帝国の騒乱
隣の部屋に続く扉を開き、中に入っていくロキ様のあとに続いた。
そこはロキ様の部屋とはまるで違っていた。
開いた扉から先は、黒い石室のようになっている。
ただの四角い空間で、窓も何もない。
壁も天井も床もつるりとした石でできていて、鏡張りのように私たちの姿を映し出した。
壁には燭台のようなものがいくつかあって、太く赤い蝋燭に灯が燈っている。蝋燭が溶けていく様子がないので、魔力で練り上げられた炎なのだろう。ただの蝋燭よりもずっと明るい。
土足でロキ様が石室の奥へと進むので、私は最近はじめたばかりのこちらでの生活の癖で、入り口で靴を脱ぎかけたけれど、思い直した。
石室の一番奥に、赤い鉱物のような石がある。
宝石のように美しいけれど、宝石にしては随分と大きい。
誰も知らない深い洞窟の奥にある水晶で出来上がった石牢のようだった。
美しいけれど、恐ろしさもある。
その石に半分体を同化させるようにして、男性が埋まっている。
腰から下と、広げられた両手が赤い水晶に溶けるようにして埋まり、石室の最奥の壁に打ち付けられるようにして拘束されていた。
肩下まである長く真っ直ぐな銀色の髪に、冷ややかな青い目をした男性である。
その男性を中心にして、アルジェドさんと、フィアセス様の姿がある。
お二人はロキ様と私の姿を見て、驚いたように俄に目を見開いた。
「ロキ様、どうしてアンジュさんを?」
「何故、連れてきてしまったのです」
お二人の質問に、ロキ様は答えなかった。
真っ直ぐ拘束された男性の元へと向かい、目を閉じて動かない石像のようなその姿を見上げる。
「クラウス、起きて」
やはり、私の知っているクラウスさんだった。
帝国でご挨拶を交わした時よりも、幾分か年上に見える気がした。
ヴィオニス様が私よりも二つ年上で、クラウスさんはそれよりも少し上。
つまり、まだ二十歳前後、といったところだと思っていたのだけれど、今のクラウスさんは二十代後半程度に見える。
魔族は姿を変えられるとロキ様は言っていたので、擬態した人間の年齢にあわせて若くみせていたのかもしれない。
「……ロキ様」
クラウスさんはロキ様に名前を呼ばれて、どこかぼんやりと焦点の合わない青い瞳を私に向ける。
はっとしたように目を見開いて、忌々しそうに眉根を寄せた。
「アンジュ……」
私はスカートの端を抓んで、貴族の挨拶をした。
このような仕草をするのは、なんだか随分久しぶりだ。
「あなたは、クラウス・ルシーズ様。ルシーズ宰相家の長男で、ルディアの婚約者、ヴィオニス様の側近……だった、クラウス様ですわね」
私はロキ様の少し後ろから、クラウスさんに話しかけた。
「あぁ、そうだ」
クラウスさんは私を睨みつけながら頷いた。
憎まれるようなことを私は何かしてしまったのだろうか。
ロキ様のところに来てしまったことしか、思いつかない。
私が血の魔法陣を描いたことは、ヴィオニス様に知られている。
ロキ様の元へ来たばかりの日に、ロキ様はヴィオニス様の様子を一瞬だけ見せてくれた。
ヴィオニス様は侯爵家の私の部屋にいて、部屋の惨状と魔法陣を、難しい表情で見ていた。
「どういうことですの、ロキ様。どうして、クラウス様をこのような……」
「アンジュに会わせたくなかったからだよ。……クラウスは、アンジュを連れ戻しに来たんだ」
ロキ様はクラウスさんの視線から私を隠すように、片手で私を庇いながら言った。
「私を……? 何故ですの、クラウス様。……私が、禁書を盗んだから。ロキ様の封印を解こうとしたから? でもロキ様は封印されていなくて、帝国を支配しようなんて思っていなくて……クラウス様はそれをご存じだったのですよね?」
「アンジュ、お前が余計な事を行ったせいで、ルディアはヴィオニスによって拘束された」
「ルディアが?」
「あぁ。……お前がロキ様の元へと行ったあと、ヴィオニスはルディアを拘束した。……ルディアは城に作られた聖域に隔離されている。私は巫女の作り出した聖域に干渉できない。巫女は私が魔族であることを、ヴィオニスに伝えたのだろう。あれは、魔性の者の気配が分かるらしい」
「どうして、そんなことを」
声が震える。
私のせいで、妹と友人が酷い目にあっているかもしれないと思うと、背筋を冷たい汗が流れ落ちた。
「ヴィオニスはお前を取り戻したがっている。……ルディアを殺すと言われ、私はロキ様の事をヴィオニスに伝えた。……別の世界にいること、封印はされていないことを。アンジュがロキ様と共に暮らしている情景を見せると、あれは激怒した」
「それって、僕を裏切ったってことだよね、クラウス」
ロキ様が冷めた声音で言う。
「ロキ様の側近の身でありながら、帝国に残り、人間の女に心を奪われてロキ様に仇なそうとするとは、あきれ果ててものも言えません」
アルジェドさんが忌々しそうに言う。
「さっさと消滅させるべきだった。拘束などせずに」
フィアセスさんも、冷たい声音で言った。
クラウスさんとルディアのことを私は深く知っているという訳ではないけれど、クラウスさんはルディアを愛しているのだろう。
私にとっても、ルディアは友人だった。
スアレス帝国を裏切ったのは私だ。
悪いのは、私。
「申し訳ありません、ロキ様。……けれど、アンジュさえ帝国に連れて行けば、……ルディアは助かるのです」
「ルディアとかいう女は助かるとして、アンジュはどうなるの? ……ヴィオニスは、アンジュを」
「……帝国を裏切ってロキ様の元に来た私を、ヴィオニス様はそうまでして憎み、処刑など、なさりたいと思っているということでしょうか」
魔王封印のために一年を費やしてようやく平和に暮らせると思った矢先、婚約者だった私が裏切ったのだ。
それは、怒るのは当然だろう。
私の言葉に、クラウスさんは呆れたように嘆息した。
「違う。……ヴィオニスは、お前に執着している。許せないのは帝国を裏切った事ではない。お前が、ロキ様と……楽し気に暮らしているのを見たからだ。私が見せた。そう命じられたからな。お前の心変わりが許せなかったのだろう。だからお前を連れ戻し、無理やりに妃へと据えるつもりだ」
「意味が分かりませんわ。ヴィオニス様と巫女様には子供がいて、私は邪魔な筈では……」
「あれは、世界は自分の思い通りになると思っている。……アンジュが自分の元から去るとは、露ほども疑っていなかったのだろう。まして、他の男のものになるなど、許せなかったのだろうな」
吐き捨てるように、クラウスさんが言う。
よく分からない。ヴィオニス様は確かに、巫女様との間に子供が出来たから、私を側妃にすると言っていた。
本当なら巫女様と二人で仲睦まじく暮らしたいはずなのに、私に情けをかけたのだろうと思った。
私は側妃に格下げされて、邪魔ものあつかいされるのならいっそ――そう思い、禁書を盗んだのだ。
確かに私の行動は愚かだっただろうけれど、私の認識している世界のどこが間違っていたのか、よく分からない。
「……アンジュ、お前がヴィオニスの元へ帰らなければ、ルディアは殺される。……お前を帝国へ連れ戻せば、解放するとの約束だ。だから私はこの国へ来た」
「いい加減にしろ、裏切り者が。アンジュさんはロキ様の大切な方だ。それだけではない。人間の命令に従うなど、お前はそれでも魔族なのか? 恥を知れ」
フィアセスさんが、クラウスさんの拘束されている壁を蹴った。
壁にぴしりと大きな歪みができる。
「何とでも言え。……アンジュを連れていくことを、ロキ様は拒絶した。事情を伝えた私との念話を遮断し、挙句居場所を隠した。プリシラやシルベールはロキ様と会ったと言うのに、私には見つけられなかった。お前とロキ様を探し街を彷徨っていたところ、ロキ様に捕まり、この有様だ」
「つまり……、ロキ様は、ルディアが殺されるかもしれないことを、知っていましたの?」
「……うん。……アンジュに、伝わらなければそれで良いって思ってた。……アンジュはそれを知ったら、帝国に戻ろうとするでしょ?」
「私の犯した罪のせいで、誰かが苦しんでいるとしたら、私はそれを助けなければ行けませんわ」
「僕は君が傷つくのを、見たくない」
まだ不安そうに揺れる灰色の瞳を見上げて、私は両手でロキ様の手をぎゅっと握った。
「ヴィオニスが君を欲しがっている。君は、ヴィオニスの元に、戻りたいとは思わない?」
「私は、ロキ様が好きです。優しくて繊細で、一緒にいると楽しくて……おはようも、おやすみも、なんでもない日常を、毎日を、ロキ様と過ごしたい。そう思っておりますわ」
私の気持ちは変わらない。
私は、ロキ様が好き。
今私が穏やかな気持ちでいられるのも、ヴィオニス様の様子を聞いても動揺せずにいられるのも、ロキ様のおかげだ。
できることならずっと、ロキ様と一緒に――私の短い命が尽きるまで、ロキ様を見守っていたい。
――ロキ様がもう十分だと思うぐらいに、愛して甘やかしてさしあげたい。
「泣きそう……」
「しゃきっとしてくださいまし」
潤んだ瞳で私を見下ろして、ぎゅうぎゅう抱きしめてくるロキ様を私は咎めた。
今はそれどころではない。
「私、クラウス様と共に帝国に戻ります。きちんとヴィオニス様と話し合って、ロキ様の元へと戻ってきますわ。話し合いは大切です。……ヴィオニス様との話し合いを拒絶した私がいけなかったのですわ」
「それは、駄目。アンジュ、酷い事をされるかもしれないんだよ」
「話し合えば、きっと分かっていただけますわ」
「……話し合っても分かり合えないことが、沢山あるんだよ」
ロキ様は諦めと諦観をうつした瞳で、私を諭すように言った。
「僕が、アンジュを連れていく。ヴィオニスがアンジュに何かをしようとしたら、ヴィオニスを殺す」
「……それはできませんよ、ロキ様。……ヴィオニスの傍らには、巫女がいます。巫女さえいなければ、帝国などどうとでもなるでしょう。けれど、私達魔族は巫女には勝てない。脆弱な人間の女でしかないのに、異世界の巫女という存在に、私達は勝てないのです。そういう風に、世界ができているのですから。ロキ様もご存じでしょう?」
「忌々しい事にね」
「ロキ様が封じられてしまえば、ロキ様の魔力で維持されているこちらの世界は壊れてしまう。それはいけません。……多くの魔族がロキ様の作り出した国で暮らしていますから」
アルジェドさんが落ち着いた声音で言う。
ロキ様はこれっぽっちも興味のなさそうな声音で返事をした。
「僕が作った街なんかよりも、アンジュの方が大切だよ」
それは本心なのかもしれない。
私を想って下さる気持ちは嬉しいけれど――でも、駄目だ。
私は私を抱きしめるロキ様の腕から抜け出す。私のような――女が、こんなことを王に言うのは、帝国では許されないだろう。
けれど、ロキ様ならばきっと私の話を聞いてくれる。
安心感と、信頼と、ほんの少しの甘え。
それがあるから、私は堂々と自分の考えをロキ様に伝えることができる。
ロキ様の優しさに、私はずっと救われている。
「ロキ様、王には王の義務があるのです。多くの魔族の方々がロキ様を慕い、こちらの国に移り住んでいるのでしょう? ロキ様、作り出したものには、責任が生じますわ。それが……たとえば、私がつくった架空の街であっても、ヴィオニス様と巫女様の子供であっても、ロキ様の街も、同様に。ロキ様には世界を維持する役割があります」
「でも」
私は、スアレス帝国に帰らなくては。
私の責任を果たすために。




