おわりのはじまり
ロキ様は私に何度か口付けをしてくださって、髪を撫でてくれたけれど、それだけだった。
私は心地よさと眠気に抗えず、眠ってしまったのだと思う。
目覚めると昼を過ぎていた。
「おはよ、アンジュ」
「……おはようございます、ロキ様。……どうして起こしてくださらなかったのです?」
「寝顔、可愛いから、見てた」
ロキ様は、珍しく私よりも先に起きていて、テーブルの前に座って珈琲を飲んでいる。
あわてて起き上がろうとした私の頬をそっと撫でると、「アンジュも珈琲飲む? ブラックだよね」とにっこり微笑んでくれる。
私は頬を染めながら頷いて、身支度を調えるために脱衣所に向かった。
今日は出かけるというので、メイド服ではなくて普通のお洋服に着替えた。
ロキ様が「デートだよ」と言っていたので、可愛い服を選んだつもりだ。
深い藍色の長袖のワンピースは、深い海の底を連想させる。
ロキ様は黒いシャツの上に、黒いジャケットを羽織っていた。
飾り気はないけれど、元々の見栄えが良いせいか、それだけで人目をひくぐらいに素敵な姿だった。
昼過ぎ、喫茶店で、うにのクリームパスタをいうものを注文した。
「うに」
私は目の前に置かれた、橙色のでろっとしたものをフォークでつつく。
最近気づいたのだけれど、私は結構好奇心旺盛な方なのかもしれない。
できるだけ知らない食べ物を、食べてみたい。だから、サーモンのクリームパスタではなくて、うにを選んだ。
「ウニっていうのは、こう、とげがいっぱいあって、海にすんでる謎の生物」
ロキ様は喫茶店のメニューの中で一番辛い、トマトパスタを頼んでいた。
なんというか、もの凄く赤い。
「謎の生物……とげがいっぱいあるのに、どろどろしておりますのね」
「それはウニの中身。今度水族館に行ったら、見せてあげるね」
「私の家は海のそばにありましたけれど、うには知りません。食べなかったのか、それとも存在しなかったのかもしれませんわね」
「僕の世界は、巫女の世界を参考にして作ってあるから、食べ物も似てるみたいだね。ウニとか、イクラとか、寿司とか。あんまり興味無いから、僕も食べたことないんだけど」
「ロキ様は今まで何を食べて生きてきたのです?」
「食事、とらなくても死んだりしないんだよ。食事は娯楽のひとつ。僕は基本的に、ずっとコンビニのおにぎり」
「それではアルジェドさんたちに心配されてしまいます。私、料理を覚えますわね。心の健康は、食べ物からだと、この間見たテレビで言っていましたのよ」
ロキ様に健康的なお食事を召し上がって頂こう。
コンビニのおにぎりは美味しいけれど、メイド兼恋人としては、料理ぐらいはしてさしあげたい。
「無理はしなくて良いけど、楽しみにしてるね。……ねぇ、アンジュは、何がしたい? したいことあったら言ってね」
「したいこと?」
「うん。僕もほとんど部屋から出なかったから、経験はないんだけど……映画館とか、ゲームセンターとか、あとは買い物とか? それと、遊園地とか、海とか温泉旅行とか」
「色々ありますのね。海と旅行は分かります。温泉も分かりますわ」
「温泉旅行は……そうだね、また今度ね。いきなりはちょっと、心の準備が……」
「旅行に心の準備が必要ですの?」
「うん。必要」
今まで部屋にばかりいたロキ様には、旅行は敷居が高いのかも知れない。
結局私は、ロキ様は映画とゲームが好きだろうと思うので、映画はもうお部屋で見たので、げーむせんたーなるものを選んだ。
げーむせんたーはプリシラさんが働いているデパートの中にあって、がやがやしていて、きらきらしていて、やたらと賑やかな場所だった。
私はロキ様おすすめの、アンデット族を退治するゲーム、なるものを行った。
画面の中から襲い掛かってくるアンデット族を、弓矢に似た、けれど弓矢とはまるで違う形状の武器で撃って討伐するというものである。
中々迫力がある。必死で討伐する私の様子を、ロキ様はそれはもう良い笑顔で写真に残していた。
余程情けない顔をしていたのだろう。
それから、箱の中に大量にひしめいているうさぎのぬいぐるみを、中にある手みたいなものを動かして取る、というゲームをした。
何回やってもまるで取れない。きっと取れないようにできているのだろう。
私がまたも必死になっていると「欲しいの?」と聞かれたので、頷いた。
ぬいぐるみというものとは、随分幼い時にお別れした気がする。子供じみた玩具など、皇帝妃になるものとして相応しくないからだ。
そのかわり煌びやかな宝石が与えられたけれど、あまり嬉しくはなかった。
本当は宝石よりも可愛い人形の方が、幼かった私は欲しいと思っていたのだ。誰にも言わなかったけれど。
ロキ様は、箱の中のうさぎを簡単にとってくれた。
片手に抱えられる大きさのうさぎを何匹も取ってくれようとするので、流石に止めた。
そんなに沢山あったら、部屋に置ききれなくなってしまう。
お布団を敷くだけで、結構いっぱいいっぱいなのだ、ロキ様のお部屋は。
「……あら、アンジュちゃんじゃない。せっかくここまで来たのに、どうして会いに来てくれないの?」
結局、三匹ほど集まってしまったうさぎのぬいぐるみは、お店の方に白い袋に入れて貰った。
そろそろ別の場所に移動しようかと、げーむせんたーを出ると、見知った方が二人こちらに向かってくるのが見えた。
回れ右をして逃げようとするロキ様の服を私は掴む。
声をかけられたのに逃げると言うのはいけない。
私は並んで歩いてくるプリシラさんとシルベールさんに軽く会釈をした。
随分長い間遊んでいたらしい。
デパートのお店が閉まる時刻は午後八時。
お店を閉めて帰る途中のプリシラさんとシルベールさんに私たちは偶然遭遇したのだと、プリシラさんが教えてくれた。
ロキ様は拗ねたような表情を浮かべていたけれど、プリシラさんに誘われて、私たちはデパートから外に出て、エキマエという場所の繁華街にある、お酒の飲める店に来ていた。
四人がけのテーブル席がいくつか並んでいる広いお店だ。
天井からは小さめのシャンデリアのようなランプが吊り下がっていて、店内を柔らかい橙色に照らしている。
重厚感のあるテーブルを挟んで、皮張りのソファが置かれている。
私はロキ様と並んで座り、正面にはプリシラさんとシルベールさんが座っている。
プリシラさんがメニュー表を見て、適当にご飯を頼んでくれたので、テーブルの上には串に刺さったお肉や、細長い棒みたいなものが山のように積まれているもの、生のお魚のようなもの、唐揚げ、野菜スティック、チーズ、などが所狭しと並んでいる。
ビールが三杯と、私用に冷たい紅茶が運ばれてきて、プリシラさんは大きなグラスに入ったビールを手にすると「お疲れ」と言った。
そういう挨拶だと思った私は、背筋を伸ばして「お疲れさまです!」と挨拶を返した。
お店の中にいる方々が、私の方を温かい眼差しで一瞬見たような気がした。人間の私が珍しいのだろう。
私は勧められるまま、フライドポテト、というものを手掴みで食べた。さくさくしていて美味しかった。
もうおにぎりを手掴みで食べることで手掴みには慣れている私なので、手慣れたものである。
初めて手掴みで食事をする私の姿を期待していたらしいシルベールさんが、残念がっていた。
「アンジュ、これは焼き鳥。お肉だよ」
ロキ様が並んだご飯について教えてくれる。
見たことがあるものだったので、私は少し得意げに微笑んだ。
「やきとり、知っています。この間、プリシラさんが教えてくれましたもの」
「結局食べなかったけどね、アンジュちゃん。合コンが、ロキ様の五億年ぶりの初恋を応援する会に変わっちゃったし。っていうかロキ様、呼び捨て? 恋人になった途端に呼び捨て? 俺の所有物宣言ってこと? あー、やだ。これだから五億年もこじらせてる男は、重いのよ、感情が」
「その後、とても上手くいっているようで良かったです。アンジュさん、私の腕はいつでもあいていますので、ロキ様が嫌になったらいつでも飛び込んできて良いですからね」
プリシラさんとシルベールさんにからかわれて、私は身をすくめた。
そういえば――そんなこともあったんだった。
「ロキ様のこと、嫌になったりしませんわ。だから、大丈夫です」
「アンジュ……うん。ありがと。焼き鳥食べる? このまま食べると串が喉に刺さって死んじゃうかもしれないから、串から肉を外してあげるね」
「ロキ様、串がささったぐらいでは死にませんわ。……というか、刺さらないように食べるから大丈夫です」
「万が一ってことがあるでしょう。死なないかもしれないけど、刺さるかもしれないし」
やきとりというからには鶏肉なのだろう。
ロキ様は串からお肉を一個一個おはしという、二本の木の棒に見える道具を使って外してお皿に入れると、私の前に置いてくれた。
「ありがとうございます」
「うん。刺身も食べる? アンジュ、生の魚食べたことある?」
「お魚は生では食べませんわ。でも、この間、見たような気がします」
「そっか。心配だなぁ、なんだっけ、あれ、あの病気。食中毒だっけ。そういうので、死んじゃうかもしれないからやめておこうか」
「ロキ様、私はそう簡単には死にませんわ」
私の隣で甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるロキ様を見上げて私は言った。
ロキ様は不安そうに私をじっと見つめる。その表情が捨てられた子犬のように思えて仕方なかったので、「おさしみはやめておきます」と遠慮することにした。
どのみち生魚を食べる勇気は出なかった。
プリシラさんとシルベールさんは、私たちの様子を無言で眺めながら、物凄い勢いでお酒を飲み干していた。
お二人ともとても優美な姿をしているのに、喉に漏斗で流し込むようにビールを飲んでいる。
あっというまにグラスが空になり、定員さんが次々と新しいものと取り替えに来てくれた。
慣れたものである。多分、常連さん、という感じなのだろう。
「……なんというか、甘ったるいわね。何も食べなくてもお腹いっぱいになりそうな甘ったるさだわ」
ビールから飲み物を白ワインに変えたプリシラさんが、焼き鳥の串を片手に持ってくるくると回しながら言った。
今日もプリシラさんは下着のような姿だ。くっきり見える胸の谷間が目に眩しい。
「ロキ様。良かったですね、幸せそうで。やっとアンジュさんを娶る決意を固めたのですか?」
シルベールさんが落ち着いた口調で言った。
灰色のスーツをスマートに着こなしている。露出の多いプリシラさんとは正反対の姿だけれど、並んでいるところを見ると姉弟だからだろう、どことなく似ているような気がする。
「うん。もうすぐ結婚しようと思ってるよ」
あっさり頷くロキ様の横で、私は内心とてもうろたえた。
結婚。
喜びと戸惑いが半分半分といったところだ。どうにもふわふわしていて、現実味に乏しい。
「あら、良かったじゃないロキ様。早くしたほうが良いわよ。アンジュちゃん可愛いし、シルベールだってアルジェド様だって、フィアセス様だって、ロキ様にその気が無ければ奪い取る気満々だし」
「……そうだね。頑張らないとね、僕も、少しは」
「だから今日はデートしてたんでしょ?」
「さすがに反省したよ。……アンジュには、僕と一緒に居て楽しいって思って欲しいし」
「ロキ様。私はロキ様と一緒にお部屋にいるだけでも、十分楽しいですわ」
「アンジュ……ありがと。でも、一緒に楽しいこと、沢山しようね」
「楽しいこと。とても良いですね。仲が良くて何よりです。恋人たちを盛り上げる道具を各種取り揃えていますので、また私の店にも足を運んでくださいね」
「楽しいこと。良い響きね。アンジュちゃん、セクシーランジェリーもこの間お買い物してくれた時に選んで届けてあるから、活用してね」
「シルベールとプリシラが口を挟んだ途端に、いかがわしくなるの、どうにかならない?」
ロキ様が呆れたように溜息をつく。
シルベールさんとプリシラさんの言葉の意味を理解した私は、思わず持っていた紅茶の入ったグラスを落としそうになって、わたわたと慌てた。
「……ところで、ロキ様。クラウス様が久々に戻られたようだけど、会った?」
「あぁ、会ったよ。プリシラちゃん、その話、今はしないで」
クラウス様、という名前に、私は首を傾げた。
知っている方と同じ名前だったからだ。
偶然なのかしら。
ロキ様が、やや冷たい声音でプリシラさんに言う。
プリシラさんは不快そうに眉根を寄せた。
「隠し事、よくないわよ。……いつか、アンジュちゃんが傷つく結果になるわよ。ロキ様、人間は賢いのよ、私たちが思っているよりもずっと」
「知ってるよ。この街だって、人間の街を模倣したものだからね。そんなことは知ってる」
「だったら、伝えるべきじゃない? わかってるんなら、尚更」
プリシラさんの言葉を遮るように、ロキ様は私の手を引いて立ち上がる。
それから、「帰ろう、アンジュちゃん」と短く言った。
先程までの穏やかさを失ってしまったかのような白い横顔からは、なんの感情も読み取れなかった。
なんだか、急に間違った道に迷い込んでしまったような、不安と居心地の悪さを感じた。




