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君に贈るエピローグ  作者: 美雨
17/27

父の死

それから一週間後の月曜日、いよいよ待ちに待った修学旅行当日を迎えた。

午前七時に学園前の駅に六人で待ち合わせをし、羽田空港へ向かう約束になっていた。この修学旅行では、飛行機やバスは名簿順だが、特に班行動などはなく、全てが自由行動である。

駅には明彦が一番最初にきていた。

「おはよう、明彦!」

私は手を振って明彦のもとに駆け寄った。

明彦は先日、銀座で一緒に選んだ服を着ていた。

「やっぱりそれ似合ってる。私ってセンスあるなー!」

「おはよう。凛子は珍しくジーパンなんだな。いつもスカートのイメージしかないから、何だか新鮮だよ」

「そう?」

そんな会話を交わしていると、続いて純也と博美がやってきた。

「おはよう、何だか私服って変な感じ。あたし凛子のジーパン姿なんて、初めて見た」

「後は輝と矢沢さんか。あのふたり遅刻してきそうだな」

純也の予想通り、結衣と輝は約束の時間より二十分も遅刻してきた。

「ごめん!出がけに忘れ物に気付いて、遅くなっちゃった」

結衣と輝は息を切らせて、手を握りながら走っきた。

私達は切符を買い改札を入った。

羽田空港には八時半の集合予定だったので、比較的時間には余裕があった。

車内では男子と女子で、向かい合わせに座った。

「ねぇ、結衣のその靴、凄く可愛い!」

「これ、博美とこの間、渋谷に行った時に買ったんだ。たまには凛子も付き合いなさいよ」

「うん。今度、私も連れて行って!」

「凛子に渋谷は似合わない。凛子は自然児だからな」

明彦は素っ気なく言ったが、眼差しは真剣だった。

「たまには渋谷くらい、行ってみたいな」

「まぁ、凛子が珍しい。どうしちゃったの?」

博美が目を丸くした。

「最近、結衣や博美がどんな所に行っているのかいるのか、興味があるの。だって、可愛い服や靴、沢山もっているんだもの」

「そっかぁ、ついに凛子も目覚めたか!博美、今度、凛子も連れて行こうよ」

「そうだね、じゃあ今度、一緒に行こうよ」

「うん、私もね、たまにはお洒落したいな…と思って」

私はそう言って明彦を見た。

「まぁ、たまにはいいんじゃないか。この服この間、凛子に選んで貰ったんだ」

そう言うと、皆が一斉に明彦に注目した。

「へぇー、凛子ちゃん、なかなかセンスあるじゃん!」

輝がちらりと私を見て言った。

「小川さんと明彦もデートするんだ」

「そんなんじゃないの、中原君。たまたま先週、他の用事で銀座に行ったから、選んであげただけなの」

「凛子、何真っ赤になってるのよー!そろそろ付き合ってるって、認めてもいいんじゃない?私と純也だって、付き合い始めたんだし」

「そうだよ、ふたりが付き合うことは俺達にとっても喜ばしい事なんだから」

純也が私と明彦を交互に見て言った。

「まぁ、じゃあそういうことにしておこうぜ、凛子」

見ると、そっぽを向いた明彦の顔は赤らんでいた。


羽田空港には八時十五分に到着し、私達は集合場所の第二ターミナルへと向かった。八時半になり各クラスで点呼を取り終わると、飛行機のチケットが配られた。大きな荷物は前日現地に送ってあったから、私達は手荷物ひとつで搭乗口へと向かった。

私は飛行機に乗るのが初めてだったので、機内に入るときょろきょろとあたりを見回した。チケットを見ても席が良く分からず、客室乗務員の女性に聞くと、親切に席まで案内してくれた。私は幸い窓際の席になった。

九時二十分頃になると機体がゆっくりと動き出し、間もなく滑走路から離陸した。機長のアナウンスとともに歓声と拍手が沸き起こる。

地上がまるでジオラマのように小さく斜めに見え、暫くすると機体は水平飛行に移り、シートベルト着用のサインが消えた。

普段は土手から眺めている空の上を飛んでいる。雲が手に届きそうなほど近くに見え、私はいつの間にか不思議な感覚に陥っていた。

窓外を眺めていると、先程の客室乗務員の女性が飲み物を持ってやってきた。

私はオレンジジュースを受け取りテーブルに置くと、いつも手帳に挟んで持ち歩いている、美奈子とふたりで撮った写真を取り出した。

美奈子、これから北海道へ修学旅行だよ。私、美奈子の分まで楽しんでくるからね。

私は写真の中の美奈子に、心の中で呟いた。


一時間程すると再び機長のアナウンスが流れ、雲の切れ間から津軽海峡が見えてきた。

「ただいま機体は津軽海峡上空を飛行中です。これから二十分程で函館空港へと到着します」


私達は北の大地へと降り立った。

北海道は思っていた以上に涼しく、私は空港に着くと腰に巻いていたパーカーを肩から羽織った。

函館から函館市街まではバスで移動。車中はすでに宴会状態である。

函館駅に着くと、自由行動のため解散となった。

昼時ということもあり私達六人は、予め調べていた、どんぶり横丁の『茶夢』という食堂へと向かった。

「『茶夢』は辻仁成の小説、『愛をください』のモデルになった店なんだ。海鮮丼とイカが美味いらしいぞ」

隣を歩いていた明彦が振り返って、皆に説明した。

「ふーん、山口君って、そういうの詳しいよね」

結衣はふんふんと頷きながら言った。

「でも、ここがいいんじゃないかって初めに言ったのは、輝なんだぞ」

「輝、それ知ってたの?」

「知ってたに決まってるじゃーん!」

「またぁ、嘘ばっかり!」

結衣が持っていたしおりで、輝の頭を叩くと、一斉に笑が起きる。

「ここだ!」

「わぁっ、可愛い看板!」

純也と博美がはしゃぎながら店の戸を開け中に入った。

すでに他の生徒達も何人かきていたので、何が一番美味しいのかを尋ね、私達は海鮮丼を頼むことにした。

「やっぱり北海道なんだから、海鮮丼でしょ」

輝がそう言って、六人分の海鮮丼を頼み、私達はカウンター席に並んで座ると丼がくるのを心待ちにした。

「ねぇ、お昼を食べ終わったら、次はクルージングだっけ?」

博美がしおりを捲りながら純也に聞く。

「そうだよ。その後は、君達が楽しみにしている明治時代の仮装!それからは市電で移動して、五稜郭タワー」

「仮装じゃないわよ!純也ったら、私達のこと馬鹿にしてるでしょ?」

「別に。楽しそうでいいじゃないか」

そうこうしているうちに、待ちに待った海鮮丼が運ばれてきた。

「わぁっ、凄い美味そう。いっただきまーす!」

輝がさっそく丼に手を付けた。

「本当、美味しい!輝、ここにして正解!」

「うん。美味いな」

「美味しい!」

皆、口々にそう言った。

私は持ってきたデジタルカメラで丼を撮影した。

「凛子、丼まで撮ってるのか?」

「うん。後からアルバムで見たら、あの時何を食べたんだっけ?って、思い出せるでしょう。はーい、みんなこっち向いて」

私はそれぞれに丼を片手に微笑む五人を写真に収めた。

「ねぇ、明彦、ウニあげる。私、小さい頃から、ウニ駄目なの」

「そうなのか?でも、ここのは美味いぞ。せっかくなんだから、少し食べてみろよ」

「本当に?じゃあ、ちょっとだけ食べてみようかな」

私はウニに醤油を付けて一口食べてみた。

「うわっ!甘くて美味しい」

「なっ、美味いだろ」

私達はあっという間に丼を平らげ、次の目的地のベイエリアへと向かった。


ベイエリアから私達は遊覧船に乗り、函館湾をクルージングした。

私と明彦は海を眺めながら話をした。海風と塩の香りが心地良くふたりを包んだ。

「そういえば、この間、お父さんとはどうだった?」

「会うまではあんなに緊張していたのに、話出したら何でも話せたわ」

「そうか。ずっと気になっていたんだ、じゃあ良かったよ」

「うん。今の奥さんの話までしたわ。奥さんは寡黙な人だけれど、話さなくてもお父さんの事を、何でも分かってくれる人なんだって」

「運命の人って訳か」

「そう、運命の人だったんだろうなって言ってた。お父さん、明彦のことも言ってた」

「何て?」

「彼なら安心して凛子を任せられそうだって。私達が出逢ったのは、運命じゃなくて宿命だって」

「宿命か。実際そうなのかもしれないな。お父さんがそんなふうに言ってくれたなんて、嬉しいよ」

その時、船内を一回りしてくると言っていた、結衣達四人が戻ってきた。

「あー、気持ちよかった!」

「上は風が気持ち良かったよな、結衣」

「うん。もう最高!」

「あっ、見て、イルカだ!」

博美がイルカの群れを発見した。

「何処?あっ、本当だ!輝、みんなで写真撮って」

「オッケー!」


約四十分のクルージングを終えると、次は元町にある旧函館区公会堂を訪れた。

ブルーグレーの外観の洋館に一歩足を踏み入れると、中は明治時代にタイムスリップしたかのようなレトロな空間が広がっていた。

結衣と博美と私の三人は、さっそくレンタルドレスへと着替えた。

結衣は黄色のカクテルドレス、博美は着物に袴、私は臙脂色のイブニングドレスを選んだ。

「じゃーん!どう、似合ってる?ねぇ、二階のホールで写真を撮って貰おうよ」

結衣が始めに衣装室を出た。次に博美と私が続いた。

ドレスが重く私が上手く歩けずにいると、明彦がさりげなくリードをしてくれた。

二階は明治時代に夜毎、舞踏会が繰り広げられていたかのごとく、天井からシャンデリアがぶら下がる豪華な造りになっていた。

三人はあちらこちらで記念撮影をして貰い、その後それぞれのカップルで写真を撮ることになった。

私と明彦は外の美しい景色をバックに、テラスで撮って貰うことにした。

「凛子ちゃん、もっと明彦のほうに寄って!」

「こう?」

「もっとこっち」

明彦が私の腰に手を回した。

三歳の時以来、明彦とふたりで撮る写真だった。


次に私達は市電に揺られ、五稜郭タワーに向かった。

展望台まで上がると、函館山や飛行機の中から見えた津軽海峡、そして大地に輝く星型の五稜郭が一望できた。資料館では五稜郭の歴史や函館戦争に関わった人物の紹介などの展示物を見て回り、ここでは純也と明彦が土方歳三や榎本武揚について熱く語っていた。タワーを降りると土方歳三の像の前で写真撮影をした。

再び市電に乗って函館市外へと戻ると、金森赤レンガ倉庫周辺を散策したり、函館港周辺でアイスクリームを食べたりして集合時刻まで函館の街を満喫した。


午後六時。函館駅に集合。ここからはバスでホテルへと向かう。私は車内、元町の旧函館区公会堂で明彦とふたりで撮って貰った写真をデジタルカメラで見ていた。

「凛子、何を見てるの?」

後ろの席から博美が声を掛けてきた。

「うん?今日、撮った写真を見ていたの」

「それ、山口君とのツーショットの写真じゃない。ちょっと見せて!」

そう言って博美は、私の手からカメラを奪い取った。

「ちょっと、博美ったら!」

「凛子、超可愛い!何だか結婚式の記念写真みたい。ねぇ、見て、純也!この写真ふたりともお似合いよ。私もドレスにすれば良かったな」

「どれどれ、本当だ。小川さんも明彦も良く撮れているな。俺達のは?」

「はい、これ。私も可愛いでしよ?」

車内では各々カメラを見たり、今日一日の話題で盛り上がったりしていた。


三十分ほどでホテルに到着し、結衣と博美と私は鍵を持って部屋に向かった。

それから一時間後に大広間で、四クラス合同で夕食をとった。

夕食は海鮮を中心とした和食で、ボリューム満点だった。私はここでも夕食の写真を撮った。夕食後は各グループで写真撮影が始まった。

「ねぇ、渡辺さんも一緒に写真撮ろうよ」

私は近くにいた朋子に声を掛けた。

「うん。じゃあ、女子だけで写して貰おう!」

柴田先生が座布団の上に肘を突いて横になり、その周りをクラスの女子が皆で取り囲んだ。

「じゃあ、みんな撮るぞ!はい、チーズ」

明彦がシャッターを切った。

写真を取り終わると、朋子が座布団の上に座って話し始めた。

「先生、私こんな日がくるとは思ってもみませんでした。小川さんが私に学校へ戻ろうって言ってくれてなかったら、今、私ここにこうしていることはなかったと思います」

「渡辺さん、ううん、朋子。一緒にこられて良かったね」

「うん、有難う。凛子」

朋子と私は暫くの間、微笑み合った。


その晩、部屋の風呂から上がり三人でテレビを観ていると、部屋をノックする音が聞こえた。

博美がドアを開けると、そこには明彦が立っていた。

「山口君、どうしたの?」

「ちょっと、凛子、出られないかと思って」

私は振り向きドアに駆け寄った。

「どうしたの、明彦?」

「夜景を見に行かないかと思ってさ。門限まで、まだ時間あるし」

「山口君、やるー!凛子、行っておいでよ」

博美が私の肩を軽く叩きながらそう言った。

「十分後にロビーで待ってる」

「分かった。じゃあ、すぐに行くわ。待ってて」

私は急いでスエットから私服に着替えた。

「いいな。凛子、羨ましい。輝なんか絶対もう寝てるに決まってる」

結衣がポテトチップスを頬張りながら、ふくれっ面で言った。

「じゃあ、悪いけどちょっとだけ行ってくるね」

「悪くなんかないよ。山口君とゆっくりしておいで」

そう言って、博美が笑顔で送り出してくれた。

走ってロビーまで行くと、明彦は大きな柱にもたれ掛かり私を待っていた。

「明彦、ごめん。お待たせ!」

「悪かったな、急に呼び出したりして。大丈夫だったか?」

「うん。博美がふたりでゆっくりしておいでって」

「そうか。ホテルの裏にさ、ちょっとした展望台があるんだ」

函館山の上に立つこのホテルの周りからは、函館の夜景が一望できるらしい。

明彦が私の左手を取った。私達はホテルの裏にある展望台へと向かった。

展望台に着くと眼下には一面、函館の夜景が広がっていた。

「わあっ、きれい!まるで宝石箱をひっくり返したみたい」

私達は柵に両肘を突き、暫く函館の夜景を楽しんだ。

「なぁ、凛子。俺、凛子に言っておきたいことがあるんだ」

「どうしたの、改まって」

「凛子、俺と結婚して欲しい」

「えっ?」

「俺、試験に受かったらイギリスへ行くことになるけど、俺の事、日本で待っていてくれないか?」

「………」

あまりの突然な明彦のプロポーズに、私は言葉を失っていた。

明彦はパンツのポケットから、徐に小さな箱を取り出すと、蓋を開けて中身を見せた。

「これ、受け取って欲しいんだ」

箱の中には銀色に光輝く指輪が入っていた。

「わあっ…」

「凛子、指、細いだろ。サイズ、大丈夫かな?」

「こんな指輪、いつ用意してたの?」

「バイト代を貯めて、この間、買ったんだ。安物だけど、今は許してくれ」

そう言って、箱から指輪を取り出すと、明彦は私の左手を取った。

「答えは?」

「勿論、イエスよ!私、何年掛かっても、明彦の事、ずっと待ってる」

「何年掛かるか分からないけど、俺、凛子を必ず迎えにくるから」

ふたりは美しい絵画のような夜景をバックに、固く抱擁をした。幸せだった。


翌日の朝は、前夜の興奮で皆眠れなかったのか、目をこすりながら朝食会場へ集まってくる生徒が殆んどだった。

軽めの朝食を済ませると、バスでホテルを出発した。二日目は大沼、ニセコを経由して札幌へ入る予定だ。天気も快晴で、皆、気分は上々だった。私はバスの中で、昨夜、明彦から貰った指輪をずっと眺めていた。

先ずは大沼公園へ行き、湖や駒ケ岳を見て大自然を満喫した。

「なぁ、いかすみソフトだって!俺、食うけど、いる人ー?」

食べ物の事となると、やはり輝だ。六人でいかすみソフトを食べる事になった。

「ねぇ、凛子。口の周り真っ黒だよ!」

「嫌だ、本当に?」

結衣にそう言われ、私は慌ててハンカチで口元を拭った。

「うっそーん!」

「もう、結衣ったら。許さないから!」

私は逃げる結衣を笑って追い掛けた。


ニセコに到着すると、ここからはジャムやアイスクリーム作り、乗馬、釣り、乳搾りなどのコース別の体験学習となった。

私と結衣、博美の三人はまずジャム作りを体験した。始めに苺のへたを包丁で取ってから、ペーパータオルでひとつずつ丁寧に水滴を拭き取る。グラニュー糖を敷いた鍋の底に苺をまんべんなく並べ、更にグラニュー糖をまぶす。この作業を何度か繰り返し、最後にレモン汁を加えて火に掛け、それにラップをして何時間か置いておくのだ。

その間に、先に釣りをしていた明彦達と合流し、私達はそれぞれのカップルに分かれ、乗馬を楽しんだ。

「凛子、しっかり掴まれよ」

「うん」

先ずは専門の指導員が付いて、ゆっくりと歩く練習からだ。明彦は飲み込みが早く、直ぐに少しコースを走れるようになった。

「きゃっ!明彦、あんまりスピード出さないで」

「ほら、前を向いてみろよ、羊蹄山がきれいだぞ!」

そんな私達の姿を純也が写真に収めた。

「明彦、上手いな」

「俺、東京にいた時、数ヶ月だけど、乗馬学校へ通っていたことがあるんだ」

「山口君、かっこいい!」

博美が純也の後ろで叫ぶ。

「ジャムはどう?上手くできそう?」

「さぁ、できあがってみないと分からないわ」


次に私達は牛の乳搾りに挑戦した。指導員に絞り方を教わりながら、私は恐る恐る牛の乳に触れた。

「温かくて、柔らかい」

「凛子、こっち向いて!」

明彦が乳搾りをする私の姿を撮った。

「はい、これ。飲んでみて」

小さなカップに搾りたての牛乳が、なみなみと入っている。

「美味い!」

「濃厚で美味しい。明彦もやればいいのに」

「いや、男としては遠慮しておく」

隣では輝が手際良く乳搾りをしている。

純也がそんな輝を見て声を掛けた。

「輝、上手いなぁ」

「まぁね」

「もう、輝ったら、調子に乗り過ぎ!」

「いてっ!」

またもや傍にいた結衣が輝の頭を叩き笑が起きた。ちょうどその時、牛舎に息を切らせた柴田先生が飛び込んできた。

「小川、ちょっといいか…」

「はい?」

私は先生に呼ばれ、体験センターの事務所まで、連れて行かれた。

「先生、どうかしたんですか?」

「お母さんから、連絡が入っている」

「母から電話ですか?」

「お父さんが危篤だそうだ」

「父が危篤?」

私は直ぐに受話器を取った。

受話器の向こうから、母の啜り泣く声が聞こえた。

「凛子!あの人、パパが危篤なの。直ぐにこっちへ戻れる?」

「お父さんが危篤って、お母さん、それ本当なの?」

「ええ。とにかく早く戻ってきて!」

「うん、分かった。何処へ行ったらいいの?」

「東京の慶応病院。こっちに着いたら、ママの携帯に電話して」

「分かった、直ぐに戻るから」

私は受話器を置いた。

「小川、大丈夫か?」

「はい…」

先週会ったばかりの父の顔が思い浮かび、電話を切った後も信じられず、私はその場に佇んだ。

その時、明彦が事務所に駆け込んできた。

「先生、何かあったんですか?」

「小川のお父さんが危篤でな。今から直ぐに、東京へ戻る」

「えっ?危篤って。凛子、先週、会ったばかりじゃないか?何があったか、聞いたか?」

「聞いてない…私、直ぐに戻らなくちゃ」

「俺も付いて行くよ。先生、僕も凛子に付いて行きます」

「明彦、大丈夫だから。私ひとりで帰れるから、明彦は旅行を続けて」

「山口、そういう訳だから、先生が空港まで付いて行く」

「先生、僕も凛子と一緒に、東京へ戻ります」

「駄目だ。みんなの行動を乱すようなことはするな」

「それじゃあ、せめて空港まで行かせて下さい。お願いします!」

「分かった。じゃあ、空港までだぞ」

柴田先生は直ぐに3Bの生徒を集め、事情を説明した。隣のクラスの先生に生徒達を任せると、私と明彦を連れタクシーで、新千歳空港まで向かった。


タクシーの中で先生は助手席に座り、私は明彦と後部座席に座った。車中、明彦は私の手をずっと握り締めていてくれた。

私は車窓から流れる北の大地を眺め、先週、父と会った時の事を考えていた。

久しぶりに会った父はだいぶ痩せていた。

六年間、何の音沙汰も無かったのに、私達全員にプレゼントまで用意していた。

私はあの晩、父の手紙を読んでいた母の様子がおかしかった事を思い出した。

母は何か知っていたのだろうか?


新千歳空港に着くと、柴田先生が直ぐにチケットの手配をしてくれた。

ロビーで明彦と椅子にもたれ、柴田先生を待った。

「本当にひとりで帰れるのか?」

「うん、大丈夫」

「向こうに着いたら、必ず連絡してくれ。待ってるから」

「分かったわ」

明彦はそれ以上何も言わず、私の左手の薬指の指輪をずっと撫でていた。

私は五時二十分発、ANA4722便で羽田空港に戻ることになった。

チェックインを済ませ、私はひとり搭乗ゲートをくぐった。

「凛子、必ず連絡してくるんだぞ!」

私は振り返り、柴田先生と明彦に一礼した。


羽田空港に着くと私は直ぐに母の携帯電話へ連絡をした。

「お母さん、私。今、羽田に着いたわ。これからタクシーで、そっちに向う」

「…凛子、あの人、さっき息を引き取ったわ」

「………」

「凛子、凛子!」

父が亡くなった?

「とにかく病院でまっているから。消化器科内科の601号室まできて」

「分かった」

それだけ言うと、電話を切った。私はタクシー乗り場で、急な目眩に襲われた。先週あんなに楽しげにビールを飲み、寿司を頬張っていた父が亡くなったなんて。

倒れ込むようにタクシーに乗り込むと、運転手に行き先を告げ、急いで病院へと向かった。


病院に着きエレベーターで六階の病室に向かうと、廊下の壁に母がもたれ掛かっている姿が見えた。

「お母さん!」

「凛子…さぁ、入って」

病室に入ると三十代半ばくらいの女性がベッドの傍に立っていた。彼女はハンカチで口元を抑え、その目は真っ赤に染まっていた。

「初めまして。小沢の家内の恭子と申します」

「娘の凛子です。合わせてやってもいいですか?」

「ええ、勿論です」

小沢の家内と名乗ったその女性は、小柄で色が白く物腰の柔和な人物だった。

私はその女性に会釈をし、父のベッドへ近付いた。

「お父さん…」

父の両手は胸の上で組まれ、その手に数珠が掛けられていた。

その姿はぐっすりと眠っているかのようで、私には父が亡くなったのだという実感がまるで湧かなかった。

私は濡れた脱脂綿で父の唇を拭いた。

「小沢は半年程前から体調不良を訴えて、お医者様に診ていただいた時には、末期の大腸癌でした。その時には既に手遅れで、全身に癌が転移していました。それからは会社を辞め、ずっと自宅療養していたんです。お医者様には、三ヶ月持てば良い方だと言われていました。先日、凛子さんからお電話をいただいた時には、泣いて喜んでいました。それからの一週間は嘘みたいに元気で。凛子さんに会ってからは、毎日、にこにこしながら穏やかに過ごしていました。昨夜、容体が急変して緊急入院した時には、もう意識が朦朧としていて、うわ言で何度も凛子さんと、弟の俊太郎君のお名前を呼んでいました…」

ベッドサイドのテーブルを見ると、私が父に貰った物より一回り大きな硝子のプードルが置かれていた。

「あの、これは…」

「結婚した当時から小沢がずっと大切にしていた物なんです。いつも書斎の机に置いてありました。小沢、最期に、一匹じゃ淋しいだろうから、これを凛子さんに渡してくれって…渡せば分かるからと言っていました」

私は硝子のプードルを手に取った。

「これ、いただいてもいいんでしょうか?」

「ええ、小沢もきっと喜びます」


間も無く父の遺体は霊安室へ運ばれるとのことだった。

母と私は廊下にある休憩スペースの椅子に腰を下ろした。熱いホットコーヒーを飲みながら、母と父の話をした。

「あの人ね、この間の手紙に、自分の命はもうそう長くはないって書いていたの。自分がしてきたことの天罰が下ったんだろうって。最後に凛子と会う機会を与えてくれて、心から感謝していると書き残していたわ」

「そうだったの。あの日、手紙を読んでいたお母さんの様子が、何だか少しおかしかったから、どうしたのかな…って、思ってたけど、まさかこんなに早く逝っちゃうなんて、思いもしなかった」

「その犬、どうしたの?」

「お母さんにはずっと黙っていたけど、お父さんが家を出て行く最期の日に私、駅まで送って行ったでしょう。その時、お父さん、これと同じ物を私にくれたの」

「そうだったの。ママ全然、知らなかったわ」

「ごめんなさい、今まで黙っていて」

「いいのよ、ママね、もうパパは凛子や俊太郎のこと、忘れちゃっただろうなって、勝手に思い込んでた。今さら会っても話すことなんて何もないだろうなって。こんなことになるなら、もっと早くに会わせてあげるべきだったわ…ママの方こそごめんなさい」

「ううん、最期には間に合わなかったけれど、六年振りに会えたんだもの。きっと虫の知らせってやつだったのかもしれない。ねぇ、お葬式はどうなるの?」

「小沢さんね、身寄りも少ないから、密葬にするって仰っていたわ」

「私や俊は出席させて貰えるの?」

「勿論よ。小沢さんも、是非そうしてくださいって言ってくださったの。あの方、まだお若いのにしっかりしていらして、本当に良い方だわ。ママね、パパが彼女に惹かれた気持ちが分かった気がするの」

「うん、私も何となく分かった。お父さんね、この間会った時に言ってたの。お父さんは、お母さんや私達の事も愛していた。だけどそれ以上に、今の奥さんの事を愛してしまったんだって」

「そう…」


翌日は友引だったため、父の通夜は翌々日と決まった。

私は病院から柴田先生に連絡をした。

「先生、小川です。今日は色々とご迷惑をお掛けしてすみませんでした」

「お父さんさんとは、最期に会えたのか?」

「いいえ、間に合いませんでした…」

「そうか、お母さんは大丈夫か?」

「はい、母も私も大丈夫です。先生こそただでさえ修学旅行でお疲れなんですから、お身体に気を付けてください」

「有難う。一週間は忌引きになるから、少しゆっくりできるといいな」

「はい、一週間、お休みさせていただきます」

柴田先生との電話を切ると、次に私は明彦のダイヤルをプッシュした。

「もしもし?凛子、大丈夫か?」

電話機の向こうから、明彦の心配する声が聞こえてきた。

「うん、何とか今のところは」

「そうか、お父さんとは?」

「最期には間に合わなかったの。でも、自分でも思っていたより冷静だから心配しないで」

「分かった。凛子が戻ってくるの、俺、待ってるから」

「有難う。残りの修学旅行、楽しんできて」

「お土産買って行くから、あんまり気を落とすんじゃないぞ」

「大丈夫。もう切るね」

「凛子、俺がいるから安心しろよ」

「うん…」

明彦の言葉を聞いた途端、堰を切ったように涙が溢れた。


電話を終えると、私は母のもとへ戻った。

「凛子、どうしたの?」

「明彦と話したら、何だか急に涙が止まらなくなっちゃって…」

「山口君、何て?」

「俺がいるから、安心しろって」

「そう。山口君、凛子の事がよっぽど好きなのね。ママ、羨ましいわ。ねぇ、凛子、その指輪、山口君に貰ったの?」

母が私の薬指を見て言った。

「うん。昨夜ね、函館の夜景を見ながら、結婚しようって、告白されたの」

「本当に?それで凛子は、何て答えたの?」

「何年でも待ってるわって、答えたわ。実はねお父さんと会う日、私ひとりで会う勇気がなくて、待ち合わせ場所に明彦に付いてきて貰ったの」

「じゃあ、パパ、山口君とも会ったのね?」

「そう、明彦の事、彼なら安心して凛子を任せられそうだって言ってた」

「じゃあ、パパもきっと安心しているわね」

「うん」


父の遺体は二晩、霊安室に安置されることになった。遺体の傍に線香を立て、母と私は父に手を合わせた。

「それでは小沢さん、私達、今日はこれで失礼させていただきます。わざわざご連絡をくださって、有難うございました。何か私達にできる事があれば、遠慮なく仰ってください」

母は深々と頭を下げた。

「いいえ、こんな形でお会いすることになってしまって、本当に何と申し上げたら良いのか…お通夜の詳細は追ってご連絡致します」

「どうぞ宜しくお願いします」

母がそう言って、私達は霊安室を出た。


「ねぇ、凛子、たまには何か美味しい物でも食べて帰ろうか?」

病院の廊下を歩きながら母は言った。

「でも、おばあちゃんと俊、家で待ってるんでしょう?」

「たまにはいいじゃない。何がいい?」

「そうだなー、じゃあ、ラーメンがいい」

「えっ?そんな物でいいの?」

「だって、北海道で食べられなかったんだもの」

「そうね、じゃあ、ラーメン食べに行こう」

私と母は病院の近くのラーメン屋に入った。

「凛子は何にする?」

メニューを見ながら母が聞いた。

「どうしようかなぁ、五目塩ラーメンにしようかな。お母さんは?」

「そうね、ママは、もやしラーメンにしようかしら」

私達はそれぞれにラーメンを注文した。ラーメンが運ばれてくると、私と母はあっという間にたいらげ、スープまで残さず飲み干した。一杯の熱々のラーメンは、今日一日の疲れを癒してくれた。帰りはふたりともくたくただったので、タクシーで家まで帰った。

私は家に着くとさっそく二階へ上がり、本棚の奥からプゥを取り出し、机の上に二匹並べて飾った。


翌々日、東京北区の斎場で父の通夜が行われた。私達一家は四時半頃に会場に着いた。母は小沢さんのもとへ行き、何かを話している様子だった。私は父との思い出のビーチサンダルを持ってきていた。俊太郎を連れて棺の元へ行き、棺の中に眠る父の姿を暫く眺めた。

「ねぇ、これがお父さんなの?」

「そうよ、俊。ちゃんとお父さんの顔を見ておきなさい」

「凛子、お父さんはどんな人だった?」

「とっても優しい人だったわ」

「そっかぁ、俺もお父さんと話したかったなぁ」

俊太郎は棺の中の父を不思議そうな顔で見つめた。私は小沢さんにお願いをして、家から持ってきていたビーチサンダルを棺の中に入れさせて貰った。葬儀は密葬だったため、通夜の弔問客は父の勤めていた出版社の人達が数名訪れたくらいで、ごく地味に執り行われた。


翌日の告別式も小沢さんと彼女の親戚が数人と、あとは私達一家だけの淋しいものだった。暫くすると読経が始まり、私達は順番に焼香をした。喪主の小沢さんは始終ハンカチで口元を抑え、挨拶も早々にずっと嗚咽するばかりだった。

いよいよ出棺の時となり、父の棺の中を白菊の花でいっぱいに飾った。やがて棺の蓋が静かに閉じられた。間も無く父の遺体は隣の建物の火葬場へと運ばれ、荼毘に付された。それまで気丈に振る舞っていた母が、肩を震わせて泣いていた。泣き崩れそうになる母を隣で祖母が支えた。私と俊太郎は固く手を繋ぎ、火炉へと吸い込まれて行く棺を見守った。


火葬を待つ間、休憩室で精進落としが振る舞われた。俊太郎は無邪気に目の前の料理に箸を付け、母と祖母はビールを飲んでいた。私は食欲が湧かず、烏龍茶ばかりを飲んだ。

暫くすると、小沢さんが母のもとへとやってきた。母にビールを勧めると、徐に話し始めた。

「昨夜、小沢の遺品を整理していたら、書斎の机の引き出しの奥から、これが出てきたんです」

「一体、何でしょう?」

小沢さんは紙袋の中から、数枚の写真と便箋の束を取り出すと、母に渡した。

それは昔の家の前で、家族四人で写っている写真や、伊豆へ旅行に出掛けた時の写真、母や私や俊太郎に宛てた手紙の数々だった。

「小沢はいつもきっと、苦しんでいたんだと思います。私の前ではそんな素振りは一度も見せたことはありませんでしたが、皆さんの事を忘れたことなんて、片時もなかったんだと思います」

私は便箋の束を手に取り、父の懐かしい文字を眺めた。手紙は途中まで書かれてペンでぐちゃぐちゃに消されているものや、最後まで書かれて結局はポストに投函されることがなかったものなど様々だった。

私はその中の一通に目を通した。


凛子へ

元気にしているかい?父さんは昨年の九月に転職をして、今は出版社で働いています。まだまだ慣れない仕事に戸惑うこともあるけれど、毎日、元気に仕事をしています。凛子はこの四月で中学生になったんだね。おめでとう。何もしてやれない自分が、父さんは情けなくて仕方がない。ごめんな、凛子。きっと大きくなったんだろうな。成長した凛子や俊太郎に会いたくて、最近どうしようもない。お母さんの手伝いや、俊太郎の面倒はちゃんとみてくれているかい?学校へはきちんと行っているんだろうか?父さんは毎日、そんなことばかりを考えて過ごしています。身勝手な父さんを許してはくれないだろうが、これだけは信じて欲しい。父さんはお前達のことを忘れた事なんて一度もない。いつも君達の幸せを願っている…


手紙はそこで終わっていた。便箋の上に涙が零れ落ち文字が滲んだ。

二時間余りが過ぎ、私達は火葬場へ拾骨に向かった。私は俊太郎とふたりで父の骨を拾った。

「俊、お父さんの骨を一緒に拾うのよ」

「お父さん、ちゃんとひとりで天国へ行けたかなぁ」

「うん…きっと天国で、俊の事をいつも見ているわ。だから、俊も頑張らなくちゃ」


拾骨が終わると小沢さんがお骨を両腕に抱え、私達のもとへ挨拶にやってきた。

「これ、小沢の喉仏です。持って帰ってやってください」

「そんな…こんなに大切な物、いただけないわ。これは小沢さんが持っていらして」

「いいんです。是非、持って帰っていただきたいんです」

そう言って、母に骨袋を手渡した。

「本当に色々と気を遣ってくださって有難うございます。ではこれは、暫くお預かりさせていただきます。初七日は仕事でお伺いできないと思いますが、四十九日にはお宅に伺わせていただいてもよろしいでしょうか?」

「勿論です。大々的には行わないと思いますが、是非、いらしてください」

「有難うございます。小沢さんもお疲れでしょう?お身体大切になさってくださいね。では、これで失礼します」


私達は家に着くとそれぞれに塩払いをして玄関を入った。私はその晩、幼い頃のアルバムを開いた。枚数は少なかったが、どの写真の中でも父は笑っていた。父がこの世から消えてなくなってしまったことを、改めて実感した。



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