第8話「選ばれたのは….」
部活が休みの日は、時間を持て余す。
昨日のことが、頭から離れなかった。
試合が終わって陽菜を探した。
でも、もういなかった。
玲央に「バイト先行くって言ってたよ」と聞かされた瞬間の、胸の奥に引っかかったものが、一晩経っても消えていない。
夜、陽菜からLINEが届いていた。
『お疲れ様! 試合良かったね』
既読だけつけて、返せていない。
何を返せばいいのかわからなかった。
いや、本当は違う。
返したら、昨日のことを聞いてしまいそうだった。
そんな自分が嫌で、結局何も打てなかった。
家にいても落ち着かない。
とりあえず外へ出た。
行き先も決めずに歩く。
気づけば商店街まで来ていた。
なんでここまで来たんだろう。
そう思いながら顔を上げる。
見慣れた暖簾が、目の前にあった。
暖簾の向こうに、ガラス越しの店内が見えた。
陽菜がカウンターの中に立っている。
その前には、制服姿の先輩が座っていた。
アイスコーヒーを作りながら、陽菜が何か話しかける。
先輩が少し笑って答える。
その何気ないやり取りが、妙に胸に引っかかった。
帰ろう。
そう思った。
こっちには気づいていない。
このまま引き返せば、それで終わる。
昨日のことも、そのうち忘れられるかもしれない。
でも、足が動かなかった。
陽菜がまた笑う。
先輩も、少し困ったように笑っている。
俺の知らない時間が、そこにはあった。
俺の知らない陽菜が、そこにいた。
胸の奥がざわつく。
気づけば、ドアに手をかけていた。
カラン、とベルが鳴った。
「あ、颯太。いらっしゃい」
陽菜がぱっと顔を上げ、いつもの笑顔を向けてくる。
その笑顔を見た瞬間、昨日から胸の奥に溜まっていたものが、一気に込み上げてきた。
「陽菜、昨日なんで帰っちゃったんだよ」
言った瞬間、後悔した。
違う。
こんなことを言いたかったんじゃない。
本当は、「昨日はありがとう」とか、「試合どうだった?」とか。
そんな普通の話をしたかっただけなのに。
「え、昨日? 送別会あるって言わなかった?」
「そんなこと聞いてない」
「そうだっけ」
「聞いてないって」
言葉が止まらない。
自分でも、どうしてこんな言い方になるのかわからなかった。
陽菜が少し困ったように眉を下げる。
その表情を見ても、もう引き返せなかった。
そのときだった。
「昨日は俺の送別会だったから」
先輩が静かに口を開く。
「陽菜ちゃん、それに来てくれたんだよ」
「送別会?」
思わず聞き返す。
先輩は頷いた。
「俺、明日でここのバイト辞めるから。マスターたちが開いてくれてて、陽菜ちゃんも試合が終わってから来てくれたんだ」
明日で辞める。
……そうか。
この人、辞めるんだ。
もうすぐ陽菜と一緒に働くこともなくなる。
それだけで、昨日から胸につかえていたものが少しだけ軽くなった。
でも、その安心はほんの一瞬だった。
送別会。
この人の送別会だったなら。
陽菜が駆けつけるのも、当たり前だ。
……いや。
陽菜は、俺の試合を見るために仕事まで休んで来てくれたんだ。
昨日、スタンドで応援してくれた姿も。
ホームに帰ってくるまで見届けてくれたことも。
全部、本当だった。
そう思わないと、昨日感じた悔しさまで全部認めることになる気がした。
気づけば口が動いていた。
「でも試合には、仕事休んでまで来てくれたんですよね」
先輩は少しだけ考えてから頷いた。
「そうだね」
「それって、お店より試合を選んだってことですよね」
言いながら、自分でもわかっていた。
そんな単純な話じゃない。
でも、そう思わないと苦しかった。
「でも、送別会にも来てくれたよ」
「それは試合が終わったからで」
「試合が終わってから、真っ先にここへ来てくれたんだ」
そんなことはわかってる。
送別会なんだから行く。
この人が辞めるんだから行く。
陽菜なら、そうする。
そういうやつだって、俺が一番知ってる。
でも、それを認めたら、自分が昨日感じた寂しさも、不安も、全部本当だったことになってしまう。
「それって、送別会を選んでくれたってことじゃないのかな」
「仕事を休んでまで来たんですよ」
「送別会に駆けつけてくれたんだよ」
「試合を——」
「送別会を——」
「もう、二人ともやめて!」
陽菜の声が店中に響いた。
一瞬で頭の熱が冷める。
俺も先輩も、同時に陽菜の方を向いた。
陽菜は真っ直ぐ俺たちを見ていた。
「私は、颯太の試合も大事だった」
少しだけ間を置いて続ける。
「先輩の送別会も大事だった」
静かな声だった。
でも、その一言一言が胸に刺さる。
「だから、両方行けるように考えただけなの」
何も言えなかった。
「それなのに、どっちを選んだとか、どっちの方が大事だったとか……勝手にそんな話にしないでよ」
その言葉で、ようやく気づいた。
俺は昨日からずっと、「陽菜が誰を選んだのか」ばかり考えていた。
……いや、違う。
俺は、陽菜にどちらかを選ばせようとしていた。
一番大事なのは、陽菜がどうしたかったかだったのに。
店の中が静まり返る。
その静けさが、余計に苦しかった。
「……ごめん」
ようやく声を絞り出す。
先輩も少し遅れて、
「ごめん」
と頭を下げた。
陽菜は小さく息を吐いた。
怒っているというより、困っているような顔だった。
「私、仕事中なんで」
それだけ言うと、くるりと背を向けてカウンターの奥へ戻っていった。
残されたのは、俺と先輩だけだった。
気まずい沈黙が流れる。
何か言わなきゃ。
そう思うのに、言葉が出てこない。
しばらくして、俺は小さく口を開いた。
「……俺が悪かったです」
先輩は少し笑って首を振る。
「俺もだよ」
それ以上、会話は続かなかった。
同じ方向を向くことが、なんとなくできなかった。




