、なかった。酒も、なかった。
ただ、立っていた。
「……グラン」
風が、草を揺らした。
「今日、一人の人間の戸籍を、戻した。十九年、檻の外にいた人間だ。……俺の計算の、誤差だ」
返事はない。
「お前なら、何と言う。『当然だ』と言うか。『遅い』と言うか。……それとも、何も言わずに、ただ笑うか」
風が、吹いた。
「……俺には、わからん。もう、わからん」
レイは、墓石に、手を触れた。
冷たい石だった。
「エランナの魔導回路は、今も帝都の壁を走っている。テルトイアの兵站理論は、形を変えて配給システムの基幹になっている。お前の剣は……俺の腰にある。もう、抜かないが」
三人が、いなくなった。
だが、三人が作ったものは、すべて、この檻の中に生きている。
「……お前たちは、死んでも、俺の中にいる。俺が、お前たちを殺したのに。……お前たちは、俺の中にいる」
レイは、手を離した。
「……贅沢品だ。これは」
自分の胸を、押さえた。
「贅沢品だから、俺には要らない。……だが、捨てられん」
風が、止んだ。
灰の野に、沈黙が降りた。
レイは、踵を返した。
帝都へ、戻る。
玉座に、座る。
魔導の光を、見る。
一千九百四十二万の命を、見る。
明日も。明後日も。来年も。十年後も。
死ぬまで。
帝都への帰り道。
レイは、一度だけ、振り返った。
墓は、もう、見えなかった。
夕陽が、灰の野を、金色に染めていた。
美しい景色だった。
誰もいない、美しい景色だった。
レイは、歩き続けた。
黒い外套が、風に靡いていた。
その背中は、ひどく、細かった。
第十二章 了
■第十三章 歯車の止まる日
帝国暦二十三年。冬。
帝都アルマートに、雪が降っていた。
配給所の列に並ぶ人々の肩に、白い結晶が積もる。彼らは鉄札を握りしめ、指定された時刻に、指定された場所で、指定された量のパンを受け取る。
誰も、空を見上げない。
雪が美しいと思う者もいるかもしれない。だが、それを口にする者はいない。美しさを共有する言葉が、この帝国では「不要な感情の発露」として、配給記録に微細な減点を生むからだ。
減点ではない。だが、人々はそう「感じている」。
レイ・アルマートが定めた法に、「感情を禁止する」条項はない。
だが、二十三年の歳月が、人々から感情を「自発的に」削り取っていた。
それが、檻の最も恐ろしいところだった。
玉座の間。
レイ・アルマートは、椅子に座っていなかった。
椅子の傍らに、膝をついていた。
「……総帥!」
副官のカインが、駆け寄る。黒鉄の仮面を外している。五十を過ぎた男の顔に、焦りが走っていた。
「お触りになるな……」
レイが、手を上げた。
その手は、骨と皮だった。
二十三年前、灰の野でグランを斬った手は、まだ剣を握る力を保っていた。十年前、配給の法改正を署名した手は、まだ震えなかった。
だが、今は。
指が、開かない。
「……何年だ」
レイが、床に膝をついたまま、呟いた。
「は?」
「俺が、最後に剣を振るってから。何年だ」
カインが、言葉を詰まらせた。
「……十二年、と記録にございます」
「十二年」
レイが、笑った。
笑いではなかった。唇の端が、わずかに歪んだだけだった。
「十二年、剣を抜いていない。……俺は、もう、魔法剣士ではない」
「総帥は、帝国の——」
「帝国の、何だ」
レイが、カインを見た。
灰色の瞳。かつては冷徹な光を宿していたその目に、今は、濁りがあった。
「俺は、何だ。このシステムの中で、俺は、何の機能を担っている」
カインが、答えられなかった。
事実を言えば。
帝国暦二十三年の段階で、レイ・アルマートは、既に「不要」だった。
戸籍管理の魔導回路は、完全に自動化されている。四十七都市、三百十二の村落、一千九百四十二万の民の配給、医療、労働、移動のすべてを、魔導オベリスクのネットワークが処理している。
犯罪発生件数は、十七年連続で零だ。
配給の遅延は、零。餓死者は、零。疫病の発生は、零。戦争は、存在しない。
システムは、完璧に回っている。
レイが、玉座に座っていなくても。
レイが、数字を眺めていなくても。
レイが、呼吸をしていなくても。
システムは、回る。
十年前、レイはそれを知った。
ある夜、三日間、昏睡に落ちた。過労と栄養失調と、二十年分の不眠が、ついに肉体を限界まで追い詰めたのだ。
三日間、レイは意識を失った。
そして、目覚めた時、カインに聞いた。
「……システムは」
「完璧に稼働しております。総帥の不在中も、配給の遅延は零、犯罪発生は零。一切の異常はございませんでした」
レイは、それを聞いて、何も言わなかった。
三日間、自分がいなくても、世界は回った。
自分が、いなくても。
その夜、レイは玉座の間に一人で座り、魔導の光を眺めながら、初めて「恐怖」を感じた。
敵の恐怖ではない。暗殺の恐怖ではない。
「自分が、不要である」という恐怖だった。
帝国暦二十三年。冬。雪の日。
レイは、カインに支えられながら、立ち上がった。
「……歩く」
「総帥、ご無理を——」
「歩く。帝都を。……最後に、見たい」
カインが、唇を噛んだ。
「……畏まりました」
帝都アルマートの街を、レイ・アルマートが歩いていた。
黒い外套。だが、その下の体は、痩せ細っている。白髪は、腰まで届くほど伸び、風にかすかに揺れている。腰には剣を佩いているが、それはもう、重りですらなかった。飾りだ。象徴だ。遺物だ。
カインが、一歩後ろを歩く。黒鉄の近衛が、十歩後ろに、影のように続く。
レイは、配給所の前を通った。
列に並ぶ人々が、彼を見た。
跪かなかった。
「秩序の日」ではない。総帥が街を歩くことは、法に定められていない。ゆえに、民は「どう振る舞えばいいか」を知らなかった。
彼らは、ただ、見た。
白い髪の老人が、痩せた体で、ゆっくりと歩いている。
それが、自分たちの「魔王」であるとは、気づかなかった者もいた。
二十三年。レイ・アルマートの顔を知っている世代は、徐々に減っている。
一人の少女が、配給のパンを齧りながら、レイをじっと見ていた。十二、三歳だろうか。帝国が建国されてから生まれた世代だ。戦争を知らない。飢餓を知らない。盗賊を知らない。
少女が、隣の人に聞いた。
「ねえ、あのおじいさん、誰?」
「……さあ。知らないわ。早く列を詰めて」
少女は、パンを齧り続けた。
レイは、少女の前を通り過ぎた。
少女は、パンの最後の一口を頬張り、列の先へと歩いていった。
振り返らなかった。
レイも、振り返らなかった。
第七区画。
かつて、十九年間戸籍の外で生きていた人間がいた場所。
あの廃魔導管は、もうない。五年前に撤去され、今は配給所の倉庫になっている。
レイは、倉庫の前で、足を止めた。
「……ここだ」
カインが、隣に立つ。
「総帥?」
「ここで、一人の人間が、十九年間、鼠を食って生きていた。俺の網から漏れて。俺の計算の外で」
レイは、倉庫の壁に、手を触れた。
冷たい石だった。
「……あいつは、今、どうしている」
「戸籍番号七四〇九三。現在、第三区画の魔石加工工場に勤務。健康状態は良好。配給の受給に異常はありません」
「……そうか」
レイが、手を離した。
「生きている」
「はい」
「俺の檻の中で、生きている」
「……はい」
レイが、歩き出した。
「……それで、いい」
帝都の中央広場。
「秩序の日」に、レイが壇上に立つ場所。
今は、誰もいない。雪だけが、石畳を白く覆っている。
レイは、広場の中央で、立ち止まった。
空を見上げた。
雪が、降っている。
「……カイン」
「は」
「俺は、何年、空を見ていない」
カインが、考え込んだ。
「……記録には、ございませんが。少なくとも、十年以上は」
「十年」
レイが、雪を、手のひらで受けた。
冷たかった。
「……冷たい」
呟いた。
「冷たい、と感じる。まだ、感じる」
カインが、目を伏せた。
レイは、雪を握りしめた。手のひらから、水が零れる。
「……グランは、雪が好きだった。『剣の稽古には最高の天気だ。相手が凍えてる隙に斬れる』と、笑いながら言っていた」
カインは、何も言わなかった。
「エランナは、雪の日にしか飲まない茶があった。『魔素の揺らぎが落ち着く』と。……テルトイアは、雪が降ると、必ず古傷が疼いた。俺が包帯を巻き直す役だった」
レイが、手を下ろした。
雪が、手のひらから、すべて零れ落ちた。
「……三人とも、いない」
「……はい」
「俺しか、いない」
「……はい」
レイが、歩き出した。
「帰る」
「……玉座の間へ、ですか」
レイが、足を止めた。
「……いや。あの部屋だ。地下の」
カインが、息を呑んだ。
「……畏まりました」
帝都の最下層。
監視網の及ばない、唯一の部屋。
扉を開ける。
机が一つ。椅子が一つ。窓はない。
壁に、一枚の絵。
四人が、描かれている。
レイは、椅子に座った。
カインは、扉の外に控えている。
一人だった。
絵を、見た。
グランが、笑っている。
エランナが、呆れた顔をしている。
テルトイアが、苦笑している。
銀髪の青年が、ぎこちなく微笑んでいる。
レイは、自分の手を見た。
骨と皮の手。剣を握れない手。
「……二十年、か」
呟いた。
「二十年、俺は、この檻を回し続けた。一千九百四十二万の命を、一日も欠かさず、数字として眺め続けた」
絵の四人を、見た。
「お前たちは、俺を恨んでいるか」
返事はない。
「俺は、お前たちを殺した。エランナの自由を、テルトイアの優しさを、グランの誇りを。全部、俺がこの手で、潰した」
返事はない。
「……だが、俺は、後悔していない」
声が、震えた。
「後悔していない。……だが、疲れた」
レイが、机に、額を伏せた。
「疲れた。……二十年、眠っていない。二十年、誰とも、話していない。二十年、俺の名を呼ぶ者が、いない」
机に伏せた額が、わずかに震えていた。
「……グラン。お前が言った通りだ。贅沢品だ。これは」
胸を押さえた。
「贅沢品だから、俺には要らない。……だが、欲しい。……欲しかった」
涙は、出なかった。
もう、出ない。
だが、机に伏せた肩が、一度だけ、小さく揺れた。
それだけだった。
三十分後。
レイは、椅子から立ち上がった。
絵に、背を向けた。
「……カイン」
扉の外から、声がした。
「は」
「明日から、玉座の間の魔導回路を、完全自律モードに移行しろ。俺の承認を必要とする判断項目を、すべて廃止する」
沈黙。
「……総帥。それは、つまり——」
「俺が、いなくても、システムが回るようにしろ。……もう、回っている。十七年間、俺がいなくても回っている。だが、法的に、まだ俺の署名が要る箇所がある。それを、すべて、廃止しろ」
「総帥!」
カインが、扉を開けた。
「総帥、お考え直しを。総帥が玉座を離れれば、帝国の象徴が——」
「象徴は、要らない」
レイが、カインを見た。
灰色の瞳。濁っている。だが、その奥に、二十三年前と変わらない、冷徹な光が、わずかに残っていた。
「俺が作ったのは、象徴ではない。システムだ。システムに、象徴は要らない。歯車に、名前は要らない」
カインが、跪いた。
「……総帥」
「カイン。お前は、二十年、俺に仕えた。……感謝する」
カインが、顔を上げた。
レイが、微笑んだ。
微笑みだった。
二十三年間で、カインが初めて見た、レイ・アルマートの微笑みだった。
「……お前にも、名がある。カイン。お前は、俺の歯車ではない。……明日から、仮面を外せ」
カインの目から、涙が零れた。
「……総帥……」
「去れ。明日から、お前は、お前として生きろ」
カインが、床に額を擦りつけた。
「……二十年間、お仕えできましたこと。……誇りに、存じます」
レイは、何も言わなかった。
カインが、立ち上がり、部屋を出ていった。
扉が、閉まった。
夜。
玉座の間。
レイ・アルマートは、一人で座っていた。
魔導の光が、青く、流れている。
四十七都市。三百十二の村落。一千九百四十二万の命。
本日の配給消費量。出生数。死亡数。犯罪発生件数――零。
レイは、それを眺めていた。
最後の夜だった。
明日、この椅子は空になる。
レイは、机の上に、三つの品を並べた。
革袋。割れた魔導石。古びた包帯。
それを、一つずつ、手に取った。
革袋を、鼻に近づけた。もう、何の匂いもしない。
魔導石を、指で撫でた。ひび割れの感触が、指先に伝わる。
包帯を、頬に当てた。布の、かすかな温もりが、残っている気がした。
「……エランナ。お前の魔導回路は、明日も帝都の壁を走る。お前が去っても、お前の仕事は、この檻の中で、永遠に生き続ける」
「……テルトイア。お前の兵站理論は、形を変えて、一千九百四十二万の胃袋を満たしている。お前の優しさは、俺が冷酷に歪めたが……根は、お前のものだ」
「……グラン」
革袋を、握りしめた。
「お前の剣は、俺の腰にある。もう、抜かない。……だが、俺が死ぬ時、これを持っていく。……向こうで、また、稽古をつけてくれ」
三つの品を、机の上に戻した。
レイは、椅子の背に、体を預けた。
魔導の光が、流れている。
「……ああ、静かだ」
呟いた。
「誰も飢えず、誰も殺し合わない。……この美しい檻を作るために、俺の魂は安かった」
目を、閉じた。
「……だが、誰も、俺を名前で呼ばない」
それが、最後の言葉だった。
帝国暦二十三年。冬。雪の夜。
午前二時十七分。
玉座の間の魔導回路が、異常を検知した。
総帥レイ・アルマートの生体反応が、消失。
即座に、自律管理プロトコルが起動。
配給システム:異常なし。
魔素安定化装置:異常なし。
戸籍管理網:異常なし。
犯罪発生件数:零。
システムは、一秒たりとも、止まらなかった。
翌朝。
午前六時。鐘が鳴った。
人々は起きた。
鉄札を胸に下げ、列に並び、パンを受け取った。
誰も、気づかなかった。
玉座が、空になっていることに。
配給所の列に並ぶ少女が、パンを齧りながら、隣の人に聞いた。
「ねえ、今日、何か違う?」
「……何が?」
「わかんない。……何か、静かな気がする」
「いつも静かでしょう。早く食べて、工場に行きなさい」
少女は、パンを齧り続けた。
雪が、まだ、降っていた。
三日後。
カインが、玉座の間に、一人で入った。
レイ・アルマートは、椅子に座ったままだった。
目を閉じていた。
顔に、苦痛はなかった。
ただ、眠っているようだった。
カインは、跪いた。
黒鉄の仮面を、外した。
「……総帥」
返事はない。
「……レイ」
初めて、名で呼んだ。
「……お疲れさまでした」
カインは、立ち上がった。
レイの腰から、剣を抜いた。魔法剣。十二年、抜かれなかった剣。
鞘から抜くと、刃は、まだ、光っていた。
カインは、その剣を、レイの膝の上に、戻した。
「……お持ちください。向こうで、グラン殿が、待っているでしょう」
一礼した。
そして、部屋を出た。
扉が、閉まった。
魔導の光が、青く、流れている。
一千九百四十二万の命が、今日も、明日も、明後日も、飢えず、殺し合わず、病に倒れず、静かに、静かに、生きている。
誰も、泣かなかった。
誰も、弔わなかった。
誰も、その名を、呼ばなかった。
帝国暦二十三年。冬。
帝都アルマートの地下最下層。監視網の及ばない、小さな部屋。
机の上に、三つの品があった。
革袋。割れた魔導石。古びた包帯。
壁に、一枚の絵があった。
四人が、描かれていた。
誰も、その部屋を、知らなかった。
誰も、その絵を、見なかった。
だが、絵の中の四人は、笑っていた。
永遠に、笑っていた。
第十三章 了
■第十四章 千年後の朝
帝国暦一〇二三年。春。
帝都アルマートに、桜が咲いていた。
千年前のこの街には、桜はなかった。配給の効率を考慮し、食用植物のみが栽培を許可されていた時代が、三百年続いた。だが、帝国暦四〇〇年を過ぎた頃から、魔素安定化装置の余剰エネルギーが花の栽培を許容し始め、五〇〇年には「観賞用植物の育成」が法第七条の付則に加えられた。
それ以来、帝都の春には、桜が咲く。
人々は、桜の下を歩く。
走らない。叫ばない。枝を折らない。花弁を掌で受け、微笑み、そして指定された時刻に、指定された場所へ帰る。
美しい春だった。
静かな春だった。
帝国歴史編纂局。第三書庫。
エリオ・セインは、二十四歳だった。
帝国の制度において、二十四歳は「第三職能期・前期」に該当する。彼は「歴史文献の整理・保管・分類」を職能として割り振られ、三年前からこの書庫で働いている。
今日も、同じだ。
午前六時に鐘が鳴る。配給所でパンとスープを受け取る。書庫に入り、指定された棚の文献を、指定された順序で、点検する。
千年分の記録が、この書庫にある。
帝国暦元年から一〇二三年まで。戸籍データの変遷。配給記録の推移。犯罪発生件数の年次報告――七百年間、連続して「零」を記録し続けている。
エリオは、それを「数字」として処理する。
千年前の世界が、どのようなものであったか。奴隷制度。飢餓。戦争。盗賊。疫病。それらの言葉は、エリオにとって「概念」でしかなかった。実感がなかった。
「飢える」とは、どのような感覚か。
「殺される」とは、どのような恐怖か。
「自由」とは、何のことか。
エリオには、わからなかった。わからないことが、不思議でもなかった。
その日、エリオは、第三書庫の最下層を点検していた。
帝国暦元年から五十年までの文献が保管されている区画だ。建国期の記録。最も古く、最も閲覧制限が厳しい区画。
エリオの職能は「整理・保管・分類」であり、「閲覧」ではない。だが、棚の奥に、一冊の帳簿がずれているのを見つけた。
引き抜く。
表紙には、何も書かれていなかった。
帝国の文献には、すべて戸籍番号に相当する管理番号が刻印されている。だが、この帳簿には、それがない。
エリオは、首を傾げた。
「……管理番号、なし?」
帝国の制度において、管理番号のない文書は、存在しない。存在しないものは、記録されない。記録されないものは、なかったことになる。
だが、この帳簿は、ここにある。
エリオは、周囲を見回した。書庫には、誰もいない。
帳簿を開いた。
中には、文字が書かれていた。
帝国の標準文字ではない。千年前の旧字体だ。エリオは、職能訓練で旧字体の読解を学んでいた。辛うじて、読める。
最初の頁に、こう記されていた。
『帝国総帥府・非公式記録。本帳簿は、帝国憲章のいかなる条項にも属さない。閲覧者は、その存在を外部に開示してはならない。――レイ・アルマート』
エリオの指が、止まった。
レイ・アルマート。
帝国の建国者。「最悪の魔王」。歴史の教科書には、そう記されている。
『帝国暦元年、建国者レイ・アルマートは、数々の凄惨な大粛清を行い、人類の自由を永遠に奪った。その統治は恐怖と管理に基づくものであり、人類史上最大の罪人として、永劫に記憶されるべきである』
それが、エリオが知っている「レイ・アルマート」だった。
だが、この帳簿は、彼の「非公式記録」だという。
エリオは、頁をめくった。
帳簿の中身は、日記ではなかった。
命令書でもなかった。
ただ、名前が記されていた。
『帝国暦三年。セレン区画・結界封鎖。犠牲者一万二千名。以下、戸籍番号および氏名』
そこから、一万二千行にわたって、名前が並んでいた。
一人一人。名前。年齢。家族構成。
『カルム・ヴェイン。三十四歳。妻一名、子二名』
『リセ・ドーラン。七歳。両親なし』
『ゴルド・ハッサン。六十一歳。妻一名。孫三名』
一万二千の命が、文字になって、頁を埋めていた。
エリオは、読み進めた。
一万二千の最後の行の後に、こう書かれていた。
『以上、一万二千名。彼らの死は、私の計算の産物である。彼らに罪はない。罪があるのは、私一人である。この名を、忘れない。忘れてはならない。だが、手が止まることは、あってはならない』
エリオは、帳簿を閉じた。
手が、震えていた。
なぜ震えているのか、わからなかった。
「一万二千」という数字は、エリオにとって、ただの数字だった。千年前の、遠い、遠い数字。
だが、名前が。
七歳の、リセ・ドーラン。両親なし。
その名前が、エリオの胸の奥で、何かを引っ掻いた。
エリオは、帳簿を棚に戻さなかった。
懐に入れた。
それは、帝国の法に反する行為だった。管理番号のない文書の持ち出しは、戸籍の一時停止に相当する。
だが、エリオは、止まらなかった。
なぜか、わからなかった。
ただ、この名前を、この一万二千の名前を、「なかったこと」にしたくなかった。
その夜。
エリオは、自分の住居区画で、帳簿を読み返していた。
配給のパンを齧りながら、一万二千の名前を、一行ずつ、目で追った。
三時間かかった。
読み終えた時、窓の外は、暗くなっていた。
帝都の夜は、静かだった。魔素灯が、等間隔に、青白い光を落としている。誰も、叫ばない。誰も、泣かない。誰も、怒らない。
エリオは、帳簿の最後の頁を開いた。
一万二千の名前の後に、もう一つ、別の記録があった。
『帝国暦二十三年。冬。最終記録。
明日、私は玉座を離れる。システムは、私を必要としない。
私がいなくても、世界は回る。一千九百四十二万の命が、明日も、明後日も、飢えず、殺し合わず、生きていく。
それでいい。
それが、私の望んだすべてだ。
だが、最後に、一つだけ。
この帳簿を、誰かが読む日が来るなら。
千年後でも、二千年後でもいい。
その者に、一つだけ、問いたい。
お前は、飢えたことがあるか。
お前は、目の前で、誰かが殺されるのを見たことがあるか。
お前は、自由という名の地獄の中で、助けを求めて、誰も来てくれなかったことがあるか。
ないなら、私を裁く資格はない。
あるなら、私を裁いてくれ。
――レイ・アルマート。魔法剣士。帝国建国者。魔王』
エリオは、帳簿を閉じた。
窓の外を見た。
魔素灯が、青く、静かに、光っている。
「……飢えたことが、ない」
呟いた。
「殺されるのを、見たことが、ない」
「自由という名の、地獄を、知らない」
エリオは、自分の手を見た。
震えていた。
「……じゃあ、俺には、裁く資格が、ないのか」
答えは、なかった。
翌日。
エリオは、書庫に戻らなかった。
代わりに、帝都の地下へと向かった。
帳簿の最後の頁に、もう一つ、記述があった。
『帝都最下層。第七通路の末端。監視網の及ばぬ部屋あり。そこに、私のすべてがある。見る者がいるなら、見てくれ。……見なくてもいいが』
エリオは、第七通路を歩いた。
帝国の地下は、魔導回路が血管のように走っている。千年間、一度も止まったことのない、システムの心臓部だ。
だが、第七通路の末端には、回路がなかった。
壁が、途切れている。
その先に、扉があった。
古い扉だった。千年の埃が、積もっている。
エリオは、扉を押した。
部屋は、小さかった。
机が一つ。椅子が一つ。窓はない。
千年の闇が、部屋を覆っていた。エリオが、携帯魔素灯を掲げた。
光が、部屋を照らした。
机の上に、三つの品があった。
革袋。中身は、もう、何もない。革だけが、干からびて、形を保っている。
割れた魔導石。ひび割れが、蜘蛛の巣のように走っている。
古びた包帯。布は、ほとんど崩れかけていた。
エリオは、それを見た。
何なのか、わからなかった。
だが、机の傍らに、もう一つ、小さな紙片があった。
千年前の紙は、脆い。エリオは、息を止めて、指先で持ち上げた。
紙片に、文字があった。
『グランへ。エランナへ。テルトイアへ。
お前たちを殺した。お前たちの自由を、誇りを、優しさを、俺がこの手で潰した。
だが、お前たちが作ったものは、すべて、この檻の中で生きている。
グランの剣は、俺の腰にある。
エランナの回路は、帝都の壁を走っている。
テルトイアの理論は、一千九百四十二万の胃袋を満たしている。
お前たちは、死んでも、俺の中にいる。
俺が、お前たちを殺したのに。
……ありがとう。
そして、すまなかった。
――レイ』
エリオは、紙片を、机の上に戻した。
そして、壁を見た。
壁に、一枚の絵が掛かっていた。
千年の闇が、絵を覆っていた。
埃を、袖で払った。
四人が、描かれていた。
若い男が三人と、女が一人。
剣を担いだ大柄な男が、笑っている。
魔導書を抱えた女が、呆れた顔をしている。
包帯を巻いた痩身の男が、苦笑している。
中央に、銀髪の青年が、少しだけ、ぎこちなく微笑んでいる。
エリオは、その絵を、長い間、見ていた。
「……誰だ、この人たちは」
歴史の教科書には、載っていない。
帝国の建国は、レイ・アルマート一人の手によるものとされている。仲間がいたとは、どこにも書かれていない。
だが、この絵の四人は、笑っていた。
笑い方を知っている顔だった。
エリオの知る帝国の人間は、笑わない。微笑む。だが、笑わない。
この四人は、笑っていた。
声を上げて、腹の底から、笑っていた。
エリオは、その笑い方を、知らなかった。
部屋の隅に、もう一つ、石があった。
小さな石碑だった。机の裏に、隠すように置かれていた。
エリオは、魔素灯を近づけた。
石に、文字が刻まれていた。
千年前の旧字体。だが、読めた。
『かくも残酷な栄光を望む者は魔王と呼ばれる』
そこで、一度、途切れていた。
その下に、もう一行。
『だが誰かがやらねばならなかった』
エリオは、石碑の前に、膝をついた。
なぜ膝をついたのか、わからなかった。
帝国の法に、「跪拝」の条項はない。千年前に廃止されている。
だが、エリオは、膝をついていた。
「……誰かが、やらねばならなかった」
呟いた。
「……何を」
答えは、知っていた。
この平和を。この静寂を。この、誰も飢えず、誰も殺し合わない、美しい檻を。
「誰かが、やらねばならなかった」
だが、その「誰か」は、魔王と呼ばれた。
千年間、魔王と呼ばれ続けた。
エリオは、石碑を、指で撫でた。
冷たい石だった。
書庫に戻ったのは、夕刻だった。
エリオは、自分の席に座り、いつものように、文献の整理を始めた。
手が、動かなかった。
隣の席の同僚が、声をかけた。
「エリオ、今日は遅かったな。何かあったか?」
「……いや。何もない」
「そうか。明日の配給、第三区画に変更になるらしい。忘れるなよ」
「……ああ」
同僚が、自分の作業に戻った。
エリオは、ペンを握った。
文献の分類番号を、記入する。
いつも通りの作業。
だが、手が、止まった。
『リセ・ドーラン。七歳。両親なし』
その名前が、頭から、離れなかった。
エリオは、ペンを持ったまま、窓の外を見た。
桜が、散っていた。
花弁が、風に舞い、帝都の石畳に、静かに降り積もる。
美しい景色だった。
誰も、飢えていない。
誰も、殺されていない。
誰も、戦争を知らない。
それが、千年前に、一人の男が、三人の友を殺して、自分の魂を売り飛ばして、作った世界だった。
エリオは、ペンを置いた。
「……魔王」
呟いた。
「……英雄」
どちらの言葉も、口にしてみると、ひどく、軽かった。
どちらの言葉も、あの石碑の前では、意味をなさなかった。
エリオは、もう一度、窓の外を見た。
桜が、散っていた。
静かに。美しく。誰も気づかないほど、静かに。
その夜。
エリオは、自分の住居区画で、帳簿を机の上に広げた。
一万二千の名前。
それを、もう一度、読んだ。
今度は、声に出して。
「カルム・ヴェイン。三十四歳」
「リセ・ドーラン。七歳」
「ゴルド・ハッサン。六十一歳」
一時間。二時間。三時間。
一万二千の名前を、すべて、声に出して、読んだ。
読み終えた時、エリオの頬が、濡れていた。
涙だった。
帝国の人間は、泣かない。泣く理由がない。飢えない。殺されない。戦争がない。
だが、エリオは、泣いていた。
なぜ泣いているのか、わからなかった。
ただ、七歳の、リセ・ドーランの名前を、声に出した時、胸の奥が、ひどく、痛んだ。
千年前の、知らない少女の名前。
両親のいない、七歳の少女。
結界の中で、魔素を断たれ、飢えて死んだ少女。
エリオは、机に伏せた。
「……ごめん」
誰に言っているのか、わからなかった。
リセにか。レイにか。この世界にか。
「……ごめん」
窓の外で、魔素灯が、青く、静かに、光っていた。
翌朝。
午前六時に鐘が鳴った。
エリオは、起きた。
配給所に向かった。列に並んだ。パンとスープを受け取った。
書庫に向かった。席に座った。文献を整理した。
いつも通りだった。
何も、変わらなかった。
だが、エリオは、昼休みに、一つだけ、行動を起こした。
帝国歴史編纂局の局長室に、申請書を提出した。
『申請内容:帝国暦元年から五十年の建国期文献に関する、再調査および再分類の許可願い。
理由:現行の歴史記述に、未整理の一次資料が存在する可能性を確認したため。
申請者:エリオ・セイン。第三書庫所属』
局長は、申請書を一瞥した。
「建国期の文献は、閲覧制限が厳しい。再調査の必要性を、具体的に示せ」
エリオは、一瞬、迷った。
帳簿のこと。石碑のこと。絵のこと。
言えなかった。
言えば、自分が法に触れる。戸籍が停止される。
「……現行の分類番号に、三件の不整合があります。確認のため、原本へのアクセスが必要です」
局長が、印を押した。
「許可する。だが、閲覧のみだ。持ち出しは認めん」
「……畏まりました」
エリオは、局長室を出た。
廊下を歩きながら、思った。
千年間、誰も、あの部屋を見なかった。
誰も、あの石碑を読まなかった。
誰も、一万二千の名前を、声に出さなかった。
自分が、最初だった。
自分が、最後かもしれない。
だが、エリオは、歩いた。
明日も、明後日も、この書庫に通う。
一万二千の名前を、記録する。
誰にも見せなくても。
誰にも理解されなくても。
ただ、名前を、忘れないために。
その日の黄昏。
帝都の中央広場に、桜の花弁が、積もっていた。
人々が、その上を歩く。
誰も、空を見上げない。
だが、一人だけ、立ち止まった青年がいた。
エリオ・セイン。二十四歳。歴史文献の整理・保管・分類を職能とする、帝国の歯車。
彼は、桜の木の下で、空を見上げた。
花弁が、散っていた。
「……綺麗だ」
呟いた。
「……綺麗だと、言える」
千年前の世界では、この言葉すら、許されなかったのかもしれない。
エリオは、それを、知らない。
だが、知っている気がする。
あの帳簿の中に、あの石碑の中に、あの絵の中に、答えがあった気がする。
だが、答えは、言葉にならなかった。
英雄か、魔王か。
救世主か、暴君か。
正義か、罪か。
どの言葉も、足りない。
どの言葉も、多すぎる。
エリオは、歩き出した。
桜の花弁が、肩に落ちた。
払わなかった。
帝都の地下深く。
第七通路の末端。監視網の及ばぬ部屋。
机の上に、三つの品がある。
革袋。割れた魔導石。古びた包帯。
壁に、一枚の絵がある。
四人が、笑っている。
千年の闇の中で、誰も見ない絵が、笑っている。
机の隅に、石碑がある。
『かくも残酷な栄光を望む者は魔王と呼ばれる』
『だが誰かがやらねばならなかった』
千年間、誰も読まなかった言葉が、闇の中で、待っている。
誰かが、来るまで。
誰かが、読むまで。
誰かが、問うまで。
――お前は、彼を、何と呼ぶ。
第十四章 了




