深海魚の夢
◆◆◆◆
――この世界は、誰かの見ている夢なのかもしれない。
そう思うのは、何度も繰り返す同じ情景に飽きてしまったからなのだろうか。
僕はアンジュに僕に起こった事を伝えたけれど、全て、というわけじゃない。
アンジュは純粋で真っ直ぐで、世界は綺麗だと信じている。
誰も踏み入った事のない深い洞窟の奥にある、暗闇に咲いた紅い花のように輝いている、宝石みたいな子だ。
だから、伝えたくなかった。
アンジュにはずっと、笑っていて欲しい。
きっと、アンジュは僕が何かを隠していることに、気づいているのだろう。
でもこの記憶は――僕だけが知っていれば良い。
僕を封じるために異界から最初の巫女がやってきたとき、僕は砂漠に捨てられた赤子をみつけた。
赤子の母は、アンジュに話をしたとおり、異界の巫女だった。
「何故、子を捨てた?」
巫女は、何故か嬉しそうに笑った。
ただ、気持ち悪いなと思った。
「あなたも私が好きなんでしょう? 私は特別。ここはそういう世界。子供なんて知らない。体からどろっとしたのが出ていって、軽くなったから良かったなぁって思ってるけど」
巫女はこの世界は自分の思い通りになるのだという。
だから誰も彼もが、自分に愛を囁くのだと。
皆に愛されていると、巫女は言った。
何の悪びれもせずに、誰が巫女に愛を囁いたかを、全ての求愛を受け入れたことを自慢げに、僕に話して聞かせた。
ここは夢の世界で、僕たちは登場人物で、皆が自分を愛するようにできているのだと。
夢の世界なんだから子供なんて出来る訳がない。そう言っていた。
――じゃあ僕が見たものは一体何なのだろう。
てのひらから零れていった小さい命は。
おぞましくて、吐き気がした。
僕も清く正しい人生を歩んできたというわけじゃない。
魔族同士では人間みたいに子供が簡単に出来る訳じゃないけれど、求められるままに惰性で女性たちの相手をしていたことを言い訳できない。
自分自身にも嫌気がさした。
死んでしまいたいなぁと、ぼんやり考えていた。
結局僕は死ぬことができなくて、透明な水晶みたいなものの中で封印されて、最低な気分で眠っていた。
――やがて、一人目のアンジュが現れた。
名前は知らないから一人目のアンジュと、僕は呼んでいる。
それはアンジュにそっくりな、赤い髪と赤い目の、綺麗な女の子だった。
一人目のアンジュは髪も服もぼろぼろで、体中傷だらけだった。
その子は僕を封印しに来た王子の婚約者だった。
王子を巫女に奪われた嫉妬から、巫女を害しようとした罪で投獄されたというようなことを、虚な瞳でぶつぶつ言っていた。
それから、封印された僕の前で首を切って死んだ。
僕の封印は、一人目のアンジュの血でとかれた。
でもしばらくの間、封印されたふりをして、自分の魔力で作り上げた水晶の中で眠っていた。
僕は一人目のアンジュの綺麗な体が崩れていくのを見ていた。
人間は崩れるんだなと、ぼんやりと思いながら。
魔族は死ぬと塵みたいに消える。
人間と争っていたからひとを害したことは勿論あるけれど、そういうときは跡形もなく消してしまっていた。
人間の死体は邪魔になるだけだから、他の魔族も大抵の場合そうしていたと思う。
だから一人目のアンジュが溶けて崩れて、白い骨が地面に埋まって消えていくのを、興味深く眺めていた。
少し、悲しかった。
やがて、世界が僕の嘘に気づいたのか、二人目の巫女が現れた。
僕は全部が嫌になってしまって、一人目のアンジュの風化していく骨を眺めながら微睡むのをやめて目を覚ますと、巫女の世界を見に行った。
まず、巫女を探した。
僕たちの世界が巫女の夢だとしたら、こちらの世界に来ている巫女の体がどこかにあるはずだ。
巫女はいた。
その少女は、一人目の巫女とそっくりな、黒髪と黒い目をしていた。
名前は知らない。どうでも良かった。
少女は部屋で眠っていた。どうやら、僕たちの世界の夢を見ているらしかった。
心を探ると、憎しみと悲しみに満ちていた。
――こんなはずじゃなかった。どこか違う世界に逃げたい。幸せになりたい。
悲しみと憎しみを胸に抱きながら救いを求めている少女は、帝国では男性たちに囲まれて幸せそうにしていた。
スアレス帝国が巫女の見ている夢だとしたら、今ここで巫女の夢を覗き込んでいる僕は一体何なんだろう。
混乱したけれど、僕は確かに存在している。
僕の巫女に対する興味はそこですっかりなくなってしまった。
一人目も、二人目も、巫女は同じことを繰り返している。
くだらない夢だと思った。
僕はそれから巫女の世界を見て回った。
そして、その世界に似せた世界を作ることをはじめた。
二人目の巫女に封印されたふりをした僕は、封印が為される前に新しく作った世界に逃げた。
魔力で練り上げた偽物の僕を水晶に閉じこめて、封印されたふりをしていた。
――少ししてから、二人目のアンジュが現れた。
やっぱり名前は知らないから、二人目のアンジュと呼んでいる。
その子もアンジュと同じような赤い髪と赤い目をした綺麗な女の子だった。
二人目のアンジュも、僕の前で首を切って死んだ。
僕はその時別の世界にいて、部屋からほとんど外に出ずに、新しい世界を作っていた。
アンジュは、偽物の封印された僕の前で死んでいた。
それをみつけたのは、死んでしまってからしばらくしてのことだった。
何が起こったのかはよく分からない。
今度は話を聞くこともできなかった。
けれど、同じことが起こった。一人目の時も二人目の時も、結末は一緒だった。
僕の偽物の封印はアンジュちゃんの血で解かれた。
そして三人目の巫女が現れた。
やっぱり、世界は変わらない。いつも同じことが繰り返されている。
再び封印されたふりをした僕の元に、三人目のアンジュが現れた。
アンジュは婚約者の王子の浮気を知って、僕の元へと来たらしい。
僕は今回は、僕の作った世界に帰らないで、封印されたふりをしている場所でアンジュを待っていた。
裏切った王子と巫女のいる世界なんて壊れてしまえば良いと、アンジュは言った。
僕は世界を壊したいと思っていないし、封印されてもいない。
今回のアンジュは僕を復活させるために、死ぬ必要はない。
巫女の体の中にいる胎児はもうきっと、死んでしまっている。
だから、大丈夫。
僕は巫女の不実をアンジュに教えてあげた。
王子とアンジュは幸せになって、巫女は元の世界に帰るだろう。
そう思ったので、帝国へとかえした。
繰り返しはこれでもう終わりだろう。繰り返しているのか、たまたま同じことが起こっているだけなのかは分からないけれど。
けれど三人目のアンジュは、何も言わずに王子から逃げたことを咎められ、王子から疑われ閉じ込められて、毎日のように酷く嬲られて—―心を病んで死んでしまったそうだ。
クラウスがそれを僕に教えてくれた。
だから僕は、クラウスに、僕の元へ来るための道標の魔方陣を記した本を城のどこかに置いておくようにと命じた。
それから――四人目のアンジュが現れた。
四人目のアンジュは、――今のアンジュだ。
アンジュは、禁書に残された記録を頼りに、僕の所へとやってきた。
あちらの世界は繰り返している。
けれど、僕のつくった世界はたぶん、あちらの世界の時間の外側にあるのだろう。
血の魔方陣を記した本は、繰り返しの世界に影響を及ぼしてくれたらしい。
今回のアンジュもきっと僕の元へと来るだろうなと思っていたから、アンジュが現れた時、そんなに驚かなかった。
随分と早かったし、上から落ちてくるとは思っていなかったけれど。
アンジュは僕を復活させるために、いつもと同じように死のうとした。
僕はそれをやめさせて、僕の手元に置くことにした。
――この世界は巫女の見ている夢なのかもしれない。
だから繰り返している。
巫女はつかのまの悦楽を享受しては目覚めることで自分の世界へと帰ることを繰り返し、アンジュは不幸になり、死んでしまう。
王子の元へはかえせない
だって、王子はアンジュを殺してしまう。
だから手元に置いた。そして世界を眺める事にした。
この世界がアンジュを殺す仕組みになっているのだとしたら、僕が守ってみようかと、思った。
別に僕は一人目も二人目も、三人目のアンジュのことも、好きだったわけじゃない。
それどころか名前すら知らなかった。会話さえ交わさなかった。
だから四人目のアンジュの事を、最初はただの興味本位で、愛玩動物を愛でるような気持で可愛がっていた。
でも――それだけじゃ足りなくなってしまった。
欲しくなってしまった。
世界はアンジュの不幸を望んでいる。
だとしたら――僕がアンジュを傷つけて、殺してしまうのかもしれない。
そして結局、僕はアンジュを殺した。
ヴィオニスから奪うため。
巫女を騙すために。
アンジュの胸を切り裂いて、噴き出る血を浴びた。
それはプリシラとシルベールの作り上げた幻夢だったのだけれど、夢と現実の境なんてあってないようなものだから、僕にとっては真実だった。
僕はアンジュを殺して、その血を啜って、僕だけのものにした。
「ロキ様、眠れませんの……?」
色々あって疲れたのだろう。
眠ってしまったアンジュが、まだ薄暗い明け方、愛らしい寝顔を眺めていた僕を見て心配そうに言った。
「……この世界が、誰かの見ている夢だったら、その誰かが目を覚ましたら、世界は消えてしまうのかな」
巫女は目覚めただろう。
それでも世界は続いている。
だとしたら、これは誰の夢なのだろう。
「……深い湖の底に、大きな魚がいるのかもしれませんわ」
「魚?」
「……それとも、……ずっと昔に骨になってしまった誰かが、……ロキ様を幸せにしたいと願って、夢を見ているのかもしれませんわ」
「アンジュ、それって……」
眠そうに、拙い声で、アンジュが言う。
僕は吃驚して、アンジュの顔を覗き込んだ。
ゆっくりと瞼が閉じられる。
僕の胸に顔をあてて眠るアンジュを、僕はそっと抱きしめた。




