文明の利器との攻防
浴槽にお湯をためる前には、お風呂掃除が必要である。
ピオフィニア侯爵家にはメイドたちが何人もいて、家中の掃除を毎日行ってくれていたけれど、ロキ様の家にはメイドは私しかいないので、お風呂掃除はもちろん私の仕事だ。
ロキ様がひとりで入るには狭いのではないかしら、という広さの四角い浴室の中で、そういえばお掃除をしたら服が濡れるかもしれないと思い立った私は、靴下と服を脱ぐことにした。
脱衣所に白いカゴがあったので脱いだ服をそこに入れて、下着姿になった私は再び浴室へと戻った。
お風呂掃除用の洗剤を手にして、意を決して洗剤の吹き出し口の引っ掛かりを指で押した。
しゅ、しゅ、と洗剤が飛沫状に飛び散り、浴槽にふりかかる。
「わぁ、すごい」
私は感嘆の声をあげた。
それから分量がよく分からないので、多ければ多いほど良いかもしれないなと思って何回も噴射してみた。
全体的にぬるっとしてきた浴槽を、今度はスポンジタワシというもので擦ってみる。
私の手のひらよりも大きいふんわりとした四角いスポンジで擦ると、ぬるっとした液体に泡が立ってきた。
「まぁ、私でもできますわ」
下着姿でお風呂掃除をしていることに羞恥心を感じていたものの、先程下着屋さんでプリシラさんの姿を見た私の羞恥心は、帝国にいたときよりは多少緩和されている。
鼻歌を歌いながらごしごし擦っていると、シャボン玉が時々浮かんで弾けるのが面白い。
全てを泡で覆った後に、満足した私は最後に水で流そうと思い、水道の蛇口をきゅ、と捻った。
水道は帝国にもあるので、使い方は分かる。
自分で水を汲むなんてことはしないので、使い方を知っているだけで実際に使ったのは初めてなのだけれど。
加減がわからず、ともかく捻れば良いと考えた私が蛇口を捻ると、真上から冷たい水が大量に降ってきた。
「ひぁああああ……っ!」
あまりの冷たさに悲鳴を上げながら、降り注ぐ水の下でおろおろする私の耳に、扉が開かれる激しい音が聞こえてくる。
「アンジュちゃん、大丈夫……!?」
「ろ、ろきさま、みずが、上から……!」
土砂降りの雨の中に立っている以上に降り注いでいる水の下で、私はびしょ濡れになりながらロキ様に助けを求めた。
ロキ様は浴室に入ってくると、自分も水浸しになりながら水道の蛇口を捻って水を止めてくれた。
なるほど、そうすれば良かったのね。
私は顔にかかる水を拭いながら、水の落ちてきた場所を見上げる。
そこにはいくつもの穴が空いた、形容し難いものがあった。
なんといえば良いのかしら。
太い紐状の物の先に、丸いものがあって、そこに小さな穴が空いている。水はそこから落ちてきたらしい。
「大丈夫? アンジュちゃん。寒いでしょう、寒いよね」
「ロキ様、多少冷たかったですけれど、私この通り濡れても問題のない格好で掃除をしていたので、心配ありませんわ」
服を脱いでいて良かった。
私はちょっと得意げに、自分の胸を張った。
狭い浴室で胸を張った下着姿の私から、ロキ様は視線を逸らした。
「……アンジュちゃん。とりあえず、服脱いで。お風呂に入って。寒いからね」
「それはできませんわ。旦那様よりも先に湯浴みするなど、メイド失格です」
「いうことを聞きなさい」
穏和な口調だったけれど、ロキ様は怒っているようだった。
私は口を閉じて、下を向いた。
迷惑をかけてしまったことにやっと気づいた。
「あのね、アンジュちゃん。普段僕はあんまり生活に魔力を使わないようにしてるんだけど、今日は別ね」
ロキ様がぱちりと指を弾くと、泡だらけだった浴槽がすっかり綺麗になって、浴槽にはなみなみと暖かいお湯が沸いていた。
「脱いで、入って」
有無を言わさない口調でロキ様に言われたので、私はおずおずと買ったばかりの胸を覆っている下着を外そうとした。
「……あの、ロキ様」
「何?」
私と同じように髪を濡らして、服をびしょ濡れにしたロキ様が首を傾げる。
洗い場は狭いので、ものすごく至近距離にロキ様がいる。少し動くと体が触れ合うぐらいの近さだ。
白い髪の隙間から、灰色の瞳が私を見下ろしている。
濡れた髪からぽたぽた雫が垂れるのが、妙に色っぽかった。
「ロキ様は女性の裸は見慣れているかもしれませんけれど、私は恥ずかしいですわ。……私、ロキ様のメイドなので、脱げと言われたらもちろん、脱ぎますけれど……」
「あ。そ、そうだよね、ごめん。アンジュちゃんが体を冷やして病気になるんじゃないかって思って。心配すぎて、見張る気満々だった」
「だ、大丈夫ですわ。見てくださって構いませんのよ……! 私、ロキ様に全てを捧げる覚悟はとうにできておりますわ。なんたって、大人ですから!」
「アンジュちゃん、どうしてそう潔いのかな……! 待って、脱がないで、待って、出ていくから!」
「ロキ様も私のせいで濡れてしまいましたし、お風呂に入るのなら、一緒に……!」
私は浴槽から出て行こうとするロキ様の服をぎゅっと掴んだ。
濡れてしまったという状況は私とロキ様も一緒で、旦那様を差し置いて私だけ温まるわけにはいかない。
「僕なら大丈夫だから。ほら、ね?」
ロキ様が言うと、びしょ濡れだった服も髪もすっかり乾いていた。
「ゆっくり入るんだよ。ちゃんと温まって。僕は扉のこちら側にいるから、何かあったら呼ぶんだよ」
曇りガラスになっている扉が閉められて、ロキ様は扉の向こう側で待機をすると決めたようだった。
私はそれ以上何も言えずに、のろのろと下着を脱いで、濡れてしまったそれを洗い場の端っこにまとめておくと、ちゃぷんと浴槽の中に入った。
お風呂はとても暖かくて、水を浴びたせいで冷えた体が、指先の方までじんと温まるのを感じた。
「……情けないですわ」
小さな声で、私はぽつりと呟く。
お湯の中に私の赤い髪がゆらゆらと泳いでいる。
全てを捨ててロキ様の元へ来たのに、結局今のところお世話になるか迷惑をかける、しかしていない。
――私は何をしているのかしら。
なんだか、悲しくなってきてしまった。
一人きりになったせいか、帝国のことが思い出される。今頃、みんなどうしているかしら。
私のことを怒っているかしら。
「……アンジュちゃん、アンジュちゃん」
涙が溢れそうになったとき、ガラス扉の向こう側から私を呼ぶロキ様の声が聞こえた。
「見て、見て、これ。入浴剤。入れると、お湯がしゅわしゅわして面白いから、入れてみて」
ガラス扉がガラリと開いて、ロキ様が顔を覗かせる。
その手には綺麗な色をした球体が握られていた。
絶妙な角度で私をみないようにしてくれているロキ様の心遣いに感謝しながら、もうここまできたら見ても良いのではないかしら、とも思わなくもなかったけれど、私は黒い爪の生えているロキ様の手から、球体を受け取った。
「それね、お湯の中に入れてみて。良い香りがするから。この間、部下に貰ったんだけど、僕シャワーしか浴びないから使わなかったんだよね。沢山あるから、アンジュちゃん喜ぶかなって思って」
お湯の中に入れると、甘い香りと共にお湯に薄紫色の色がついた。
プツプツと、泡が浮かんでは消えていく。
体を泡で包まれているようで、奇妙だけれど気持ちは良い。体の疲れがほぐれていくようだった。
「アンジュちゃん、どう?」
「お湯に色がついたので、私の体は見えませんわ。こちらを向いてくださいまし」
「……良いの?」
「はい」
案外素直だった。
もっと遠慮するのかなと思ったのだけれど、ロキ様は堂々と私のそばまで来ると、浴室の横にしゃがんだ。
「アンジュちゃん……さっき、怒ってごめんね」
何か話があるのかなと思って、お湯の中から首から上だけを出した状態でロキ様を見ていると、ロキ様は少しだけ項垂れたようにしながらそう言った。
「私が悪いので、気にしておりませんわ。むしろ、謝るべきは私の方ですわ。助けてくださってありがとうございます」
「いや、シャワー止めただけだからね」
「あの、水の出るものは、しゃわぁと言いますのね」
「水も出るしお湯も出るよ。お湯を出すんだよ、本当は。頭を洗ったり、体を洗ったりするときに使うんだよ」
「しゃわぁは、体を洗うときに使うのですね」
「そう。お湯を出してね」
ロキ様は元気を取り戻したように、私の顔を眺めながらにこにこした。
これは、初めて入浴剤を使用しながらお風呂に入っているアンジュちゃんが可愛い、という顔だ。
私もだんだん慣れてきた。
「怒っちゃったけど、シャワーの使い方がわからないアンジュちゃんも可愛かった。実は、かなり可愛かった。写真におさめたいぐらいだった」
違ったわ。そっちが可愛かったのね。予想が外れたわね。
「驚きましたわ。途中までは、お風呂掃除ができておりましたのよ」
「あんまり無理しなくて良いよ。生きてるだけで十分なんだから」
「健やかに生きていることを大前提として、多少の役には立ちたいのです」
「良いんだよ、アンジュちゃん。僕は基本的になんでもできるし。一人でなんでもできちゃうから、つまらないからできるだけ魔力を使わないで、文明の利器に頼って生活をしているぐらいだからね」
「なんでもできると、つまらないのですか?」
「うん。そう。アンジュちゃんは今日来たばっかりなんだから、もっと気軽に考えて。僕はアンジュちゃんと、お茶でも飲みながら映画とかみたいし」
落ち込む私を励ますためだろうか、ロキ様が手を伸ばして私の頬をそっと撫でる。
なんだか少しだけ、胸がざわめくのを感じた。




