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君に贈るエピローグ  作者: 美雨
16/27

再会

翌日の月曜日は久しぶりの雨だった。

私はお気に入りの空色の傘をさしながら、土手の上を歩いていた。ぬかるんだ土手を歩いていると、今朝出がけに磨いたばかりの革靴が直ぐ泥だらけになった。

母には今朝、来週の日曜日に父と会うことを報告した。

母は、

「日曜日は、パパにうんとご馳走して貰いなさい」

と言うと、それきり何も言わなかった。

私は歩きながら、昨夜の父との電話での会話を思い出していたのだった。

昨夜、六年振りに私の声を聞いた父は、電話の向こうで泣いていた。私や俊太郎の事を案じ、自分は身勝手な父親だったと詫びていた。父は私達家族を捨て家を出て行ったが、私は父を恨んだりしたことなど一度たりともなかったというのに。

父は高校三年生になった私を見て、何と言うのだろう?

私は一体、父と何を話すのだろう?

父と私は六年という歳月を、果たして埋める事ができるのだろうか?

様々な思いが胸に渦巻いた。


三年生の校舎に着くと私は傘の雨滴を払い、丸めて傘立てに立て掛けた。上履きに履き替えると、革靴に付いた泥をティッシュペーパーで丁寧に拭き取り下駄箱に入れた。

二階まで階段を駆け上がり教室に入ると、今朝は明彦はまだきてはいなかった。

私は自分の机に鞄を置き、教室の前の壁に貼ってある世界地図の前まで行った。日本からイギリスまでの距離を指でなぞってみる。

その時、教室の前の扉が開き明彦が入ってきた。

「おはよう、凛子。今日は久しぶりの雨だな。お陰でずぶ濡れだよ」

明彦のブレザーは雨に打たれて、びっしょりと濡れていた。私はポケットからハンカチを取り出すと、明彦の濡れた肩を背伸びをして拭いてやった。

「おはよう。こんなに濡れちゃって、まるで子供みたい」

「そっちこそ、世界地図なんか眺めてどうしたんだよ?やっぱり遠いんだなとか考えてたんだろ」

「そんなことないわ」


私達は明彦の席へ行き話をした。

「ねぇ、留学のことはお父様ときちんと話せたの?」

「ああ。昨夜、一晩掛けて説得した。結局は納得してくれたよ」

「そう、良かった。それで試験はいつ頃の予定なの?」

「多分、九月か十月くらいじゃないかと思う。色々と書類が送られてきて、こっちで試験になると思うんだ。それまでは猛勉強しないとな」

「バイトや部活はどうするの?」

「勿論、続けるつもりだよ」

「じゃあ、忙しくなるわね。明彦が忙しくなる前に、来週の日曜日、和君のお墓参りに行かない?それともう一件、付き合って欲しいの」

「もう一件って何?」

「実は昨夜ね、父と電話で話したの」

「お父さんと?ずいぶんと突然だな、六年振りだろ?」

「そう。昨日の帰りの電車の中で、母と父の話になってね。母が携帯電話の番号を教えてくれたから、昨夜、電話してみたの」

「そうだったのか。それで日曜日に会う約束をしたんだ」

「うん。でもひとりで父に会う勇気がなくて…待ち合わせの時だけ一緒にいて貰えないかと思って」

「分かった、着いて行くよ。何時に何処で待ち合わせてるの?」

「四時に銀座の三越前」

「そうか。お父さんに、いきなり怒鳴られたりしないよな?」

「そんな人じゃないから大丈夫よ、安心して」


その日は一時間目から二週間後の修学旅行に備えて、オリエンテーリングが特別教室で行われた。

修学旅行は三泊四日の予定で北海道。

一日目は羽田空港から、一路函館空港へ。空港からバスで函館市内へ移動し、市内を自由行動。

二日目は大沼公園で昼食をとり、ニセコでアイスクリーム作りや乗馬などの体験学習をし札幌へ移動。

三日目は小樽へ向かい自由行動。運河方面や札幌を散策。

四日目は最終見学地の開拓の村へ。昼食は札幌ファクトリーでラムしゃぶを食す。

その後、新千歳空港から羽田空港へ戻るという行程だ。

十一月に文化祭もあるが、この四日間の修学旅行が高校生活最大のイベントとなる。


私達六人は『旅のしおり』を手に、その日の昼食をとった。

「一日目は函館空港からバスで函館市街へ移動だろう。昼飯は『函館朝市』で、ラーメンや寿司だってさ。その後はベイエリアを散策。クルージングなんかもできるみたいだぞ!」

さっそく輝がはしゃいでいる。

「ねぇ、元町の旧函館区公会堂では、明治時代の衣装で記念撮影もできるみたいよ。あたし達はこれやろうよ」

結衣も興奮気味だ。

「明治時代のドレスを着られるの?」

私は興味津々だった。

「凛子はそういうの、すっごく似合いそうだよね」

「ちょっと博美、それどういう意味?」

「深い意味なんてないよ。想像しただけで似合いそうだなって思ったの」

「凛子は古風だから似合いそうだって言いたいんだろ」

明彦が横からちゃちゃを入れる。

「二日目は体験学習で、アイスクリーム作りや乳搾りもできるみたいだぞ!」

「まったく輝は食べ物のことばっかりだな。男だったら五稜郭とか、羊ヶ丘のクラーク博士像とかに興味ないのか?」

さすが純也は歴史などに興味があるようだ。

「俺にとってこの修学旅行は、食い倒れツアーなの」

「もうやだー、輝ったら!」

結衣が輝の腕を肘で小突いた。

今日の昼食は修学旅行の話題で持ちきりだった。


そんな調子で一週間が過ぎ、あっという間に日曜日がやってきた。

私は朝から落ち着かなかった。この一週間はクラス全体が修学旅行の話題で持ちきりだったが、私は心の何処かで常に父の事を考えていた。

六年振りの父に会うのに、何を着て行こうか散々迷ったが、その日は和明の墓参りもあったので、母から誕生日にプレゼントされたブラウスに黒い薄手のカーディガンを羽織り、同じく黒に細かな花の刺繍が入ったスカートを選んだ。バッグには線香と父から貰ったプゥの入った袋を入れ家を出た。

和明の眠る菩提寺は、明彦の住む緑ヶ丘から程近い場所ということだったので、十時に私と明彦は駅で待ち合わせをしていた。

私は学園前の駅からバスに乗り換え、二十分ほどバスに揺られた。途中の停留所で父と小学生くらいの娘と思われる親子が乗り合わせてきた。緑ヶ丘にハイキングにでも行くのだろう。娘は肩から流行りのキャラクターが描かれた水筒を斜め掛けにし、背には小さな赤いリュックサックを背負っている。父親が娘の手を引き足元に注意払いながら、走り出したバスの中をこちらに向かってやってくる。ちょうど私の斜め前の席に腰を下ろすと、娘とチョコレート菓子を食べながら、窓外を指差し話し始めた。

「ねぇ、パパ見て!菜の花がとってもきれい」

「本当だね。東京じゃあ、こんなに沢山咲いていないからね」

私はふたりの姿に思わず微笑んだ。

窓外に目を移すと親子が言っていた通り、一面に菜の花畑が広がっている。この辺りではこういった景色は決して珍しくない。私も六年前にこちらへ引っ越してきてからは、小学校の遠足で緑ヶ丘にハイキングにきたこともある。


緑ヶ丘の駅に着くと明彦は先にきていた。

「ごめん、遅くなって。待った?」.

「そんなことないよ。俺がたまたま早く着いただけ」

明彦はグレーの綿のセーターにチノパンを履き、手には白百合の花束を持っていた。

「お花、もう買っちゃったの?」

「早く着いたから、あそこの花屋で見てきたよ」

明彦はそう言うと、私の左手を取り歩き出した。

「和君のお墓まではここからどれくらい?」

「ここから、十分くらいだよ。途中、菜の花畑が凄かっただろ」

「うん。小学校六年生の時にね、春の遠足でここにきたことがあるの」

「そうか。俺は初めてここにきた時、あんまり田舎なんでびっくりしたよ。俺はさ、東京の杉並の家から木場に引っ越して、それから親父が亡くなって母さんが今の父親と再婚してから、世田谷の成城に引っ越しただろ。それまでこんな自然の多い所に住んだ事がなかったから、始めは躊躇したよ」

「ねぇ、明彦が転校してきて、初めて土手で会った日のこと憶えている?」

「ああ、憶えているよ。俺が土手に寝っ転がっていたら、突然『僕が僕であるために』を歌う女の子の声がしてさ。そりゃ、びっくりしたよ」

「その割りには自分だって歌ってたじゃない。私のほうがびっくりしたわ」

「そうしたら土手の上から『こんな寒い所でどうしたんですかー?』って、でっかい声が聞こえてきて。今思えばそれが、凛子との二度目の出逢いだったんだな」

私達は菜の花の香りがむせ返る小道をゆっくりと歩いた。

「だって、本当にびっくりしたんだもの。まさかあんな時間に、土手に誰かいるなんて思わないじゃない。鼻歌は聞かれるし、すっぴんだし、もう最悪!って、あの時は思ったわ」

「俺はそんな凛子に目を奪われたよ」

「えっ?」

「思えばあの瞬間、俺は凛子に恋をしたのかもしれない」

「私は緊張して、あの後大変だった。まさか翌日も明彦が現れるなんて、思いもしなかったわ」

菜の花畑の向こうに寺の門が見えてきた。

「私達、ずいぶん遠回りしちゃったわね」

「そうだな。でも凛子の事は、今でも同志だと思ってる。多分この先もずっとな」

「私もよ」

寺に着くと手桶に水を汲み、和明の墓へと向かった。


『山口家之墓』


と書かれた、まだ新しい墓石に私は水を掛け、明彦が私の持ってきた線香にマッチで日を点けた。墓前に白百合の花を手向け、私と明彦は並んで和明の墓に手を合わせた。


墓参りが済むと私達はきた道を戻った。緑ヶ丘の駅前にある小さな喫茶店に入り、少し早めの昼食をとった。私はサンドウィッチを、明彦はナポリタンを注文した。

「ねぇ、明彦に見せたいものがあるの」

「見せたいもの?」

私はバッグの中から例の袋を取り出した。

「これ、前に話したでしょう。あのクリスマスイブの日、クリスマスプレゼントに父が私にくれた物なの」

袋の中からプゥを取り出し、私はテーブルの上に置いた。

「これか、可愛いプードルだな」

「これを人に見せるのは、明彦が初めてよ」

「そんなに大切な物、俺に見せていいのかよ?」

「明彦には見て貰いたかったの。私、小学校の時、犬が欲しくてね、良く父にせがんだわ。父、この犬のこと憶えていると思う?」

「絶対に憶えているさ。今は離れ離れかもしれないけど、血の繋がった親子なんだぞ」

「そうだけど…」

「そんなに心配そうな顔するなよ。絶対に憶えているから」

「うん…」

「電話では何を話したの?」

「元気にしているかって。苦労ばかり掛けてごめんなって、お父さん謝ってた。私、苦労なんて思った事、一度もないのに」

「父親だったらそう思うのが当然だろ。お父さんの気持ちの全てを計り知る事はできないけど、当時は当時で事情があったんだろうし」

「今日、父と会って、一体何を話せばいいのか分からないの…」

「だけど凛子は、会いたいって思ったんだろ?」

「うん。もし今、会わなかったら、もう一生会えない様な気がしたし、父と真正面から向き合わなければ、本当の意味での孤独からは解放されない気がして」

「そうか、良く決心したな。会いたいと思っても、もう会えないって事もあるんだ。だから今日は沢山甘えてこいよ」

明彦はプゥの頭を指で撫で、

「大切にしろよ」

と言うと、袋にしまってくれた。


緑ヶ丘から銀座まではバスと電車を何本か乗り継がなければならない。私達は少し早目に駅を出た。

銀座に着いたのは、二時を少し回った頃だった。

「少し早く着き過ぎちゃった。どうしようか?」

「そうだ俺さ、修学旅行に着ていく服を見たいんだ」

「じゃあ、私が選んであげる」

そう言って、私達ふたりは銀座の街へ繰り出した。

何軒かの店を回り、私達は初めてのショッピングを楽しんだ。

「ねぇ、このシャツとセーター、明彦に似合うと思うけどな」

「うん。じゃあこれにしよう。これに合わせてチノパンも欲しいんだ」

今度はパンツ売り場へ行き、先程選んだセーターに合わせてパンツを選んだ。

「良し、これで買い物は終了。そろそろちょうどいい時間なんじゃないのか?」

「明彦、何だか私、緊張してきちゃった」

「大丈夫。さぁ、行こう」

明彦は私の手を取ると三越のある、四丁目の交差点へと向かった。

腕時計に目をやると、約束の時刻の二十分前だった。私は一向に落ち着かず、辺りをきょろきょろと見渡した。

するとその時、日産ギャラリーのほうから、横断歩道を掛けてくるひとりの男性の姿が目に止まった。


「お父さん!」


私は思わず叫んでいた。

「凛子!向こう側から直ぐに分かったよ。久しぶりだな。こんなに大きくなって…」

父は眼鏡を取ると、目を細めて私を見た。

「私も直ぐにお父さんだって分かったわ」

父は昔生やしていなかった髭を口元に蓄えていた。

「こちらは?」

「あのね、私ひとりで会いにくる勇気がなくて、一緒に着いてきて貰ったの。クラスメイトの山口明彦君」

「初めまして、山口といいます。凛子さんとは普段から親しくさせて貰っています。久しぶりの再会なのに、着いてきてしまったりしてすみません。凛子、もう大丈夫だよな?」

「明彦、わざわざ有難う。また明日、学校で!」

「うん、じゃあな!」

明彦はそう言うと、父に頭を下げ、四丁目の交差点を和光のほうへと走って行った。

「今の青年は彼氏かい?」

「うーんとね、私達、同志なの」

「同志?いい若者じゃないか。凛子と良くお似合いだ」

父に会うまでの緊張が嘘の様に、会った途端、自然と会話を交わしていた。

夕食までにはまだ時間があったので、私達は父が仕事でよく使うという喫茶店に足を運んだ。

その喫茶店は四丁目の路地を少し入った雑居ビルの三階にあり、日曜日にしては人も疎らで、クラシックの流れる静かな店だった。

父は慣れているらしく、「いつもの」と言うと、私に何が良いかを尋ねた。私はアイスココアを注文した。

「お父さん、日曜日なのにスーツなんか着て、今日もしかして仕事だったの?」

「いいや、久しぶりに凛子に会うから、お洒落してきたんだ」

父はそんな冗談を口にした。

「今も前と同じ仕事をしているの?」

「今は転職をして出版社に勤めているんだ」

「出版社?」

「そう。今はこれでも編集長なんだぞ。凛子はこの四月で高校三年生になったんだな」

「そう。来月には修学旅行なの」

「元気そうだな。美枝子や俊太郎も元気にしているか?」

「ええ、お母さんは相変わらずパワフルだわ。俊はこの四月で小学六年生」

「そうか、あれからもう六年だもんな。おばあちゃんは?」

「おばあちゃんも元気よ。お父さんは少し痩せたみたい」

「最近、ダイエットをしているんだ。もう、成人病に気を付けなくちゃいけない年だからな」

「ふーん、そっかぁ」

「凛子、これ」

父は私に伊勢丹の袋を差し出した。

「気持ちだけだが、みんなにプレゼントを買ってきたんだ。凛子のはこれだよ」

父は紙袋から細長い箱を取り出し、私に手渡した。リボンと包みを丁寧に取り箱を開けると、中にはシルバーのボールペンが入っていた。

「わぁ、素敵。ちゃんと名前まで入ってる」

「何にしていいのか良く分からなくてな。そんな物でごめんよ。それだったらいつでも持ち歩けるかと思ってね」

「凄く嬉しい」

「あとこれはみんなの分だよ。荷物になるけど、凛子から渡して貰えるかい?」

「うん、分かった。お父さん、私、お父さんと久しぶりに会うのに何も用意してこなかった。ごめんなさい」

「何を言ってるんだ。凛子にこうして会えただけで、父さんどんなに嬉しいか」

「ねぇ、お父さん。これ憶えてる?」

私はバッグからきんちゃく袋を取り出した。

「凛子、まだ持っていてくれたのか…」

袋からプゥを取り出し、テーブルの上に置いた。

「当たり前じゃない。お父さんが私にくれた大切なプレゼントなんだから」

「懐かしいな。あの日駅で別れる前、ベンチでこれを凛子に渡したんだったな」

「お父さん、缶コーヒーを買ってくれて、一緒に飲んだよね。私、あの後ひとりで公園に行ったの。この袋の中身を見て驚いたわ」

「どうして?」

「お父さん、私がプードルを欲しがっていた事、ちゃんと憶えていてくれたんでしょう?」

「うん。でも、本物のプードルは買ってやれなかったよ」

「でも、私が言った事をちゃんと憶えてくれてたんだなぁって、凄く嬉しかった」

「だが父さんは結局、駄目な父親だった…」

父は俯き加減でコーヒーカップに目を落とした。

「そんなことないわ。私ね、少し成長して、お父さんの気持ちが何となく分かった様な気がするの」

「うん?」

「お父さんはお母さんの事も愛していたのよ。でもそれ以上に、魂と魂が求め合うような人と出逢ってしまったんでしょう?それが今の奥さん」

「そうだな。人生には時々、言葉では説明の付かないような不思議な出逢いがある。言い訳みたいに聞こえるかもしれないが、美枝子やお前達のことも、父さんは愛していた。だがそれ以上に彼女の事を愛してしまったんだ」

「どんな人?」

私はテーブルに身を乗り出して、父の話に耳を傾けた。

「寡黙でなぁ。あまり喋らないが、父さんの思っている事や考えている事を言葉にしなくても、何でもわかってくれるような女性かな」

「そう。その人がお父さんにとっての運命の人だったのね」

「恥ずかしい話だが、そうだったのかもしれない。そういえばさっきの青年、山口君だったかな。彼も凛子にとってそんな人なんじゃないのかい?」

「私達ね、実は三歳の頃に一度出逢っていたの。ほらお父さん、杉並に住んでいた頃、お隣に双子の兄弟がいたでしょう。明彦はね、その弟さんのほうだったの。今年の一月に今の学園に転校してきたんだけれど、私達お互いそんなこと全然知らなくて。でも気が付いたら、明彦はいつも私の傍にいてくれた」

「ああ、あの杉並の。そうか、それは運命じゃなくて宿命だな」

父は口髭を撫でながら言った。

「宿命?お母さんは運命だって言ってたわ」

「宿命は前世から定まっている運命のことだよ」

「ふーん、宿命かぁ…」

「凛子も大人になったんだな。どんな時も彼を信じて付いて行きなさい。彼なら安心して凛子を任せられそうだ。これはお父さんの直感だ」

父との会話は途切れることなく続いた。私達は四時間近くをその喫茶店で過ごし、その後築地の寿司屋へ向かった。


「今日は凛子の好きな物を注文していいぞ」

「本当に?」

「ああ、何でも好きな物を頼みなさい」

「でもここ、高いんじゃない?」

「変な心配はいいから、早く頼もう」

「じゃあ、甘えちゃおう。私、中トロと生だこと穴子をください。お父さんは?」

「父さんは鯵とかんぱち、それから甘エビにしよう。そういえば凛子は、ウニが嫌いだったな」

「今でも好きじゃないわ。お父さんはいつも私に玉子をくれたわね」

「そんなことまで良く憶えているな」

父は瓶ビールを二本も頼み良く飲んだ。

「ねぇ、昔、家族で伊豆に旅行に行った時、浜辺で私のビーチサンダルが流されちゃって、お父さんが沖まで泳いで取りに行ってくれたよね」

「そんなこともあったな」

「あのビーチサンダル、まだ家にあるわよ」

「本当か、懐かしいな」

「浜辺でバーベキューもやったね」

「トウモロコシが真っ黒に焦げて、凛子は大泣きしていたな」

「だって、トウモロコシ大好きだったんだもん」

「そういえば、スイカ割りもしたな」

「うん。お父さん、私に意地悪して全然違う場所を教えたよね」

「ははっ、そうだ。浜辺で食べたスイカ、美味かったな」

父との思い出は少なかったが、話が尽きることはなかった。

「あー、美味しかった。お腹いっぱい」

「良く食べたな。大食いなところも昔とちっとも変わらないな」

「ねぇ、お父さん。これからはこうしてたまに会おうよ」

「凛子はいいのか?」

「だってお父さんと会ったら、こんなに美味しい物が食べられるんだもの!」

私は父の肩を叩き冗談を言った。

会計を済ませ店を出たのは十時過ぎだった。

「凛子、今日は遠いのにわざわざ会いにきてくれて有難う」

「お父さんこそ、色々、有難う。じゃあ、また来月にでも会おうね」

「ああ。身体には気を付けるんだぞ、凛子」

父とさっそく来月にまた会う約束をし、駅で別れた。


「ただいま!」

家に辿り着いたのは、十二時少し前だった。

母はリビングのソファに座りテレビのニュースを観ながら、ビールを飲んでいた。

「あらお帰り、凛子。お父さんとのデートは楽しかった?」

「うん、築地でお寿司をご馳走して貰っちゃった」

「そう、それは良かったわね」

「はいこれ、お父さんからのお土産。みんなに渡してくれって」

私は伊勢丹の紙袋を母に差し出した。

「わざわざこんなに気を遣わなくてもいいのにね。一体、何かしら?」

『美枝子へ』と書かれた封筒が添えられた箱の包みを、母はソファにもたれながら、ビリビリと破いた。

中身は母が好きな淡い桃色のワンピースだった。

「まぁ、素敵。ママが大好きな色だわ」

母は立ち上がってワンピースを身体に合わせると鏡を見た。

「どう、似合う?」

「うん。とっても似合ってるわ。お父さん、お母さんが好きな色、ちゃんと憶えていたのね」

「本当ね。あの人が私の好きな色を憶えているなんて、夢にも思わなかったわ」

母はワンピースをソファに置いて、再び座ると飲みかけのビールに口を付けながら、父からの手紙を読み始めた。

私は母の隣で途中までニュースを観ていたが、時間も遅かったので先に風呂に入ろうと思い声を掛けた。

母は私の声が耳に入らなかったのか、便箋から目を離そうとせず食い入る様に手紙を読んでいる。

私はもう一度、母に声を掛けた。

「お母さん、私、お風呂、先に入ってもいい?」

「ええ、いいわよ。先に入って」

何だか上の空で様子がおかしい。

だが、私は母が酔っ払っているのかと思い、大して気にも止めず、二階へと上がった。

パジャマを取って二階から下りてくると、母はどうやら手紙を読み終えたらしく、残りのビールをちびちびひとりで飲んでいた。その背が何だか切なくなるくらい、淋しそうに見えた。





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