008Qwen版その1
■第一章 自由という名の地獄
空が燃えていた。
正確に言えば、燃えていたのは空ではなく、地平線の彼方に連なる三つの村だった。黒煙が夕焼けと混ざり合い、世界全体が腐った血の色に染まっている。風に乗って届くのは、焼けた木材の匂いと、それよりも甘い、肉の焦げる匂い。
レイ・アルマートは、丘の上からその光景を見ていた。
十九歳。痩躯。灰色の瞳は、感情というものをまだ完全に捨て去る前の、微かな震えを宿している。腰には一振りの長剣。柄に巻いた革は、何度も血を吸って黒ずんでいた。
「……また、か」
呟いた声は、誰にも届かない。
北大陸のこの地に、秩序というものはない。ない、というよりも、秩序という言葉そのものが、まだ発明されていないと言った方が正確だろう。あるのは力と、力を持たない者たちの悲鳴だけだ。
奴隷商の隊列が街道を行く。痩せ細った子どもたちが、鉄の首輪を繋がれて歩かされている。その列の横を、領主の徴税隊が通り過ぎる。彼らは「税」という名目で、農民から最後の麦の粒まで奪っていく。奪われた農民は、その冬を越せずに死ぬ。死んだ者の土地を、今度は盗賊団が奪う。奪われた土地を巡って、隣の領主が兵を差し向ける。兵が通った後には、疫病が残る。
奴隷。飢餓。戦争。盗賊。疫病。
五つの災厄が、この世界では季節のように巡ってくる。春に種を蒔き、夏に汗を流し、秋に実りを迎え、冬に凍える——それと同じくらい自然に、人は殺され、売られ、飢え、病み、そして忘れられる。
レイは、そのすべてを見てきた。
見て、怒り、剣を抜き、そして救ってきた。少なくとも、そう信じていた。
「レイ」
背後から声があった。振り返ると、三人の男女が丘を登ってきていた。
先頭を歩くのは、グラン・バグット。レイと同い年の剣士で、肩幅がレイの倍はある。背中には両手剣を担いでおり、その歩みは大地を踏み鳴らすように重い。だがその目には、粗暴さとは無縁の、穏やかな光がある。
その少し後ろに、エランナ・フィムス。魔術師。銀色の髪を無造作に束ね、指先には常に淡い魔力の光が揺れている。彼女はレイの「理想」を最も深く理解し、最も鋭く批判する女だった。
最後に、テルトイア・ファレンストロイ。参謀であり、治癒術士。細身の体に似合わぬ巨大な書物の束を背負い、常に何かを計算しているように視線を動かしている。彼の指は、常に誰かの傷を癒やすために動いていた。
四人。
三年前にこの混沌とした世界で出会い、意気投合し、「義勇軍」を名乗って戦い始めた四人。領主の圧政を砕き、盗賊を討ち、奴隷を解放し、民に自由を与える。それが彼らの戦いだった。
「また一つ、遅かったな」
グランが、燃える村を見つめながら言った。非難ではない。ただの事実の共有だ。彼らの足では、すべての悲鳴に間に合わない。
「東の隊商路で奴隷商と交戦していた。間に合わなかった」
レイの声は淡々としていた。だが、その灰色の瞳の奥で、何かが軋んでいる。
エランナが、レイの横に立った。風が彼女の銀髪を攫う。
「ねえ、レイ。また『解放』するの?」
「当たり前だ」
「そう」エランナは、燃える村から目を離さずに言った。「じゃあ、聞くけど。解放した後は?」
レイは答えなかった。
答えられなかった、が正確だろう。
この三年間、彼らは何度も同じことを繰り返してきた。圧政を敷く領主を倒す。奴隷の首輪を外す。民に言う。「お前たちは自由だ。これからは自分たちの力で生きてくれ」と。食料を分け与え、次の戦場へ向かう。
そして、数ヶ月後。
必ず、同じ光景が待っている。
食料を巡る殺し合い。新たな強者の台頭。疫病。崩壊。レイが命懸けで与えた「自由」は、常に、彼が想像もしなかった形で人々を食い殺す。
それでもレイは、信じていた。信じようとしていた。人は自由であれば、互いに手を取り合える。話し合えば分かり合える。善意は善意を生み、自由は幸福の土壌になる——と。
「行こう」レイは言った。「あそこにまだ、生きている人がいる」
四人は丘を下り、燃え残った村へと向かった。
村は、半分が骸だった。
焼けた家屋の残骸の間に、まだ息のある者たちが転がっている。老人が、子どもが、片腕を失った男が、煤と血に塗れて這っている。レイは剣を鞘に収め、無言で瓦礫を掘り始めた。
グランが倒れた梁を持ち上げ、その下から少女を引きずり出す。エランナが詠唱を始め、焼けた肌に治癒の光を当てていく。テルトイアが、持ってきた薬草で応急の手当てを施す。
四人は手際よく、黙々と、命を拾い上げていった。
一時間ほどが過ぎた頃、レイは一人の老人を瓦礫の下から引き出した。老人は痩せこけ、目は虚ろだったが、レイの顔を見ると、震える手でその袖を掴んだ。
「……あんたが、領主様を殺してくれるのか」
「殺しはしない。この地から追放する。お前たちは自由になる」
レイは、何度も繰り返してきた言葉を、また繰り返した。
老人は、それを聞いて、笑った。
嗤った、のではない。笑ったのだ。乾いた、疲弊しきった、諦念の笑いだった。
「自由……か」
老人は、焼け落ちた自分の家を見た。その向こうに、同じように焼けた隣の家がある。さらにその向こうに、井戸がある。その井戸を巡って、昨日まで隣人だった者たちが、互いの頭を石で砕き合っていたことを、レイはまだ知らない。
「自由になって、何をする。麦はない。種もない。領主様がいた頃は、少なくとも、殴られながらもパンは配られた。……あんたは、パンを配ってくれるのか」
レイは、言葉に詰まった。
「……みんなで協力すれば——」
「協力」老人は、その言葉を咀嚼するように繰り返した。「あんた、この村を見てみな。昨日まで一緒に畑を耕していた隣が、今朝には俺の麦を盗んだ。盗んだやつを、俺は石で殴った。殴られたやつの息子が、俺の家を焼いた。……自由だ。全部、自由だ。誰も止めねえ。誰も裁かねえ。全部、自由のせいだ」
老人の手が、レイの袖から滑り落ちた。
「あんたの自由は、強い奴の自由だ。俺みたいな弱え奴には、自由はただの……死に方を選ぶ権利でしかねえ」
その言葉が、レイの胸に刺さった。
刺さって、抜けなかった。
彼は老人に背を向け、焼け残った井戸の縁に腰を下ろした。夕陽が、燃える村をさらに赤く染めている。エランナが、心配そうに近づいてくる。
「レイ?」
「……エランナ」レイは、空を見ていた。煙で濁った、赤い空。「俺は、間違っているのか」
エランナは、何も言わなかった。ただ、レイの隣に座った。
グランが、少女を安全な場所まで運び終えて戻ってきた。テルトイアが、最後の患者の手当てを終えて、書を閉じた。
四人が、燃える村の中心で、沈黙していた。
風が吹く。灰が舞う。どこかで、まだ火が爆ぜている音がする。
レイ・アルマートは、この時まだ知らない。
この夜、彼が下す「ある決断」が、千年後の世界を形作ることを。
この夜、彼が信じることをやめた「自由」という言葉が、彼自身を「魔王」という名の檻に永遠に閉じ込めることを。
知っているのは、ただ一つ。
目の前で、人が死んでいるということ。
そして、それを止める力が、自分にあるということ。
「……明日、東の砦を落とす」
レイが言った。声は、少しだけ変わっていた。昨日までの、理想に燃える青年の声とは、何かが違っていた。
「領主を倒す。奴隷を解放する。——だが、それで終わりにはしない」
グランが眉を上げた。「どういう意味だ」
「まだ分からない。だが……」レイは、焼け落ちた村を、もう一度見た。「『はい、自由です、さようなら』では、何も救えない。それだけは、分かった」
四人の間に、短い沈黙が落ちた。
テルトイアが、静かに口を開いた。「……考えがあるなら、聞こう。俺たちは、お前の仲間だ」
エランナが頷いた。グランが、両手剣を地面に突き立てて、腕を組んだ。
レイは、仲間たちを見た。
まだ、この時は、四人だった。まだ、この時は、彼らは同じ方向を見ていた。まだ、この時は、レイ・アルマートの灰色の瞳に、「魔王」の影は宿っていなかった。
だが、種は蒔かれた。
焼け野原の夜風に吹かれて、小さな、しかし取り返しのつかない種が、レイの心の奥底に落ちた。
——人は、自由では幸福になれない。
その思考が、まだ言葉になる前の、漠然とした予感として、彼の胸の奥で脈打ち始めていた。
夜が来る。
燃える村の火が、星の代わりに天を照らしていた。
第一章 了
■第二章 善意が齎す地獄
三ヶ月は、短い。
レイ・アルマートがそう思っていたのは、おそらく、希望というものが人間の時間感覚を狂わせるからだろう。
三ヶ月前、彼はこの地——カルデン盆地の街、メルヴィア——を解放した。圧政を敷いていた領主ヴァルゴ伯を討ち、地下牢に繋がれていた四百人の奴隷の首輪を外し、倉庫の食料を分け与え、言ったのだ。
「これからは、お前たちの自由だ。互いに手を取り合って生きてくれ」
その時の人々の顔を、レイは覚えている。涙でぐしゃぐしゃになった顔。震える手でレイの手を握り、「ありがとう」「神の祝福を」「あなたは救世主だ」と繰り返す、痩せこけた、しかし確かに笑っている顔。
あれが、本物だと信じていた。
信じたかった。
メルヴィアへは、北の街道を三日かけて戻ることになる。
四人は並んで歩いていた。グランが先頭で、背中の両手剣が陽光を反射している。エランナが杖を突きながら、道端の野草の名前を呟いている。テルトイアが最後尾で、何かを計算するように指を動かしている。
「なあ、レイ」
グランが、振り返らずに言った。
「あいつら、元気にしてっかな」
レイは、少しだけ笑った。灰色の瞳に、わずかな温もりが浮かぶ。
「していると良いな。食料は三週間分は残していった。その後は畑を耕し始めているはずだ。春の種蒔きの時期には間に合った」
「自由になって、初めての収穫か」エランナが、少し嬉しそうに言った。「良いじゃない。私たちが戦った意味が、そこにある」
テルトイアが、静かに頷いた。「配給の記録簿も残していった。読み書きができる者が三人はいた。彼らが中心になって、公平に分配しているはずだ」
四人の足取りは、軽かった。
戦いの連続だった。血と泥と、悲鳴と怒号の日々だった。だが、こうして「救ったはずの場所」に戻る道は、唯一、彼らの心を温めるものだった。
自分たちの剣が、誰かの明日を作っている。
その実感を、彼らはメルヴィアに求めていた。
異変に気づいたのは、街の輪郭が視界に入った時だった。
丘の上から、カルデン盆地を見下ろす。メルヴィアの街は、盆地の中央に広がる平野に位置している。三ヶ月前、レイが解放した時の記憶では、街の周囲には麦畑が広がっていた。まだ青々とした、春先の麦。
今、そこに麦畑はなかった。
あるのは、茶色く枯れ果てた土と、ところどころに黒く焦げた痕。畑ではない。焼けた跡だ。
「……火事か?」グランが眉を寄せた。
「違う」テルトイアの声が、わずかに硬くなった。「あれは、畑を焼いた跡だ。作物を、意図的に」
言葉を切る。
エランナが、魔力を込めた目で街を見つめた。そして、その顔から色が消えた。
「……結界が、ない」
「何?」
「私たちが張った防護結界。街の外周に。盗賊や魔獣から守るために。……消えてる。誰かが、壊した」
四人の足が、止まった。
風が吹く。盆地の底から、何かが腐ったような匂いが、かすかに届いた。
「行こう」
レイが言った。声は、平静だった。だが、その歩みは、三ヶ月前より少しだけ速かった。
メルヴィアの街門は、なかった。
正確には、あった。あったが、内側から打ち壊されていた。太い樫の板材が、無残に割れ、散乱している。門番小屋は焼け落ち、その壁に、何かで引っ掻いたような跡がある。血の跡。古い血。黒ずんで、乾ききっている。
街の中に入った瞬間、四人は言葉を失った。
三ヶ月前、レイが「自由」を与えた時、この街には四百二十三人の人間がいた。元奴隷が四百人、領主の使用人が二十三人。レイは彼らに、倉庫の食料と、畑の種と、最低限の農具を与えた。
今、街にいたのは、百を少し超える程度の人間だった。
彼らは、生きていた。だが、それは「生きている」と呼んで良いものか、レイには分からなかった。
痩せていた。三ヶ月前の、圧政の下で痩せていたのとは違う。もっと深い、骨が皮膚を突き破らんばかりの、飢餓の痩せ方だった。
彼らは、街の中央広場に集まっていた。かつてレイが「これからは自由だ」と宣言した、あの場所。噴水のあった場所。今は噴水は壊れ、水は涸れ、その代わりに、石で組まれた粗末な「境界線」が引かれていた。
広場は、三つの区画に分かれていた。
一つ目の区画には、体格の良い男たちがいた。二十人ほど。彼らは唯一、まだ肉付きが良かった。手には武器。鉄の棒、削った木の槍、そして一振りの剣——レイが倉庫に残していった、農具を溶かして作った剣だった。
二つ目の区画には、女と子どもがいた。三十人ほど。彼らは、最初の区画の男たちから、見えない鎖で繋がれているように見えた。目を合わせない。身を縮めている。
三つ目の区画には、老人と病人がいた。十五人ほど。彼らは、他の二つの区画から完全に切り離され、広場の隅に追いやられていた。いくつかの影は、動いていなかった。
レイは、立ち止まった。
彼の灰色の瞳が、その光景を、隅々まで、焼き付けた。
「……レイ」
グランが、何かを言おうとした。だが、レイは手を上げて制した。
一歩、前に出た。
広場の人間たちが、レイを見た。
三ヶ月前、彼を見て泣き、笑い、「救世主」と呼んだ目が、今、レイを見ていた。
だが、その目にあったのは、感謝ではなかった。希望でもなかった。
憎悪だった。
剥き出しの、煮えたぎる、三年間溜め続けた恨みのような憎悪が、百数十の目から、レイ・アルマートに突き刺さった。
沈黙が、広場を支配した。
最初の区画——体格の良い男たちの集団——から、一人の男が立ち上がった。四十がらみ。左頬に、新しい刀傷がある。三ヶ月前、レイが首輪を外してやった男の一人だった。名前は、覚えている。ドガル。元は鉱山の奴隷だった。
「……戻ってきたのか」
ドガルが言った。声は、掠れていた。
「ああ」レイは答えた。「様子を見に——」
「様子」
ドガルが、その言葉を反芻した。そして、笑った。乾いた、割れた笑いだった。
「様子を見に、か。三ヶ月。三ヶ月も放っておいて、今さら様子を見に?」
「食料は三週間分残していった。その後は畑を——」
「畑!」
ドガルが叫んだ。その声に、広場全体の人間がびくりと肩を震わせた。
「畑だと? どの畑だ? 東の畑は、こいつらが——」ドガルは、背後の男たちを親指で示した。「こいつらが、初週で全部奪いやがった。西の畑は、水が涸れた。井戸を誰かが塞いだ。南の畑は、二週目に焼かれた。誰が焼いたか、知ってるか?」
レイは、答えなかった。
「俺だよ」ドガルが言った。「俺が焼いた」
広場が、凍った。
「西の井戸を塞いだのは、あそこの——」ドガルが、第二区画の女たちを顎で指した。「あの女どもの頭の、マーサだ。あいつは、自分のグループ以外に水をやるくらいなら、井戸を埋めるって言った。で、東の畑を奪ったのは、こいつら」
ドガルが、自分の胸を叩いた。
「俺が、奪った。力があったから。剣があったから。三週間分の食料を、初日で全部、俺のグループで押さえた。そうしなきゃ、こいつらに殺されてたからだ」
レイの唇が、わずかに開いた。閉じた。
「……なぜ」
掠れた声だった。
「なぜ、殺し合う。なぜ、奪い合う。お前たちは、同じ牢に繋がれていた仲間だろう。同じ鞭を受けていた仲間だろう。私は、お前たちを自由にした。互いに手を取り合って生きてくれと、言ったはずだ」
沈黙。
そして、それは来た。
第二区画から、一人の女が立ち上がった。痩せこけ、髪は乱れ、目だけが異様に大きい。三ヶ月前、レイに「ありがとう」と泣いて言った女の一人。
「手を取り合って?」
女の声は、静かだった。静かすぎて、逆に刃のようだった。
「あんたが去った三日目の夜、倉庫の食料をどう分けるかで、最初の喧嘩が起きた。あんたは言ったよな、『公平に分けろ』って。で、誰が公平を決める? あんたが残していった『記録簿』? 読み書きができる三人? あいつらのうち一人は、初日で食料を多めに自分に配分した。もう一人は、それを糾弾されて、夜中に殴り殺された」
女の目が、レイを射抜いた。
「三日目よ。あんたが去って、たった三日目で、人が死んだ。自由になって、三日目で」
「……それは」
「五日目には、力が強いやつが、弱いやつから配給を奪い始めた。十日目には、奪われたやつが、夜中に奪ったやつの喉を切った。二週目には、グループが三つに分かれた。三週目には、グループ同士で殺し合った。四週目には、疫病が来た。死体を埋葬する余裕がなくて、広場に放置した。蛆が湧いた。ハエが来た。子どもが、次々に——」
女の声が、途切れた。
泣いているのではない。泣くための水分が、もう体に残っていないのだ。
「あんたは、自由をくれた。ありがとう。本当に、ありがとう。……でもね」
女は、レイの足元を見た。
「自由をもらった次の朝、私は、隣の男に、パンの一切れを盗まれた。取り返そうとしたら、殴られた。歯を二本、折られた。で、その男は、私を殴ったことを、誰にも咎められなかった。なぜなら、ここに、咎める人間が、いなかったから。あんたが、全部持って行っちまったから。領主も、法も、秩序も。『自由』ってやつが、全部、持って行っちまったから」
レイは、動けなかった。
灰色の瞳が、揺れていた。
ドガルが、前に出た。
「なあ、救世主様。一つ、聞かせてくれ」
彼の声には、皮肉があった。だが、その奥に、本物の痛みがあった。
「あんたは、俺たちに自由をくれて、去った。次の戦場があるからって。それは分かる。あんたには、救うべき場所が他にもある。……だが、俺たちは、ここに残された」
ドガルは、広場を見渡した。三つの区画。動かない影。痩せた子ども。
「ここに残された俺たちに、自由は、何の役にも立たなかった。自由はな、剣を持ってるやつの特権だ。食料を握ってるやつの特権だ。俺みたいな、ただの鉱山上がりの、読み書きもできねえ、剣もろくに振れねえ人間には、自由はただ——」
言葉を切った。
「——ただ、誰に殺されるかを選ぶ権利でしかなかった」
その言葉が、レイの胸を貫いた。
三ヶ月前、丘の上で老人が言った言葉と、同じだった。
自由は、強い奴の自由だ。
俺みたいな弱え奴には、自由はただの、死に方を選ぶ権利でしかねえ。
あの時は、まだ、信じなかった。まだ、希望があった。まだ、「それは一時的な混乱だ、時間が経てば人は協力し合える」と思えた。
今は、思えない。
目の前に、証拠がある。三ヶ月分の、血と糞と、腐肉の証拠が。
「なあ、レイ」
ドガルが、一歩、近づいた。
「前の領主様は、クソだった。鞭で殴った。鉱山に閉じ込めた。毎日、十二時間、石を割らせた。……だが、パンは出た。汚い、硬い、虫の混じったパンだった。だが、毎日、決まった時間に、配られた。殴られながらも、それだけは、確実だった」
ドガルの目が、潤んだ。
「あんたは、そのパンを、全部、自由に変えちまった。で、去った。……なあ、救世主様。俺は、あのパンが欲しかった。汚くていい。虫が混じってていい。毎日、確実に出てくる、あのパンが」
広場が、静まり返った。
百数十の目が、レイを見ていた。
恨みの目。絶望の目。そして、最も残酷なことに——期待の目。「お前が、また、何かをしてくれるのだろう」という、もうほとんど死にかけの、微かな期待の目。
レイ・アルマートは、その目を見て、
吐血した。
文字通り、赤い血が、唇の端から溢れた。膝が、地面についた。
「レイ!」
グランが駆け寄る。エランナが杖を構える。テルトイアが治癒の光を手に集める。
だが、レイは、彼らの手を振り払った。
地面に膝をついたまま、広場の人間たちを見上げていた。血が、顎を伝い、地面に落ちる。
彼の灰色の瞳から、何かが、消えていた。
三ヶ月前、丘の上で燃える村を見た時に、まだ残っていた何か。三年前、初めて剣を抜いた時に、胸の奥で燃えていた何か。
希望、という名の、最後の灯火。
それが、今、メルヴィアの乾いた土の上に、血と一緒に落ちた。
その夜、四人は街の外れで野営した。
街の中には、いられなかった。あの百数十の目に、これ以上晒されていたら、レイは自分の正気を保てなかった。
焚き火を囲み、四人は黙っていた。
グランが、薪をくべていた。エランナが、膝を抱えて座っていた。テルトイアが、何かを書きつけていた——おそらく、今日の街の状況。死者の数。病人の数。食料の残量。
レイは、少し離れた場所で、地面に座っていた。
空を見ていた。星が出ている。三ヶ月前も、同じ星が出ていた。あの時は、「自由を与えた」という充足感で、星が綺麗に見えた。
今は、ただ、冷たい光の点にしか見えない。
「レイ」
エランナが、近づいてきた。隣に座る。
「……言いたいことがあるなら、言って」
レイは、しばらく黙っていた。焚き火が爆ぜる音。虫の鳴き声。遠くで、街の方から、子どもの泣き声が聞こえた。
「私は、間違っていた」
声は、平坦だった。感情が抜け落ちた後の、空っぽの器のような声。
「人を解放すれば、人は互いに助け合えると思った。自由を与えれば、善意が善意を生むと思った。……それは、幻想だった」
エランナは、何も言わなかった。ただ、聞いていた。
「自由は、弱者を守らない。自由は、強者に、弱者を食う権利を与えるだけだ。私は、四百人の奴隷を解放したのではない。四百人を、弱肉強食の闘技場に、武器も持たずに放り込んだだけだ」
レイの手が、地面を握った。爪が、土に食い込む。
「領主の圧政は、地獄だった。だが、それは少なくとも、管理された地獄だった。パンが出た。順番があった。……私が与えた『自由』は、それ以下の地獄だった。管理すらされない、純粋な、剥き出しの地獄だった」
沈黙。
グランが、薪をくべる手を止めた。テルトイアが、書く手を止めた。
「……だから、どうする」
グランが、静かに聞いた。非難ではない。問いかけだった。
レイは、ゆっくりと顔を上げた。
灰色の瞳に、もう、震えはなかった。三ヶ月前の、理想に燃える青年の光もなかった。あるのは、何かを失った後の、透明な、恐ろしいほどの静けさだった。
「自由を、与えない」
四人の間に、冷たい風が吹いた。
「……何?」エランナが、眉を寄せた。
「自由を、与えない。二度と。誰にも」
レイは、立ち上がった。焚き火の光が、彼の影を、長く、長く、地面に引き延ばした。
「人が自らの意志で隣人を愛せぬというのなら、法と制度で愛させる。人が自らの意志で公平にパンを分けられぬというのなら、パンを配る仕組みを、力ずくで組み込む。人が自らの意志で殺し合うのをやめられぬというのなら、殺し合った瞬間に、殺した者が死ぬ仕組みを作る」
声が、変わっていた。
三ヶ月前の、熱い声ではない。昨日までの、迷いを孕んだ声でもない。
冷たい。透明な。しかし、その奥底に、溶岩のような決意を秘めた声。
「慈悲では、救えない。善意では、救えない。……救うのではない。組み込むのだ。誰もが逆らえぬ、完璧な歯車の一部として」
グランが、立ち上がった。
「レイ。お前、何を——」
「領主を倒す。盗賊を討つ。それは、これまで通りだ。だが、その後が、変わる」
レイは、振り返った。焚き火の光が、その顔を照らした。
笑っていない。泣いてもいない。怒ってもいない。
ただ、見ていた。仲間たちを。この世界を。これから自分が作らねばならないものを。
「戸籍を作る。全員の。一人残らず。名前、年齢、住処、職能、健康状態。すべてを記録する」
テルトイアが、書く手を止めたまま、レイを見ていた。
「監視する。全員の。行動を。移動を。生産を。消費を。すべてを、記録し、管理する」
エランナの目が、見開かれた。
「配給する。食料も、医療も、住居も。すべて、国が。個人の裁量ではない。善意でもない。制度で。仕組みで。誰が権力の座にいても、同じ配給が、同じ順番で、確実に行われる仕組みを、作る」
沈黙。
長い、長い沈黙。
グランが、口を開いた。
「……それは、自由の否定だ」
「そうだ」
レイは、即答した。
「自由は、弱者を殺す。私は、弱者を殺さない。たとえ、弱者自身が『自由が欲しい』と叫んでも、私は与えない。与えれば、彼らは死ぬからだ」
「それは——」グランが、拳を握った。「それは、奴隷と同じじゃないか。領主の代わりに、お前が首輪を付けるってことじゃないか」
レイは、グランを見た。
その目に、悲しみがあった。ほんの一瞬だけ。だが、確かにあった。
「そうだ、グラン。お前の言う通りだ。私は、全人類に首輪を付ける。だが、その首輪は、外されない。私の死後も。千年後も。永遠に」
風が、止んだ。
虫の声も、止んだ。
世界が、息を止めた。
「だが、その首輪の下で、誰も飢えない。誰も殺されない。誰も、メルヴィアのような地獄を見ない。……それ以外に、方法がない」
レイの声が、最後に、わずかに震えた。
「私は、英雄にはなれない。……だが、魔王になら、なれる」
その言葉が、夜気に溶けた。
エランナが、何かを言おうとして、口を開いた。閉じた。
テルトイアが、ペンを置いた。
グランが、拳を握りしめたまま、レイを見ていた。長い、長い間、見ていた。
そして、何も言わなかった。
焚き火が、爆ぜた。
四人の影が、地面に揺れた。三ヶ月前、同じ焚き火を囲んでいた時は、四つの影は、同じ方向を向いていた。
今は、レイの影だけが、別の方向を向いていた。
まだ、誰も離れてはいない。まだ、四人は、ここにいる。
だが、この夜、メルヴィアの荒野で、四人の間に見えない亀裂が走ったことを、彼ら自身が、まだ気づいていなかった。
レイ・アルマートは、空を見上げた。
星が、冷たく光っていた。
三ヶ月前と同じ星。だが、もう、綺麗には見えなかった。
見えるのは、ただ、無数の光の点。管理すべき対象。配置すべき座標。
英雄レイ・アルマートは、この夜、死んだ。
代わりに生まれたものは、まだ名前を持たなかった。
千年後の歴史書が、それを「魔王」と呼ぶことになる。
第二章 了
■第三章 秩序の設計図
レイ・アルマートは、一睡もしていなかった。
夜が明ける。カルデン盆地の東端、メルヴィアの街から半里離れた岩場の陰で、四人の野営地が朝靄に沈んでいる。焚き火はとうに消え、白い灰だけが、昨夜の会話の残骸のように地面に残っていた。
レイは、岩に背を預けて座っていた。膝の上には、テルトイアから借りた記録帳が開かれている。だが、そこに書かれているのは、昨日までの戦いの報告ではない。
数字だった。
無数の数字。
メルヴィアの人口。四百二十三人。そのうち、三ヶ月で死んだ者の数。二百九十一人。生き残った百三十二人の内訳。壮年男が三十七。女が四十一。子どもが二十九。老人が十五。病人が十。
その横に、別の計算がある。
食料。倉庫の残量から逆算して、百三十二人を養うには一日あたり何カロリーの配給が必要か。水源の容量から、一日に汲み上げられる水の上限。畑の面積から、次の収穫までに何日かかるか。その間に何人が飢えるか。飢えた者が何人を殺すか。殺された者が減ることで、残りの者の生存率が何パーセント上がるか。
全部、計算していた。
一晩かけて。一睡もせずに。
ペンを握る指が、凍えている。墨が、指先に黒い染みを作っている。レイの灰色の瞳は、数字の列を、感情というものを一切介さずに追っていた。
三ヶ月前のレイなら、この計算を見て嘔吐しただろう。「人を数字で扱うな」と怒鳴っただろう。
今のレイは、ただ、次の行を書いていた。
——配給は、一日二回。朝と夕。量は、年齢と職能に応じて三段階に固定。余剰の蓄積を禁ずる。私蔵は即座に没収。
——居住区は、家族単位ではなく、職能単位で編成する。農耕班、建築班、衛生班、警備班。各五名から十名。班長一名を任命。班長は、班員の行動を毎日報告する義務を負う。
——移動の自由を制限する。居住区から半径一里以上の移動には、班長と管理人の二重許可を要する。無許可の移動は、配給の停止をもって罰する。
書いて、書いて、書いた。
ペンが止まったのは、朝日が岩場の稜線から顔を出した時だった。
レイは、書き上げた頁を見つめた。三頁にわたる、びっしりとした文字と数字。
それが、まだ名前もない「何か」の、最初の設計図だった。
「……レイ」
グランの声だった。
振り返ると、グランが岩の陰から顔を出していた。両手剣を背負ったまま、腕を組んでいる。その目は、レイの手元の記録帳を見ていた。
「一晩中、起きていたのか」
「ああ」
「……何を書いてる」
レイは、少しの間、グランを見た。それから、記録帳を差し出した。
「読んでくれ」
グランは、受け取った。三頁にわたる文字を、ゆっくりと目で追った。読書が得意な男ではない。だが、数字と、そこに込められた意味は、戦場で鍛えた直感で読み取れる。
読み終えた時、グランの表情は、複雑だった。
「……これは」
「メルヴィアに適用する管理案だ」
「管理」
「そうだ。百三十二人を、この仕組みで回す。食料の配給。居住の編成。移動の制限。衛生の徹底。すべてを、規則で固定する」
グランは、記録帳を閉じた。閉じたまま、しばらく黙っていた。
「……レイ。これは」
「分かっている」レイは、先回りして言った。「自由の否定だ。お前が昨夜、言いたかったことだろう」
グランの顎が、わずかに動いた。
「俺は——」
「お前の言いたいことは、正しい。人は自由であるべきだ。自分の足で立ち、自分の手で耕し、自分の意志で隣人を愛すべきだ。……三ヶ月前の私は、そう信じていた」
レイは、立ち上がった。朝日が、彼の痩躯を照らした。影が、長く伸びる。
「だが、メルヴィアを見ろ。自由を与えられた百三十二人が、三ヶ月で何をした。二百九十一人が死んだ。殺し合いで。飢えで。疫病で。……自由は、彼らを殺した」
沈黙。
グランは、記録帳を握りしめたまま、何も言えなかった。
「私は、もう、人を自由にしない。自由は、弱者から奪い、強者に与える。私は、その逆をする。弱者に配給し、強者の略奪を禁じる。全員を、同じ檻に入れる。……それが、私が三ヶ月かけて出した答えだ」
「檻、か」
「そうだ。だが、その檻の中で、誰も飢えない。誰も殺されない。誰も、メルヴィアの二の舞にはならない。……それ以外に、方法がない」
グランは、長い間、レイを見ていた。
それから、記録帳を返した。
「……俺には、分からん」グランの声は、低かった。「だが、お前がそう言うなら、そうなんだろう。……ただ、一つだけ」
「言え」
「お前が、その檻の鍵を握るんだろ。お前が、配給の量を決め、移動の許可を出し、規則を破った者を罰する。……お前は、何になるんだ、レイ。領主か。王か」
レイは、答えなかった。
答えられなかったのではない。答えが、まだ、自分の中で形を成していなかった。
ただ、一つだけ、確かなことがあった。
英雄ではない。
それだけは、確信していた。
朝の光が完全に広がった頃、エランナとテルトイアが起きた。
四人は、岩場の陰で向かい合った。昨夜の焚き火の跡を囲んで。灰が、朝風に吹かれて、わずかに舞った。
レイは、記録帳を開いた。三頁の設計図を、三人の前に置いた。
「聞いてくれ」
声は、平坦だった。昨夜の、血を吐いた後の、あの平坦さがあった。
「私は、これから戦い方を変える」
エランナが、眉を上げた。テルトイアが、記録帳に目を落とした。
「これまでは、領主を倒し、盗賊を討ち、民を解放してきた。……だが、解放の後に、何が残った。メルヴィアだ。二百九十一人の死体だ。自由という名の、管理なき地獄だ」
三人は、黙って聞いていた。
「だから、変える。解放しない。代わりに、組み込む」
レイは、記録帳の最初の頁を指差した。
「戸籍を作る。この地にいる全員の。名前、年齢、性別、健康状態、職能、家族構成。一人残らず。漏れなく。……それが、すべての基礎になる」
テルトイアが、目を細めた。参謀の目が、すでに計算を始めている。
「戸籍の目的は」
「管理だ。誰がどこにいて、何ができ、何を必要としているか。すべてを把握する。把握できなければ、配給できない。配給できなければ、人は飢える。飢えれば、殺し合う。……メルヴィアに戻る」
エランナが、腕を組んだ。
「配給。……食料を、国が配るということ?」
「そうだ。個人の裁量に任せない。善意に任せない。『今日は何を食べようか』という選択すら、システムが行う。朝と夕、決まった時間に、決まった量が、決まった順番で配られる。領主のパンだ。汚くてもいい。虫が混じっていてもいい。だが、確実に出る。毎日。全員に。同じ量で」
昨夜、ドガルが言った言葉。汚いパンの一片でもいい、毎日決まった時間に配給してくれる前の領主様の方がマシだった。
レイは、その言葉を、システムに変えようとしていた。
「移動は」グランが、短く聞いた。
「制限する。居住区から一定距離以上の移動には、許可を要する。無許可の移動は、配給の停止で罰する。……逃亡を防ぐためではない。疫病の拡散を防ぎ、盗賊の侵入を防ぎ、配給の計算を正確に保つためだ」
「……それは」エランナが、口を開きかけた。
「監視もする」
レイは、遮った。遮って、続けた。
「各居住区に、管理人を置く。班長を置く。彼らは、班員の行動を毎日記録し、上位の管理人に報告する。誰が何を言ったか。誰がどこへ行ったか。誰が規則を破ったか。すべて、記録に残す」
沈黙が、落ちた。
朝の風が、四人の間を吹き抜けた。
グランが、腕を組んだまま、地面を見ていた。エランナが、唇を噛んでいた。テルトイアだけが、記録帳をじっと見つめ、何かを考えていた。
「……レイ」
テルトイアが、口を開いた。声は、静かだった。
「この設計図。メルヴィアの百三十二人用か」
「今は、そうだ」
「今は」
テルトイアが、レイを見た。その目に、参謀特有、先を読む光があった。
「お前は、これを、拡大するつもりだな」
レイは、答えなかった。だが、その沈黙が、答えだった。
「……北大陸の、全部か」
「いずれは」
言葉が、朝の空気に落ちた。
グランが、顔を上げた。エランナが、息を呑んだ。
「北大陸には、十七の領主がいる」テルトイアが、淡々と言った。「三つの盗賊団の連合がある。二つの独立商業都市がある。そして、南には、まだ我々が足を踏み入れていない未知の勢力がある。……お前は、それらすべてを、この仕組みに組み込むつもりか」
「そうだ」
「武力で」
「武力で。そして、制度で。剣で倒し、戸籍で縛る。一度倒した者は、二度と立ち上がれない仕組みを作る。領主の座を奪うのではない。領主という概念そのものを、廃する。代わりに、システムを置く。人が人でない。歯車が歯車である世界を」
エランナが、立ち上がった。
「レイ。……あなた、自分が何を言っているか、分かっている?」
「分かっている」
「全部の人間の、全部の行動を、記録して、管理して、配給して、監視して。……それは、人が人として生きることを、やめさせるということよ」
「人は、人として生きて、メルヴィアで二百九十一人死んだ」
レイの声は、変わらなかった。平坦な、透明な声。
「私は、人が人として死ぬのを見るのは、もう嫌だ。人として生きられぬというのなら、歯車として生きさせる。歯車は、飢えない。歯車は、殺し合わない。歯車は、ただ、与えられた役割を、与えられた分だけ、こなす。……それでいい。それで、生きられるなら」
エランナは、何も言えなかった。
言いたいことは、山ほどあった。それは違う。人は、そんなものじゃない。自由がなければ、生きていても死んでいるのと同じだ。
だが、メルヴィアが、その言葉を封じていた。二百九十一人の死体が、その言葉を封じていた。
彼女は、唇を噛んだまま、座り直した。
その日、四人はメルヴィアに戻った。
百三十二人の目が、また、レイを見た。昨夜と同じ、憎悪と、絶望と、微かな期待の混ざった目。
レイは、広場の中央に立った。三ヶ月前、「これからは自由だ」と宣言した、あの場所に。
「聞いてくれ」
声が、広場に響いた。百三十二人が、レイを囲んだ。
「三ヶ月前、私はお前たちに自由を与えた。……それは、間違いだった」
ざわめきが、走った。
「自由は、お前たちを殺した。二百九十一人が死んだ。私のせいだ。……だから、やり直す」
レイは、一歩、前に出た。
「今日から、この地に、規則を設ける。食料は、私が配る。朝と夕、二回。量は、全員同じ。子供も、老人も、病人も。……盗みは禁じる。殺しは禁じる。無断の移動は禁じる。破った者は、配給を止める。二度破った者は、この地から追放する」
沈黙。
百三十二人が、レイを見ていた。
「……領主様になるのか」
誰かが、言った。
「違う」レイは、即答した。「領主は、自分のために民を搾取する。私は、搾取しない。私は、配る。管理する。記録する。……お前たちの上に立つのではない。お前たちの間に、仕組みを置く。私が死んでも、この仕組みが残り続ける仕組みを」
ざわめきが、少し変わった。
憎悪が、完全に消えたわけではない。だが、その奥に、別のものが浮かび始めていた。
安心、とまでは言えない。だが、少なくとも、「明日、パンが出る」という、最小限の確信。
ドガルが、群衆の中から前に出た。昨夜、レイに「自由は死に方を選ぶ権利でしかなかった」と言った男。
「……パンは、出るのか。毎日」
「出る」
「確実にか」
「確実だ。私が、この目で、全員に配る。一人も漏らさず」
ドガルは、レイを、長い間、見ていた。
それから、鼻で笑った。
「……領主様より、マシか」
「マシにする」
「……分かった」
ドガルは、振り返った。百三十二人に向かって、言った。
「こいつの言うことを、聞こう。……自由で死にたくない奴はな」
誰も、反対しなかった。
反対できる者は、もう、この地にはいなかった。二百九十一人が、反対の権利を、死と一緒に持って行ってしまった。
その日から、レイ・アルマートは、メルヴィアの「管理者」になった。
領主ではない。王でもない。ただの、管理者。
毎朝、夜明け前に起きた。倉庫の食料を数え、配給の量を計算した。百三十二人分。年齢と健康状態で、三段階に分ける。壮年には多めに。子どもと老人には少なめに。だが、誰もゼロにはしない。ゼロは、死を意味する。
朝の配給。夕の配給。レイは、自ら、全員に手渡した。一人一人の顔を見て。名前を呼んで。記録帳に、印を付けて。
三日目。居住区の再編成を行った。班を組ませた。班長を任命した。班長には、班員の所在を毎夕報告する義務を課した。
五日目。井戸の管理を一元化した。水の使用量を記録した。
七日目。最初の規則違反者が出た。食料の私蔵。レイは、その者から私蔵分を没収し、配給を一日停止した。
男は、泣いた。許してくれと、言った。
レイは、許さなかった。
「一度許せば、次は二人が破る。二人を許せば、四人が破る。四人を許せば、百三十二人が破る。百三十二人が破れば、配給は崩壊する。崩壊すれば、メルヴィアに戻る。……私は、メルヴィアに戻さない」
男は、泣きながら、一日を飢えた。
翌朝、配給を受け取った時、男は、レイを見た。その目に、恨みがあった。だが、それ以上に、安堵があった。
今日も、パンが出た。
その安堵が、レイには、すべてだった。
二週間が過ぎた。
メルヴィアは、変わっていた。
殺し合いが、止んだ。飢え死にが、止んだ。疫病の拡大が、止まった。百三十二人の数が、初めて、減らなかった。
代わりに、笑顔も、止んだ。
朝、配給を受け取る列に、会話はなかった。夕、居住区に戻る道に、歌声はなかった。人々は、与えられた場所で、与えられた量を、与えられた順番で受け取り、与えられた時間まで働き、与えられた場所で眠った。
歯車のように。
レイは、それを、毎晩、記録帳に書きつけた。百三十二人の、一日の記録。誰がどこで何をしていたか。誰が誰と話をしたか。誰の表情が、昨日より暗くなったか。
書いて、書いて、書いた。
夜更け。エランナが、レイの横に座った。
「……ねえ、レイ」
「何だ」
「あなた、寝てる?」
「寝ている」
「嘘。目の下、黒い」
レイは、答えなかった。ペンが、止まらなかった。
エランナは、しばらく、レイの横顔を、見ていた。
「……メルヴィアは、確かに、落ち着いた。誰も死んでいない。それは、すごいことよ。あなたがやったこと」
「ああ」
「でも」
ペンが、止まった。
「でも、彼ら、笑わなくなった」
レイは、何も言わなかった。
「前は、たとえ飢えていても、たとえ殴られていても、笑う時があった。子どもが走り回って、大人が怒って、それでも、どこかで、笑い声がしていた。……今は、ない。全部、あなたの規則の中にある。全部、あなたの計算の中にある。彼らは、生きている。でも、生きているだけ。……ねえ、レイ。これが、あなたの言う『救い』?」
レイは、ペンを置いた。
記録帳を閉じた。
エランナを見た。灰色の瞳に、何の感情も浮かんでいなかった。怒りも、悲しみも、反論も。
「そうだ」
一言だけだった。
「これが、私の言う救いだ。笑わなくてもいい。歌わなくてもいい。走らなくてもいい。……生きていれば、いい。生きて、明日を迎えられれば、それで、いい」
エランナは、口を開いた。閉じた。
何かを言いたかった。だが、言葉にならなかった。
それは、生きてることになるの?
その問いが、喉の奥まで来て、しかし、出せなかった。
出せば、レイが壊れると、分かったから。
いや——レイは、もう、壊れている。
三ヶ月前のメルヴィアで。二百九十一人の死体の前で。血を吐いたあの夜に。
壊れたものを、設計図で繋ぎ止めている。数字で。規則で。仕組みで。
エランナは、それ以上、何も言わなかった。ただ、立ち上がり、自分の寝床に戻った。
レイは、記録帳を、また、開いた。
ペンが、走った。
百三十三行目。百三十四行目。百三十五行目。
百三十二人の、明日の記録を、今日、書いている。
一ヶ月が過ぎた時、テルトイアが、レイに提案した。
「レイ。この仕組みを、メルヴィアだけに留めるつもりはないのだろう」
「ない」
「ならば、軍が要る。この仕組みを、他の土地にも適用するための、力が」
レイは、ペンを止めた。テルトイアを見た。
テルトイアは、一冊の書を開いていた。そこには、北大陸の地図が描かれていた。十七の領主。三つの盗賊団。二つの商業都市。
「お前の剣だけでは、足りない。お前一人では、十七の領主を同時に倒せない。……兵が要る。お前の意志を、お前の代わりに執行する、兵が」
「……分かっている」
「ならば、作ろう。お前の思想を、そのまま形にした軍を」
テルトイアが、地図の上に、指を置いた。
「名前を、つけろ。お前の軍の名を」
レイは、しばらく、地図を見ていた。
十七の領主。三つの盗賊団。二つの商業都市。それらのすべてが、まだ「自由」の中にいる。まだ、管理されていない。まだ、メルヴィアになる可能性がある。
ならねばならない。
「……黒鉄の執行秩序」
呟いた。
「フェルム・オルド」
テルトイアが、その名を、反芻した。
「黒鉄。……感情のない、冷たい、均一な鉄」
「そうだ。個人の武功も、名誉も、ない。あるのは、全体の機能だけ。一つの歯車が欠ければ、別の歯車が即座に補う。感情で動かない。慈悲で止まらない。ただ、与えられた命令を、与えられた通りに、執行する」
テルトイアは、頷いた。
「……分かった。俺が、兵站と編成の設計をする。グランに、前線の指揮を。エランナに、魔導結界と防衛の構築を。……お前は、全体の総帥として、すべての最終決定を下す」
四軍管区。
まだ、この時は、四人が揃っていた。まだ、この時は、それぞれの役割が、機能していた。まだ、この時は、グランが剣を握り、エランナが杖を振り、テルトイアが知恵を絞り、レイがすべてを統べていた。
まだ、この時は。
「始めるぞ」
レイが言った。
四人が、頷いた。
黒鉄の執行秩序——フェルム・オルド。
千年後、北大陸の全域を覆い、人類のすべてを管理下に置くことになる、あの巨大な歯車の、最初の一個が、この日、メルヴィアの荒野で、鋳造された。
その夜、レイは、一人、丘の上に立っていた。
メルヴィアの街が、眼下に見える。規則正しく並んだ居住区。班ごとに分けられた区画。中央の広場に、明日の配給のために並べられた、百三十二人分の器。
静かだった。
三ヶ月前、この地には、叫び声があった。泣き声があった。殺し合いの音があった。
今は、何もない。
ただ、配給の器が、月光を反射して、白く光っている。
レイは、それを見ていた。
満足していたか。
分からない。
安堵していたか。
分からない。
ただ、一つだけ、確かなことがあった。
明日も、パンが出る。百三十二人分。一人も漏らさず。
それだけで、十分だった。
十分でなければならない。
レイは、丘を下りた。記録帳を、また、開くために。
百三十二人の、明日を、今日、書くために。
英雄レイ・アルマートの物語は、この日で終わった。
始まったのは、まだ名もない、別の何かの物語だった。
千年後の歴史書が、それを「魔王の治世」と呼ぶことになる。
第三章 了
■第四章 黒鉄の行進
旗は、なかった。
軍が旗を掲げぬというのは、この時代においては異常だった。領主の軍は旗を掲げる。紋章を掲げる。「我らは誰々の兵である」と示すために、色とりどりの布を風に翻す。それは誇りであり、威嚇であり、存在の証明だった。
レイ・アルマートの軍には、それがない。
あるのは、黒鉄だけだった。
メルヴィアの街門をくぐり、カルデン盆地の平野に出たのは、百二十人の兵だった。三ヶ月前、レイがメルヴィアを「管理」し始めてから、わずか二ヶ月。その間に、百三十二人の居住者の中から志願者を募り、テルトイアの設計した編成表に従って訓練した、最初の「執行部隊」だった。
百二十人。少ない。隣接するヴァルゲン領の領主が擁する兵力は、八百と聞く。
だが、レイは気にしていなかった。
数ではない。機能だ。
百二十人の兵は、全員が同じ装束を纏っていた。黒鉄の胸甲。黒鉄の兜。兜は、フルフェイス——顔全体を覆う仮面型で、目の部分にだけ細いスリットがある。表情が、見えない。笑っているのか、怒っているのか、怯えているのか、何も分からない。
ただ、黒い鉄の面が、百二十個、朝日に光っていた。
「……気味が悪いな」
グランが、列の横を歩きながら呟いた。彼だけは兜を被っていない。その武骨な顔が、百二十の無表情な仮面の中で、異様に浮いていた。
「顔が見えなければ、個人がなくなる」レイが、前を向いたまま答えた。「個人がなくなれば、功名心も、恐怖も、慈悲も、なくなる。あるのは、命令と、執行だけだ」
「……それが、お前の理想の兵か」
「理想ではない。必要だ」
グランは、それ以上、何も言わなかった。だが、その握った両手剣の柄に、少しだけ力がこもっていた。
ヴァルゲン領は、メルヴィアの東に位置する。
領主は、ヴァルゲン男爵。五十がらみの肥えた男で、領内の農民から収穫の六割を税として取り、逆らう者は広場で鞭打つことで知られていた。奴隷もいた。鉱山で魔石を掘るための奴隷が、三百人。
三ヶ月前のレイなら、こうしていただろう。
ヴァルゲン男爵を倒す。奴隷の首輪を外す。食料を分け与える。「これからは自由だ」と言う。去る。
今は、違う。
レイは、行軍の途中で、百二十人の兵に向かって、一度だけ口を開いた。
「聞く。我々の目的は、ヴァルゲン男爵の打倒ではない」
百二十の黒鉄の仮面が、レイを見た。
「目的は、ヴァルゲン領の『取得』だ。土地を、人を、資源を、すべて、我々の管理下に置く。男爵を殺すのは、そのための手段に過ぎない。……理解しているか」
百二十人が、同時に、頷いた。
声はなかった。掛け声も、雄叫びもなかった。
ただ、百二十個の黒鉄の仮面が、一斉に、同じ角度で、頷いた。
グランが、その光景を見て、わずかに眉を寄せた。
ヴァルゲン領の境界に到達したのは、行軍二日目の正午だった。
領の入口には、見張りの兵が四人いた。ヴァルゲン男爵の私兵だ。革の鎧に、錆びた槍。訓練を受けた兵というよりは、農民に槍を持たせたような、頼りない風体だった。
四人の見張りは、丘の上から現れた百二十人の黒鉄の列を見て、最初、動けなかった。
旗がない。紋章がない。何者か分からない。ただ、黒い鉄の仮面が、百二十個、無言で、同じ歩幅で、近づいてくる。
見張りの一人が、槍を構えた。
「止まれ! 何者だ! ヴァルゲン男爵様の領地だ、通行手形を——」
言葉は、終わらなかった。
レイが、手を上げた。
それだけだった。
百二十人の兵が、同時に、動いた。
先頭の四人が、見張りに向かって走る。槍を構える間もなかった。黒鉄の拳が、見張りの顔面を打ち、地面に叩きつけた。殺してはいない。気絶させただけだ。
残りの百十六人が、見張り小屋を包囲した。扉を破り、中にいた者を引きずり出した。武器を取り上げた。手足を縛った。
すべてが、三十秒で終わった。
悲鳴も、剣戟の音も、なかった。ただ、鈍い打撃の音と、革紐が締まる音だけ。
レイは、気絶した見張りの一人の前に屈み込んだ。仮面の下から、灰色の瞳だけが覗いている。
「……起こせ」
兵の一人が、水筒の水を見張りの顔にかけた。見張りが、咳き込みながら目を開けた。目の前に、黒鉄の仮面がある。悲鳴を上げようとした。
「叫ぶな」レイの声は、平坦だった。「質問に答えろ。ヴァルゲン男爵の居城は、この先何里だ」
「ひ、東に……三里……」
「兵力は」
「八……八百……」
「奴隷は」
「鉱山に……三百……」
「分かった」
レイは、立ち上がった。見張りに背を向けた。
「縛ったまま、ここに置け。三日以内に我々の管理人が来る。それまで、水とパンを一日一回与えろ。殺すな。傷つけるな」
兵が、頷いた。
グランが、レイの横に並んだ。
「殺さないのか」
「殺さない。彼らは、ヴァルゲン男爵の『所有物』だ。所有物に罪はない。……罪があるのは、所有者だけだ」
「……所有物、か」
グランの声に、微かな棘があった。レイは、それを聞いた。聞いたが、反応しなかった。
「行軍を続ける」
百二十人が、また、同じ歩幅で、歩き始めた。
ヴァルゲン男爵の居城は、丘陵の上にあった。
石造りの、さほど大きくない城。だが、周囲に八百の兵が配置されている。城壁の上には弓兵。門の前には槍兵の列。
八百対百二十。
通常の戦いなら、話にならない。
だが、レイは、通常の戦いをするつもりはなかった。
城から半里の距離で、軍を止めた。レイは、一人で、城門の前に歩み出た。
黒鉄の兜を脱いだ。灰色の瞳が、城壁の上の兵たちに見えた。痩躯。長剣。一人。
城壁の上から、嘲笑が飛んだ。
「何だ、あいつは! 一人で来たのか!」
「降伏の使者か? 笑わせる!」
レイは、城門を見上げた。それから、懐から、一枚の羊皮紙を取り出した。
声は、張らなかった。だが、魔力を乗せた声が、城壁の隅々まで、明瞭に届いた。
「ヴァルゲン男爵に告ぐ。私は、レイ・アルマート。メルヴィアの管理者だ。これより、この地の管理権を、私に移管する」
城壁が、ざわめいた。
「移管だと? 何を言っている!」
「降伏せよ、とは言わない。戦え、とも言わない。ただ、告げる。この地は、今日から、私の管理下に入る。お前たちの主人は、今日で終わる。……抵抗すれば、排除する。抵抗しなければ、明日の朝、パンが出る」
沈黙。
それから、城門が開いた。
開いたのではない。内側から、こじ開けられた。
ヴァルゲン男爵が、八百の兵を引き連れて、城外に出てきた。肥えた体。豪華な毛皮のマント。腰には、装飾剣。
「……貴様が、メルヴィアの」
ヴァルゲン男爵が、レイを睨んだ。
「メルヴィアの管理者、だと。ふん。解放者気取りの、小僧か。……我が領に何の用だ」
「管理権の移管を、求めている」
「求める、だと」男爵が、笑った。「断る、と言ったら」
「排除する」
「八百の兵で、お前の百二十を?」男爵が、後ろを振り返った。八百の兵が、槍を構え、弓を番えている。「笑わせる。貴様一人、まず串刺しにして——」
男爵が、手を上げた。弓兵に、射撃の合図を出そうとした。
その手が、落ちる前に、レイが動いた。
速かった。
人間の目で追える速度ではなかった。
レイの右手が、腰の長剣を抜いた。同時に、左手が、地面に触れた。魔力が、大地を走る。
魔法剣——レイ・アルマートが、この混沌の時代を生き抜いてきた、唯一にして絶対の力。
剣が、光った。
斬撃ではない。魔力の波動が、レイの足元から、半径三十間にわたって、地面を這うように拡散した。
八百の兵の足元が、凍った。
文字通り、凍った。地面から湧き上がった氷が、八百人の足首を、脛を、膝を、瞬時に捕らえた。動けない。弓を引けない。槍を振れない。
八百人が、凍りついた地面に、磔になった。
悲鳴が、上がった。
レイは、剣を構えたまま、ヴァルゲン男爵を見ていた。男爵だけが、凍っていなかった。レイが、意図的に、男爵の足元だけは避けていた。
「……な、何だ……これは……」
男爵が、後ずさった。肥えた体が、震えていた。
「魔法剣」レイが、淡々と言った。「お前の八百の兵は、今、動けない。三十分で溶ける。その間に、お前が降伏すれば、誰も死なない」
「……降伏……」
「降伏だ。お前の領地は、私が管理する。お前の兵は、解除する。お前の奴隷は、解放する。……ただし」
レイが一歩、近づいた。
「お前の『所有物』だった三百人の奴隷は、自由にはならない。私の管理下に入る。戸籍を与え、配給を与え、職能を与える。……お前が鞭で管理していた代わりに、私が制度で管理する。違いは、それだけだ」
男爵の目が、見開かれた。
「……それは、奴隷のままではないか。主人が、私から、お前に変わるだけ——」
「違う」
レイの声が、冷たくなった。
「お前は、気分次第で鞭を振るった。気分次第で殺した。気分次第で配給を止めた。……私は、しない。私は、規則で動く。朝と夕に、決まった量のパンが出る。病になれば、治療が受けられる。働けば、住処が保証される。……お前の管理と、私の管理の、唯一の違いは、そこに『気まぐれ』があるかないかだ」
男爵は、口を開いた。閉じた。
八百の兵が、凍った地面で、身動きが取れないまま、レイと男爵のやり取りを見ていた。
長い沈黙。
ヴァルゲン男爵が、膝を折った。
肥えた体が、地面に崩れた。装飾剣が、手から滑り落ちた。
「……降伏、する」
レイは、剣を収めた。
左手を、地面から離した。氷が、徐々に溶け始める。
「良い判断だ」
それだけ言って、レイは、振り返った。百二十人の黒鉄の兵に向かって、手を上げた。
「入城。戸籍班、先行。鉱山の奴隷三百名の確保。居住区の選定。配給拠点の設営。……日没までに、全員の名前を記録しろ」
百二十人が、動いた。
黒鉄の仮面の下から、声はなかった。ただ、百二十の体が、同じ速度で、城門に向かって歩いた。
城に入った百二十人の兵は、戦わなかった。
戦う必要がなかった。八百の兵は、まだ凍った地面から這い出している最中だった。武器を構える者は、一人もいなかった。
だが、彼らがしたのは、戦いではなかった。
記録だった。
城の広間に、長机が並べられた。百二十人の兵のうち、三十人が「戸籍班」として、机に着いた。彼らの前には、羊皮紙と、墨と、ペンが積まれていた。
城の住民——使用人、兵士、奴隷、全員が、長机の前に並ばされた。
「名前」
戸籍班の兵が、聞いた。黒鉄の仮面の下の、平坦な声。
「……ト、トム。トム・ハーゲン」
「年齢」
「三……三十二」
「職能」
「槍兵……です」
「家族構成」
「女房と、子が二人……」
「記録した。次」
一人、また一人。延々と。三百人の奴隷も、八百人の兵も、城の使用人も、全員。
名前。年齢。性別。職能。健康状態。家族構成。
三ヶ月前、レイがメルヴィアで百三十二人にしたことを、今、千二百人規模で、機械的に、感情なく、繰り返している。
奴隷だった者たちは、怯えていた。また鞭が来ると思った。また、売られると思った。
だが、来なかった。
来たのは、質問だけだった。名前と、年齢と、明日から何の仕事をしたいか、という質問だけ。
「……俺は、自由になるのか」
奴隷の一人が、震える声で聞いた。鉱山で十年、魔石を掘り続けていた男。背中は鞭の跡で隆起し、指は変形している。
戸籍班の兵が、一瞬、黙った。黒鉄の仮面の下で、何を考えているか、分からない。
それから、答えた。
「自由にはならない。管理に入る。明日から、鉱山ではなく、居住区の建築班に配属される。朝と夕に、配給が出る。病気になれば、医者が来る。……以上だ。次」
男は、呆然としていた。
自由にはならない。だが、鞭も来ない。売られもしない。ただ、配給が出て、仕事があって、住処がある。
それが、十年ぶりの「明日の保証」だった。
男は、泣いた。声を出さずに、ただ、涙だけが、変形した指の上に落ちた。
日没。
ヴァルゲン城の広間に、レイと三人の仲間が集まった。
一日で、千二百人の戸籍が記録された。居住区の割り当てが完了した。配給拠点の設営が済んだ。鉱山の奴隷三百人は、明日から建築班と農耕班に振り分けられる。
テルトイアが、報告書をレイに渡した。
「千二百人。壮年男が四百八十。女が三百二十。子どもが百九十。老人が百三十。病人が八十。……配給の計算は、メルヴィアの方式で回せる。水源も十分。畑の面積は、メルヴィアの三倍ある。問題は、ない」
「分かった」
レイは、報告書に目を通した。数字を追った。計算が合うことを確認した。
グランが、壁に背を預けて、腕を組んでいた。一日中、何もしていなかった。戦いがなかったのだから、剣を振るう必要もなかった。
「……レイ」
「何だ」
「あの八百の兵。どうする」
「戸籍に入れた。明日から、居住区の警備班に再編成する。ヴァルゲン男爵の私兵ではなくなる。私の管理下の、警備要員になる」
「……元敵兵を、そのまま使うのか」
「殺すか。追放するか。……殺せば、八百の家族が飢える。追放すれば、八百人が盗賊になる。どちらにせよ、メルヴィアがもう一つできる。……組み込む。それしかない」
グランは、黙った。
エランナが、窓の外を見ていた。夕陽が、ヴァルゲン領の丘陵を赤く染めている。三ヶ月前、メルヴィアの燃える村を照らしたのと同じ、赤い光。
「……ねえ、レイ」
「何だ」
「今日、あなたは、千二百人を『取得』した。……取得、よ。所有物みたいに。『この地は私の管理下に入る』って。……三ヶ月前のあなたは、『所有』って言葉を、一番嫌ってた」
レイは、エランナを見た。
「嫌っていた」
「過去形ね」
「過去形だ」
沈黙。
エランナは、それ以上、言わなかった。窓の外に、目を戻した。
テルトイアが、記録帳を閉じた。
「……次の目標は」
レイが、懐から、地図を取り出した。北大陸の地図。十七の領主の名が記されている。ヴァルゲン男爵の名の上に、線が引かれた。
「次は、南のドルン領。領主は、ドルン伯爵。兵力千二百。奴隷五百。……三週間後には、そこも取得する」
「三週間……」テルトイアが、計算するように呟いた。「百二十の兵で、千二百の兵を相手取る。……今日のように、あなたの魔法剣で制圧するか」
「そうなる。ただし、毎回、私が前面に出るわけにはいかない。……グラン」
レイが、グランを見た。
「お前の剛剣師団の編成を、急ぐ。百二十では足りない。五百は要る。ヴァルゲンの元兵八百人の中から、適性のある者を選別して、再訓練しろ」
「……分かった」
グランが、頷いた。だが、その目に、いつもの光がなかった。
戦いへの渇望ではなかった。武人としての誇りではなかった。
ただ、義務感だった。
お前がそう言うなら、そうする。
それが、グラン・バグットの、この日の返事だった。
その夜、レイは、ヴァルゲン城の最も高い塔にいた。
眼下に、領地が広がる。千二百人が、今日から、レイの管理下にある。明日の朝、彼らにパンを配る。夕にも配る。明後日も。その次も。
千二百人分。
メルヴィアの百三十二人と合わせて、千三百三十二人。
まだ、足りない。
北大陸には、十七の領主がいる。三つの盗賊団。二つの商業都市。すべてを、この管理下に置かねばならない。すべてに、戸籍を。配給を。監視を。規則を。
何年かかるか。分からない。
何人殺すか。分からない。
何人恨まれるか。——それは、分かる。全員だ。
レイは、塔の窓から、夜空を見た。
星が出ていた。メルヴィアで見たのと同じ星。だが、もう、レイは星を見ていなかった。
見ていたのは、地図だった。脳内に展開した、北大陸の地図。十七の領主の名。それぞれの兵力。奴隷の数。水源の位置。畑の面積。
すべてが、数字だった。
すべてが、計算だった。
すべてが、明日の配給量と、戸籍の枚数に、変換されていく。
扉が、ノックされた。
「入れ」
グランだった。兜は被っていない。その武骨な顔に、夕陽の名残のような、赤い光が差していた。
「……レイ」
「何だ」
「一つだけ、聞いていいか」
「言え」
グランは、しばらく、口を開閉していた。それから、絞り出すように、言った。
「お前は、楽しいか」
レイは、振り返った。
「何?」
「楽しいか、って聞いてるんだ。……三ヶ月前、お前は、笑ってた。メルヴィアを解放した夜、焚き火を囲んで、『今日は良くやった』って、笑ってた。……今は、笑わなくなった。数字ばっかり見てる。記録帳ばっかり書いてる。……お前は、楽しいか」
沈黙。
長い、長い沈黙。
レイは、グランを見た。灰色の瞳に、何の感情も浮かんでいなかった。怒りも、悲しみも、困惑も。
「楽しいか、楽しくないかは、関係ない」
声は、平坦だった。
「私が楽しまなくても、千三百三十二人に、明日、パンが出る。私が笑わなくても、メルヴィアでは、もう、誰も殺し合わない。……それで、十分だ」
「十分、か」
「十分だ」
グランは、それを聞いて、何かを言おうとした。だが、言えなかった。
代わりに、背を向けた。
「……分かった。俺は、明日から、兵の再訓練を始める」
「頼む」
グランが、扉に向かった。開けた。閉める前に、一度だけ、振り返った。
「レイ」
「何だ」
「……お前が、そのうち、誰も笑わない世界を作るんじゃないかって、俺は、少し、怖い」
レイは、答えなかった。
グランが、出ていった。扉が、閉まった。
塔に、一人残されたレイは、また、地図を見た。
誰も笑わない世界。
それでいい。
心の中で、そう呟いた。
笑わなくてもいい。歌わなくてもいい。夢を見なくてもいい。
生きていれば、いい。
生きて、明日を迎えられれば、それで。
レイは、記録帳を開いた。
ペンを取った。
千三百三十二人分の、明日の配給量を、計算し始めた。
窓の外で、星が、冷たく光っていた。
誰も、見ていなかった。
第四章 了
■第五章 配給と沈黙
一年が過ぎた。
北大陸の西端、カルデン盆地から始まったレイ・アルマートの「管理」は、今や四つの領地を飲み込んでいた。メルヴィア。ヴァルゲン。ドルン。そして、三週間前に取得したばかりの、南のガルド领。
四千六百人。
それが、現在、レイ・アルマートの戸籍に登録されている人間の数だった。
四千六百人が、毎朝、同じ時刻に起きる。同じ時刻に配給の列に並ぶ。同じ量のパンと、同じ量の水を受け取る。同じ時刻に、割り当てられた仕事場へ向かう。同じ時刻に、居住区に戻る。同じ時刻に、眠る。
誰も飢えない。誰も殺されない。誰も、明日の心配をしない。
代わりに、誰も、笑わない。
ガルド领の居住区、第七班。
朝の鐘が鳴る。金属を叩く、乾いた、感情のない音。
鐘の音と同時に、四十人の居住者が、寝台から起き上がった。同じ動作で。同じ速度で。寝台の端に腰をかけ、足を地面に下ろし、立ち上がる。
彼らの寝台は、すべて同じ規格だった。幅三尺、長さ六尺。藁の敷布。毛布一枚。枕はない。枕は「個人の嗜好」に属するとして、配給の対象外とされていた。
四十人が、居住区の廊下に出た。廊下は、石造り。壁には、番号が刻まれている。第七班、居住者〇一から四〇まで。各人の寝台の位置に、番号が対応している。
彼らの左腕には、鉄の腕環が嵌められていた。識別番号が刻印された、黒鉄の環。外すことはできない。外そうとすれば、記録され、配給が停止される。
四十人が、配給所に向かって歩いた。同じ歩幅で。同じ速度で。会話はない。挨拶もない。「おはよう」も、「良く眠れたか」もない。
ただ、足音だけが、石の廊下に響いていた。
四十人分の、同じリズムの、足音。
配給所は、居住区の中央にあった。
長机が三つ。その向こうに、配給係の兵が三人。黒鉄の兜を被った、フェルム・オルドの兵。顔は見えない。表情はない。ただ、黒い鉄の面が、配給を受ける者たちを見下ろしている。
列が、できていた。四十人が、一列に並んでいる。割り込みはない。順番は、腕環の番号順。〇一が最初で、四〇が最後。毎日、同じ順番。毎日、同じ位置。
配給が始まった。
「番号」
「……〇一」
「職能」
「建築班」
「配給。標準量。パン二枚、水一升。次」
〇一が、パンを受け取った。二枚。同じ大きさ。同じ焼き色。同じ重さ。昨日と同じ。明日も同じ。
「次」
「……〇二」
「職能」
「農耕班」
「配給。標準量。パン二枚、水一升。次」
延々と、同じやり取りが繰り返された。四十回。同じ言葉。同じ動作。同じ量。
配給係の兵は、四十人分のパンを、四十回、同じ角度で差し出した。四十回、同じ声で「次」と言った。四十回、同じ角度で、記録帳に印を付けた。
列の最後に並んでいたのは、〇四〇だった。
〇四〇は、七歳の女の子だった。
名前は、ない。正確には、ある。戸籍には「ガルド领第七班居住者〇四〇、女、七歳、職能:未定」と記録されている。だが、配給所では、名前は呼ばれない。番号だけが、呼ばれる。
〇四〇は、列に並んでいた。小さな手で、前の人の背中の布を、ぼんやりと見ていた。
配給所の前に来た。
「番号」
「……〇四〇」
声は、小さかった。
「職能」
「……未定」
「配給。児童量。パン一枚、水半升。次」
〇四〇は、パンを受け取った。一枚。大人の半分。
受け取ったパンを、両手で持った。焼きたてではない。冷たい。硬い。だが、確かに、パンだった。
〇四〇は、パンを一口、齧った。
咀嚼した。飲み込んだ。
それから、配給所の前の、石畳の上に座り込んだ。
周囲の大人たちが、同じ速度で、同じ方向に、歩いていく。居住区から、仕事場へ。同じ歩幅で。同じ沈黙で。
〇四〇は、石畳に座ったまま、パンを齧りながら、その列を見ていた。
四〇人の背中が、遠ざかっていく。
誰も、〇四〇を見ていない。誰も、立ち止まらない。誰も、「そこで何をしている」と言わない。
言わないのではない。言えないのだ。配給後の移動には、制限時間がある。居住区から仕事場までの移動は、十五分以内。それを超えれば、記録される。記録されれば、班長に報告される。報告されれば、配給が、一日、減る。
だから、誰も、止まらない。
〇四〇は、一人で、パンを齧っていた。
空は、晴れていた。青い。雲が、一つ、流れている。風が、〇四〇の髪を、わずかに揺らした。
〇四〇は、空を見た。
青い。
何の意味もない、青。
〇四〇は、パンを齧り続けた。
笑わなかった。
泣かなかった。
ただ、食べていた。
ガルド领の取得から、三週間。
レイは、城の最上階を、執務室にしていた。
机の上には、記録帳が積まれている。四千六百人分の戸籍。四千六百人分の、毎日の行動記録。四千六百人分の、配給の受領記録。四千六百人分の、健康状態の報告。
全部、レイが、目を通していた。
毎晩。一睡もせずに。
ペンが走る。数字を追う。異常を探す。配給量の微調整。居住区の再編成の検討。来月の食料備蓄の計算。
扉が、開いた。
エランナだった。
銀色の髪が、以前より、少しだけ、長く伸びていた。目の下に、深い隈がある。指先には、魔力の残滓が、青白く明滅している。
「……レイ」
「何だ」
レイは、ペンを止めなかった。
「報告がある。魔導監視網の、第四段階の構築が、完了した」
ペンが、止まった。
レイが、顔を上げた。
「……第四段階」
「ええ」エランナの声は、平坦だった。平坦すぎる声だった。「居住区内の全住民の魔力波動を、常時観測する術式。これにより、不穏な魔力の集積——つまり、反乱の予兆や、無許可の魔術行使を、即座に検知できる。……あなたが、三週間前に要求したものだ」
「ああ。よくやった」
「よくやった、か」
エランナが、笑った。乾いた、割れた笑いだった。
「ねえ、レイ。この術式で、何が分かるか、知ってる?」
「不穏分子の早期発見」
「それだけじゃない」
エランナが、一歩、前に出た。
「全住民の、感情が、分かるの。魔力波動は、感情に連動する。怒れば、波が荒れる。悲しめば、波が沈む。怖がれば、波が縮む。……この術式を起動すれば、四千六百人の、毎瞬の感情が、あなたの記録帳に、数字として、書き込まれる」
沈黙。
レイは、エランナを見ていた。
「……それが、何か」
「それが、何か、ですって?」
エランナの声が、わずかに、震えた。
「彼らが、何を感じているか、全部、分かるということよ。怒っているか。悲しんでいるか。怖がっているか。……あなたが配給を減らした時、彼らが何を感じたか。あなたが移動を禁じた時、彼らが何を感じたか。全部、数字になる。全部、あなたの記録帳に、書き込まれる」
「それが、管理だ」
「管理」エランナが、その言葉を反芻した。「……ねえ、レイ。私、今日、術式の最終調整をしてたの。で、試しに、第七班の居住者四十人の魔力波動を、観測してみた」
「結果は」
「……何もない」
レイが、眉を寄せた。
「何もない、とは」
「文字通り、何もないの。四十人分の魔力波動が、全部、同じ。同じ振幅。同じ周期。同じ波形。……怒りもない。悲しみもない。恐怖もない。喜びもない。ただ、同じ波が、四十本、並んでる。まるで、死んでるみたい」
エランナの声が、掠れた。
「死んでるんじゃないのよ。生きてる。パンを食べて、水を飲んで、仕事をして、眠ってる。……でも、感情が、ない。波が、動かない。……ねえ、レイ。これ、生きていることにならない?」
レイは、答えなかった。
ペンを、また、握った。
「感情は、不要だ」
「……何?」
「感情は、混乱を生む。怒りは、殺し合いを生む。悲しみは、絶望を生む。恐怖は、逃亡を生む。喜びは、奢りを生む。……感情がなければ、人は、歯車として、完璧に機能する。歯車は、怒らない。悲しまない。ただ、回る。……それで、いい」
エランナが、レイを見ていた。
長い間、見ていた。
それから、言った。
「……私、魔術を修めたのは、人を幸せにするためだった」
「知っている」
「人を幸せにするために、炎を灯し、風を起こし、大地を癒やす術を、学んだ。……今、私が作っているのは、人の感情を数字に変換して、あなたの記録帳に書き込む術式よ。……ねえ、レイ。私、何をしてるの」
レイは、ペンを止めた。
エランナを見た。灰色の瞳に、何の感情も浮かんでいなかった。
「お前は、世界を救っている」
「……これが、救い?」
「これが、救いだ。感情がなければ、殺し合わない。感情がなければ、奪い合わない。感情がなければ、メルヴィアには、ならない。……四千六百人が、明日も、パンを食べられる。それで、十分だ」
エランナは、口を開いた。
閉じた。
何かを言いたかった。これは、生きてることにならない。
だが、言えなかった。
言ったら、レイが何と答えるか、分かってしまったから。
生きていれば、いい。
その一言で、終わる。
エランナは、背を向けた。
「……術式の起動は、明日にする。今夜、最終確認をする」
「頼む」
エランナが、扉に向かった。開けた。
閉める前に、一度だけ、振り返った。
「レイ」
「何だ」
「……第七班の〇四〇。七歳の女の子。知ってる?」
「戸籍番号〇四〇。女。七歳。職能未定。配給は児童量。……知っている」
「あの子、今日、配給所の前で、一人でパンを食べてた。石畳に座って。誰も、声をかけなかった。誰も、止めなかった。……あの子、笑わなかった。泣かなかった。ただ、食べてた」
レイは、何も言わなかった。
「……あの子、三週間前、ガルド领が取得されるまで、領主の屋敷の地下にいたの。奴隷として。鞭で殴られてた。……で、あなたが来た。首輪を外した。パンを与えた。番号を与えた。……あの子、自由にはならなかった。でも、鞭は、来なくなった」
エランナの声が、震えた。
「……ありがとう、とは言えない。でも、恨みも、言えない。ただ、あの子、笑わないの。笑うことを、知らないの。……ねえ、レイ。あの子が、いつか、笑える日は、来るの」
沈黙。
長い、長い沈黙。
レイは、記録帳を見つめていた。四千六百人分の数字が、並んでいる。〇四〇の欄もある。女。七歳。職能未定。配給:児童量。
その欄に、感情の記録は、ない。
まだ、ない。明日から、ある。
「……分からない」
レイが、言った。
正直な、答えだった。
エランナは、それを聞いて、何かを言おうとした。だが、言えなかった。
扉が、閉まった。
レイは、一人、執務室に残された。
ペンを握った。記録帳を開いた。
四千六百一行目。四千六百二行目。
明日の配給量を、計算し始めた。
ペンが、走った。
止まらなかった。
その夜、エランナは、自分の部屋に戻らなかった。
城の地下にある、魔導研究室にいた。
広い部屋だった。壁一面に、術式の図面が貼られている。魔素安定化装置の設計図。監視網の構築図。結界の展開式。
すべて、エランナが、この一年で書いたものだった。
机の上に、一つの水晶があった。魔導監視網の、試作端末。エランナが、今日、最終調整を終えたもの。
水晶の中に、光が揺れていた。四千六百人分の魔力波動が、微かに、明滅している。
エランナは、水晶を、手に取った。
冷たかった。
水晶の中の光を、見つめた。四千六百の光点。同じ振幅。同じ周期。同じ波形。
怒りもない。悲しみもない。恐怖もない。喜びもない。
ただ、同じ波が、四千六百本、並んでいる。
まるで、死んでるみたい。
エランナは、水晶を、机の上に置いた。
置いたまま、しばらく、動かなかった。
それから、引き出しを開けた。中から、古い紙を取り出した。
三年前的、紙だった。レイが、まだ「義勇軍」を名乗っていた頃、エランナが書いた、魔術のノート。
表紙に、こう書いてあった。
『魔術とは、人を幸せにするための技術である』
自分の字だった。若い、丸い、希望に満ちた字。
エランナは、そのノートを、見つめた。
長い間、見つめた。
それから、ノートを、引き出しに戻した。
閉じた。
机の上の水晶が、冷たく光っていた。四千六百の光点が、同じ波で、明滅していた。
エランナは、水晶から、目を離した。
窓の外を見た。夜だった。星が出ていた。
三ヶ月前、メルヴィアで見たのと同じ星。一年前、義勇軍の野営で見たのと同じ星。
だが、もう、綺麗には見えなかった。
見えるのは、ただ、冷たい光の点。監視すべき対象。記録すべき座標。
エランナは、窓から、目を離した。
机に戻った。
明日、術式を起動する。四千六百人の感情が、数字になる。怒りが、数字になる。悲しみが、数字になる。恐怖が、数字になる。
そして、その数字を、レイが、記録帳に書き込む。
四千六百一行目。四千六百二行目。四千六百三行目。
エランナは、ペンを握った。
術式の最終確認を、始めた。
手を、止めなかった。
止める理由が、見つからなかった。
翌朝。
魔導監視網、第四段階が、起動した。
四千六百人の魔力波動が、エランナの水晶に、同時に映し出された。
四千六百の光点が、同じ波で、明滅した。
怒りもない。悲しみもない。恐怖もない。喜びもない。
ただ、同じ波が、四千六百本、並んでいた。
レイは、執務室で、その報告を受けた。
「異常なし。全住民の魔力波動、正常範囲内。不穏な集積、検知されず」
「分かった。記録に残せ」
「はい」
兵が、出ていった。
レイは、記録帳を開いた。
四千六百人分の、今日の魔力波動の記録を、書き込んだ。
四千六百行。同じ数字。同じ波形。
書き終えた時、レイは、ふと、ペンを止めた。
四千六百行目の、最後の欄。〇四〇。女。七歳。職能未定。
魔力波動:正常。振幅:〇・〇三。周期:一定。感情指標:——
感情指標の欄が、空白だった。
〇四〇の感情が、観測されなかった。
怒りも、悲しみも、恐怖も、喜びも、何も。
ただ、空白。
レイは、その空白を、しばらく、見ていた。
それから、ペンで、一行、書き加えた。
感情指標:なし。
記録帳を、閉じた。
ペンを、置いた。
窓の外を見た。
朝だった。配給の鐘が、鳴っていた。四千六百人が、同じ時刻に、同じ動作で、寝台から起き上がっている。同じ速度で、廊下を歩いている。同じ列に、並んでいる。
誰も、笑っていない。
誰も、泣いていない。
誰も、怒っていない。
誰も、怖がっていない。
ただ、四千六百人が、同じ速度で、同じ方向に、歩いている。
静かだった。
恐ろしいほど、静かだった。
レイは、その静寂を、聞いていた。
満足していたか。
分からない。
安堵していたか。
分からない。
ただ、一つだけ、確かなことがあった。
誰も、殺し合っていない。
誰も、飢えていない。
誰も、メルヴィアには、ならない。
それだけで、十分だった。
十分でなければならない。
レイは、記録帳を、また、開いた。
明日の配給量を、計算するために。
ペンが、走った。
止まらなかった。
その日の夕刻。
配給が終わり、居住区に戻る列の中で、〇四〇は、歩いていた。
七歳の足で、大人と同じ速度で。同じ歩幅で。同じ沈黙で。
列の途中で、〇四〇は、ふと、足を止めた。
石畳の隙間に、花が、一輪、咲いていた。
小さな、白い花。名前のない花。誰かが植えたのではない。勝手に生えた。石の隙間から、勝手に、咲いた。
〇四〇は、その花を、見ていた。
列が、〇四〇の後ろで、止まった。
〇四一が、〇四〇の背中に、ぶつかりそうになった。だが、止まった。止まらねばならなかった。列を乱せば、記録される。
〇四〇は、花を見ていた。
三秒。
五秒。
七秒。
それから、また、歩き始めた。
花を、摘まなかった。
摘めば、記録される。
列が、また、同じ速度で、動き始めた。
〇四〇の背中が、遠ざかっていく。
石畳の隙間に、白い花が、一輪、残っていた。
誰も、見ていない。
誰も、覚えていない。
花は、そこに、咲いていた。
明日には、配給所の兵が、除草するだろう。
だが、今日は、まだ、そこにあった。
白い。
何の意味もない、白。
第五章 了
■第六章 三つの影
二年が過ぎた。
北大陸の西半分——十七の領主のうち、九つが、レイ・アルマートの管理下にあった。
二万三千人。
それが、今、戸籍に登録されている人間の数だった。二年前、カルデン盆地の百三十二人から始まった数字が、二百倍に膨れている。
九つの居住区。九つの配給拠点。九つの魔素安定化装置。九つの監視網。
すべてが、同じ規格で、同じ規則で、同じ沈黙の中で、回っている。
レイは、もはや、一都市の管理者ではなかった。
だが、まだ、王でもなかった。
ただの、管理者。二万三千人分の配給量を、毎晩、計算する、一人の管理者。
第九居住区。旧ガルド领の外縁に新設された、最も新しい居住区だった。
三千二百人が、ここで暮らしている。元はガルド領の農民と、三ヶ月前に取得した隣のヘルト领の元奴隷たち。二つの異なる出自の人間が、同じ規格の寝台に、同じ番号を振られて、並んでいる。
朝の鐘が鳴る。
三千二百人が、起き上がる。同じ動作で。同じ速度で。
配給の列に並ぶ。同じ順番で。同じ沈黙で。
パンを受け取る。同じ量で。同じ焼き色で。
仕事場に向かう。同じ歩幅で。同じ方向に。
誰も、笑わない。誰も、怒らない。誰も、泣かない。
ただ、三千二百の体が、同じリズムで、動いている。
歯車が、回っている。
その日の夕刻だった。
配給が終わり、居住区に戻る列が、第九居住区の中央広場を通過していた時、異変が起きた。
列の中から、一人の女が、外れた。
三十がらみの女だった。痩せていたが、目は、異様に亮かった。腕環の番号は、九-一〇四七。元ヘルト领の奴隷。職能:農耕班。
女は、列から外れ、広場の隅にあった、古い井戸の跡に向かって走った。
列が、止まった。
三千二百人の足が、同時に、止まった。
誰も、声を出さなかった。だが、三千二百の目が、女を見ていた。
女は、井戸の跡の石の陰に、何かを隠していた。布に包まれた、小さな塊。
配給所の兵が、動いた。黒鉄の兜の下から、平坦な声が響いた。
「九-一〇四七。列に戻れ。移動制限違反だ」
女は、振り返らなかった。布の塊を、石の陰から取り出した。
それは、パンだった。
一枚のパン。配給で配られるのと同じ、硬い、冷たいパン。だが、一枚ではなく、三枚あった。三枚のパンが、布に包まれていた。
「……これは、私の配給じゃない」
女が、言った。声は、震えていた。だが、止まらなかった。
「三日分の配給を、食べずに、取っておいた。……あの子に、やるために」
女が、井戸の跡の奥を、覗き込んだ。
そこに、子どもがいた。
五歳くらいの男の子だった。痩せこけていた。腕環を、嵌めていなかった。番号が、ない。戸籍に、登録されていない。
「……この子は、私の弟の子。ヘルト领の取得の時に、親を殺された。で、この子が、一人で、逃げてるのを、見つけた」
女の声が、掠れた。
「戸籍に、登録されてない。番号がない。……番号がなければ、配給が、受けられない。パンが、もらえない。……だから、私が、三日分、取っておいた」
沈黙。
三千二百人が、見ていた。
配給所の兵が、動いた。二人。女に向かって歩いた。
「九-一〇四七。配給の私蔵は、規則違反だ。没収する。また、未登録の個体を居住区内に隠匿したことは、戸籍管理法第七条の違反に該当する。即刻、管理人に報告——」
「待て」
声が、割って入った。
グランだった。
黒鉄の兜を被っていない。その武骨な顔が、配給所の兵の前に、立っていた。
「……グラン様」
兵が、止まった。グランは、四軍管区の第一軍・剛剣師団の長だった。兵にとって、上官だった。
グランは、井戸の跡を覗き込んだ。痩せこけた男の子が、怯えた目で、グランを見ていた。
「……この子は、何歳だ」
女が、震える声で答えた。「五つです」
「戸籍は」
「ない。……取得の混乱で、登録が、間に合わなかった。で、この子は、怖がって、逃げて……私が、隠してた」
グランは、しばらく、男の子を見ていた。
それから、振り返った。配給所の兵に向かって、言った。
「この子は、今日中に戸籍に登録しろ。番号を振れ。明日から、児童量の配給を出す」
兵が、一瞬、躊躇した。
「……しかし、グラン様。規則では、未登録個体の隠匿は——」
「規則は、管理者が決める。管理者が不在の時は、師団長が判断する。……私が、判断した。この子は、登録する。以上だ」
兵が、黙った。黒鉄の兜の下で、何を考えているか、分からない。
それから、頷いた。「……承知しました。管理人に報告し、明朝、登録手続きを行います」
女が、泣いた。声を出さずに、ただ、涙だけが、頬を伝った。
「ありがとう……ありがとう……」
グランは、何も言わなかった。背を向けて、列に戻ろうとした。
その時、だった。
「待て」
別の声が、割って入った。
平坦な。透明な。感情の一切が抜け落ちた声。
三千二百人の列の、最も後ろから、レイ・アルマートが、歩いてきていた。
黒鉄の兜を被っていない。灰色の瞳が、夕陽に照らされていた。痩躯。長剣。記録帳を、左手に持っている。
レイが、グランの前に、立った。
「……レイ」
グランが、振り返った。
「今、何をした」
「この子を、戸籍に登録するよう、命じた。明日から、配給を出す」
「なぜ」
「なぜ、だと?」グランが、眉を寄せた。「五歳の子どもだ。番号がなかっただけだ。登録すれば、パンが出る。それだけの——」
「規則を、破った」
レイの声は、変わらなかった。
「九-一〇四七は、配給を私蔵した。三日分。規則では、没収と配給停止だ。また、未登録個体の隠匿は、戸籍管理法第七条の違反だ。違反には、罰がある。罰がなければ、規則が死ぬ。規則が死ねば、配給が死ぬ。配給が死ねば、二万三千人が飢える」
「……五歳の子ども一人のために、二万三千人が飢えるわけがない」
「一人を許せば、二人が隠す。二人を許せば、十人が隠す。十人を許せば、百人が隠す。百人の未登録個体に配給を出せば、計算が狂う。計算が狂えば、三千二百人分のパンが、三十一人分、足りなくなる。三十一人が、飢える。……一人の慈悲が、三十一人の飢えを生む。それが、メルヴィアだ」
グランの拳が、握られた。
「……メルヴィアを、出すな」
「事実だ」
「事実でも、出すな!」
グランの声が、広場に響いた。三千二百人が、びくりと肩を震わせた。
沈黙。
レイは、グランを見ていた。灰色の瞳に、怒りはなかった。悲しみもなかった。ただ、計算があった。
「……グラン。お前の判断は、感情に基づいている。五歳の子どもが怯えている。可哀想だ。だから、助ける。……それは、正しい感情だ。人間として、正しい」
「なら——」
「だが、管理者として、間違っている」
レイが、一歩、前に出た。
「管理者は、感情で動かない。管理者は、計算で動く。二万三千人の配給を、一グラムの狂いもなく回すために、感情を、排除する。……お前は、師団長だ。剣を振るえ。だが、配給の計算には、口を出すな」
グランの顔が、歪んだ。
怒りではなかった。
痛みだった。
「……レイ。お前、いつから、五歳の子どもを、数字で見るようになった」
レイは、答えなかった。
代わりに、配給所の兵に向かって、言った。
「九-一〇四七。配給私蔵の罰として、明日の配給を停止する。また、未登録個体の隠匿に対し、戸籍管理法第七条に基づく処分を行う」
「……処分とは」
兵が、聞いた。
レイが、井戸の跡を見た。痩せこけた男の子が、まだ、そこにいた。怯えた目で、レイを見ていた。
「未登録個体は、配給の対象外だ。配給の対象外であるということは、この管理システムに、存在しないということだ。……存在しないものは、処理する」
広場が、凍った。
グランが、レイの胸倉を掴んだ。
「……何だと」
「聞こえたはずだ」
「五歳の子どもを、処理する、だと?」
「戸籍にない。番号がない。配給の計算に、存在しない。存在しないものを、このシステムの中で生かすことは、できない。……それは、慈悲ではない。計算の破壊だ」
「ふざけるな!」
グランが、レイを突き飛ばした。レイが、一歩、後ずさった。
三千二百人が、見ていた。
誰も、動かなかった。動けなかった。
グランが、レイの前に、立った。両手剣の柄に、手をかけた。
「……レイ。この子は、俺が、預かる。俺の師団の、兵舎で、育てる。戸籍には、明日、登録する。それで、計算は、合うはずだ。一人分、増えるだけだ。二万三千が、二万三千一になる。それだけだ」
レイは、グランを見ていた。
長い間、見ていた。
それから、言った。
「……分かった」
グランが、息を呑んだ。
「ただし」レイが、続けた。「これは、一度きりだ。次に、規則を破る者がいれば、私は、感情を挟まない。……お前の顔を見ても、止まらない」
グランは、何も言えなかった。
ただ、頷いた。
井戸の跡から、男の子を引き上げた。痩せこけた体を、自分のマントで包んだ。
男の子が、グランの胸に、顔を埋めた。
泣いていた。声を出さずに、ただ、体が、震えていた。
グランは、その震えを、感じながら、広場を、去った。
三千二百人の列が、また、動き始めた。同じ速度で。同じ沈黙で。
誰も、何も言わなかった。
配給所の兵が、九-一〇四七の前に立った。
「九-一〇四七。明日の配給は、停止だ。居住区に戻れ」
女は、地面に膝をついたまま、動かなかった。
涙が、石畳に、落ちた。
誰も、手を差し伸べなかった。
その夜。
城の執務室に、四人が、集まった。
二年ぶりの、四人揃った会議だった。最近は、それぞれが別の居住区の管理に追われ、顔を合わせる機会が減っていた。
レイが、机に着いていた。記録帳を開いている。
グランが、壁に背を預けていた。腕を組んでいる。その目に、まだ、怒りの残滓があった。
エランナが、窓際に立っていた。銀色の髪が、月光に照らされている。指先に、魔力の残滓が、青白く明滅している。
テルトイアが、椅子に座っていた。記録帳を閉じている。だが、その指が、微かに、震えていた。
沈黙が、続いた。
最初に、口を開いたのは、テルトイアだった。
「……今日の件。レイ。お前は、五歳の子どもを、『処理』しようとした」
「戸籍にない個体は、配給の対象外だ。対象外の個体を、システム内で生かす手段がない。……処理とは、システムからの排除を意味する」
「排除、か」テルトイアの声は、静かだった。「排除とは、具体的には、何をする」
「居住区の外に、出す。配給も、住処も、医療も、ない場所に」
「五歳の子どもを」
「五歳の子どもを」
沈黙。
テルトイアが、目を閉じた。開いた。
「……レイ。俺は、治癒術士だ。命を救うために、この手を、使ってきた。……お前の前で、五歳の子どもが、居住区の外に放り出されて、飢えて、死んでいくのを、俺は、見なければならないのか」
「見なくていい。お前が、見る必要はない」
「見なくていい、だと?」
「お前の仕事は、兵站と医療だ。配給の計算は、私がする。処理の判断も、私がする。……お前は、手を汚す必要はない」
テルトイアが、立ち上がった。
「手を汚す必要はない、だと。……レイ。俺が、お前のために、二年間、何をしてきたか、分かっているか。居住区の衛生管理。疫病の予防。配給の栄養計算。病人のトリアージ。……全部、俺が、計算した。誰に、どれだけ、医療資源を回すか。誰を、優先して、治療するか。誰を、後回しにするか。……全部、俺が、数字で、決めた」
声が、震えていた。
「俺は、治癒術士だ。全員を、救うのが、仕事だ。……だが、お前のシステムの中では、全員は、救えない。資源が、足りない。だから、選別する。誰を生かして、誰を後回しにするか。……それを、二年間、やってきた。お前のために」
レイは、何も言わなかった。
「……だが、五歳の子どもを、選別の外に置くことは、できない。俺は、できない。……レイ。お前も、できないはずだ。お前は、メルヴィアで、二百九十一人の死体を見て、血を吐いた男だ。あの男が、五歳の子どもを、システムの外に放り出すことは、できないはずだ」
沈黙。
長い、長い沈黙。
レイが、記録帳を、閉じた。
「……グランが、預かると言った。戸籍に登録すると。だから、認めた」
「認めたのではない。グランに、折れたのだ」
テルトイアが、言った。
「お前は、折れた。感情に、折れた。……レイ。お前は、さっき、『管理者は感情で動かない』と言った。だが、グランに胸倉を掴まれて、折れた。……お前の中で、まだ、感情が、動いている」
レイは、答えなかった。
エランナが、窓際から、言った。
「……ねえ」
三人が、エランナを見た。
エランナの顔が、月光に照らされていた。青白かった。目が、異様に、大きかった。
「……今日、魔導監視網に、異常が、出た」
空気が、変わった。
「異常?」レイが、聞いた。
「ええ。第九居住区。今日の夕刻、配給の列が止まった時。……三千二百人の魔力波動が、一瞬、乱れた」
「乱れた?」
「ええ。三千二百人分が、同時に。同じ方向に。……怒りでも、恐怖でも、ない。もっと、深い、波。……悲しみ、に近い。だが、悲しみとも、少し違う」
エランナが、机に近づいた。懐から、小さな水晶を取り出した。魔導監視網の、携帯端末。
水晶の中に、光が揺れていた。三千二百の光点が、明滅している。
「これを見て」
エランナが、水晶を、机の上に置いた。
四人が、覗き込んだ。
三千二百の光点が、同じ波で、明滅していた。だが、その中に、一つだけ、異なる波があった。
三千二百の波が、同じ振幅、同じ周期で、整然と並んでいる中に、一つだけ、振幅が大きく、周期が不規則な、乱れた波があった。
「……これは、誰だ」
レイが、聞いた。
「識別番号を、追った」エランナが、言った。声は、平坦だった。平坦すぎる声だった。
間を、置いた。
「九-〇〇〇一」
沈黙。
九-〇〇〇一。第九居住区の、最初の番号。居住区の管理人。配給の責任者。レイが、直々に任命した、最も信頼すべき歯車。
「……管理人が、なぜ」
「分からない。だが、この三ヶ月間、九-〇〇〇一の魔力波動に、微かな乱れが、蓄積していた。今日、配給の列が止まった瞬間に、それが、臨界を超えた」
「具体的に、何をしていた」
「……調べた」エランナが、言った。「九-〇〇〇一は、毎夜、居住区の地下に、降りていた。そこで、七人の居住者と、会っていた」
「会って、何を」
「……話を、していた」
沈黙。
「話?」グランが、眉を寄せた。
「ええ。ただの、話。今日の出来事。昔の記憶。故郷の話。……歌を、歌っていた夜も、あった。子守唄。古い、民謡。……それだけ」
「それだけ?」
「それだけ。武器の蓄積もない。逃亡の計画もない。反乱の企てもない。ただ、七人で、集まって、話をして、歌を、歌っていた。……それだけ」
四人の間に、長い沈黙が、落ちた。
エランナが、続けた。
「……でも、これは、規則違反よ。居住区の規則第三条。『居住者の私的集合は、班長の許可を要する。無許可の集合は、不穏な集結と見なし、管理人に報告する義務を負う』。……九-〇〇〇一は、管理人でありながら、自ら、規則を、破っていた」
テルトイアが、口を開いた。
「……話を、していただけだ。歌を、歌っていただけだ。武器も、計画も、ない。……それを、不穏分子と、呼ぶのか」
「規則では、そうなる」エランナが、言った。声が、震えていた。「私が、作った規則よ。私が、作った術式で、検知した。……私が、作った檻の中で、彼らが、歌を歌った。それだけで、不穏分子になる」
レイが、水晶を、見ていた。
三千二百の光点。同じ波。同じ振幅。
その中に、一つだけ、乱れた波。
話をした。歌を歌った。
ただ、それだけ。
「……処分は」
レイが、言った。
三人が、レイを見た。
「九-〇〇〇一と、七人の居住者。規則第三条の違反。管理人の義務違反。……処分は、戸籍の抹消。配給の停止。居住区からの、排除」
「レイ」グランが、言った。声が、低かった。「歌を歌っただけだ」
「歌を歌っただけだ。話をしただけだ。武器も計画もない。……だが、規則を破った。管理人が、規則を破った。……管理人が破れば、班長が破る。班長が破れば、居住者が破る。居住者が破れば、秩序が死ぬ。秩序が死ねば、メルヴィアになる」
「メルヴィアを、出すな!」
グランが、叫んだ。今日、二度目の叫びだった。
レイは、グランを見た。
灰色の瞳に、何もなかった。怒りも、悲しみも、困惑も。
ただ、計算があった。
「……明日、執行する」
「待て」
テルトイアが、立ち上がった。
「待て、レイ。……話を、聞いてくれ。彼らは、歌を歌っていた。子守唄を。……なぜ、歌を歌うか、分かるか。忘れたいからだ。この檻の中で、自分が、何者だったか、忘れかけているからだ。名前を呼ばれず、番号で呼ばれ、同じ量のパンを、同じ順番で、受け取り続ける中で、自分が、人間だったことを、確認するために、歌を、歌っていた」
「……」
「レイ。お前は、彼らから、歌を奪うのか。話を奪うのか。……配給と住処と医療を与えて、代わりに、人間であることの、最後の一片まで、奪うのか」
沈黙。
レイは、何も言わなかった。
記録帳を、開いた。ペンを、握った。
九-〇〇〇一の欄に、目を落とした。
管理人。男。四十三歳。職能:配給管理。魔力波動:異常。感情指標:——
感情指標の欄に、数字があった。
他の三千二百人は、感情指標がゼロだった。怒りも、悲しみも、喜びも、ない。ただ、ゼロ。
九-〇〇〇一だけ、数字があった。
悲しみ:〇・七。
喜び:〇・三。
恐怖:〇・一。
感情が、あった。
三千二百人の中で、ただ一人、感情が、あった。
レイは、その数字を、見ていた。
長い間、見ていた。
ペンが、止まっていた。
「……レイ」
エランナが、言った。声が、掠れていた。
「ねえ、レイ。……三千二百人の中で、感情が、動いているのは、九-〇〇〇一、一人だけよ。他の三千百九十九人は、全部、ゼロ。怒りも、悲しみも、喜びも、ない。……生きているのに、感情が、ない」
「……」
「九-〇〇〇一だけが、感情を、持っていた。歌を歌って、話をして、……人間で、いようとしていた。……あなたは、その最後の一人を、消すの」
ペンが、止まっていた。
長い、長い沈黙。
窓の外で、風が、吹いていた。第九居住区の方から、かすかに、何かが聞こえた。
歌だった。
子守唄。古い、民謡。誰かが、歌っている。九-〇〇〇一ではない。別の誰か。居住区の、どこかで、誰かが、歌を、歌っている。
小さな声だった。風に消えそうな、かすかな声だった。
だが、聞こえた。
四人は、黙って、聞いていた。
歌は、三節で、終わった。
風が、止んだ。
静寂が、戻った。
レイは、記録帳を、閉じた。
ペンを、置いた。
「……明日、九-〇〇〇一を、呼べ」
三人が、レイを見た。
「処分は」
「……降格だ」
三人が、息を呑んだ。
「管理人の任を解く。配給管理の職能を剥奪する。一般居住者として、再登録する。番号は、九-三二〇一に変更。……配給は、続ける。居住も、続ける」
グランが、口を開きかけた。
「ただし」レイが、続けた。「七人の居住者との接触は、禁止する。私的集合の記録は、残す。次回、同様の違反があれば、戸籍を抹消する。……一度だけだ。一度だけ、許す」
沈黙。
テルトイアが、ゆっくりと、椅子に座り直した。
エランナが、窓の外を、見ていた。歌は、もう、聞こえなかった。
グランが、壁に背を預けたまま、目を閉じていた。
レイは、記録帳を、また、開いた。
九-〇〇〇一の欄に、ペンを走らせた。
降格。九-三二〇一に変更。配給管理職能、剥奪。私的集合の記録、保存。次回違反時、戸籍抹消。
書き終えた。
ペンを、置いた。
窓の外を見た。
夜だった。星が出ていた。二万三千人が、それぞれの寝台で、眠っている。同じ規格の寝台で。同じ毛布の下で。同じ沈黙の中で。
誰も、歌を歌っていない。
誰も、話をしていない。
誰も、笑っていない。
静かだった。
恐ろしいほど、静かだった。
その夜、四人は、別々の場所で、眠った。
グランは、兵舎で、剣を磨いていた。磨きながら、今日の男の子の顔を、思い出していた。怯えた目。震える体。自分のマントに、顔を埋めた、小さな体。
五歳の子どもを、数字で見るな。
グランは、剣を磨き続けた。刃が、月光を反射して、白く光った。
エランナは、魔導研究室で、水晶を見ていた。三千二百の光点が、同じ波で、明滅している。九-〇〇〇一——今は九-三二〇一——の光だけが、わずかに、振幅が、大きい。
まだ、感情が、ある。
まだ、人間で、いようとしている。
エランナは、水晶を、見つめていた。
私は、人を幸せにするために、魔術を修めた。
ノートの表紙の言葉が、脳裏に浮かんだ。引き出しの中に、まだ、ある。
魔術とは、人を幸せにするための技術である。
エランナは、水晶から、目を離した。
引き出しを、開けた。ノートを、取り出した。
表紙を、見た。
若い、丸い、希望に満ちた字。
魔術とは、人を幸せにするための技術である。
エランナは、ノートを、見つめた。
長い間、見つめた。
それから、ノートを、引き出しに、戻さなかった。
机の上に、置いた。
開いたまま、置いた。
水晶が、冷たく光っていた。三千二百の光点が、同じ波で、明滅していた。
エランナは、水晶から、目を離した。
ノートを見た。
二つの光が、机の上で、並んでいた。
水晶の、冷たい、均一な光。
ノートの、古い、温かい、紙の白。
エランナは、どちらも見ずに、窓の外を、見た。
星が、出ていた。
何も、言わなかった。
テルトイアは、自分の部屋で、書物を開いていた。だが、文字が、頭に入ってこなかった。
今日、レイが言った言葉が、繰り返されていた。
存在しないものは、処理する。
五歳の子どもを。
テルトイアは、書物を、閉じた。
手を、見た。治癒術士の、手。二年間、二万三千人の病を、癒やしてきた手。だが、同時に、二年間、誰を優先して治療するかを、計算してきた手。
命を、選別してきた手。
テルトイアは、手を、握った。
開いた。
握った。
開いた。
何度も、繰り返した。
窓の外で、風が、吹いていた。
どこかで、誰かが、歌を、歌っていた。
もう、止んでいた。
だが、テルトイアには、まだ、聞こえていた。
子守唄。
古い、民謡。
誰が、歌っていたか、分からない。
だが、確かに、聞こえていた。
テルトイアは、書物を、閉じたまま、寝台に、横たわった。
目を、閉じた。
眠れなかった。
レイは、執務室で、一人、記録帳を、開いていた。
二万三千人分の、今日の記録。
魔力波動。感情指標。配給受領。行動記録。
全部、同じ。全部、ゼロ。
九-三二〇一——元九-〇〇〇一——の欄だけが、わずかに、異なっていた。
悲しみ:〇・七。
喜び:〇・三。
恐怖:〇・一。
レイは、その数字を、見ていた。
長い間、見ていた。
それから、ペンを、握った。
感情指標の欄に、一行、書き加えようとした。
ペンが、止まった。
止まったまま、動かなかった。
窓の外で、風が、吹いていた。
歌は、もう、聞こえなかった。
レイは、ペンを、置いた。
記録帳を、閉じた。
窓の外を、見た。
二万三千人が、眠っている。
誰も、歌を歌っていない。
誰も、話をしていない。
誰も、笑っていない。
誰も、泣いていない。
静かだった。
完璧に、静かだった。
レイは、その静寂を、聞いていた。
満足していたか。
分からない。
安堵していたか。
分からない。
ただ、一つだけ、確かなことがあった。
明日も、パンが出る。二万三千人分。一人も漏らさず。
それだけで、十分だった。
十分でなければならない。
レイは、記録帳を、また、開いた。
明日の配給量を、計算するために。
ペンが、走った。
止まらなかった。
だが、その夜、レイは、一度だけ、ペンを止めた。
九-三二〇一の欄。感情指標。
悲しみ:〇・七。
その数字を、見ていた。
長い間、見ていた。
それから、記録帳を、閉じた。
窓の外を、見た。
星が、冷たく光っていた。
二万三千の沈黙の上に、等しく、光っていた。
第六章 了
■第七章 自由の風
魔導研究室の机の上に、ノートが開いたままだった。
古い紙。丸い字。三年の歳月で、インクがわずかに褪せている。
『魔術とは、人を幸せにするための技術である』
エランナ・フィムスは、その言葉を、毎朝、見ていた。
見て、目を逸らし、水晶に向かって、術式の調整を続けていた。
今日も、同じだった。
今朝も、同じだった。
だが、今夜は、違った。
魔導監視網、第四段階の完全稼働から、二週間が過ぎた。
二万三千人分の魔力波動が、エランナの水晶に、常時、映し出されている。四千六百の光点だったメルヴィアの時代が、遠い昔のように思える。今は、二万三千。二万三千の光点が、同じ振幅で、同じ周期で、明滅している。
怒りもない。悲しみもない。恐怖もない。喜びもない。
ただ、同じ波が、二万三千本、並んでいる。
エランナは、毎朝、その水晶を、確認する。異常がないか。不穏な集積がないか。反乱の予兆がないか。
確認して、記録して、レイに報告する。
それが、エランナの仕事だった。二年間、続けてきた仕事だった。
今朝も、同じだった。
水晶を覗いた。二万三千の光点。同じ波。同じ振幅。異常なし。
報告書を書こうとした。
ペンを握った。
止まった。
水晶の中で、一つだけ、異なる波があった。
九-三二〇一。元管理人。歌を歌った男。降格されて、一般居住者になった男。
その光点が、わずかに、振幅が大きかった。
他の二万二千九百九十九が、完璧に同じ波を描いている中で、九-三二〇一だけが、ほんの少しだけ、波が、揺れていた。
エランナは、その光点を、見つめた。
振幅:〇・〇五。
微小だった。検知の閾値を、わずかに超えた程度。通常なら、記録して、経過観察にする。
だが、エランナは、その光点から、目が離せなかった。
〇・〇五。
その数字が、何を意味するか、エランナは、知っていた。
感情が、動いている。
二万三千人の中で、ただ一人。感情が、動いている。
怒りでも、悲しみでもない。もっと、微かな、名前のない波。
思い出しているのだ、と、エランナは思った。
歌を。話を。故郷を。名前を。自分が、何者だったかを。
思い出そうとしている。
二万三千の沈黙の中で、ただ一人、思い出そうとしている。
エランナは、ペンを置いた。
報告書を書かなかった。
代わりに、水晶の光点を、もう一度、見つめた。
〇・〇五。
微かな、微かな、揺れ。
まだ、人間でいようとしている。
エランナは、水晶から、目を離した。
机の上の、ノートを見た。
『魔術とは、人を幸せにするための技術である』
古い字。丸い字。希望に満ちた字。
エランナは、ノートを、閉じた。
開いた。
閉じた。
開いた。
何度も、繰り返した。
その日の午後だった。
エランナは、魔導研究室を出て、第九居住区に向かっていた。
目的は、なかった。ただ、歩いていた。
居住区の廊下を、歩いていた。石造りの壁。番号が刻まれている。九-〇〇〇一から、九-三二〇〇まで。整然と。規則正しく。
居住者たちが、廊下を歩いていた。同じ速度で。同じ方向に。会話はない。挨拶もない。
エランナは、その列の横を、歩いていた。
銀色の髪。魔術師のローブ。居住者たちは、エランナを見て、目を逸らした。魔術師は、監視者だ。監視者は、怖い。目を合わせてはならない。
エランナは、歩いていた。
配給所の前を、通り過ぎた。長机。黒鉄の兜の兵。列に並ぶ居住者たち。同じ順番。同じ量。同じ沈黙。
配給を受けている居住者の顔を、見た。
誰も、笑っていなかった。
誰も、怒っていなかった。
誰も、悲しんでいなかった。
ただ、パンを受け取り、水を受け取り、转身して、歩いていく。
歯車が、回っている。
エランナは、配給所の前を、通り過ぎた。
居住区の奥に、進んだ。班長の事務所。医療室。倉庫。すべて、同じ規格。すべて、同じ規則。
そして、居住区の最奥に、小さな広場があった。
かつて、第九居住区の建設時に、テルトイアが「息抜きの場所」として設計した空間だった。石のベンチが三つ。小さな花壇が一つ。
花壇には、花がなかった。
除草されていた。配給所の兵が、週に一度、除草する。「景観の統一」のため。花は、個人の嗜好に属する。配給の対象外。
石のベンチに、誰も座っていなかった。
座ることは、許可されている。だが、誰も座らない。座る理由がない。話をすることが、禁止されているわけではない。だが、誰も、話さない。話すことが、ない。
エランナは、花壇の前に、立った。
土が、乾いていた。何も、生えていない。
三週間前、ここに、白い花が、一輪、咲いていた。石畳の隙間から、勝手に生えた花。〇四〇——七歳の女の子が、三秒だけ、見ていた花。
翌日、除草された。
エランナは、乾いた土を、見ていた。
何も、生えていない。
何も、咲いていない。
何も、ない。
風が、吹いた。
居住区の廊下を、抜けてきた風が、エランナの銀髪を、揺らした。
冷たい風だった。
何も、運んでこない風だった。
その日の夕刻、エランナは、執務室に向かった。
レイが、いた。記録帳を開いている。ペンを走らせている。二万三千人分の、今日の記録。
扉が、開いた。
レイが、顔を上げた。
「……エランナ」
「レイ」
エランナの声は、静かだった。静かすぎる声だった。
レイが、ペンを置いた。エランナを見た。
エランナの顔は、青白かった。目の下に、深い隈がある。銀色の髪が、乱れている。指先に、魔力の残滓が、明滅している。
「……報告か」
「報告じゃない」
エランナが、一歩、前に出た。
「質問がある」
「言え」
「今日、九-三二〇一の魔力波動に、異常があった。振幅〇・〇五。閾値を、わずかに超えた」
レイの目が、わずかに細くなった。
「……記録したか」
「していない」
沈黙。
レイが、ペンを握り直した。
「なぜ」
「報告すれば、どうなる」
「経過観察。三度続けば、管理人に報告。五度続けば、配給の減額。十度続けば、戸籍の再審査」
「再審査、とは」
「……知っているだろう」
「言って」
レイが、エランナを見た。灰色の瞳に、何の感情もなかった。
「戸籍の抹消。配給の停止。居住区からの排除」
エランナが、息を呑んだ。
「歌を歌っただけで」
「歌を歌っただけだ。だが、感情が動いている。感情が動けば、行動が変わる。行動が変われば、規則が破られる。規則が破られれば、秩序が死ぬ。……知っているだろう。お前が、作った術式だ」
「私が、作った術式」
エランナが、繰り返した。
「私が、作った。全住民の魔力波動を、常時観測する術式。感情を、数字に変換する術式。怒りが、数字になる。悲しみが、数字になる。喜びが、数字になる。……私が、作った」
「そうだ」
「……ねえ、レイ」
エランナが、もう一歩、前に出た。
「私、今日、第九居住区を、歩いたの。配給所の前を、通った。居住者たちの顔を、見た。……誰も、笑ってなかった。誰も、怒ってなかった。誰も、悲しんでなかった。ただ、パンを受け取って、歩いてた。……歯車みたいに」
「それが、秩序だ」
「秩序」エランナが、その言葉を、反芻した。「……ねえ、レイ。私、魔術を修めたのは、人を幸せにするためだった。炎を灯して、闇を照らすために。風を起こして、暑さを和らげるために。大地を癒やして、飢えを救うために。……今、私が作っているのは、何?」
レイは、答えなかった。
「人の感情を、数字に変換して、あなたの記録帳に書き込む術式よ。人が怒ったら、数字になる。人が悲しんだら、数字になる。人が歌を歌ったら、数字になる。……数字になった人間は、あなたの計算の中で、処理される。配給を減らされる。戸籍を抹消される。居住区から、排除される」
「それが、管理だ」
「管理」エランナが、笑った。乾いた、割れた笑いだった。「……レイ。あなたの世界は、まるで、生きている死体置場だわ」
沈黙。
長い、長い沈黙。
レイが、ペンを置いた。
記録帳を、閉じた。
エランナを見た。灰色の瞳に、怒りはなかった。悲しみもなかった。
ただ、疲弊があった。
二年間、二万三千人分の配給量を計算し続けた者の、疲弊。
「……エランナ」
「何」
「お前の気持ちは、分かる」
「分からないわ」
「分かる。お前は、人を幸せにしたかった。だが、この世界では、自由な幸福は、弱者を殺す。メルヴィアを、見た。ガルドを、見た。……お前も、見た」
「見た。だから、あなたのやり方に、従った。二年間、従った。……でも、もう、無理」
エランナの声が、震えた。
「毎朝、水晶を見る。二万三千の光点が、同じ波で、明滅してる。怒りもない。悲しみもない。喜びもない。……生きているのに、感情がない。……私が、そう作った。私が、術式を書いた。私が、檻を、作った」
声が、掠れた。
「もう、無理。毎朝、水晶を見て、『異常なし』って報告して、それで、寝る。……もう、無理」
レイは、何も言わなかった。
長い間、何も言わなかった。
それから、言った。
「……分かった」
エランナが、顔を上げた。
「分かった、とは」
「お前は、もう、無理だと言った。……分かった。無理を、させない」
沈黙。
エランナが、レイを見ていた。レイの灰色の瞳を、見ていた。
その目に、何を探していたか、自分でも、分からなかった。
怒りか。引き留めか。悲しみか。
何も、なかった。
ただ、疲弊と、計算と、そして、ほんの少しだけ——本当に、ほんの少しだけ——何かを失う者の、静かな、諦めがあった。
「……行くのか」
レイが、聞いた。
「ええ」
「どこに」
「分からない。ただ、ここから、出る。あなたの檻から、出る」
「……魔導監視網の術式は、お前しか、完全には理解していない。お前が去れば、運用に支障が出る」
「分かるわ。でも、もう、無理」
「……分かった」
レイが、言った。
引き留めなかった。
怒らなかった。
脅さなかった。
ただ、「分かった」と、言った。
エランナは、それを聞いて、何かを言おうとした。
言えなかった。
代わりに、懐から、小さな水晶を取り出した。魔導監視網の、携帯端末。二万三千の光点が、中に明滅している。
机の上に、置いた。
「……術式の設計図は、研究室の第三書架に、全部、ある。運用マニュアルも。後任の者が、読めば、回せる。……私は、もう、触らない」
「分かった」
「……ごめんなさい」
エランナが、言った。
何に対しての謝罪か、自分でも、分からなかった。
レイに対してか。二万三千人に対してか。自分自身に対してか。
分からない。
ただ、言った。
レイは、何も言わなかった。
ただ、頷いた。
エランナが、執務室を出た。
廊下を、歩いた。
城の廊下は、石造りだった。壁に、松明が、等間隔で、灯っている。影が、揺れている。
エランナの足音が、石の床に、響いた。
一人分の、足音。
二年間、この廊下を、歩いていた。毎朝、魔導研究室から、執務室へ。毎夕、執務室から、魔導研究室へ。同じ道を。同じ速度で。同じ沈黙で。
今日は、違う方向に、歩いていた。
城門に、向かっていた。
廊下の途中で、グランと、すれ違った。
グランが、立ち止まった。
「……エランナ」
「グラン」
二人は、向かい合った。
グランの目に、問いがあった。どこに行く。
エランナは、答えなかった。答えなくても、グランには、分かった。
二年間、一緒に戦ってきた。同じ焚き火を囲んだ。同じ血を流した。
分かった。
「……そうか」
グランが、言った。
「ええ」
沈黙。
グランが、口を開いた。閉じた。開いた。
「……引き留めは、しない」
「ありがとう」
「だが、一つだけ」
グランが、エランナを見た。武骨な顔に、影が、落ちていた。
「お前が、いなくなったら、レイは、どうなる」
エランナは、答えなかった。
答えられなかった。
レイは、変わらない。
それが、本当の答えだった。
レイは、変わらない。エランナがいなくなっても、テルトイアがいなくなっても、グランがいなくなっても、レイは、記録帳を開き、ペンを走らせ、二万三千人分の配給量を、計算し続ける。
止まらない。止まれない。止まれば、二万三千人が、飢える。
だが、それを言ったら、グランが、壊れる。
だから、言わなかった。
「……分からない」
嘘だった。
グランは、それを、分かっていた。
だが、聞かなかった。
「……行け」
グランが、言った。背を向けた。
エランナは、グランの背中を、見た。広い背中。両手剣を担いだ、武人の背中。
二年間、その背中に、守られていた。
「……グラン」
「何だ」
「ありがとう。二年間」
グランは、振り返らなかった。
ただ、手を上げた。
それだけだった。
エランナは、歩いた。
城門に、着いた。
門番の兵が、二人。黒鉄の兜。顔は見えない。
エランナが、門の前に、立った。
「……開けて」
兵が、一瞬、躊躇した。
「……エランナ様。管理者の許可が——」
「開けて。管理者には、伝えた。許可は、出ている」
嘘ではなかった。レイは、「分かった」と言った。引き留めなかった。
兵が、互いに、目を合わせた。黒鉄の兜の下で、何を考えているか、分からない。
それから、門を、開けた。
重い鉄の門が、軋みながら、開いた。
外に、夜が、あった。
星が出ていた。風が、吹いていた。冷たい、何の管理も受けていない、自由な風が。
エランナは、門の外に、一歩、踏み出した。
石畳が、終わった。土が、始まった。
二歩。三歩。
振り返った。
城が、背後に、あった。石造りの、巨大な、灰色の塊。窓に、明かりが、灯っている。執務室の窓。レイが、いる。
エランナは、その窓を、見ていた。
長い間、見ていた。
窓の向こうに、影が、見えた。痩躯の影。机に向かっている影。ペンを走らせている影。
記録帳を、書いている。
二万三千人分の、明日を。
エランナは、窓から、目を離した。
前を、向いた。
夜が、広がっていた。
星が、冷たく光っていた。
風が、吹いていた。
自由な風だった。
何の管理も、受けていない風だった。
エランナは、歩いた。
振り返らなかった。
執務室で、レイは、ペンを走らせていた。
二万三千人分の、今日の記録。
魔力波動。感情指標。配給受領。行動記録。
書いて、書いて、書いていた。
窓の外で、城門が、開いた音が、聞こえた。
重い鉄の、軋む音が。
レイは、ペンを、止めなかった。
書いていた。
二万三千一行目。二万三千二行目。
窓の外で、足音が、遠ざかっていった。
一人分の、足音。
だんだん、小さくなって、やがて、聞こえなくなった。
レイは、ペンを、止めなかった。
書いていた。
二万三千三行目。二万三千四行目。
窓の外で、城門が、閉まった音が、聞こえた。
重い鉄の、閉じる音が。
レイは、ペンを、止めた。
窓の外を、見た。
夜だった。星が出ていた。
城門の外に、誰も、いなかった。
銀色の髪は、もう、見えなかった。
レイは、窓から、目を離した。
記録帳を、見た。
ペンを、握った。
二万三千五行目を書こうとした。
ペンが、止まった。
止まったまま、動かなかった。
長い間、止まっていた。
それから、レイは、ペンを置いた。
記録帳を、閉じた。
机の上に、置いた。
手を、見た。
墨で、黒ずんだ手。二年間、二万三千人分の記録を書き続けた手。
握った。
開いた。
握った。
開いた。
それから、記録帳を、また、開いた。
ペンを、握った。
二万三千五行目を書いた。
六行目。七行目。八行目。
止まらなかった。
止まれなかった。
止まれば、二万三千人が、飢える。
翌朝。
魔導研究室に、レイが、入った。
机の上に、水晶が、あった。エランナが、置いていった携帯端末。二万三千の光点が、中に明滅している。
第三書架に、設計図が、あった。運用マニュアルも。すべて、整然と、並んでいる。
エランナが、去る前に、すべて、整理していった。
レイは、設計図を、手に取った。
頁を、めくった。
術式の構造。魔力の回路。観測の原理。すべて、エランナの字で、書かれている。
丁寧な字だった。几帳面な字だった。
レイは、設計図を、読んだ。
一頁。二頁。三頁。
読んで、理解した。
すべて、理解した。
エランナの魔術理論を、完全に。
レイは、設計図を、書架に、戻した。
机の上の水晶を、手に取った。
二万三千の光点が、明滅している。
同じ波。同じ振幅。
その中に、一つだけ、九-三二〇一の光が、わずかに、揺れていた。
〇・〇五。
微かな、微かな、揺れ。
レイは、その光点を、見ていた。
長い間、見ていた。
それから、水晶を、机の上に、置いた。
部屋を、出た。
廊下を、歩いた。
執務室に、戻った。
記録帳を、開いた。
ペンを、握った。
二万三千人分の、今日の配給量を、計算し始めた。
ペンが、走った。
止まらなかった。
その日の午後、レイは、城の最上階に、一人で、立っていた。
眼下に、九つの居住区が、広がっている。二万三千人が、同じ速度で、同じ方向に、動いている。
静かだった。
完璧に、静かだった。
風が、吹いた。
城の外から、吹いてきた風だった。何の管理も、受けていない風だった。
レイは、風を、感じていた。
銀色の髪を、運んでくる風では、もう、なかった。
ただ、冷たい、何の意味もない風だった。
レイは、風を、感じていた。
長い間、感じていた。
それから、背を向けた。
執務室に、戻った。
記録帳を、開いた。
ペンを、握った。
二万三千人分の、明日を、書いた。
止まらなかった。
止まれなかった。
窓の外で、風が、吹いていた。
自由な風だった。
誰も、管理していない風だった。
その風が、城の壁を、叩いていた。
何の意味もなく。
何の記録にも、残らず。
ただ、吹いていた。
第七章 了




