聖域の檻
遠く、声が聞こえる。
「巫女、聖域で囲め。魔性の者が近づけないようにな」
「はい……」
ゆっくりと、意識が浮上する。
目覚めたくなんてないのに。
全部、全部、悪い夢だ。
私は目覚めると、ロキ様のいつもの狭い六畳間に、ロキ様と同じお布団で眠っているはず。
外の世界なんかしらない。
あの場所は完結していて、完璧で、満ち足りていて――幸せだった。
「目覚めたか、アンジュ。手荒なことをしてすまなかった。お前は、混乱しているようだったからな」
薄く目を開くと、私を見下ろすヴィオニス様と視線が絡んだ。
私は豪奢な部屋の真ん中にある、ふかふかのベッドに転がされている。
久しぶりのベッドは、居心地が悪かった。
ヴィオニス様の命令でアカネさんが錫杖を翳すと、私のベッドを囲うようにして黒い檻が現れる。
檻の中には、獣が入っている。
檻の中にいれるのは、獣が誰かを傷つけないためだ。
私は獣だ。
皆を、傷つけてしまった。
私はベッドの上で起き上がり、ぺたんと座り込んで、私を囲う檻をみつめた。
「アンジュは、俺と巫女に子が出来たことに嫉妬をして、俺の元から去ったんだろう? それは俺を愛しているからだ。俺もアンジュを愛している」
ヴィオニス様の愛の言葉は、どこまでも空虚に響く。
それはまるで、砂漠の中で干からびて骨になった――誰かの体のよう。
骨の隙間を風が通り抜けていく。
崩れた骨が、からん、と乾いた音を立てる。
「だから俺はアンジュを、魔王の元から取り戻した。アンジュ、不安にさせたな。俺の気持は変わらない。お前を手放すつもりなど、なかったのに」
ヴィオニス様はアカネさんに声もかけずに、そこには何もないように檻を通り抜けて、ベッドの上の私に近づいてくる。
アカネさんが震えている。
絶望に彩られた瞳から涙が零れ落ちる。
「あんまりではありませんか。……ヴィオニス様が優先すべきは、巫女様ですわ。巫女様のお体です」
「抱かれたのか、アンジュ」
「何を言って……」
「抱かれたのかと聞いている。魔王はお前の体に触れたのか」
ヴィオニス様は私をベッドに強引に押し倒した。
大きくて逞しい体が、私に圧し掛かっている。
触れる体温が、近づく距離が、耐えられないぐらいに気持ちが悪い。
私の体を、感触を確かめるようにして大きな手のひらが撫でていく。
「足は? 手は? 顔は? どこに触れられた。お前は体を開き、受け入れたのか? アンジュ、答えろ」
「……ロキ様は、そのような方ではありませんわ」
「随分と親し気に名前を呼ぶんだな。相手は魔族、人を騙すことに長けた連中だ。魔性の者に誑かされたんだな、アンジュ、可哀想に。お前は男に慣れていない。甘い言葉でも囁かれたら、すぐに絆されるのだろう」
先程も、聞いた言葉だ。
ヴィオニス様は私が騙されているだけだと、信じたいのかもしれない。
「……違いますわ。私は、大人です。きちんと考えることができますわ。ロキ様が良い方かどうかぐらい、判断できます。それなのに、ロキ様を……」
「そう思っているのはアンジュ、お前だけだ。世界は美しいと妄信している箱入りのお前に、判断できることなどなにひとつない」
「……離してください! 私はもう、ヴィオニス様の事など愛しておりませんわ!」
ロキ様に会いたい。
もう一度、抱きしめて欲しい。
ふにゃりと相貌を崩して笑う顔が、優しい声が、恋しい。
「ヴィオニス様には巫女様がいらっしゃるでしょう? 私を自由にしてくださいまし! ヴィオニス様は巫女様を大切になさるべきですわ、私のことなど忘れて……!」
「俺の気をひこうとしているんだな、アンジュ。健気で愛らしいことだ。お前は思い違いをしている。俺は巫女のことなど、珍しい動物程度にしか思っていない」
「……酷い。……それではなぜ、子供を……」
吐き気がする。
頭では理解しているのに、心がついていかない。
――帝国では、男性の火遊びは許されている。
それは理解している。
遊ばれた女性は耐えるしかないのだ。
今までの私なら物分かりの良いふりをして、「そうですわね」と受け入れていただろう。
けれど今の私は違う。
ロキ様と共に暮らして、ロキ様が私を尊重し大切にして、きちんと向き合って下さる姿を知っているから――だから、ヴィオニス様は、違う。
間違っていると、強く思う。
「珍しい生き物だが、無知で見た目は愛らしい。だから、愛玩動物程度には思っていた」
ヴィオニス様は何のためらいもなく、そう口にした。
私も最初はそう思っていた。
ロキ様が私に優しくしてくださるのは、珍しい動物を愛でているようなものなのだろうと。
「魔王との決戦を怖がり、一度だけだからと俺に縋ってくるので情けをかけてやっただけだ。……それが、このような事になってしまった。巫女である以上無下には扱えない。だから、正妃に据えることにした。それだけのことだ」
――愛って、なんなのかな。
――僕は君に、触れても良いのかな。
ロキ様に囁かれた言葉が思い出されて、涙がにじんだ。
やっぱり、違う。
苦悩しながらも私に手を伸ばしてくださったロキ様を、私は、愛している。
たとえロキ様ともう二度と会えなくても、その感情は、変わらない。
「俺が愛しているのはアンジュ、お前だけだ」
「一度きりでも、そこに愛情があったのでしょう? 愛情がなくとも、触れられると? 大嫌い、最低です……!」
「……それほど、俺の不義が許せないのか、アンジュ。ならばやはり、巫女との子を殺そう。どの道、異界の女との子供など、不要なもの。俺の元を離れて寄る辺のない巫女が、一人で子を育てるなど不可能だからな、温情をかけて傍に置いてやっていたが、もう要らないな」
「私は、ロキ様を愛しておりますわ。ヴィオニス様がなにをしようと、その気持ちは変わりません。ロキ様の作った国は、どこまでも優しくて、楽しくて、自由でした」
私はヴィオニス様を睨みつける。
触れられた手から逃れようと、必死に暴れた。
「ヴィオニス様が不要だというのなら、私が巫女様を連れて行きます! 私は私の責任を果たすため、巫女様とお腹の中の赤子を、ヴィオニス様から守る義務があります!」
何もかもを失って、ロキ様まで失って――けれど、泣いて自分を哀れんでいる暇なんて無い。
私ができることをしなければ。
誰も守ってくれないのなら、私がアカネさんと、小さな命を守らないといけない。
「あぁ、そうか。泣き叫ぶお前を、無理やり犯しても良いが、……俺は俺を愛してくれているアンジュが欲しい。今のお前は、魔王に誑かされた、偽物だ。姿かたちが同じだけのな」
ヴィオニス様は私から興味を失ったように、私の上から退いた。
その顔には全ての感情が抜け落ちてしまった人形のようだった。
ヴィオニス様がちらりとアカネさんを見る。
アカネさんは可哀想なぐらいに震えている。
私に向けられた視線は、救いを求める様な、縋りつくようなものだった。
「アンジュさん……」
アカネさんが小さな声で私を呼んだ。
「巫女、お前にアンジュの名前を呼ぶ許可を与えていない。……所詮、異界の女など、魔族に対抗するための駒にしかすぎない。お前は無力だ。魔性の者を封じる力しか持っていない。俺や、帝国の人間がお前を殺すなど、赤子の手をひねるよりも簡単だと言う事を忘れるな」
「……はい」
「地虫の残党が現れたら、殺せ。お前はお前の役割を果たせ」
「わかりました」
青ざめながら、アカネさんが頷く。
「頭を冷やせ、アンジュ。お前は賢い女だと、俺は知っている」
ヴィオニス様は、部屋から出て行った。
次にヴィオニス様が部屋に訪れたら、きっと私は――
それまでに、なんとか逃げなければいけない。
私は立ちすくんでいるアカネさんを見上げた。




