特別じゃない
ロキ様は「そういえば」と思い出したように言って、今日買ってきたばかりの髪を洗う用の石鹸を持って戻ってきた。
「こっちが、シャンプー、こっちがコンディショナー。ここに文字があるの見える? こっちで、洗った後に、こっちを髪につけてお湯で流すんだよ。それから、これはボディーソープね。泡ででてくるから、手のひらにとって体を洗うんだよ?」
ロキ様はお湯につかったままの私の顔の前にボトルを掲げて、ひとつづつ説明をしてくれた。
「分かりますわ」
「心配だなぁ、……髪、自分で洗った事あるの?」
「できますわ。それぐらいはできます。しゃわぁについても、理解しましたもの」
「僕が洗ってあげても良いんだけど」
「駄目そうだったらお呼びしますわ。その時はよろしくお願いします」
ひとりで出来ると言い張った結果、余計に迷惑をかける羽目になると思い知ったので、私はこくりと頷いた。
ロキ様は納得してくれたらしく「アンジュちゃんと仲直りできてよかった」と言いながら、浴室の外へ出ていった。
特に喧嘩をしたわけではない気がするのだけれど、私を怒ってしまったことをそんなに気にしてくれていたのかしら。
ロキ様は突然部屋に来た見も知らない私に、随分と優しい。
――でも、突然現れたのが私じゃなくても、きっとロキ様は同じように接していた筈よね。
それが私じゃ無くても良い。誰でも同じ。
ロキ様は人間に優しい。それは私たち人間が、ロキ様と違ってすぐに死んでしまうからだ。
ロキ様からしてみたら、私たちなんて夏の間だけ元気に飛び回っている、蝉のようなものなのだろう。
蝉か、花火か、それとも蝶か。
ともかく、儚くあっけなく、その命が失われてしまう。
人間がひとときの慰めに一瞬で弾けて消える花火を愛でるような気持ちで、私に接してくれている。
――ロキ様の前に現れた人間が、たまたま、私だっただけ。
それでもあまりにも優しいから――勘違いを、しそうになってしまう。
私がロキ様にとって、特別なのではないか、とか。
それは違う。
違うと思う。
私は口元をお湯の中に入れた。息を止めたのは一瞬で、すぐに苦しくなって、吐き出した空気の泡がこぽこぽと浮かんでは消えていった。
何をしているのかしら、私。
ヴィオニス様に裏切られて、ロキ様に縋っている。
復讐も、世界征服も、気づけば頭の中からすっかり消えてしまっている。
帝国を裏切り家族を捨てた私の想いは、この程度のものだったのかしら。
新しく知り合った男性に優しくされて、のぼせあがって忘れてしまうような――軽薄なもの。
(そもそも、ロキ様がこれっぽっちも魔王らしくないからいけないのよ)
お湯から口を出すと、私は全ての感情をロキ様に責任転嫁して、小さく溜息をついた。
迷惑をかけないようにしなければと思いながら、私は髪と体を洗って、シャワーで流した。
ロキ様に言われた通りに使用すると、シャワーからは今度はちゃんと水じゃなくてお湯が出てきた。
何もできない駄目な女になり下がったような気がしていたけれど、出来ることもあるのだと分かって安堵した。
お風呂は自分で入ることができる。これは大きな進歩だわ。
勿論、平民の方々にとってはごく普通のことなのかもしれないけれど、私は今までメイドの世話になりっぱなしだったのだ。
そんな私が一人で入浴。私にとっては、かなりの成長である。
もう一度お湯につかってから脱衣所に戻ると、ロキ様はいなかった。
そのかわり、カゴの奥にある台の上にタオルが用意されていたので、私はそれで体を拭いた。
奇妙な物で、こちらは帝国とはまるで違う世界に見えるのに、同じような物もある。
タオルとか、歯ブラシとかは帝国にもある。
水道はあるけれど、蛇口を捻るだけでお湯が出たりはしない。
ロキ様は巫女様の住む世界を模倣してこちらの国を作ったと言っていたから、スアレス帝国にも少しは巫女様たちの齎した知識や文化が根付いているのかもしれない。
「アンジュちゃん、大丈夫だった? 丁度良く、宅配便が届いたよ。洋服、もうお風呂にも入っちゃったし、出かけないから、部屋着で良いよね。僕が選んで良い?」
薄く開いた扉から、ロキ様が声をかけてくれる。
「お任せしますわ」
私はタオルで体の水分を拭きとりながら、返事をした。
ややあって、扉の隙間からもこもこした白と薄ピンク色の衣服が差し出された。
私はそれを受け取って、タオルの置いてあった台の上に置いてひとつひとつを確かめる。
布面積が小さめの薄いピンク色の下着を身につける。
プリシラさんに教わったとおり胸用の物は、胸の真ん中で金具を留めた。
慣れないことで四苦八苦してしまったけれど、なんとか着ることができた。
部屋着はワンピースの形になっていた。
ふわふわもこもこしている生地で、フードには長い耳のような飾りがついている。
形状的にはおそらくウサギだろう。
頭からすっぽりかぶると、膝下ぐらいの丈になった。
部屋着と一緒に、ふわふわした履き物も渡されたので、素足にはいてみる。
素肌に羊毛を身に纏っているようで、とても気持ち良い。
そんなことはしないけれど、素肌に毛皮のコートを羽織ったらこんな感じかしらと思いながら、私は脱衣所の鏡に映った自分の姿を眺める。
白と薄桃色のしましまの模様のワンピースは大変可愛らしく、赤毛で薄桃色の赤っぽい印象の私が着ているとウサギ感がより増している気がする。
私の容姿はそれなりに整っているけれど、可愛らしいというよりは大人びた印象だと思っていたのに、着ているもののせいか、やや若く見えた。
「ロキ様、着ましたわ。これで大丈夫でしょうか」
ひとりで着替えもできてしまったわ。
足取りも軽やかに布団の敷いてあるリビングルームに戻った私は、着方などに変なところがないかを確認するために、ロキ様に尋ねてみた。
「アンジュちゃん、可愛い! 可愛いけど、髪の毛びしょびしょ。おいで」
ロキ様は私の姿を見て微笑んだ後、手招きをした。
それから、部屋の隅の方にある棚の中から、くの字に曲がった硬そうな黒いものを取り出してきた。
そこから伸びる紐を部屋の端の穴の中に入れる。
おいでと言われたので、私はロキ様の近くの畳の上に座った。畳は少し硬いけれど、ワンピースがふわふわしているので多少硬さが緩和された。
「アンジュちゃん、そこだと痛いでしょ。布団の上においで。一人用の部屋のつもりだったから、狭くてごめんね。ソファ置くとこないしなぁ、クッションでも買おうか」
「ええと、座っても構いませんの?」
「うん。どうぞ」
硬い床から移動して、私は布団の端っこにちょこんと座ってみた。
ベッドよりも薄いのに、見た目よりも柔らかい。
床から視線が近いせいだろうか、私が毎日寝起きしていたベッドよりも妙な安定感がある。
私はしばらく布団の感触を手のひらで触ったりしながら確かめていた。
シーツは黒く、枕は灰色をしている。生地はつるりとしていて、柔らかい。肌触りがとてもよく、触っていると癖になりそうな感覚がある。
「アンジュちゃん、これはドライヤーね。髪の毛を乾かす機械。コンセントに差し込みを入れて、このスイッチを押すと、温かい風が出るんだよ」
「ロキ様……どうしましょう、何が何だか、わかりませんわ……」
「そのうち覚えるから大丈夫。さぁ、乾かしてあげようね」
知らない単語が沢山出てきたので目を白黒させている私の背後にロキ様は座る。
両足の間に抱え込まれるように座った私に、ロキ様は手に持った『どらいや』というものを向けた。
カチっという音とともに温風が髪にあてられる。
「わぁ……!」
突然嵐に遭遇してしまったかのように私の髪は激しく風に吹かれた。
「大丈夫? 痛くない?」
「気持ち良いです」
「良かった」
優しい声が、耳に触れる。
暖かかくて気持ちよくて、頭がぼんやりしてくる。
髪に触れるロキ様の長い指先は、いつも私の髪を手入れしてくれるメイドのものとは違う、男の人のもの。
絶妙に優しく触れてくれる指の感触が心地良くて、眠たくなってしまう。
良いのかしらと思いながらも、気持ち良さに抗えずに私は目を伏せて髪が乾くのを待った。
お湯に浸かって暖まったせいもあるのだろう、一気に疲れが押し寄せてくるのを感じた。
昨日も、悩みすぎてほとんど寝ていなかったのよね。
狭い部屋の窓からは、橙色に染まった空が見える。
夕日が部屋に差し込んで、部屋を夕日と同じ色に輝かせていた。




