第1話「新しい場所へ」
「履歴書不要ってマジ?最高じゃん」
高校生になって初めての夏休み初日、商店街の隅っこにある小さな喫茶店の壁に貼ってあった張り紙を見つけて俺——坂本颯太——は思わず声を上げた。
それはアルバイトを探してる者にとっては魅惑的な文言だった。と言っても探してるのは俺ではなくて——
「陽菜、履歴書いらないって」
隣にいた幼馴染の森陽菜に声をかけると、彼女はすでにその張り紙を食い入るように見つめていて、そのまま「ちょっと待ってて!」と言って店に飛び込んで行ってしまった。
その後ろ姿を見送りながら俺はため息をついた。
まあ、そうなるか。
昔からこういう子だった。思い立ったら次の瞬間には動いている。ブレーキという概念が存在しない。
小学六年のとき、こんなことがあった。
うちの小学校には昔からの暗黙のルールがあって、昼休みの運動場は六年生優先、という空気があった。明文化されたルールじゃないけど、みんな何となくそれに従っていた。下級生は端っこで遊んで、真ん中は六年生のもの。俺もそういうものだと思っていた。
ところが六年になった四月、陽菜が児童会長に立候補した。
公約は一つだった。
「運動場を申告制にして、どの学年でも公平に使えるようにします」
俺は耳を疑った。
六年になってから言うか、それを。
結果は陽菜の圧勝だった。運動場のルールはあっさり変わって、翌月から申告制が導入された。抗議しようとした六年男子が何人かいたけど、陽菜に「あなたたちだって下級生のとき使えなくて嫌だったでしょ」と言われて黙った。
俺も黙った。
正しいことを言っているのはわかっていた。でも、六年になったら真ん中でドッジボールができると思って五年間待っていた俺としては、複雑な気持ちがないとは言えなかった。
そんなことを考えながら、俺は後を追って暖簾をくぐった。
店に入ると、カウンターの中の男の人がすでに陽菜に向かって言っていた。
「いつから来れる?」
背が高くて、彫りが深くて、俳優みたいな顔をした男の人だった。
え、もうそんな話?
陽菜が「明日からでも」と即答する。
「じゃあ明日の十時から。よろしくな」
それだけだった。
「もう採用ですか?」
思わず口を挟んでしまった。
「なんだ、文句あるか」
「いや、ないですけど」
履歴書も、面接も、何もない。
「お前は? バイトしないのか」
男の人が俺を見た。
「俺は部活があるんで」
「そうか」
そのとき奥から女の人が顔を出した。
「あら、新しい子? いらっしゃい。私は石川マミ、そっちにいるのが石川洋平。二人でやってる喫茶店なの、よろしくね」
陽菜が「ありがとうございます! 森陽菜です、よろしくお願いします!」と深々とお辞儀をした。
顔を上げた瞬間、ふと気がついたように口にした。
「石川……じゃあこのお店の名前って」
「そう」と洋平さんが少し得意げな顔をした。
「イギリスの言葉で石と川、俺たちの名前から取ったんだ」
「イギリスの言葉…それってただの英語じゃないですか」
陽菜が首を傾げながら言う。
洋平さんが一瞬固まった。
マミさんが「ふふっ」と堪えきれずに笑う。
陽菜も一緒になって笑う。
俺はカウンター席から、その様子を眺めていた。
まだ来たばかりなのに、もうこの場所に溶け込んでいく陽菜。
自分の知らない場所で、自分の知らない顔をする陽菜がこれから始まるんだと思ったら、少し寂しかった。
「ちょっと来い、中紹介する」
洋平さんが気を取り直したように言って、陽菜を連れて奥に入っていった。
俺はその背中を見送った。
思えば、バイトを始めると言い出したのも、突然だった。
うちの高校は基本的にアルバイト禁止だ。でも陽菜は「やってみたい」の一言で一学期中担任に交渉し続けた。授業態度、提出物、行事への参加。とにかく文句をつけられないように全部やった上で、毎週職員室に通い続けた。
終業式の今日、許可が出たと聞いたとき俺は「やっぱりな」と思った。
陽菜がそこまでやって、認められなかった試しがない。
しばらくして、陽菜が戻ってきた。
「決まった!」
満面の笑みで、ピースサインをしている。
「明日から来ていいって!すごくない?飛び込みで即採用!」
「見てたから知ってる」
「でしょ! あのマスターって人、なんか豪快な人でさ、びっくりした。でも悪い人じゃなさそうだったし、なんか楽しくなりそうで」
陽菜がまくしたてながら笑う。
小さい頃からずっと見てきた、その笑顔。
その笑顔を見ると、毎回思い知らされる。
やっぱり俺、この子のことが好きだ。




