24 秋祭りにて
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「まあまあ、レティシアちゃん! とてもお似合いよ!!!」
最初に駆け寄ってきたのは、カトリーヌだった。両手をぱしっと合わせ、瞳をきらきらと輝かせ、いまにも踊り出しそうなほどの興奮を隠そうともしない。
リューベルク領本邸の支度部屋で、レティシアは女神の衣装を身に纏っていた。
純白のドレスは肩から胸元にかけて繊細なレースが流れ、裾には金糸で豊穣の麦穂が刺されている。腰には深い藍色のサッシュが結ばれ、結び目から長く垂れる布が、歩くたびに優雅に揺れた。胸元には淡い水色の宝玉のペンダント。頭には、秋の野花と金の小麦穂で編まれた冠をつけている。
ヴァルデンシュタインの秋祭りで、領主家の者が務める〈豊穣の女神〉。それが、レティシアに与えられた今宵の役割だった。
邸の侍女たちが最後の仕上げを終えると、支度部屋の扉が、ゆっくりと開かれる。
「ねえ、ねえ、見てちょうだいな、皆さま! レティシアちゃんが、もう、こんなに、こんなに、愛らしくって!」
そう言ってレティシアの肩をそっと抱き、自慢げにアルベルトのほうへと差し出すカトリーヌの声には、隠しきれない誇らしさが満ちていた。
アルベルトは、レティシアの姿を一目見たまま、しばらく動けなくなっていた。口を開きかけては言葉を探して見つけられず、また閉じる、ということを何度か繰り返してから、ようやく深く息を吐く。
「……母上。たいへん申し訳ありませんが、今宵レティシアを、誰の前にも出したくないというのが、私の本心です」
「あらあら、領主のあなたがそれを言うの? 無理に決まっているじゃないの」
カトリーヌがコロコロと笑い、アルベルトは観念したように、ようやくレティシアと目を合わせた。
「美しい、なんて言葉では足りないな。レティシア、君は、本当に、女神そのものだ」
まっすぐな賛辞に、レティシアの頬が、じわりと熱くなる。
「ありがとう、ございます……」
恥ずかしくて視線を下に逃したそのとき、扉の向こうから、くすくすと笑い声が聞こえた。
顔を上げると、そこには深い碧色のドレスを纏ったマーサがいた。その隣には、騎士の正装に身を包んだバルナバスが、姿勢を正して佇んでいる。
「とても綺麗よ、レティシア。本当に、本当に、見惚れてしまうほどに」
その言葉に、レティシアの胸が、いっぱいに満たされていく。
レティシアは、自分を見つめてくれている人々を、視線でゆっくりと辿った。アルベルト、カトリーヌ、マーサ、バルナバス。誰もが笑顔で、レティシアひとりを見つめている。
(……夢では、ないですよね)
以前のレティシアの周囲には、こんな景色は何ひとつなかった。
それなのに、今はこうして花の冠を頭に戴き、純白のドレスを纏い、これほど多くの人々から、とびきりの笑顔で見つめられている。
(あの頃のわたしには、信じられないことばかりです)
じわり、と、目の奥に涙が滲みかけ、レティシアは深く息を吸って、それを瞼の内側にとどめた。
これから始まるのは楽しい祭りだ。今はまだ、それを零す時ではない。
太鼓の音が響き、笛の旋律が聞こえる。
賑わう町の広場の中央には、大きな石造りの聖火台が置かれていた。その周囲を領民たちがぐるりと取り囲んでいる。
皆、女神の登壇を待っているのだ。
「いつもの君のままで、十分だ」
アルベルトが、緊張するレティシアの腰のあたりに手を添えて、低い声で囁く。ひと言の励ましが、レティシアの背中をまっすぐに伸ばしてくれる。
「はい。行ってまいります」
深く頷いてから、レティシアは女神の務めへと踏み出した。壇に上がると、波のようなざわめきが、ゆっくりと引いていく。
緊張で胸が早く打ったけれど、レティシアは慌てなかった。
観衆をゆっくりと見渡す。最前列から少し下がった位置で、皆が見守ってくれている。
その温もりを、そのまま声に乗せて、レティシアは祈りを捧げた。
「リューベルク領の皆さまに、豊かな実りと、健やかな日々がありますように。戦の影のない、穏やかな冬と、温もりに満ちた春が訪れますように。そして、大切な人を想う気持ちが、すべての家にひとしく宿りますように」
神官から銀の火種棒が手渡され、それを受け取ったレティシアはゆっくりと聖火台へと近づく。静かに火種を降ろすと、ぱちり、と音を立てて聖火が灯った。
小さく揺れた炎は、見る間に大きく育って、秋の藍色の空へと、明るい橙の光を投げかけていく。
観衆から、地鳴りのような歓声が上がった。広場のあちこちで、人々が手を取り合って踊り始め、領主夫妻に向かって深々と頭を下げていく。
酒盛りも始まって、見るからに飲めそうなバルナバスはすっかり捕まってしまっている。
「レティシア、こちらに」
アルベルトが、レティシアの手をそっと取った。
マーサとカトリーヌが目を合わせて、優しく微笑み交わす。母たちも旧知の仲だったらしい。
すべてを察してくれているような母たちの眼差しに送り出されて、レティシアは夫の手に導かれ、賑わいから離れる。
領主邸の裏手にまわると、人気の絶えた静かな庭園に出る。月光に照らされた小道を、アルベルトは迷うことなく歩いていった。やがて辿り着いたのは、丘の上の小さな東屋だった。
眼下には、橙の灯火に揺れる祭りの広場。その向こうには星空が広がっている。遠く響く太鼓と笛の音が、ふたりだけの静けさを、優しく包んでくれていた。
「ようやく、ふたりきりだ」
アルベルトが、低く穏やかな声でそう告げる。欄干に並んで立ったレティシアの肩を、夫の腕が、ゆっくりと抱き寄せた。
「アルベルト様……?」
レティシアが見上げると、アルベルトの瞳には、何かを覚悟したような、まっすぐな熱が宿っていた。
「全てが片付いたら、レティシアにちゃんと伝えたいと思っていた」
アルベルトはレティシアと向き合い、深く息を吸ってから、その熱をそのまま声に乗せた。
「俺は、君を愛している。政略結婚だからではなく、レティシア自身を」
夜気のなかに、ひとつ、まっすぐな告白が落ちた。
レティシアの瞳から、ぽろりと涙が一粒こぼれた。
父王はすでに裁かれ、姉たちは幽閉され、グランチェスターの王女という肩書きには、もう何の力も残っていない。それを誰よりも知っているアルベルトが、それでも、『レティシア自身』を、まっすぐに見つめてくれている。
本当は少し不安だった。何も持たないレティシアが、これからどうなるのか。
(……理想の冷遇生活だなんて、わたしは何を言っていたのでしょう)
期待をしなければ、裏切られることはない。最初から求めなければ、傷つくことはないとそう思っていた。
けれど、アルベルトと出会ってからのレティシアはずっと幸せだった。そして、これからも続いてほしいと心から願う。
涙を拭いもせず、レティシアは震える唇を開いた。
「わたしも……わたしも、アルベルト様をお慕い申し上げております」
ささやくような声だったけれど、確かに夫の耳には届いたはずだ。
「アルベルト様のことが、とても、とても、大切です」
「俺もそうだよ。レティシア」
アルベルトの大きな手が、レティシアの頬を、そっと包んでいた。
ふたりの距離が、ゆっくりと縮まっていく。
レティシアはまっすぐにアルベルトを見上げ、目を閉じた。
お互いの唇が初めて触れた。秋の夜の冷たい空気のなかで、それはあたたかく、やわらかで。涙のせいで少ししょっぱい。涙のあとも、誰にも望まれなかった日々も。その全てをほどいてくれるような口づけだった。
離れた唇と唇のあいだに、白い吐息が、ゆっくりと溶けていく。
「……愛している、レティシア」
「はい、アルベルト様」
ふたりは額をそっと寄せ合って、しばらくのあいだ、目を閉じたまま動かなかった。
人々の温かな喧騒が遠くに聞こえる。
レティシアは今、確かに幸せだ。
明日、最終話ですꪔ̤̮




