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最果ての歪み



 クラウスさんの氷の棺のような拘束が、割れる。

 不意に拘束がとけた衝撃からか、クラウスさんが壁から床に倒れ込んだ。

 ロキ様は私の腕をひいて背中に庇い、アルジェドさんとフィアセス様がロキ様の前に出る。

 拘束が剥がれ落ちた壁から、光が漏れている。

 それは不思議な光景だった。

 壁にあいた穴の向こう側は、広い砂漠だ。

 ロキ様が昨日の夜、天井にうつしてくださったものと同じもの。

 朽ちた建物だけが砂に埋まっている、不毛の大地。


「……アンジュ、迎えに来た」


 クラウス様の背中に足を乗せて、男性が立っている。

 此方の世界に来てから終ぞ見かけなかった、黒い鎧を身に纏い、その上から重々しいマントを羽織っている。

 ロキ様の世界になれた私にとって、その姿はまるで、テレビドラマの中の架空の登場人物のように感じられた。

 金色の髪と、青い瞳を持つ、威風堂々とした姿。


「ヴィオニス様……」


 ヴィオニス様の隣には、巫女様――アカネさんの姿がある。

 アカネさんは、最後に見たときよりもどことなしか、窶れているように見える。

 体調が悪いのかも知れない。

 巫女様に与えられた力の象徴である金色の錫杖が、かたかたと震えている。


「クラウスの言っていたことは、真実だったようだな。魔境の更に奥、次元の裂け目を開いて、世界を作り、魔族の連中が住んでいると」


 ヴィオニス様の靴底が、クラウスさんの背中をざり、と踏みしめる。

 小さなうめき声が聞こえる。

 クラウスさんの背中に、赤く焼けただれるような円形の刻印が浮かんでいる。

 血の魔方陣――私がかつて描いたものと、同じものだ。


「……クラウスめ、余計なことを」


 フィアセス様が舌打ちをする。


「我らがひとと干渉をしないようになってから久しいというのに、長らくの平穏を破るつもりなら、こちらとしても容赦はしません」


 アルジェドさんの冷静な声音の底に、深い怒りを感じられる。


「口を開くな、知性の無い地虫どもが。石の裏にへばりつく虫のように、肩を寄せ合って隠れ住んでいるのなら捨て置いたものを……俺のものを奪うなど、地虫の分際で」


「……アンジュは、自ら望んでここに来たんだよ。それで、僕が貰った」


 ロキ様はヴィオニス様を見据えて言った。

 いつも通りの落ち着いた声音だった。


「黙れ。その手をどけろ。それは、俺のものだ。勝手に居なくなることなど、許されない」


「ヴィオニス様……どうやって、ここに……」


 喉の奥に、言葉が張り付いてしまったようだ。

 私の知るヴィオニス様は、私に優しかった。

 けれど私は、ヴィオニス様は優しいだけの方ではないと知っていた。心のどこかで、恐れていたのかも知れない。

 幼い頃から――男性には刃向かってはいけないと教育されていたせいだろうか。

 ヴィオニス様は皇帝になる方。

 私の場合は余計にそれを、厳しく教え込まれていたように思う。

 射るように睨み付けられて、体がびくりと震えた。

 ロキ様の服を、知らず掴んでいた。


「血の魔方陣を書くんだったな。お前の部屋から本を見つけた。だが、駄目だったな。みすみすお前を逃がしたピオフィニア家の者の血を全て使って魔方陣を描いても、何も起らなかった」


「私の家族に、何をしたのです……?」


「どのみち、俺を裏切った者達だ。処刑をするついでに、その血を使った。それだけの話だ」


「そんな……」


 目の前が暗くなる。

 ――私は、けれど、分かっていたはずだ。

 私がヴィオニス様を裏切れば、家族がどんな目にあうか。

 処罰されることは、目に見えている。

 帝国とはそのような場所だと、分かっていたはずなのに。

 それなのに私は――ロキ様の元に来て、ロキ様に恋をした。

 私は幸せで、全てを忘れて、甘い蜜の中に浸っていた。


「アンジュ。お前が俺の元を去ったのは、巫女のせいだろう。巫女には、罰を。アンジュを連れ戻すことができなければ、腹の子ごと殺すと伝えたら、クラウスが魔族だと吐いた。最初から知っていたのだな。これも役立たずの、鼠のような女だ。子を孕むことしか、能が無いのだろうな」


 吐き気がする。

 ヴィオニス様の言葉とは思えなかった。

 恐ろしいところはあるけれど、立派な方だったと思う。巫女様が――アカネさんが来るまでは、私のことを愛してくださっていた。大切に、してくださっていた。

 私が――ヴィオニス様を、壊してしまったのだろうか。


「お前を大切にしている。そのつもりだった。だがお前は俺の元から去り、その男に縋ったのだろう。……その、隠れるしか能の無い、役立たずの地虫に」


「ロキ様は、優しい方です。ヴィオニス様なんかよりも、ずっと……!」


「アンジュ、良いよ。もう話さないで。……分かったでしょう、話し合いは、無駄なんだよ」


 ロキ様を嘲笑うヴィオニス様を、私は睨んだ。

 声が震える。

 泣きたくないのに、目尻に涙がにじんだ。

 ロキ様は私を落ち着かせるように、きつく抱きしめてくださる。

 私の一番安心できる場所だ。ロキ様の腕の中で、許されるのなら、泣きじゃくりたかった。

 何も見たくない。聞きたくない。

 逃げ出してしまいたい。 

 ――けれど、それはできない。

 私は責任を果たすと決めたのだから。


「能なしの巫女でも、少しは役に立つこともある。クラウスの体を導とし、巫女に命じて世界を開いた。可哀想に、アンジュ。魔族たちに誑かされたのだろう。お前は世間知らずだからな、甘言に、すぐに惑わされる。俺と共に帰ろう。お前が嫌だと言うのなら、巫女も腹の子も、お前のために殺してやる」


「……私は、そんなことは求めておりませんわ。ヴィオニス様、ルディアを解放してください。これ以上、血を流さないで」


「お前が俺の元に戻るのなら、そうしてやろう」


「戻りません。私は……ヴィオニス様のことは、大嫌いです……!」


 私は――

 私のせいで、ヴィオニス様は多くの血を流した。

 私の家族も、失われてしまった。

 けれど、それでも――

 罪深いと分かっているのに、私は。


「私は、ロキ様が好き。この気持ちが変わることなどありません!」


「……そうか。ならば、殺せ。巫女。俺の役に立て」


 アカネさんの持つ錫杖が、掲げられる。

 この世界は、作り物。

 巫女様に、ロキ様は勝てない。

 そういう風にできている。

 目の前が白く弾けた。

 私を庇うロキ様の体を、空から降り注ぐ何本もの閃光が貫く。


「ごめんね、アンジュ。情けなくて、ごめん」


「やめて……お願い、やめてください……!」


 ロキ様の体を抱きしめて、私は震える声で叫んだ。

 クラウスさんや、アルジェドさんや、フィアセスさんが、ロキ様と同じように貫かれて、倒れている。

 すっかり身に馴染んだ、居心地の良いアパートが、燃えて崩れ落ちていく。

 私はヴィオニス様に、動かないロキ様の体から強引に引き離された。

 首に、衝撃を感じた。

 私の意識はそこでふつりと途切れた。



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