第二話 最後に願ったもの
こんにちは、藤田伸二です。
第2話を読みに来てくださり、本当にありがとうございます。
今回は、主人公がどれほど家族に愛され、どれほど家族を愛していたのかを描いたお話です。
大きな出来事よりも、何気ない日常や小さな幸せを大切にしながら書きました。
この時間があるからこそ、この先の物語がより意味のあるものになっていきます。
最後まで読んでいただけると嬉しいです。
眩しい光が瞼を優しく照らした。
私はゆっくりと目を開ける。
窓から差し込む朝日が病室を淡く染め、白い天井がぼんやりと視界に映った。
昨日と同じ景色。
それなのに、なぜだろう。
胸の奥が少しだけざわついていた。
(……変な夢でも見たのかな。)
私は首を傾げ、小さく息を吐く。
眠っている間のことなんて思い出せない。
それでも、不思議な感覚だけは残っていた。
何か大切なものを忘れてしまったような。
何かが変わってしまうような。
そんな言葉にできない感覚。
私は苦笑しながら首を横に振る。
(考えすぎだよね。)
そう自分に言い聞かせる。
今日もきっと、昨日と同じ一日が始まるだけだ。
そう信じていた。
ゆっくりと体を起こそうとすると、胸の奥に小さな痛みが走る。
思わず胸へ手を当てた。
最近は、この痛みにも慣れてしまった。
深呼吸を一つ。
ゆっくり息を整える。
少し休めば落ち着く。
そう分かっているから、私は慌てなかった。
コンコン。
静かなノックが聞こえる……はずはない。
それでも、扉の向こうで誰かが来たことは気配で分かる。
扉が開く。
入ってきたのは、お母さんだった。
優しい笑顔。
少しだけ疲れた表情。
きっと今日も朝早くから来てくれたんだ。
私は自然と笑顔になる。
お母さんは私を見るなり、ゆっくりと口を動かした。
『おはよう。』
その形だけで十分だった。
私は枕元のノートを手に取り、ペンを走らせる。
『おはよう、お母さん。今日も来てくれてありがとう。』
お母さんはその文字を見て嬉しそうに微笑むと、私の頭をそっと撫でた。
小さい頃から変わらない、大好きな手。
私は目を細める。
この温もりを感じるたび、不思議と安心できた。
声は知らない。
でも、この手は知っている。
優しくて、少しだけ温かくて。
私が泣きそうな時は、いつもこの手が背中をさすってくれた。
転んだ時も。
検査が怖くて震えた時も。
夜中に苦しくなった時も。
いつだって、お母さんは隣にいてくれた。
だから私は、一度も「ひとりぼっち」だと思ったことはない。
お母さんは小さなテーブルに朝食を並べ始める。
病院食はいつも質素だけれど、私は嫌いじゃなかった。
栄養士さんが一生懸命考えてくれた献立。
毎日少しずつ違う味。
食べられること自体が幸せなんだと、小さい頃から教えられてきた。
私は「いただきます」と手を合わせる。
お母さんも同じように手を合わせ、笑顔で頷いた。
スプーンを手に取り、ゆっくり口へ運ぶ。
ほんのり温かいスープ。
柔らかく煮込まれた野菜。
優しい味が口いっぱいに広がる。
私は自然と笑顔になった。
その様子を見て、お母さんも安心したように笑う。
最近は食欲が落ちていた。
少ししか食べられない日も増えた。
だから今日は、ちゃんと食べられている私を見て安心しているのだろう。
本当は、胸の奥が少し苦しかった。
でも、そんなことは言わない。
私は笑っていたい。
お母さんにも笑っていてほしい。
それが私の願いだった。
食事を終えると、お母さんが小さなバッグから一冊の本を取り出した。
昨日、私が「読んでみたい」とノートに書いた物語だった。
私は目を輝かせる。
お母さんは椅子に座ると、本を開き、ゆっくりと読み始めた。
もちろん、私には声は聞こえない。
それでも、お母さんの口の動きを見るのが好きだった。
一文字一文字を大切に紡ぐように動く唇。
優しい表情。
ページをめくる穏やかな仕草。
それだけで物語の温かさが伝わってくる気がした。
もし、一度だけ願いが叶うなら。
私はこの物語よりも先に――
お母さんの声を聞いてみたい。
どんな声で私の名前を呼んでくれるのだろう。
どんな声で「大丈夫」と言ってくれるのだろう。
想像することしかできない。
でも、その想像だけでも私は幸せだった。
物語は、主人公が大切な人と再会する場面だった。
二人は笑い合い、涙を流し、互いの想いを言葉にしていた。
きっと、とても感動する場面なんだと思う。
お母さんの目元が少し潤んでいるのを見て、私はそう感じた。
私はそのページをじっと見つめる。
言葉を交わせる。
気持ちを声で伝えられる。
そんな当たり前のことが、私には少しだけ羨ましかった。
けれど、羨ましいと思う気持ちと同じくらい、私は幸せだった。
お母さんは、いつだって私の気持ちを分かろうとしてくれた。
幼い頃は、簡単な手話を一緒に覚えてくれた。
難しい言葉が分からない時は、何度でも紙に絵を描いて説明してくれた。
私が笑えば、一緒に笑ってくれた。
私が泣けば、何も言わずに抱きしめてくれた。
だから私は、一度も「愛されていない」と思ったことはない。
むしろ、その逆だった。
こんなにも愛されている人は、きっと少ない。
だからこそ思う。
(私は、本当に幸せ者だ。)
その時だった。
コンコン、と扉が叩かれる。
お父さんと弟だった。
お父さんは仕事へ向かう前に時間を作って来てくれたらしく、スーツ姿のままだった。
弟は私の姿を見るなり、大きく手を振る。
私は笑顔で振り返した。
弟はランドセルを床へ置くと、何かを慌てて鞄の中から取り出し始める。
そして、一枚の紙を私へ差し出した。
色鉛筆で描かれた四人家族の絵だった。
真ん中には私。
右にはお父さん。
左にはお母さん。
そして少し離れた場所で、大きく笑っている弟。
四人とも手を繋いでいる。
空には太陽が描かれ、その下には大きな文字でこう書かれていた。
『ずっといっしょ』
その文字を見た瞬間、胸の奥が少しだけ締めつけられる。
私は精一杯の笑顔を浮かべ、弟の頭を優しく撫でた。
弟は照れくさそうに笑い、お父さんはそんな様子を見ながら目を細める。
私はノートを開き、ゆっくりと文字を書いた。
『ありがとう。宝物にするね。』
弟は満面の笑みで何度も頷いた。
その笑顔を見ているだけで、私まで嬉しくなる。
――この時間が、ずっと続けばいい。
私は心の底から、そう願っていた。
お父さんは腕時計に目を向けると、小さく息をついた。
もう仕事へ向かわなければならない時間なのだろう。
私に視線を戻すと、ゆっくりと口を動かした。
何を言っているのかは聞こえない。
それでも、何度も見てきた口の動きだった。
きっと、
「行ってくる。」
そう言っている。
私は笑顔で頷き、ノートに文字を書く。
『いってらっしゃい。お仕事頑張ってね。』
お父さんはその文字を見て少し照れくさそうに笑い、私の頭をぽん、と軽く撫でた。
小さい頃から変わらない、不器用なお父さんなりの愛情表現だった。
私はその手の温もりが好きだった。
弟もランドセルを背負い直し、お母さんに何か話しかけている。
楽しそうに口が動いている。
きっと学校での出来事を話しているのだろう。
私は二人のやり取りを眺めながら、小さく笑った。
聞こえなくても分かる。
この家は、今日もいつも通りだ。
お母さんが笑い、お父さんが照れながら笑い、弟が元気いっぱいにはしゃぐ。
私は、その光景を見るだけで幸せだった。
弟は玄関へ向かう前に、もう一度私のところまで駆け寄ってきた。
そして両手で大きな丸を作る。
私は首を傾げる。
弟は少し考え込んだあと、自分の胸を指さし、次に私を指さした。
それから両手を大きく広げる。
私はすぐに意味が分かった。
「帰ってきたら遊ぼう。」
そう伝えたかったのだ。
私は笑顔で大きく頷き、ノートを開く。
『うん。帰ってきたら一緒に遊ぼう。』
弟は嬉しそうに飛び跳ねると、お父さんに急かされながら部屋を出て行った。
扉が閉まる。
病室は急に静かになった。
私は窓の外へ目を向ける。
青空の下を、小さな子どもたちが歩いている。
ランドセルを揺らしながら笑い合っている。
どんな話をしているんだろう。
どんな声で笑っているんだろう。
少しだけ想像してみる。
でも、その想像はすぐにやめた。
聞こえないものを悔やむより、今ある幸せを大切にしたかったから。
私は家族に恵まれた。
それだけで十分幸せだ。
そう思っていた。
……この時までは。
お母さんは窓際まで歩くと、ゆっくりとカーテンを開いた。
柔らかな日差しが部屋いっぱいに広がる。
暖かい。
私は思わず目を細めた。
お母さんは私の様子を見て微笑むと、指で外を指さした。
今日は天気がいい。
そう伝えたいのだろう。
私は頷きながらノートを開いた。
『少しだけ外に行ってみたい。』
ペンを止めた。
本当は「散歩したい」と書こうとした。
でも、それは難しいことだと分かっていた。
少し歩くだけで息が切れる今の私には、病院の庭へ出るだけでも負担になる。
それでも、お母さんは文字を見て優しく笑った。
少し考え込むような表情を浮かべると、「待っててね」と言うように口を動かし、病室を出て行った。
私は窓の外を眺める。
木々が風に揺れている。
葉っぱが揺れる音は、きっと心地いいんだろうな。
鳥が羽ばたく音は、どんな音なんだろう。
私は何度も想像してきた。
でも、その答えを知る日は来ない。
そう思っていた。
しばらくすると、お母さんが看護師さんと一緒に戻ってきた。
看護師さんは笑顔で私を見ると、車椅子を押してベッドの横まで来る。
私は驚いてお母さんを見る。
お母さんは嬉しそうに何度も頷いていた。
もしかして。
私は急いでノートを開く。
『外に行けるの?』
お母さんは満面の笑みで頷いた。
胸の奥が少しだけ高鳴る。
いつぶりだろう。
病院の外へ出るのは。
看護師さんに手伝ってもらいながら車椅子へ座る。
お母さんがブランケットを優しく膝へ掛けてくれた。
その仕草が、少しだけ過保護で。
私は思わず笑ってしまう。
お母さんも、それに気づいたのか照れくさそうに笑った。
病室を出る。
長い廊下。
白い壁。
何度も見てきた景色なのに、今日は少し違って見えた。
エレベーターへ乗り、一階へ降りる。
自動ドアが開く。
眩しい光が私を包んだ。
私は思わず目を閉じる。
ゆっくりと目を開けると、そこには青く澄んだ空が広がっていた。
雲がゆっくり流れている。
木々は風に揺れ、小さな花が太陽の光を浴びて咲いていた。
綺麗。
ただ、その一言しか浮かばなかった。
私は胸いっぱいに空気を吸い込む。
少し苦しい。
それでも、この景色を見られたことが嬉しかった。
その時、不意に小さな男の子が私の前を駆け抜けていった。
転びそうになりながらも笑顔で走る姿を見て、私は自然と笑みを浮かべる。
――私も、健康な体だったら。
一度だけでいい。
あんなふうに思い切り走ってみたかった。
風を感じながら。
息を切らしながら。
何も考えずに笑ってみたかった。
そんな小さな願いが、胸の奥にそっと芽生えた。
その小さな願いを胸にしまいながら、私は空を見上げた。
どこまでも青い空だった。
あんなに高い場所を鳥たちは自由に飛んでいる。
翼を広げ、風に乗って。
疲れることもなく。
苦しそうな顔をすることもなく。
ただ、気持ちよさそうに。
私は小さく微笑んだ。
(いいな。)
羨ましい。
でも、妬ましいとは思わなかった。
もし私が健康な体で生まれていたら、きっと当たり前すぎて気づかなかった景色なんだろう。
風を感じること。
太陽の温かさ。
家族と一緒に過ごせる時間。
全部、当たり前じゃない。
だから私は、今この瞬間を大切にしたかった。
お母さんが車椅子を押しながら、病院の中庭をゆっくり歩いていく。
色とりどりの花が咲いていた。
赤。
黄色。
白。
紫。
私は一つひとつを目で追いかける。
お母さんは花壇の前で足を止めると、優しく花を指差した。
私は頷き、ノートを取り出す。
『きれい。』
たった三文字。
それだけなのに、お母さんは本当に嬉しそうに笑った。
私は、その笑顔を見る方が花を見るより好きだった。
すると、小さな女の子が花壇へ近づいてきた。
手には赤い花が一輪。
女の子は私をじっと見つめると、少し照れながらその花を差し出してきた。
私は驚いて自分を指差す。
女の子は何度も頷いた。
「どうぞ。」
きっと、そう言ってくれている。
私は両手で花を受け取り、胸の前で大切に抱えた。
そしてノートへゆっくり文字を書く。
『ありがとう。』
女の子は満面の笑みを浮かべ、お母さんの元へ走っていった。
私はその後ろ姿を見送りながら、小さく笑う。
(優しい子だな。)
赤い花へ目を落とす。
花の名前は分からない。
でも、誰かの優しさはちゃんと伝わった。
私はその花を鼻へ近づける。
どんな香りなのかは分かる。
甘くて、どこか落ち着く香り。
思わず目を閉じた。
(もし、もう一つだけ願っていいなら……。)
健康な体が欲しい。
そう願うこともできた。
でも、私の願いは違った。
(お母さんの声を、一度だけ聞いてみたい。)
それだけでよかった。
たった一度。
「おはよう」でもいい。
「おやすみ」でもいい。
私の名前を呼んでくれる、その声を聞けたなら。
それだけで、私はきっと世界一幸せな人になれる気がした。
その時だった。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられるように痛んだ。
私は反射的に胸を押さえる。
呼吸が浅くなる。
視界が少しだけ揺れた。
お母さんはすぐに異変に気づき、慌てて私の肩へ手を添えた。
私は笑顔を作り、大丈夫だと伝えるように何度も頷く。
心配はかけたくない。
せっかく笑っていたのだから。
でも、その笑顔とは裏腹に、胸の痛みは今までで一番強くなっていた。
胸の奥を締めつける痛みは、しばらくすると少しずつ和らいでいった。
私はゆっくりと息を整え、お母さんへ笑顔を向ける。
大丈夫。
そう伝えるように何度も頷いた。
それでも、お母さんの表情から不安は消えない。
何かを伝えようと口を動かしている。
私はその口元を見つめる。
きっと、
「無理しないで。」
そう言っている。
私は小さく笑い、ノートを開いた。
『ごめんね。』
『もう平気だから。』
お母さんは文字を読むと、小さく首を横へ振った。
まるで、
「謝らなくていいの。」
そう言ってくれているみたいだった。
その優しさが、少しだけ胸に痛かった。
私はいつも家族に心配ばかりかけている。
何も返せていない気がしてしまう。
病室へ戻る途中、お母さんは何度も私の顔を覗き込んでいた。
私はそのたびに笑顔を作る。
本当は少し苦しい。
でも、その苦しさよりも、お母さんが悲しそうな顔をする方がずっと辛かった。
病室へ戻ると、お母さんは私をベッドへ座らせ、毛布を掛けてくれた。
私はノートへ文字を書く。
『今日は外に連れてきてくれてありがとう。』
『すごく嬉しかった。』
お母さんは目を細め、私の手を両手で優しく包んだ。
温かい。
少しだけ震えている。
その震えに気づいた私は、お母さんの顔を見つめた。
笑っている。
でも、その目は少し赤かった。
(……泣いたのかな。)
そう思ったけれど、私は何も聞かなかった。
聞けるはずもない。
それに、聞いたところで、お母さんはきっと「大丈夫」と笑うだろう。
私は知っている。
お母さんは、私の前では泣かない。
いつも笑っていてくれる。
だから私も、笑っていたい。
その時、病室の扉が静かに開いた。
白衣を着た先生が入ってくる。
先生は私に微笑みかけると、お母さんへ視線を向けた。
何かを話している。
お母さんの表情が少しずつ曇っていく。
先生は真剣な顔をしている。
私は二人の口元を見つめた。
全部を読み取ることはできない。
でも、一つだけ分かった。
私のことを話している。
それも、あまり良い話ではない。
私はそっと視線を窓の外へ向けた。
青空は、さっきと変わらず穏やかだった。
あんなに綺麗な空なのに。
どうして人は、ずっと笑ってはいられないんだろう。
私は静かに目を閉じた。
目を閉じると、不思議なくらい心が落ち着いていった。
先生とお母さんは、まだ何かを話している。
私には声は届かない。
けれど、お母さんが何度も小さく頷いている姿を見ていると、胸の奥が少しだけ苦しくなった。
(きっと、私の体のことだ。)
隠そうとしても分かる。
小さい頃から何度も見てきた表情だから。
先生が帰ったあと、お母さんは私の隣へ腰を下ろした。
いつも通り笑っている。
でも、少しだけ無理をしている笑顔だった。
私はノートを開き、ゆっくりと文字を書いた。
『先生、なんて言ってたの?』
お母さんは文字を見つめる。
一瞬だけ、表情が止まった。
すぐに笑顔を作ると、私の頭を優しく撫でる。
そして、大丈夫だと言うように何度も頷いた。
私は、その仕草だけで十分だった。
……嘘だ。
本当は十分なんかじゃない。
知りたい。
私の体は、今どうなっているのか。
あとどれくらい、家族と一緒にいられるのか。
でも、その答えを知ってしまえば、お母さんはもっと苦しい顔をする。
だから私は、それ以上何も書かなかった。
お母さんも何も書かなかった。
病室には静かな時間だけが流れていく。
私は窓から差し込む光を見つめた。
暖かい。
こんな何気ない時間が、私は好きだった。
特別なことなんていらない。
家族と一緒に笑って、ご飯を食べて、眠る。
そんな毎日が、ずっと続けばいい。
それだけでよかった。
しばらくすると、お母さんのスマートフォンが震えた。
画面を見ると、お父さんからの連絡らしい。
お母さんは私に「少し待っていてね」と伝えるように微笑み、病室の外へ出ていった。
一人になった病室は、いつもより広く感じた。
私はベッドの横に置いてあった弟の絵を手に取る。
『ずっといっしょ』
大きな文字が目に入る。
私は思わず笑った。
(もちろんだよ。)
(私は、ずっとみんなと一緒にいたい。)
そう思いながら絵を胸に抱きしめる。
その瞬間だった。
ドクン――。
心臓が大きく脈打った。
胸を握り潰されるような激しい痛み。
息が詰まる。
「っ……!」
声は出ない。
苦しい。
呼吸ができない。
私は胸を押さえながら前かがみになる。
視界がぐらりと揺れた。
ベッドの脇に置いてあったノートが床へ落ちる。
震える手を伸ばす。
呼びたい。
お母さん。
お父さん。
誰か。
助けて。
でも、私の喉からは何も出なかった。
私は必死に病室の扉へ視線を向けた。
病室の扉は閉まったままだった。
あと少し。
あと少しで、お母さんは戻ってくる。
そう信じて、私は震える手でベッドの柵を掴んだ。
立ち上がろうと力を入れる。
けれど、腕に力が入らない。
膝も震えている。
息を吸おうとしても、胸の奥が締めつけられるように苦しく、思うように空気が入ってこなかった。
(……大丈夫。)
(落ち着けば、きっと治まる。)
私は自分にそう言い聞かせる。
今までも何度か発作はあった。
少し休めば落ち着いた。
だから今回も、きっと。
そう思いたかった。
床に落ちたノートへ手を伸ばす。
指先が、あと少しのところで届かない。
何度も手を伸ばす。
それでも届かない。
悔しかった。
今まで何度、このノートに助けられただろう。
嬉しい時も。
悲しい時も。
家族へ「ありがとう」と伝えた時も。
私の声の代わりになってくれた、大切な存在だった。
もう一度だけ。
あと一度だけでいい。
私はノートを引き寄せ、震える手でペンを握った。
力が入らない。
文字がうまく書けない。
それでも、ゆっくりとペンを動かす。
『おか……』
そこで線が途切れた。
手が震えてしまう。
インクだけが紙の上に滲んでいく。
私は唇を強く噛んだ。
(違う。)
(こんなことを書きたいんじゃない。)
伝えたいことは、もっとたくさんある。
ありがとう。
大好き。
幸せだった。
その一言を書きたいのに、思うように手が動いてくれない。
ぽたり。
紙の上へ雫が落ちた。
涙だった。
私は泣いていた。
怖いからじゃない。
死にたくないからでもない。
まだ、お母さんと一緒にいたい。
お父さんと笑っていたい。
弟と約束を守りたい。
その願いが、胸いっぱいに溢れていた。
その時だった。
ガラッ、と病室の扉が勢いよく開く。
お母さんだった。
私を見るなり表情が変わる。
顔色が真っ青になり、慌てて私の元へ駆け寄ってくる。
私は必死に笑おうとした。
大丈夫。
そう伝えたかった。
でも、うまく笑えない。
お母さんは震える手でナースコールへ手を伸ばした。
廊下へ向かって大きく何かを叫んでいる。
私には聞こえない。
それでも、お母さんが必死に私を助けようとしていることだけは伝わってきた。
私は安心したように、お母さんの手をそっと握る。
(ごめんね。)
(心配ばかりかけて。)
(でも……。)
(私は、お母さんの子どもで、本当に幸せだった。)
お母さんは私の手を強く握り返した。
その手は、小刻みに震えていた。
私はその震えを感じながら、ゆっくりと指先に力を込める。
大丈夫。
そんな気持ちを伝えたかった。
でも、お母さんは何度も首を横に振る。
涙が頬を伝っていた。
私は今まで、お母さんがこんなふうに泣く姿を見たことがなかった。
いつだって私の前では笑っていてくれた。
辛い時も。
苦しい時も。
検査の結果が悪かった日も。
必ず笑って、「大丈夫」と言ってくれた。
だから私は、お母さんは泣かない人なんだと思っていた。
違った。
泣かないように、ずっと我慢してくれていただけだった。
先生や看護師さんが次々と病室へ入ってくる。
慌ただしく動いている。
口が動いている。
誰かが指示を出している。
でも、私には何も聞こえない。
静かな世界だけが広がっていた。
不思議と怖くはなかった。
怖いと思うより先に、一つの願いが胸を満たしていた。
(……お母さん。)
(最後に一度だけ。)
(あなたの声を聞いてみたかったな。)
私はお母さんの顔を見つめる。
必死に何かを伝えてくれている。
その口元を目で追う。
一文字ずつ。
一生懸命読み取ろうとする。
でも、涙で視界が滲んで、うまく見えない。
それでも私は、お母さんの唇から目を離せなかった。
その時だった。
ふっと、体の痛みが消えた。
苦しさも。
息苦しさも。
まるで最初から何もなかったかのように。
(……あれ。)
体が軽い。
こんなに軽いのは、いつぶりだろう。
私はゆっくりと目を閉じる。
温かい。
春の日差しに包まれているような、優しい温もりだった。
(眠いな……。)
少しだけ眠れば、またみんなに会える。
そう思った。
意識がゆっくりと遠ざかっていく。
最後に見えたのは、お母さんの泣き顔だった。
(そんな顔しないで。)
(私は幸せだったよ。)
(お父さん。)
(お母さん。)
(弟。)
(ありがとう。)
(生まれてきて、本当によかった。)
私の意識は、静かに暗闇へ溶けていった。
――その暗闇は、今まで私が知っている静寂とは少し違っていた。
何も見えない。
何も感じない。
それなのに。
どこか遠くから、微かに何かが響いてくるような気がした。
私は、その”何か”へゆっくりと意識を向けた。
暗闇の中で、私はその”何か”を探すように意識を向けた。
最初は気のせいだと思った。
私の世界に音なんて存在しない。
生まれてから一度も聞いたことがないのだから。
それなのに、その違和感は少しずつ大きくなっていく。
何かが聞こえる。
いや、聞こえそうになっている。
そんな不思議な感覚だった。
(……これは、何?)
私は必死に耳を澄ませようとした。
もちろん、耳を澄ますという感覚すら知らない。
それでも、聞き逃したくないと思った。
ずっと。
ずっと願ってきたものが、すぐそこにある気がしたから。
暗闇の向こうで、小さな光が揺れる。
一つ。
また一つ。
まるで夜空に星が灯るように、光が少しずつ増えていく。
私は自然と、その光へ手を伸ばした。
指先は届かない。
それでも光は、私を優しく包み込むように近づいてきた。
温かい。
お母さんが頭を撫でてくれた時と同じような温もりだった。
私は安心して目を閉じる。
すると、また”何か”が聞こえた気がした。
今度はさっきより少しだけ近い。
誰かが話している。
二人。
いや、三人くらいだろうか。
言葉は分からない。
でも、どこか慌ただしい。
私のことを話しているような気がした。
(……誰?)
私は首を傾げる。
知らない。
家族じゃない。
でも、不思議と怖くはなかった。
その声には、優しさがあったから。
私はその声へ近づこうとした。
すると突然、体が何かに包まれるような感覚がした。
暖かい。
狭い。
身動きが取れない。
息苦しいわけではない。
だけど、自由に手足を動かせない。
(……どうして?)
何が起きているのか分からない。
それでも、意識だけははっきりしていた。
その時だった。
眩しい光が、一瞬だけ暗闇を切り裂く。
私は思わず目を閉じた。
そして――
今まで一度も経験したことのない”音”が、世界を震わせた。
その瞬間、私の運命は静かに動き始めていた。
第2話を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
この作品は「異世界転生」がテーマではありますが、私が一番描きたいのは、転生そのものではありません。
「家族の愛」「命の大切さ」「声や音が持つ意味」、そして「幸せとは何か」。
そんなことを少しずつ物語の中で描いていけたらと思っています。
ここまで読んでくださった皆さんなら気付いたかもしれませんが、この作品はゆっくりと物語が動き始めます。
ですが、第3話からはいよいよ物語が大きく動き出します。
主人公が初めて触れる新しい世界。
初めて感じる”音”。
そして、新たな家族との出会い。
この作品の本当の始まりは、ここからです。
もちろん、バトルや魔法、剣術、仲間との出会いなど、王道異世界ファンタジーとして熱くなれる展開もたくさん用意しています。
それでも、この作品だけは「強くなること」よりも、「生きること」「誰かを大切に想うこと」を忘れない物語にしたいと思っています。
少しでも「続きが気になる」と思っていただけたら、ブックマークや評価で応援していただけると、とても励みになります。
それでは、第3話でまたお会いしましょう。




