世界の終わりと恋の始まり
お店を出ると、すっかり日が暮れていた。
背の高い建物の間から覗く空には、星が瞬いている。
ロキ様のつくった街は、夜でも明るい。街灯と、お店の窓から溢れる光と、色とりどりの看板の灯り。
賑やかな夜の街を、見知らぬ方々がどこかに向かって歩いていく。
ロキ様は私の手をひいて、アパートに向かって歩いた。
人混みから逃れるように、中心街から離れていく。
川沿いの道にさしかかり、小さな橋を渡る。
川は黒々とした水をたたえていて、月明かりが川面に落ちている。
「ごめん。……痛かった?」
橋の中央で、ロキ様は立ち止まった。
離れそうになった手を、私は強く掴んだ。
「痛くありませんわ。ロキ様……私は」
何を怖がっていたのだろう。
自分の感情に気づかないようにしていた。
ぬるくやわらかい、お布団の中に隠れているような関係が、心地良かったから、甘えていた。
理由をつけて、言い訳をして、そうしないと――
私は本当に、駄目で、最低で、酷い人間だと、思ってしまいそうになるから。
「私は、世界征服をしてもらおうと思って、ロキ様の元に来ましたの。復讐をしたかったのです。私を裏切った、巫女様やヴィオニス様に」
「うん、知っているよ」
「嫉妬して、恨んで、多くの人を傷つけようとしました。それがどんなことなのかさえ、まともには考えていませんでした。……私は、嫉妬深くて最低な人間なのに、ロキ様と一緒にいて、楽しくて、幸せで……」
「アンジュちゃん……」
月明かりに照らされたロキ様はどこまでも美しくて、まるで教会で懺悔をしているような気持ちになる。
はらりと、涙がこぼれ落ちた。
ロキ様の固くしなやかな指先が、私の目尻を拭った。
「ロキ様は、私にいつも、選ばせてくれようとしましたわ。私の言葉を否定しないで、最後まで聞いてくれようとしました。ロキ様と一緒にいると自由で、体が、軽くて……私は、自分の残酷さを忘れてしまいそうになりますの」
「……アンジュちゃんは、残酷?」
「誰かを好きになると、また、嫉妬をするかもしれません……怖いのです。世界征服を望んだ私も、私ですもの」
それなのに、私は。
ロキ様のことが――好きだ。
こちらの世界に来てから、ずっと一緒にいてくれたロキ様に、いつの間にか恋をしていた。
ロキ様は私のことを子供だと思っているのは分かっているから、それに必死に気づかないようにしていた。
だってきっと、いつかロキ様に素敵な恋人ができてしまったら、私の世界は――また、終わってしまう。
今だって、そう。
ロキ様に、フィアセス様の元へ行って良いと言われた気がして、それだけで、目の前が暗くなるような、深く暗い穴の中に真っ逆さまに落ちていくような、閉塞感と息もできない苦しさがある。
「一度だけ、誰かを憎んだり恨んだりしたら、ずっと許されないものなの? アンジュちゃんは、……自分以外のひとたちが皆、そんな感情をかけらも持っていないとでも思ってる?」
片手を繋いで、片手を私の頬に添えたロキ様が、私の顔を見下ろしている。
冴え冴えとした灰色の瞳が、私の心の奥まで見透かすように、私を見つめる。
ふわりとした白い髪が、風に揺れた。
「でも、私は……」
「ねぇ、アンジュちゃん。……僕も、一緒。怖いよ。僕が、君を……傷つけてしまうんじゃないかって」
「ロキ様……?」
苦しげに、ロキ様は微笑んだ。
ロキ様が私を傷つける。
よく分からない。ロキ様は優しくて、繊細で、懐の広い方だ。誰に何を言われても、本気で怒ったりはしない。
だから他の魔族の方々も、ロキ様に気兼ねなく物を言うのだろう。
ヴィオニス様は、そうではなかった。いつも、ヴィオニス様の周りには、どことなく緊迫した空気が流れていた。
ロキ様とヴィオニス様は違う。
――比べるのはいけないことかもしれないけれど、でも、やっぱり違うと思う。
違うから、きっと、私はロキ様の傍では安心できた。
臆せずに、話すことができた。
スアレス帝国にいた時の私には、それができなかった。
ただひとこと「私を裏切ったヴィオニス様の側妃にはなりたくない」と、言えなかった。
簡単なことなのに、けれどあの場所では、そんなことを口にしたらーー首が落とされることを、理解していた。
だから、どうにもならなくて。
どうすることもできないぐらいに辛くて。
ただひとりで、死を選べばよかったのに、それもできずに――多くの人や、ロキ様を巻き込むことを選んだ。
今ではそれは、間違っていたとわかる。
けれど、そうしなければ私は、ロキ様に出会うことができなかった。
例えばもう一度同じ人生を繰り返すとして――私は、ロキ様の元に来ることを、きっと選んでしまうのだろう。
「怖い。……アンジュちゃんを傷つけるのが、怖い。僕が君を欲しいと思ってしまったら、僕も、きっと」
「ロキ様……私は、……ロキ様が、好きです」
世界が、壊れていく音がする。
繋いだ手が震える。
足場が急になくなって、崩れていく不安定な地面の上に立っているようだ。
私はロキ様の、メイドだった。
メイドとは主の世話をするもの。
そこには感情なんて必要なくて、そう言い張っていれば、ロキ様と一緒に居ることができた。
でも、私はそんなふわりとして曖昧で心地良い関係を、自分から壊してしまった。
全てを失って、ロキ様しかいなかった私の、狭い部屋での心地良い世界が、崩れていく。
でも。
そんなものに縋って、大切な何かを失ってしまうよりも、ずっと。
逃げないで気持ちを伝えることの方が、大切だと思える。
逃げ続けて、逃げ続けて、後悔しないように。
「婚約者を失って、ロキ様に縋って、好きだと言うなんて、軽薄だと思われるかもしれません。けれど私は、ずっと私に優しくて、大切にしてくれて、いつも、一緒にいてくださったロキ様が好き。私をたくさん甘やかして、私を立ち直らせてくださったロキ様に……恋をしておりますわ」
「……僕は、ずっと逃げていたのに? アンジュちゃんを傷つけるのが怖くて、ずっと、子供扱いしてたのに」
「それでも良いのです。ロキ様が、子供じゃないと認めてくださるまで、頑張ります」
「そんなこと、ずっと前から分かってるよ。アンジュちゃんは子供じゃない。真面目で一生懸命で、……泣きたくなるぐらいに綺麗な、僕の……アンジュ」
真摯な声が、耳に触れる。
視界がぼやけて、何か柔らかいものが唇に触れた。
ロキ様の顔が近づき、そっと離れて、そして優しく微笑んでくださる。
もう手は震えていない。
――私の世界は崩壊して、そして、恋がはじまった。




