幻想と現実の境界
――そうして私は死んでしまって、私の血で復活を果たしたロキ様は、見事に巫女様にやぶれて、世界からは魔王が消えた。
ロキ様が死んでしまったということは、ロキ様の作った魔族の街も消えて、世界から失われた。
魔族はいなくなり、人間の脅威も消え去った。
巫女様は元の世界に戻り、スアレス帝国は元通り。もう二度と、魔王の脅威には晒されず、巫女様がいらっしゃることもないのだろう。
夢は、もう終わった。
夢の続きはもう、ない。
罪深い私は、魔王を復活させるために奔走した悪女として、スアレス帝国の歴史に名を残すのだろう。
けれど、それで良い。
それは、本当のことだから。
もう私が目覚めることは――ない。
私は深い湖の底で目を閉じる。ロキ様を、幸せにしたかった。傍にいたかった。
だから私は、何度も――
まどろみのなかで、深い湖の底で眠る大きな魚の幻を見た。
魚は今は満ち足りていて、もう夢を見ることを、望んでいない。
ふと気づくと、私はいつもの六畳間のお布団に横になっていた。
「おはようございます、アンジュさん。申し訳ありませんが、今まさに消滅しかけている我が主に、少々血を分けてやってくれませんか」
アルジェドさんが、床からはえている。
どういうことかと視線を巡らせると、私の隣にロキ様が倒れていた。
私はあわててお布団から起き上がって、ロキ様に手を伸ばす。
深く目は閉じられていて、白い肌はいつもよりもいっそう白く見える。
「ロキ様……! 血なら、好きなだけさしあげます、ロキ様、起きて……」
「大丈夫ですよ、アンジュさん。主は半吸血族。種族の中で最も生き意地汚い存在なのです。滅多なことでは死にません。それは貧血のようなもの。口に指を突っ込めば、きっと元気になります」
アルジェドさんはそれだけ言うと、床の中へと溶けるように消えてしまった。
私は言われたとおりにロキ様の口の中に指を入れる。
かぷりと、噛まれた感触がある。
じゅ、と強く吸われると、体から何かが損なわれていくような奇妙な感じがした。
痛みはない。
ただ、ゆびがあたたかくしめったものに包まれているような感覚があるだけだ。
妙に、気恥ずかしい。
指を吸っていた口が離れると、ロキ様の瞼が薄らと開いた。
灰色の瞳が私を見つめて、いつものふにゃりとした笑顔を浮かべる。
それから私の体を抱きしめて、お布団の上に一緒に寝転がった。
「おはよう、アンジュ。ごちそうさま」
「ロキ様……お元気そうでなによりです」
「うん。元気だよ。すっかり元通り。はじめて飲んだんだけど、血って美味しいんだね。エナジードリンクぐらい元気が出ちゃう」
「えなじーどりんく」
「それともアンジュの血だから? どうしよう、癖になったら。定期的に血を飲ませてとか言ってくる恋人とか、嫌じゃない?」
「嫌ではありません。少し恥ずかしいですけれど、好きなようにしてくださいまし」
「あー、駄目だ。もう一度死にそう」
「まだ具合、良くありませんの? 血が足りないなら、私でよければ、どうぞ、もっと好きなだけ……」
「アンジュが可愛くて死にそう」
ロキ様は私の体を抱き寄せると、背中や髪を撫でる。
「僕は、君を傷つけてしまったよね。……ごめんね。ああするしか、なくて」
「私は今生きていて、とっても元気です。でも、一体どういうことですの?」
私の記憶は、ロキ様の手で殺められたところで途切れている。
痛くもなかったし、怖くもなかった。
でも私もロキ様も、いつも通り生きている。
私は、夢を見ていたのだろうか。
それとも、この世界が、私の見続けている夢なのだろうか。
「ロキ様、元気になった?」
「アンジュさん、ロキ様のお加減は……これはこれは、悪いタイミングでしたね。私たちは邪魔でしたか」
遊びに来たような気安さで、プリシラさんとシルベールさんが玄関から現れて、中に入ってくる。
お布団の上でロキ様に抱きしめられていた私は、あわててロキ様から離れようとした。
けれど、離してくれなかった。
「プリシラ、シルベール。協力してくれてありがとう」
「あら、ロキ様も素直にお礼が言えるようになったのね。良いのよ別に、可愛いアンジュちゃんのためだもの。何枚でも脱ぐわよ」
「それ以上脱いだら全裸になりますよ、姉さん」
「これ、差し入れ。落ち着いたら食べてね」
「何にせよ、ご無事でなによりでした」
プリシラさんが、テーブルの上にどさりと沢山食べ物がつまった買い物袋を置いた。
シルベールさんが優しく微笑み、プリシラさんと顔を見合わせると、そのまま帰ろうとする。
「あ、あの、……私以外の皆さんは、何がどうなったか、知っていますのね」
「まぁね。夢魔族の私たちにとって、夢を見せるなんて結構簡単なことだし。ロキ様、アンジュちゃんに説明してなかったの?」
「時間が無くて」
「デートする時間はあったのに?」
「アンジュ、素直だし、嘘をつくの苦手だから、途中で世界に欺瞞を気づかれたら、困るなと思って」
プリシラさんが深い溜息をつく。
一体どういうことなのかとロキ様を見ると、ロキ様は申し訳なさそうに眉を寄せた。
「世界を壊すのは簡単なのに、守るのって、難しくて。……ヴィオニスと巫女には、幻想を与えたんだよ。アンジュが僕に殺されて、僕が巫女に殺される幻想を。そうすれば、こちらの世界は消えて無くなって、アンジュも死んでしまったという記憶が残る。記憶は記録となって、僕たちの存在は、向こう側では消えたという事実が残った」
「ロキ様が巫女に消滅させられそうになったのは、本当だけどね。全てを嘘で塗り固めることができるほど、幻想も甘くないって話。消滅しかけてるロキ様とアンジュちゃんを、クラウス様やアルジェド様、フィアセス様が協力してあちらの世界から連れ戻して、今ってわけね」
「プリシラとシルベールは、夢を見せるのが得意な種族だから。協力して貰ったんだよ」
「どのあたりから、偽りでしたの……?」
「世界を騙すための嘘は、クラウスを閉じ込めたあたりから、かな。幻術にかけたのは、巫女がこちら側に来たあたりだね。油断したときが、一番幻術にはかかりやすい。だから僕たちは一度、巫女の力で全滅させられたふりを……」
「心配しましたのよ?」
「うん、ごめんね」
「まるで、真実のようでした。私が死んでしまったことも、全て」
「……夢と現の境なんて曖昧なもの。この世の全ては幻とも言えるし、そうではないとも言えます。けれど世界が幻だとしても、気にせず楽しめば良いのですよ。楽しければ何でも良い。そこに深い意味や理屈は必要ありません」
シルベールさんが詩を紡ぐように言った。
帰って行く二人を見送って、ロキ様は玄関の方を指さした。
ガチャリと、鍵のかかる音が聞こえた。
「これで誰にも邪魔されない」
やれやれ、と溜息をつくロキ様は、次の瞬間とても嫌そうに眉を寄せた。
お布団の横、テーブルの前に座って、クラウスさんが深々と頭を下げているのを見てしまったからだろう。
「ロキ様、アンジュ様、お二人にはご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした」
「いいから、帰って、クラウス。ルディアだっけ。人間の子。連れて帰ってきたんでしょ?」
「ルディアは無事ですのね……」
私はほっとして、体の力を抜いた。
相変わらずお布団の上でロキ様に抱きしめられているのだけれど、まぁ良いかと思えてきた。
「はい。お二人のおかげで、無事に助け出すことができました」
「それなら、良かった。クラウスさんは、本当にルディアのことを愛しておりましたのね」
「ええ、勿論。私が帝国に残っていたのは、元々ロキ様のためだったのです。ロキ様が帝国に関わることをやめてから、私はスアレス帝国の中央に近い貴族に擬態して、帝国の様子を探っていました。ロキ様に巫女が現れたことを伝えるのが自分の役割だと思っていたし、いざとなれば、ロキ様を守るつもりでした」
「僕は別に頼んでないよね。クラウス、僕を裏切った上に役に立たなかったし」
「ロキ様」
ロキ様が半眼でクラウスさんを睨む。
私はロキ様の口元に、しっ、と指をあてた。クラウスさんの独白を邪魔したら駄目だ。
ルディアのことがあったのだから、仕方ないだろう。
ロキ様は「アンジュに叱られた」とか言いながら、でれでれした。
クラウスさんの裏切りとか、たいして気にしていなさそうだった。
「けれど私は、ルディアを愛してしまった。どうするべきかと悩みながら、ロキ様討伐の旅に同行したのです。本来なら半年程度で終わる筈の封印の旅が一年近くかかったのは、巫女が各地を観光して回りたがったからでした」
「知らない世界ですもの。色々と見てみたかったのでしょうね」
私はアカネさんのことを思い出す。
どこか無邪気なところがある女性だったように思う。
「旅に緊張感はまるでなく、ヴィオニスも巫女には甘く、付き従わなければならなかった私は苛立ちを隠すのに必死でした。……ヴィオニスと巫女は男女の関係にあると私は考えていました。だから、子を成したと知った時にもまぁ、そうだろうなとしか思っていませんでした」
「そうですのね。そんなに仲睦まじかったのに、どうして……」
「……アンジュ様を失いヴィオニスの態度は豹変しました。巫女を道具のように扱うようになり、巫女が関係があったことを白状した他の男達は、皆殺されました。私はヴィオニスはそういう人間だと思っていたので驚きませんでしたが、ずっとヴィオニスに甘やかされていた巫女にとっては、ずいぶん恐ろしかっただろうと思います」
顔をあげて背筋を伸ばして座っているクラウスさんが、記憶を辿るようにして、ぽつぽつと言った。
「ルディアを守るためとはいえ、ロキ様の大切なアンジュ様を傷つけようとしたこと、反省しています」
頭をさげるクラウスさんに、ロキ様が「そうだよ、裏切り者」とか拗ねたように再び小さな声で言うので、私は慌ててその口を両手で塞いだ。
クラウスさんは落ち込んでいるようだ。落ち込んでいる方の傷に塩を塗るようなことをしてはいけない。
「いえ、それは良いのです。ルディアが無事で本当に良かったです。もう、大丈夫なのですか?」
「私は禁書を始末して、アンジュ様が描いた魔方陣の痕跡を全て消しました。こちらの世界の痕跡は消えて、巫女が帰れば元通りの日常に戻ります」
「戻る、でしょうか」
「……私とルディアも、ロキ様によって殺されたという事になっています。三人の被害者が出ましたが、魔王は封印出来た。帝国にとってはたいした痛手ではありません」
「まぁ」
「僕、特に何にもしてないけど、凄い魔王っぽいね」
ロキ様は殺人の汚名をきせられているというのに、全く気にしていないようだ。
「巫女は、元の世界に帰り、……ヴィオニスは、皇帝という立場がある。アンジュに代わる新しい妃を迎えるでしょう。哀れかもしれないが、そうするしかありませんでした」
私はなにもしていないけれど。
いつのまにか、全部終わっていたみたいだ。
私はほっと息をついた。
もう、大丈夫。
消えない罪はあるけれど――私には、ロキ様がいてくれる。
「これからは、ロキ様とアンジュ様の生活を、誠心誠意心を込めて支えていきます。隣人として」
「クラウス、隣に住む気なの?」
ロキ様が尋ねると、クラウスさんは頷いた。
「私はロキ様の忠実なる腹心。……のつもりでしたが、今回はご迷惑をかけてしまったので、出来る限り近くでロキ様を支えたいと考えています」
「えぇ、良いよ……クラウス、堅苦しいし。めんどくさいし」
「ロキ様、私はルディアが隣に住んでくれるのは嬉しいですわ。お友達ですし」
「アンジュが良いなら良いよ」
ロキ様はころっと意見をかえた。
ロキ様の許可がおりてとても安堵した様子のクラウスさんは、そんなに怖い人ではないのかもしれない。
クラウスさんは、現れたときと同じように、突然消えるようにして、多分隣の部屋へと帰っていった。
皆がいなくなると、狭かった六畳間が急に広く感じた。
というのは気のせいで、六畳間は六畳間のままだ。
狭いけれど、なんだか安心する。
「アンジュ、……手、大丈夫? 怪我、してたよね」
ロキ様が大切そうに私を抱きしめて、心配そうに言った。
「大丈夫ですわ。私はこのとおり、元気です」
ロキ様は帝国に戻った私の様子を見ていたのだろうか。
噛みちぎった指先の傷はもう残っていない。
いつの間にか着替えていたらしい、もこもこのウサギ耳のついた部屋着も血に汚れていない。
「うん。……良かった」
傷の跡を確かめるように、ロキ様が私の指先に触れる。
二人きりになってしまった部屋は静かだ。
スノードームの街は、今は暗闇の中にある。
時計は午前零時を示していた。




