第八話 父の温もり
いつも『もう一度、あなたの声を。~音を知らなかった少女の異世界譚~』を読んでいただき、本当にありがとうございます。
第8話は、お父さんとシルヴィアの絆を中心に描いたお話です。
何気ない日常の中にも、かけがえのない幸せがあります。
この世界で新しい人生を歩み始めたシルヴィアが、大切な家族との時間を通して、また一つ成長していきます。
父と娘が紡ぐ、温かなひとときを楽しんでいただけたら嬉しいです。
それでは、第8話『父の温もり』をお楽しみください。
朝日が窓から差し込み、小鳥たちのさえずりが部屋に響く。
私はゆっくりと目を開けた。
暖かな布団。
柔らかな枕。
そして、家の中から聞こえてくる優しい声。
「シルヴィア、朝ですよ。」
お母さんの声だった。
私は眠そうに目をこすりながら身体を起こす。
「おかあさん……。」
「おはよう。」
お母さんは嬉しそうに微笑み、私を抱き上げた。
その温もりに包まれながら居間へ向かう。
すると、暖炉の前にはお父さんの姿があった。
斧の刃を丁寧に磨き、薪割りの準備をしている。
「おっ、おはよう。」
私に気付いたお父さんは、いつものように優しく笑った。
私はその笑顔を見つめる。
(おとうさん……。)
胸の中では何度もそう呼んでいる。
だけど、声にしようとすると緊張してしまう。
「……。」
結局、何も言えずにお母さんの後ろへ隠れた。
そんな私を見て、お父さんは困ったように笑う。
「まだ恥ずかしいか。」
「まあ、ゆっくりでいいさ。」
その言葉に、私は小さく頷いた。
朝食を終えると、お父さんは立ち上がる。
「今日は薪を割るから、一緒に来るか?」
私は目を輝かせながら勢いよく頷いた。
「うん!」
「ふふっ、じゃあ行こう。」
お父さんは私をひょいと抱き上げる。
「きゃっ!」
身体がふわっと浮く。
自然と笑みがこぼれた。
「高いだろ?」
お父さんの腕の中から見る景色は、いつもよりずっと広かった。
青い空。
風に揺れる木々。
遠くに見える山々。
すべてが輝いて見える。
(すごい……。)
私は思わず見入ってしまう。
お父さんはそんな私を見て、嬉しそうに笑っていた。
庭へ出ると、お父さんは私を木の切り株へ座らせる。
「危ないから、ここで見てるんだぞ。」
私は素直に頷いた。
お父さんは斧を持ち、大きな薪の前へ立つ。
一度だけ深く息を吸い込み――。
ガンッ!!
乾いた音が庭へ響く。
薪は真っ二つに割れた。
「わぁ……。」
私は思わず小さく声を漏らす。
何本も何本も薪を割っていくお父さん。
力任せではなく、正確に斧を振り下ろしている。
その姿は、とても格好良かった。
(すごい……。)
(お父さんって、こんなに強いんだ。)
最後の薪を割り終えると、お父さんは額の汗を腕で拭った。
「ふぅ……こんなところかな。」
斧を地面へ立て掛け、私の方へ歩いてくる。
「待たせたな。」
私は首を横に振った。
ずっと見ていても飽きなかった。
それくらい、お父さんの動きは格好良かった。
「面白かったか?」
私は満面の笑みで頷く。
「うん!」
「ははっ、それならよかった。」
お父さんはしゃがみ込み、私の頭を優しく撫でた。
大きな手。
少しだけ硬くて、ごつごつしている。
きっと毎日こうして働いているからなんだろう。
(あったかい……。)
私はその手が好きだった。
すると、お父さんは何かを思い付いたように笑う。
「よし。」
「今日は特別だ。」
そう言うと、私を軽々と抱き上げ、自分の肩へ乗せた。
「えっ……?」
一瞬で景色が変わる。
「わぁ……!」
いつもよりずっと高い。
家の屋根。
畑。
遠くの森までよく見える。
思わず笑顔がこぼれた。
「どうだ?」
「高いだろ?」
「うん!」
私は嬉しそうに何度も頷いた。
お父さんは私の足をしっかり支えながら、ゆっくりと庭を歩く。
「シルヴィア。」
「怖くないか?」
私は首を横に振る。
不思議だった。
こんなに高いのに、少しも怖くない。
きっと――。
お父さんが支えてくれているから。
そう思うと、胸の中がぽかぽかと温かくなった。
風が優しく吹き抜ける。
私は空を見上げ、小さく笑った。
(あったかい……。)
(お父さんって、こんなに安心するんだ。)
前世では知らなかった。
誰かの肩に乗せてもらうことも。
こんなふうに笑い合うことも。
全部、初めてだった。
だから私は、この時間をずっと覚えていたいと思った。
しばらく庭を歩くと、お父さんはゆっくりと私を地面へ降ろした。
「よし。」
「少し休憩するか。」
家の壁にもたれ掛かるように座るお父さんの隣へ、私はちょこんと腰を下ろす。
心地よい風が頬を撫で、木々がさらさらと音を立てて揺れていた。
静かな時間。
何も話さなくても、不思議と居心地が良かった。
「シルヴィア。」
お父さんが空を見上げたまま口を開く。
「お父さんはな。」
「強くなりたくて剣を振ってるわけじゃない。」
私は首を傾げる。
強いから剣を振る。
そう思っていた。
お父さんは優しく笑う。
「もちろん、強いに越したことはない。」
「でも、それ以上に大事なのは……守りたい人を守れることなんだ。」
そう言って、お父さんは家へ視線を向ける。
窓の向こうでは、お母さんが洗濯物を干していた。
「お母さんを。」
そして、お父さんは私の頭へそっと手を置く。
「シルヴィアを。」
「家族を守れるなら、それだけで十分なんだ。」
その言葉に、私は静かにお父さんを見つめた。
優しい目。
大きな手。
少し日に焼けた顔。
毎日当たり前のように笑ってくれる人。
(この人は……。)
(私を守ってくれている。)
胸の奥がじんわりと温かくなる。
気付けば、私は小さな手でお父さんの服の裾をぎゅっと握っていた。
「ん?」
お父さんが優しく笑う。
「どうした?」
私は口を開く。
何度も心の中で練習した言葉。
言いたかった言葉。
でも、喉の奥で止まってしまう。
「お……。」
あと少し。
あと少しなのに。
声にならない。
私は悔しそうに俯いた。
すると、お父さんは何も言わず、私の頭をゆっくりと撫でる。
「大丈夫。」
「お父さんは待てる。」
「シルヴィアが呼びたくなった時に、呼んでくれればいい。」
その優しい声に、胸がいっぱいになった。
(うん……。)
(もう少しだけ待って。)
(絶対に、ちゃんと呼ぶから。)
私は心の中で、静かにそう誓った。
その時だった。
「あなたー!」
家の方から、お母さんの声が聞こえてきた。
「お昼の準備ができましたよー!」
「おっ、もうそんな時間か。」
お父さんはゆっくりと立ち上がり、私へ手を差し伸べる。
「行こうか。」
私はその大きな手を見つめた。
少し硬くて、たくさん働いてきた手。
でも、とても温かい手。
私は迷うことなく、その手を握った。
「よし。」
お父さんは優しく微笑み、私の歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれる。
その時だった。
庭に転がっていた小さな石に気付かず、私の足が引っ掛かる。
「あっ……。」
身体が前へ傾く。
転ぶ――。
そう思った瞬間。
ぐっと、誰かが私の身体を抱き寄せた。
「危ない。」
お父さんだった。
私はお父さんの腕の中にいた。
大きな腕。
温かい胸。
力強く、それでいて優しく抱きしめてくれている。
胸がドキドキと高鳴る。
怖かった気持ちは、もうどこにもなかった。
安心だけが、心いっぱいに広がっていく。
私はお父さんの顔を見上げる。
心配そうに見つめるその表情を見た瞬間――。
自然と、言葉がこぼれた。
「……おとうさん。」
一瞬だった。
静かな時間が流れる。
お父さんは目を大きく見開いたまま、動かない。
「……え?」
その声は、とても小さかった。
私は自分でも驚いていた。
(言えた……。)
(今、ちゃんと……。)
頬が少し熱くなる。
恥ずかしくて俯こうとした、その時。
お父さんは私をぎゅっと抱きしめた。
「ありがとう。」
「ありがとう、シルヴィア。」
震える声だった。
私はゆっくりと顔を上げる。
お父さんは笑っていた。
でも、その目には小さな涙が浮かんでいた。
その様子を見ていたお母さんも、玄関先で優しく微笑む。
「やっと呼んでもらえましたね。」
「ああ……。」
「今日は、お父さんにとって一番嬉しい日かもしれない。」
私は照れくさそうに笑いながら、もう一度だけ口を開いた。
「……おとうさん。」
今度ははっきりと。
その一言に、お父さんは何度も何度も頷きながら、嬉しそうに笑っていた。
昼食の間も、お父さんの表情はどこか緩みっぱなしだった。
「あなた。」
お母さんがくすっと笑う。
「そんなに嬉しいんですか?」
「そ、それはもちろん嬉しいさ。」
お父さんは少し照れくさそうに頭をかく。
「だって、ずっと待ってたんだからな。」
その言葉に、お母さんは優しく微笑んだ。
「私が初めて『おかあさん』って呼ばれた時も、とても嬉しかったもの。」
「今度はあなたの番でしたね。」
「ああ。」
お父さんは静かに頷き、私を見つめる。
その目は、いつもより少しだけ優しかった。
「シルヴィア。」
名前を呼ばれ、私は顔を上げる。
すると、お父さんは照れくさそうに笑った。
「……ありがとう。」
たった一言。
でも、その一言にはたくさんの想いが込められている気がした。
私はその意味を全部は分からない。
それでも、嬉しい気持ちは伝わってくる。
「えへへ……。」
思わず笑みがこぼれる。
すると、お父さんも、お母さんも笑った。
その笑顔を見ているだけで、胸が温かくなる。
(幸せだな。)
前世では、叶わなかった日常。
家族と同じ食卓を囲み、笑い合うこと。
名前を呼び、名前を呼ばれること。
そのすべてが、私にとっては何よりも大切な宝物だった。
窓の外では、青空がどこまでも広がっている。
鳥たちは楽しそうに空を舞い、優しい風が家の中へ吹き込んできた。
私はお父さんとお母さんの顔を見つめ、小さく微笑む。
(この笑顔を。)
(この幸せを。)
(いつまでも守りたい。)
まだ幼い私には、その方法は分からない。
だけど、いつかきっと。
魔法を覚えて。
もっと強くなって。
大切な人を守れるようになる。
そんな小さな願いを胸に抱きながら、私は家族と過ごす穏やかな時間を心から噛みしめるのだった。
第8話『父のぬくもり』を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
今回は、シルヴィアとお父さんの絆を描く、穏やかな日常回でした。
「おとうさん」と呼ぶ、たった一言。
その一言は短くても、シルヴィアにとっても、お父さんにとっても、かけがえのない宝物になったと思います。
これから物語は少しずつ新しい展開へ進み、シルヴィアも魔法や文字、この世界について多くのことを学んでいきます。
その一方で、今のような温かな日常も、この作品では大切に描いていきたいと思っています。
いつも応援してくださる皆様、本当にありがとうございます。
次回、第9話もぜひお付き合いいただけると嬉しいです。
――藤田慎二




