第6話「優先順位」
「最後の一人は——坂本」
監督のその声が、部活が終わった今も耳に残っている。
今日、新チームのメンバーが発表された。三年生が引退し、新しいチームが始まる。
一年から選ばれたのは、俺ひとりだった。
しかも来週の練習試合から出場することになった。
嬉しくないわけがない。
でも、その知らせを聞いた瞬間、真っ先に頭に浮かんだのは——陽菜の顔だった。
早く伝えたい。
誰よりも先に、陽菜に聞いてほしい。
着替えを済ませてグラウンドを飛び出した俺は、いつもの公園には向かわなかった。
気づけば、陽菜が働く喫茶店へ向かって走っていた。
※※※
商店街が見えてくるころには、さすがに息が上がっていた。
店の前で少しだけ足を緩める。
ガラス越しに見える店内。
カウンターの向こうに、陽菜の姿があった。
ほっとしたのも束の間、その隣にいる先輩の姿が目に入る。
二人は何か話しながら笑っていた。
……別に、おかしなことじゃない。
同じ店で働いているんだから、楽しそうに話していて当然だ。
頭ではわかっている。
それなのに、ドアノブに伸ばした手がほんの少し止まった。
胸の奥が、ちくりと痛む。
深呼吸をひとつ。
そして俺は、ゆっくりとドアを押した。
店に入ると、コーヒーの匂いが鼻をくすぐる。
「あ、颯太! どうしたの、いつものとこで待っててくれたらよかったのに」
陽菜がカウンターの向こうから声を上げた。
――いつものとこ。
その言葉が胸の奥にじんわりと広がる。
俺たちにとって当たり前になった場所。
そう思うと、さっきまであった緊張が少しだけ和らいだ。
そのままふとカウンターの中へ視線を向ける。
先輩と目が合った。
一瞬だけ、さっき店の外から見えた光景が頭をよぎる。
そのまま視線を逸らし、陽菜へ向き直った。
「どうしても早く言いたくて」
そう答えると、陽菜は少し不思議そうに笑った。
「あと三十分くらいで上がれると思うんだけど――」
「もう上がっていいぞ、陽菜」
奥からマスターの声がした。
「今日は暇だし、どうせすることもない」
「え、いいんですか?」
「構わん」
「ありがとうございます! じゃあ着替えてきますね」
嬉しそうに頭を下げると、陽菜は奥へ消えていった。
俺はそのままカウンター席に腰を下ろす。
「アイスティー、一つお願いします」
先輩が少し困ったように笑った。
「あ、すぐ戻ってくると思うんで、大丈夫ですよ」
「走ってきたんで。喉、カラカラなんです」
「じゃあすぐお持ちしますね」
氷の音が静かな店内に響く。
グラスを受け取り、一口飲んでから俺は口を開いた。
「陽菜、頑張ってますか」
「もちろん。最初はミックスジュースも満足に言えなかったのに、今じゃ常連さんの顔と好みも全部覚えてますよ」
ミックスジュース。
公園で嬉しそうに話していた陽菜の顔が浮かぶ。
「初日に言えるようになったの、すごく喜んでたんですよ」
あの日の笑顔。
でも、その喜びの隣には、この人がいたんだ。
なんとなく胸の奥がちくりと痛んだ。
「そうなんだ」
先輩が話を続ける。
「真面目ですよね。メモもしっかり取ってて」
「……でも、あれ小さすぎて読めないでしょ」
思わず口から出た。
先輩が少し驚いたような顔をする。
陽菜の字が小さいこと。
ノートの端にぎっしり書き込むこと。
そんなことは昔から知っている。
俺だけが知っていることだと思っていた。
「昔からそうなんです。やりたいことができると一直線で」
気づけば言葉が続いていた。
「小学校のときも児童会長やるって言い出して、本当に立候補して、当選して、最後までやり切って」
「へえ。あの子らしいね」
先輩は素直にそう言った。
その返事を聞いた瞬間、急に恥ずかしくなった。
――何やってるんだ、俺。
祭りのときと同じだ。
自分だけが知っていることを並べて、知らない相手に勝った気になろうとしている。
そんなことをしたって、何も変わらないのに。
奥から足音がして、陽菜が戻ってきた。
「お待たせ! 何の話してたの?」
「陽菜の小学生の頃の話」
「何それ!? 颯太、変なこと言ってないでしょうね」
「言ってないよ」
「ほんとに?」
「ほんとだって」
陽菜がじとっとこちらを見る。その顔がおかしくて、少し笑ってしまった。
陽菜が先輩の方へ視線を向けた。
「先輩、ご迷惑おかけしました。じゃあ行きます」
「お疲れ様」
「お疲れ様でした!」
深くお辞儀をして、陽菜が歩き出す。俺も急いでカウンターに小銭を置いて、その後に続いて店を出た。
※※※
外に出ると、夕方の風が少しだけ涼しかった。
並んで歩き始めると、陽菜が隣で首をかしげる。
「で、何を早く言いたかったの?」
「新チームのメンバー発表があって。一年で入れたの、俺だけだったんだ」
「え、ほんとに?」
「来週の二十九日に練習試合があるんだけど、出られることになった」
陽菜の顔がぱっと明るくなる。
「すごいじゃん、颯太!」
その笑顔を見て、胸の奥が少し軽くなった。
ちゃんと喜んでくれている。
それが嬉しかった。
「見に来れる?」
言ったあとで、少しだけ緊張した。
陽菜はすぐには答えなかった。
「……ごめん。その日シフト入ってて。一回聞いてみないといけないんだよね」
「この前は絶対行くって言ってくれたのに」
口から出た瞬間、しまったと思った。
陽菜が少し困ったように目を伏せる。
「……休めないか聞いてみるね」
「いや、いい。無理しなくて」
「聞いてみる」
それだけ言うと、陽菜は前を向いた。
言わなきゃよかった。
仕事なんだから、そう簡単に休めるはずがない。
そんなことはわかっている。
それでも、夏休みの初日。
同じことを聞いたとき、陽菜は一秒も迷わなかった。
『絶対行く』
あの言葉を思い出す。
バイトが始まって、陽菜の毎日は少しずつ変わった。
それが悪いことじゃないのはわかっている。
それなのに、どこか置いていかれたような気持ちになっていた。
※※※
その夜、陽菜からLINEが届いた。
『行けることになった!』
思わず顔がほころぶ。
来てくれる。
その一言だけで、夕方から胸につかえていたものが少し軽くなった。
『仕事休むの大変だったろ。ごめん』
すぐに返信する。
既読がつくのも早かった。
『私もどうしようかなって思ってたんだけど、先輩に相談したら、前もって言ってもらえれば全然大丈夫って言ってくれて。気が楽になった!』
画面を見つめたまま、指が止まった。
大人気ない一言で陽菜を困らせたのは俺で、その陽菜を安心させたのは先輩だった。
情けない。
でも、そのおかげで陽菜が試合を見に来てくれることになったのだから、そこは素直に感謝しよう。
とにかく余計なことは考えず、来週の試合に全力を尽くそうと思った。




