最初の巫女の話
ロキ様の指先が、私の頬にくすぐるように触れる。
細身に見えるけれどその体はしっかりとした男性のもので、緊張と、少しの期待に胸が震えた。
自分の心臓の音が、うるさいぐらいに耳に響いている。
「アンジュは、小さいよね。細くて小さくて、……顔も、首も、手首も、足も、簡単にもぎ取れてしまうぐらいに……」
「……ロキ様、私はロキ様にしてみたら、脆くて弱いのかもしれません。……でも、私はロキ様を怖いと思ったこと、一度もありません。私はロキ様を……信じていますから」
他になんと言って良いのか分からなかった。
ロキ様の不安は――どこからきているのだろう。
私が人間だから。
本当に、それだけ?
「たとえば、ロキ様が私の腕をもいでしまったとしても、私はロキ様を好きになったことを後悔なんてしません。ロキ様は半分、吸血族と言っていましたでしょう? だから、食べられてしまっても、良いと思っておりますのよ」
「……それ、殺し文句」
ロキ様は私の首筋に顔を埋めた。
それからそのまま何も言わずに、しばらくじっとしていた。
私はロキ様の髪に触れる。
ふわりとした感触の白い髪を撫でる。窓から差し込む月明かりと街の明かりに照らされたロキ様の髪は、いつもよりも余計に白く、暗闇に浮かび上がっているように見えた。
「アンジュ、ずっと昔の僕は――本当に人間を、滅ぼそうとしていたんだよ」
「それはそうでしょう、ロキ様は、伝承に残る魔王様ですもの」
「うん。今となっては黒歴史だけれど」
ロキ様は私からそっと体を離すと、天井を見上げる。
白いばかりの天井が朧気に歪み、どこまでも続く砂ばかりの砂漠がうつしだされる。
緑も水もない、不毛の大地だ。
透き通るように青い空が広がり、陽光が砂漠を黄金色に輝かせている。
砂の他には、朽ちた石造りの建物がいくつか。
天井が残る建物もあれば、外壁だけが残るものもある。
「昔のこと、あまりよく思い出せないんだけど……気づいたら僕は、砂漠に倒れてた。ここは、最果ての魔境。何もないところでしょう?」
「……ロキ様には、ご両親はいませんの?」
「両親がいないと僕はうまれていない筈だよね。でも、思い出せない。気づいたらこの砂漠に倒れていて……よく分からないまま彷徨って、気づいたら魔族達に囲まれていてね。中途半端な半魔が、何故この地に来たって、よく分からないけど敵視されて」
「それは、お辛かったでしょう」
自分が何者かも分からないのに責められるというのは、どんな感じなのだろう。
例えばそれは、こちらの世界に来た私が、人間だといって嫌われて蔑まれ、暴力をふるわれるようなものなのだろう。
ロキ様がロキ様じゃなければ、その可能性も、きっとあった。
私はどこまでも続く砂漠に奇妙な既視感を覚えながら、ロキ様の手に自分の指を絡めた。
「うん、そうだね。辛かったのかな。よく分からない。今はもう滅びた種族の、吸血族と、薄汚い人間の血が流れているって、言われて。でもね、アンジュ。僕は強かったから、魔族の王になった」
「ロキ様は、人間のことがお嫌いでしたの?」
「嫌い、だったのかな。……好きも嫌いもなかったのかもしれないね。人間は魔族と見れば殺そうとするし、逆も同じだったから」
「どうしてそうなってしまったのでしょう」
「理由なんてなくて、世界がそういう風にできているというだけかもしれない。アンジュの作った街では、動物が人を襲うでしょう? だから兵士は動物を、檻の中に閉じ込めている。それと一緒」
「……話し合うことができるのに?」
「アンジュも危険な動物と、話し合おうとはしないでしょう? 人間も同じじゃないかな。魔族は人間のことを……そうだね、食料、と思っている者も少なくなかったから。……話し合いは、無駄だったんじゃないかな」
「そうなのかも、しれませんわね」
今と昔は違うのだろう。
ロキ様や他の方々は理知的で穏やかな印象だけれど、それは私に見せている顔がそう、というだけで、実際には違うのかもしれない。
私だって、伝承でしかロキ様や魔族について知らなかったときは、とても恐ろしい存在だと思っていたのだから。
「それでね。あるとき僕は、砂漠で……うまれたての、赤子をみつけたんだ」
「赤ちゃんを……魔族の、子供ということですの……?」
「魔族は、人間のように子供を産んだりしない。だからそれは、人間の子供」
私はロキ様の腕の中で、息を詰める。
砂漠に捨てられた赤子。
誰にもみつからなければ――簡単に失われてしまう命だ。
「最初はそれが何か分からなかった。小さくて、赤黒くて、奇妙にどろどろしていて、でもそれは、人の形をしていた。そんなものを見るのは初めてだったけれど、僕はそれを拾った。どういうわけか、助けなきゃいけないような気がしたんだ」
「その子は……」
砂漠の光景が、テレビの画面を消したように、ふつりと消えて、白い天井に戻った。
ロキ様は私を、まるで許しを請うようにして、縋るように抱きしめた。
「駄目だった。多分、小さすぎたんだろうね。僕はこの子は一体どこからきたのだろうと思って、命が消える間際にその記憶を探った」
「……記憶を?」
「うん。その赤子は、母親の顔をはっきり覚えていた。疑問で一杯だったよ。好き。大好き。どうして。どうして。言葉にはならなかったけれど、多分、そんな感情が、体中から溢れていた」
「どうして、そんなところに、赤ちゃんを……」
「……分からない。僕は赤子を綺麗に消してあげた。捨ててしまうのは可哀想だと思ったんだよ、多分。それからすぐに、いちばんはじめの巫女が、僕の元へやってきたんだ」
いちばんはじめの巫女。
それが誰なのか、いつの話なのかは、よく分からない。
今の巫女様は、カシワギアカネさん。
それよりもずっと前の話なのだろう。
「巫女は、僕の拾った赤子の記憶にこびりついていた、女の顔をしていた」
「……そんな」
最果ての魔境には、人間は足を踏み入れたりしない。
そこに捨てられていた、人間の赤子。
そして――魔王討伐に向かう使命を与えられている巫女様は、女性だ。
でも、まさか、そんな。
巫女様とは清らかで正しくて、スアレス帝国を、世界を守ってくれる存在だ。
それなのに。
「どうして子供を捨てたのか、僕は巫女に尋ねたけれど、巫女はそんなものは知らないといっていた。……この世界は自分の思い通りになる作り物の世界で、自分は愛されるのだと、妄信しているようだった」
「作り物? 思い通りになる?」
「そう。……それで、僕は何もかもが嫌になってしまって、……だから大して抵抗もせずに、封印された」
「……ロキ様」
「ねぇ、アンジュ。人間にとって子供は、大切なものだと、僕は思っていたんだよ。……でも、簡単に捨てられるんだね。まるで、塵みたいに」
「それは違います……!」
「僕は両親を知らない。どうやって生まれたのかも覚えてない。……だからかな。混乱して、よく分からなくなってしまったんだ。……ただ、薄汚いと思ったよ。巫女も、巫女と共に僕の元に来た男達も、それから、……けして清らかとは言えなかった、僕自身も」
ロキ様は、私の首筋と背中を大きな手で掴むようにして、私をきつく抱きしめる。
その後封印が解かれたロキ様は、最果ての魔境の奥をひらいて国をつくった。
それから――アルジェドさんや、フィアセス様の話では、滅多に部屋から出なくなってしまったのだろう。
ロキ様の胸には深い傷が残り、まだ赤い血が、だくだくと流れ続けているような気がした。
だから、怖かったのだろうか。
私を傷つけることが。
「ねぇ、アンジュ。愛って、なんだろうね」
何を言えば良いのだろう。
言葉が頭の中をぐちゃぐちゃとかき混ぜて、上手に喉の奥から出てこない。
「でも、僕は――君のことが、好き。好きになって、しまったんだよ」
私は小さく頷いた。
私もロキ様が好き。好きだと言われると、指先が震えるほどに嬉しい。
「僕は、君に触れて良いのかな」
どこか泣き出しそうな声で、ロキ様は言った。
私はロキ様の背中に腕を回して、大丈夫だと伝えたくて、そっと撫でた。




