帝国の記憶
ふと目を覚ますと、ロキ様の綺麗な顔が至近距離にあった。
白い髪の隙間から覗く切れ長の瞳が閉じられている。長い睫も、髪と同じ白い色をしている。
私の体は布団の中にある。
ロキ様の腕が私を抱きしめるように引き寄せている。
細身で体が薄い印象のロキ様だけれど、私に比べてしまえば十分に大きい。
案外しっかりした胸板や、首筋が軽く身動ぐと視界に入ってきて、混乱した。
――これは、どういう状況なのかしら。
髪を乾かして貰っていたところまでは覚えている。
気持ち良くて、眠くなってしまったことも覚えている。
そこから先の記憶が途切れているということは、きっと眠ってしまったのだろう。
夫婦関係でも恋人関係でもない男性と同衾するなど、あり得ない事だ。
本当ならすぐに起きてロキ様から離れるべきなのだろうけれど、睡魔と心地良さには勝てそうになかった。
(お布団、あったかい)
それに、なんだか――守られているみたいで、安心する。
昨日は、帝国で過ごした最後の夜。
辛くて苦しくてまるで眠れなかったのに。
私は今、ロキ様の腕の中で、心地よさに微睡んでいる。
あれほど思い悩んでいたヴィオニス様と巫女様について、まるで何もかも忘れてしまったみたいだ。
(……ロキ様が優しくしてくれているから?)
ロキ様と私は違う。
生きる時間も見てきたものもまるで違う。
ロキ様のそれは物珍しい動物に向ける様な愛着なのかもしれない。
――それでも私はたぶんきっと、ロキ様に救われているのだろう。
私の体を抱いてすやすや眠っているようにみえるロキ様に、私は甘えるように頬を擦りつけた。
魔族の体のつくりがどうなっているのかは知らないけれど、どくんどくんと規則正しい心臓の音が聞こえる。
その音を聞いていると再びどうしようもない睡魔に襲われて、私は深いところに落ちていくように眠りについた。
◆◆◆◆
スアレス帝国の中央にある、帝都レブランドの城は果てしなく広い。
何度来ても迷子になりそうなほど広く、実際に何度か迷子になった経験のある私は一人で歩き回るなとヴィオニス様に言われていたので、大人しく応接室のふかふかのソファへと座っていた。
スアレス高等貴族学園に通う私の元へと、城からの使者が来て呼び出された形なので、私は制服のままだった。
私の元へとヴィオニス様が巫女様を連れてやってきたのは、それからしばらくしてのこと。
巫女様の噂は私も知っていた。城の中庭でここがどこなのかが分からずに困り果てていたのを、ヴィオニス様がみつけたのだという。
それは数日前の話で、私はしばらくヴィオニス様とは会っていなかった。
巫女様が現れたのでお忙しいのだろうと思っていた。
学園では巫女様が降臨されたという噂、魔王復活の噂で持ちきりになっていた。
帝国は平和そのものなのに、これから恐ろしい事が起こるのだろうか。
――ヴィオニス様の御身に、危険なことが起こらないと良いけれど。
会いたい気持ちをおさえて、私は学園の敷地内にある教会でお祈りを捧げていた。
私は巫女様と魔王についてはさほど詳しくはない。
歴史の授業で習った程度の事しか知らない。
だからそれは、どうか怖い事が起こりませんように、という漠然とした祈りだった。
「アンジュ、こちらは巫女のカシワギ・アカネだ」
「はじめまして、アンジュさん!」
ヴィオニス様は私に巫女様を紹介した。
金色の髪と青い目の、長身の美丈夫であるヴィオニス様の隣に立った巫女様は、小さく幼く見えた。
黒い髪に黒い目をしていて、首元ぐらいの髪を結っていないせいか、余計に幼く見えるようだった。
巫女様は見慣れない服を着ている。
服は私の着ている貴族学園の制服に似ているけれど、スカートは膝ぐらいで、ほっそりした足がスカートからのぞいていた。
「はじめまして、アンジュ・ピオフィニアと申しますわ」
私はソファから立ち上がると、スカートをつまんで貴族の礼をした。
知らない世界にきて怖い事も多いだろうに、巫女様は明るく快活な印象の方だった。
「アンジュさんは私と同じ十六歳なんですね、同い年の女の子にこっちにきてから会うのははじめてです、よろしくお願いしますね」
「まぁ、随分とお若いのですね。それなのに、巫女様のお役目に選ばれて、ご苦労が多いかと思いますわ」
私と同じ年なのに、これから巫女様として魔王を封印する役目を果たさなければいけないのだ。
なんて大変なのだろうと、私はその苦労を想像して胸を痛めた。
「ありがとうございます、でも、ヴィオニス様も皆さんも優しくしてくれて、こっちに来たときはちょっと吃驚しちゃいましたけど、大丈夫なんですよ」
巫女様はヴィオニス様を見上げると、はにかむように微笑んだ。
私は――この時はまるで気づかなかったけれど、きっとこのときから巫女様は、ヴィオニス様のことが好きだったのだろう。
多分、そんな気がする。
「アンジュ、伝承によれば巫女がこちらの世界に来たという事は、魔王の復活の兆しがあるということ。俺たちはこれから、最果ての魔境にて封じられている魔王の封印の確認に向かう。最果ての魔境は遠い。巫女もこちらに来たばかりでまだその力は未知数だ。……だから、長く時間がかかるかもしれない」
「ええ、存じ上げておりますわ。巫女様は女性です。こちらに来たばかりで慣れないことも多いと思います。どうか、支えて差し上げて下さい」
私は本心からそう伝えた。
ヴィオニス様の心変わりなど露ほども疑っていなかったし、巫女様の身を純粋に案じていた。
「……俺はお前ほど清らかで健気な女性を知らない。アンジュ、待たせてしまうが、……無事に役目を果たせたら、正式に夫婦になろう。俺がもし帰らなければ、お前はどうか俺を忘れて、幸せになって欲しい」
愛の言葉と共に胸を刺すような切ない事を言うヴィオニス様に、私は咎める様な視線を送った。
「そんな……嫌ですわ。私、いつまでもお帰りをお待ちしております。ヴィオニス様が帰らなければ、私が探しに行きます」
「アンジュはよく道に迷うから、お前が俺を探しに出たら永遠に会えなくなるかもしれないな。大人しく待っていてくれ」
ヴィオニス様は冗談めかしてそう言って、私の頬を撫でた。
この時巫女様がどんな表情をしていたのか、私は知らない。
ヴィオニス様が衆人の前でもこうして私に触れてくださるのはいつもの事で、私は恥ずかしげもなくそれを受け入れていた。
最初は恥ずかしかったけれど、ヴィオニス様を愛しているからこそ受け入れなければと、嬉しい言葉を囁かれたらできるだけ素直に微笑むことを心掛けていたからだ。
いつだって気持ちを真っ直ぐに伝えていたつもりだった。
そうしないといつか後悔する日が来るような気がしていた。
スアレス帝国は現状では安泰だけれど、属国にいつか牙をむかれる可能性もある。
世界を支配しようとする魔王の伝承も、長く語り継がれている。
帝王になるべき方として生まれたヴィオニス様の御身は、いつ危険に晒されるか分からない。
――いつなにがあっても、後悔しないように。
わたしは、ヴィオニス様を愛しているのだから。
そう思っていた。
そうしてヴィオニス様は巫女様と何人かの従者の方と共に、最果ての魔境へと旅立った。
スアレス帝国を抜けて、属国を通り過ぎて、枯れ果てた荒野を越えた更に先。
魔物が多く蔓延る場所と言われている最果ての魔境がどういった場所なのか、私は見たことがないけれど、馬車では移動できない悪路が続いていると聞いたことはある。
順調に旅を続けても半年はかかると、お友達のルディア・エニード公爵令嬢が教えてくれた。
私のピオフィニア侯爵家よりも中央により近いエニード公爵家のルディアは、最初はヴィオニス様の婚約者候補であったらしい。
けれど血筋が近いという理由と、権力のバランスを均衡に保つためもあったらしく、婚約者はルディアではなくて私に決まった。
これは私が五歳のころの話だ。
ルディアは私と同じ年で、度々ヴィオニス様と参加した晩餐会などで顔を合わせることがあった。
ヴィオニス様を奪ってしまった形になった私を恨んでいるかなと思っていたけれど、ルディアは気さくに、私に話しかけてくれた。
そうして彼女はこっそりと教えてくれた。「私、ヴィオニス様ではなくて、ヴィオニス様の側近の、クラウス様がずっと好きだったの。だから、婚約者にならなくてほっとしたのよ」と。
クラウス様とは、クラウス・ルシーズ様のこと。
宰相家の長男で、ヴィオニス様の右腕ともいうべき方である。
魔力に秀でていて、宰相の地位がなければ筆頭宮廷魔導士になっていただろうという噂のある方だ。
銀色の髪に、薄青の瞳。理知的な風貌の方で、私は少し怖そうだなと思っていた。
ルディアはやがてクラウス様の婚約者となり、クラウス様もまた、ヴィオニス様と共に魔王封印の旅に出たのである。
◆◆◆◆
私は、お布団の魔力に抗うことができなかった。
途中何度か目を覚ました気がするけれど、きちんとした覚醒までには至らずにたっぷり惰眠を貪ってしまい、気付いたら朝を通り過ぎて昼になっていた。
香ばしい食欲をそそられる香りで目を覚ました私は、ぼんやりと周囲の景色を確認する。
ここは、先程まで夢に見ていたスアレス帝国ではない。
狭い部屋。
すぐ目の前にあるテーブル。
あったかいお布団。
「お布団……最高ですわ……」
もこもこの寝衣の肌触りも最高に良い。
いつも朝になるとメイドが起こしに来てくれて、ぎゅうぎゅうとコルセットを巻かれていた体がだらりと弛緩していく。
永遠にこのままお布団の中にいたい。
「アンジュちゃんもお布団の魔力に気付いてしまったようだね……」
ぐるぐるとお布団に包まる私。
お布団からは、なんだか良い香りがする。
声をかけられて顔だけお布団から出すと、ロキ様が私の目の前にしゃがんで嬉しそうに私に四角いものを向けていた。
ぱしゃぱしゃと、四角いものから音が鳴る。
私は絵姿を残されていることに気付いて、なるだけ良い笑顔で微笑んだ。
せっかくの絵姿なので、可愛く残して欲しい。
たとえそれがお布団に丸まっている姿であっても、だ。




