第2話「知らない名前たち」
俺が陽菜のことを好きだとはっきり自覚したのは、8歳の時だった。
小さい頃からよく遊んでいた、10歳離れた近所のお兄さんが地元を出ることになった。会えなくなる寂しさから、陽菜はしばらくずっと泣いていた。
その時に思ったんだ。
この子のことを、守ってあげたいって。
それからもう8年が経つ。気持ちは変わるどころか、年々強くなっている気がする。
そんな事を思いながら公園の入り口に目をやると、ちょうど陽菜が入ってくるのが見えた。
「ねえ、颯太!『ミックスジュース』って噛まずに言える?」
公園に入って俺の顔を見るなり、陽菜はそう聞いてきた。
今日は陽菜のアルバイト初日。俺の部活が終わるのと陽菜のバイトが終わるのが同じくらいだったので、ここで待ち合わせて一緒に帰る約束になっていた。
……本当は部活は一時間前には終わってたんだけど。
「いきなり何の話?」
「いいから、言ってみて」
「ミックスジュース」
「何でそんな簡単に言えるの!? 私今日一日かけてやっと言えるようになったのに」
よほど悔しかったのか、陽菜が口を尖らせた。バイト初日にミックスジュースと格闘してたのか、この子は。
「それより聞いて! 喫茶店ってね、いろんな飲み物があるんだよ!」
そう言いながらポケットからメモを取り出して、そこに書かれた小さな文字を何とか解読しようとしている。
「えっと……コーヒーに、紅茶、ミルク、ココア……」
「そんなのだったら俺んちにもあるよ」
「喫茶店のは特別なんだから。それにコーヒーにも種類があって」
メモをめくりながら辿々しく読み上げる。
「モカに、ブルーマウンテン、キリマンザロ……」
「ジャロね、キリマンジャロ」
「もう! いちいちうるさい!」
「とにかく楽しかったみたいだな」
「うん! 働くのって楽しいね」
そう言って笑う陽菜の笑顔は、今まで見てきたどの笑顔とも少し違った。
自分で何かをつかんだ人の顔、というか。
眩しくて、少し、目を逸らしたくなった。
※※※
それからしばらく、部活帰りに陽菜と合流してバイトの報告を受けるのが恒例になった。
「マスターのコーヒー、すごくいい香りがするんだよ。私はコーヒー苦手だから飲めないけど」
「マミさんって料理の手際がめちゃくちゃ早くて、見てるだけで勉強になる」
「先輩がね、また丁寧に教えてくれて」
知らない名前が、毎日増えていく。
特に先輩の話はよく出てきた。仕事ができる、教えるのが上手い、説明がわかりやすい。陽菜がその人を尊敬してるのは声のトーンでわかった。
それ以外にも、常連の田中さんとか松本さんとか、次々と知らない名前が出てくる。
俺の知らない場所で、俺の知らない誰かと、陽菜はどんどん新しい世界を広げていく。
それが嬉しくないわけじゃない。楽しそうな陽菜を見るのは好きだ。
でも、知らない名前が一つ増えるたびに、何か小さなものが胸に引っかかる気がした。
うまく言葉にできないけど、強いて言うなら——少し、寂しかった。
※※※
その日、待ち合わせの公園に着くと、珍しく陽菜の方が先に来ていた。
一人でブランコに座って、ゆっくり揺られている。
それだけで、何かあったんだなとすぐにわかった。
「どうしたの?」
「今日は散々だった。注文間違えるし、ドリンクこぼしちゃうし、お釣りも多く渡しちゃったし……私、向いてないのかな」
陽菜はいつもこういう極端なことを言う。調子がいい時は「天職かも」とか言っておきながら、うまくいかないと「向いてない」になる。
「マスターや先輩は何だって?」
「みんな優しいから、気にするなとか大丈夫とか言ってくれるけど……迷惑かけたのは事実だし」
「向こうがそう言ってるならそれでいいんだよ。新人の失敗なんて想定内でしょ」
「でも……」
「陽菜はいつも完璧にやろうとしすぎなんだよ。大谷の打率どれくらいか知ってる?」
「え?」
「大谷の平均打率が大体三割ちょい。つまりあの大谷でも七割は失敗してるんだから、最初から全部うまくいくわけないだろ」
「ふふっ」
「何で笑うんだよ、人がいい話してるのに」
「その話、前にも聞いた」
「……え、そうだっけ」
「小六の時、私が児童会長になったでしょ。公約はすぐ実現できたんだけど、その後も仕事が多くて、うまくいかないことがいっぱいあって。それを颯太に愚痴ったら、その話してくれたんだよ」
「そうだっけ?」
「そうだよ。あの時も颯太が話聞いてくれて励ましてくれたから、最後まで頑張れた」
陽菜がブランコから立ち上がって、こちらを見た。
「今回ももう大丈夫。ありがとう」
まっすぐな目だった。
「……私ばかり弱音吐いてカッコ悪いよね。颯太も何か相談とかないの?」
「俺は別に」
「何かあるでしょ、部活で伸び悩んでるとか」
陽菜がブランコを揺らしながらこちらを見る。
「……レギュラーになれるかもしれない」
「え、ほんとに?」
「三年が引退して新チームになるんだけど、そこに入れそうで」
「一年生でレギュラーって、すごいじゃん」
陽菜が目を輝かせた。
「夏休み中に最初の練習試合があって、もし出ることになったら見にきてくれる?」
「もちろん! 絶対行く!」
即答だった。
それが素直に嬉しかった。
少し間があって、陽菜がぽつりと言った。
「相談に乗ってあげようと思ったのに、普通に颯太すごいね。私も頑張らなきゃ」
それを聞いて、俺は何とも言えない気持ちになった。
頑張らなきゃ、か。
これ以上頑張られたら、俺だけ置いてかれてしまう気がする。
そんなことを思いながら、並んで公園を出た。




