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第一話 聞こえない世界

はじめまして、藤田慎二です。

数ある作品の中から『もう一度、あなたの声を。~音を知らなかった少女の異世界譚~』を手に取っていただき、本当にありがとうございます。


この作品は、音を知らずに生きてきた一人の少女が、異世界で新たな人生を歩み始める物語です。


家族との絆、仲間との出会い、心から笑い合える日々、そして前世では叶えられなかった願いを一つずつ取り戻していく姿を、丁寧に描いていきたいと思っています。

しかし、この世界は決して優しいだけの場所ではありません。

大切な人との別れ、命を懸けた戦い、避けられない残酷な現実、そして主人公自身が何度も大きな選択を迫られる瞬間も描かれていきます。


穏やかな日常だけでなく、剣と魔法が織りなす迫力ある戦闘や、仲間たちと力を合わせて困難を乗り越えていく冒険も、この作品の大きな魅力の一つです。


読者の皆様と共に、主人公シルヴィアが歩む人生を最後まで見届けていけたら嬉しく思います。


どうぞ、よろしくお願いいたします。


――藤田慎二

私の世界に、音はなかった。


 朝日がカーテンの隙間から差し込む。


 窓の外では木々が風に揺れ、小鳥たちが枝から枝へ飛び移っている。


 きっと、今日も鳴いているのだろう。


 だけど私は、生まれて一度もその声を聞いたことがない。


 病室は静かだった。


 ……いや、静かなのではない。


 私には、静かにしか感じられないだけだ。


 ベッドの横に置かれた時計の針も、テレビの音も、廊下を歩く人の足音も。


 この世界には、きっと数え切れないほどの音が溢れている。


 私はそのどれ一つとして知らない。


 それでも、不思議と寂しいとは思わなかった。


 知らないものを恋しいとは思えないから。


 コンコン、と病室の扉がノックされた。


 音は聞こえない。


 けれど、扉がわずかに震えるのが見えた。


 私はそちらへ顔を向ける。


 入ってきたのは、いつも担当してくれている看護師さんだった。


 彼女は笑顔で手を振る。


 私も小さく笑って手を振り返した。


 それだけで十分伝わる。


 彼女は慣れた手つきでタブレットを差し出す。


『おはよう。昨日は眠れた?』


 私は指で文字を打つ。


『よく眠れました。ありがとうございます。』


『今日はお母さんたちがお昼に来るよ。』


 その文字を見た瞬間、自然と笑みがこぼれた。


 家族が来る日。


 それだけで、病院という場所が少しだけ明るく見える。


 私は生まれた頃から病院で過ごす時間が長かった。


 季節が変わる景色は窓越しに知った。


 春は桜。


 夏は青空。


 秋は紅葉。


 冬は雪。


 そのどれも、美しかった。


 でも、本当は……


 その景色の中を、自分の足で歩いてみたかった。


 走ってみたかった。


 転んで、笑って、友達と遊んでみたかった。


 そんな夢を誰にも言ったことはない。


 だって、お父さんもお母さんも十分すぎるくらい私のために頑張ってくれている。


 これ以上、困らせたくなかったから


時計に目を向ける。


 長針がゆっくりと進んでいく。


 時間というものは、病院ではとても不思議だ。


 早く過ぎてほしい日もあれば、止まっていてほしい日もある。


 今日は、どちらだろう。


 そんなことを考えていると、看護師さんが車椅子を押して病室へ戻ってきた。


 私は幼い頃から長い距離を歩くことができなかった。


 少し歩くだけで息が苦しくなり、心臓は暴れるように脈を打つ。


 だから移動のほとんどは車椅子だった。


 最初は嫌だった。


 どうして私だけ。


 そう思ったこともある。


 でも、お母さんが笑いながら手話で伝えてくれた。


 『歩けないんじゃない。今は休みながら進めばいいだけ。』


 その言葉を見てから、不思議と車椅子を嫌だと思わなくなった。


 私はゆっくりと乗り込み、看護師さんと一緒にリハビリ室へ向かった。


 廊下では、同じくらいの年齢の男の子が松葉杖をついて歩いていた。


 小さな女の子は母親と手を繋いで笑っている。


 笑い声は聞こえない。


 でも、表情を見れば十分だった。


 楽しそうだな。


 私は自然と笑顔になる。


 リハビリ室では理学療法士さんが待っていた。


 「おはよう。」


 そう言っているのだろう。


 口の動きで何となく分かる。


 私は頭を下げる。


 今日は立つ練習だった。


 手すりを握る。


 足に力を入れる。


 震える。


 一歩。


 また一歩。


 たったそれだけで息が切れる。


 心臓が苦しい。


 汗が額を伝う。


 それでも私は笑っていた。


 昨日より、一歩多く歩けた。


 それだけで嬉しかった。


 療法士さんも拍手をしてくれる。


 その音は聞こえない。


 だけど、優しく手を叩く姿を見ているだけで十分伝わってきた。


 リハビリを終えて病室へ戻る途中、大きな窓の前で車椅子が止まる。


 外では、小学生くらいの子どもたちが校庭を走っていた。


 一人が転び、周りの子たちが笑いながら手を差し伸べる。


 私はその光景をじっと見つめる。


 ……いいな。


 走るって、どんな気持ちなんだろう。


 風って、髪をどんなふうに揺らすんだろう。


 雨って、本当に気持ちいいのかな。


 私は何も知らない。


 でも、知らないからこそ憧れる。


 もし、生まれ変われるなら。


 健康な体で。


 耳が聞こえて。


 声を出して。


 お母さんに「ありがとう」って言ってみたい。


 ……きっと、お母さんは泣くんだろうな。


 そんなことを考えていると、看護師さんが私の肩を優しく叩いた。


 昼食の時間だった。


昼食は、いつもと変わらない病院食だった。


 栄養バランスを考えて作られた食事。


 見た目は少し質素だけれど、私は嫌いじゃない。


 それどころか、毎日こうして食べられることが嬉しかった。


 いただきます、と心の中で呟き、ゆっくりとスプーンを手に取る。


 食べることさえ苦しかった日もある。


 ほんの数口で吐き気に襲われた日。


 水すら飲めなくなった日。


 そんな日々を思えば、今日こうして食事ができるだけで十分幸せだった。


 食べ終える頃には、病室の窓から差し込む陽射しが少しだけ傾いていた。


 食器を片付けてもらい、私は何気なく時計へ視線を向ける。


 あと少し。


 あと少しで、家族が来る時間だ。


 自然と頬が緩む。


 その時だった。


 病室の扉の向こうに、見覚えのある三つの影が映る。


 私は思わず背筋を伸ばした。


 ゆっくりと扉が開く。


 最初に姿を見せたのは、お母さんだった。


 目が合うと、いつものように優しく微笑み、大きく手を振ってくれる。


 私は負けじと大きく手を振り返した。


 その後ろには、お父さん。


 そして制服姿の弟。


 学校帰りなのだろう。


 ランドセルを背負ったまま、今にも駆け寄ってきそうな勢いだった。


 お母さんが慌てて手話で「病院では走っちゃだめ」と伝える。


 弟は「あっ」と気付いたように足を止め、照れくさそうに頭をかいた。


 その姿がおかしくて、私は思わず肩を震わせる。


 声は出ない。


 でも、笑っていることはちゃんと伝わる。


 弟もつられるように笑い、お父さんはそんな私たちを見て目を細めていた。


 お母さんはベッドの横に腰を下ろすと、私の手をそっと包み込んだ。


 その温もりは、小さい頃から何ひとつ変わらない。


 私は手を握り返す。


 声はなくても、この温もりだけで十分だった。


 ……十分だったはずなのに。


 ふと、お母さんの口元に目が留まる。


 何かを話している。


 優しく、穏やかに。


 私は唇の動きを追うことしかできない。


 どんな声なんだろう。


 高いのかな。


 それとも、少し低くて落ち着いた声なのかな。


 笑うと、どんなふうに聞こえるんだろう。


 怒ると、どんな声になるんだろう。


 考えたことは何度もあった。


 だけど、その答えを知る日は一度も来なかった。


 私はお母さんの手をぎゅっと握りながら、心の中でそっと願う。


 ――一度だけでいい。お母さんの声を、聞いてみたかった。


 私がお母さんの手を握ったまま微笑んでいると、お父さんが紙袋を持ち上げた。


 中から取り出したのは、一冊の小さなノートだった。


 表紙には淡い水色の花が描かれている。


 私は首を傾げる。


 お父さんは笑顔でノートを開き、ペンを差し出した。


『前のノート、もうすぐいっぱいになるだろ?』


 私は何度か瞬きをしたあと、小さく笑って頷いた。


 このノートは、私の「声」だった。


 耳が聞こえず、声を出せない私にとって、文字は誰かと話すための大切な言葉。


 家族との会話も、看護師さんとのやり取りも、全部このノートが繋いでくれていた。


 私は新しいノートの一ページ目を開き、ゆっくりと文字を書き始める。


『ありがとう。大事に使うね。』


 それを見たお父さんは、照れくさそうに鼻の頭をかいた。


 昔からそうだった。


 お父さんは、照れると必ずこの癖が出る。


 その様子を見たお母さんが笑い、弟もつられて笑った。


 声は聞こえない。


 それでも、みんなが笑っていることだけは分かる。


 それだけで、胸の奥がぽかぽかと温かくなった。


 弟は突然ランドセルを開けると、一枚のプリントを勢いよく差し出した。


 赤い丸がたくさん付いたテストだった。


 満点ではない。


 でも、弟は胸を張って得意げな顔をしている。


 私は思わず親指を立てた。


 すると弟は嬉しそうに笑い、今度は画用紙を取り出した。


 そこには、家族四人が手を繋いでいる絵が描かれていた。


 真ん中には私。


 車椅子ではなく、自分の足で立っている私だった。


 一瞬だけ、胸が締め付けられる。


 でも嫌な気持ちにはならなかった。


 弟の中では、私は元気に立っているお姉ちゃんなんだ。


 そう思うと、嬉しくてたまらなかった。


 私は画用紙を胸に抱きしめる。


『ありがとう。宝物にするね。』


 弟は満足そうに何度も頷いた。


 その横で、お母さんは静かに私の髪を撫でてくれる。


 幼い頃から変わらない、優しい手。


 この温もりだけは、どんな薬より安心できた。


 私はそっと目を閉じる。


 ――この時間が、ずっと続けばいいのに。


時計の針は、あっという間に面会終了の時間を指していた。


 看護師さんが病室へ入り、申し訳なさそうに家族へ頭を下げる。


 面会時間が終わったことを伝えているのだろう。


 お母さんは小さく頷き、立ち上がった。


 お父さんも荷物を持ち、弟は名残惜しそうに私を見つめている。


 私はノートを手に取り、ゆっくりと文字を書いた。


『今日は来てくれてありがとう。』


『またね。』


 お母さんはその文字を見つめ、優しく微笑む。


 そして両手で手話をしてくれた。


 『また来るね。』


 私は笑顔で大きく頷く。


 弟もぎこちない手話で一生懸命伝えてくる。


 『また、くる。』


 少し間違えながらも、一生懸命覚えてくれた手話。


 その気持ちだけで胸がいっぱいになった。


 私は親指を立てて笑う。


 弟は照れくさそうに笑い返した。


 お父さんは何も言わず、私の頭を優しく撫でる。


 大きくて、少しごつごつした手。


 幼い頃から変わらない、安心できる手だった。


 最後に、お母さんが私の額へそっと口づけを落とす。


 私は目を閉じ、その温もりを静かに受け止めた。


 扉が閉まる直前。


 三人は同時に手を振る。


 私も、笑顔で大きく手を振り返した。


 扉が閉まる。


 病室には、私一人だけになった。


 窓の外を見ると、夕日が街をオレンジ色に染めていた。


 今日も一日が終わる。


 特別なことなんて何もない。


 リハビリをして、ご飯を食べて、家族と笑って。


 それだけ。


 でも、私にとっては十分すぎるほど幸せな一日だった。


 ベッドへ横になり、胸の上で両手を組む。


 ――明日は、弟に何を話そう。


 ――お父さんに新しいノートのお礼を書こう。


 ――お母さんともっと手話で話したい。


 そんなことを考えているうちに、瞼が少しずつ重くなっていく。


 私は眠りにつく前、心の中でそっと呟いた。


 「明日も、みんなに会える。」


 その時の私は、、


 まだ、それが当たり前だと信じていた。


 ──第一話 聞こえない世界 終

第1話『聞こえない世界』を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。


この物語は、第1話で描かれた少女の人生だけでは終わりません。


彼女が歩んできた日々や、胸の中に抱え続けてきた小さな願いは、この先の物語で少しずつ形を変えながら紡がれていきます。


穏やかな日常、仲間との出会い、心を揺さぶる別れ、剣と魔法による戦い、そして数え切れないほどの困難。


楽しいことばかりではありませんが、それでも前を向いて歩き続ける一人の少女の人生を、最後まで描いていきたいと思っています。


タイトルに込めた『あなたの声』という言葉の本当の意味も、物語が進むにつれて少しずつ明らかになっていきます。


もしこの物語を少しでも気に入っていただけましたら、ブックマークや評価、そして感想をいただけると大変励みになります。


次話から物語は大きく動き始めます。


これからも『もう一度、あなたの声を。~音を知らなかった少女の異世界譚~』を、どうぞよろしくお願いいたします。


――藤田慎二

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