22 リューベルク領へ
お茶会の出来事から数週間が過ぎ、リューベルク領へと向かう馬車の中、レティシアは流れていく秋の景色を眺めていた。
車窓の向こうでは、稲穂が黄金に染まり、紅葉した木々の隙間から、遠く山々の稜線が見えている。
お茶会の日からしばらくの間に、グランチェスター王国の状況は、もはや誰の目にも見過ごせないほどの様相を呈していた。
なかでも国際社会への衝撃が大きかったのは、アルメリアを謀って帝国に攻め落とさせた事実が、公に明らかになったことだった。公女を奪い、その国を帝国に差し出したグランチェスター王の悪行が、白日のもとに晒されたのだ。
国内でも、王女姉妹による他家への婚約者強奪に対する抗議が、連日のように王宮へ届けられているらしい。
宰相主導の重臣会議はついに父王の退位を勧告し、譲位先には、レティシアが一度も会ったことのない、叔父が選ばれた。
先王時代から実直な人柄として知られながら、父王の意向によりこれまで日陰者となっていた人物だという。各国もこの新王を、比較的好意的に受け止めているらしい。
アンナとエリザはヴァルデンシュタインからの送致後も王都に戻ることは叶わず、田舎の屋敷に幽閉されたそうだ。姉たちを取り巻いていた侍従たちも全員解雇され、二人きりでどう暮らしているのか、レティシアには想像もつかない。
王妃は生家に戻り、父はこれから新王主導の裁判にかけられる。大罪であることは明白で、近いうちに処断されるだろう、と。
その一連の報せを聞いて、レティシアは目を伏せた。
一応、彼らはレティシアの家族だった。けれど、今はもうずいぶんと遠い世界のことに感じる。
口にするのは憚られるが、胸のすくような気持ちがあるのは事実だ。
(あの方々がもう、わたしを傷つけることはないのですね)
思っていたよりもずっと、レティシアの心に深く刻まれていたのだと今になってわかる。
そしてその気持ちの裏側で、別の気持ちが浮かび上がる。
(……お母様は、逃げ延びた先で幸せになっていらっしゃるかしら)
アルメリアの元公女である母は、きっとグランチェスター王の悪行を知っていた。それでも長い年月、あの王宮で耐えていたのは、なぜだろう。
今になって、グランチェスターを出たのはなぜなのか。
レティシアがヴァルデンシュタインに嫁いで、あの国との繋がりがなくなったから?
(もしかしたら、わたしを置いていけなかったから、なのではないでしょうか)
その想いに行き当たるたび、レティシアの胸は疼く。
接したことのない母が、自分のことを想っていてくれたらと厚かましい思いまで芽生えてきて、それを振り切るように頭を振った。
(それでも。お母様がどうか、どこか優しい場所で、穏やかでいらっしゃいますように)
馬車の揺れに身を任せながら、レティシアはひとつ深く息を吸う。窓から流れ込む秋の風が、頬をやわらかく撫でていった。
隣に座るアルベルトが、レティシアの視線に気づいて微笑む。
「実は、リューベルク領に向かう前に、寄り道をしたい場所があるんだ」
いつもよりやわらかな声音だ。
レティシアが小首を傾げると、アルベルトは穏やかな表情で頷いた。
「君に会わせたい人がいる」
「わたしに、会わせたい人……?」
「ああ」
レティシアの問いにアルベルトはそれ以上は答えず、その紫紺の瞳は優しく細められた。
***
馬車が小さな村の外れで止まったのは、お昼前のことだった。
レティシアの手を取って馬車を降ろしたアルベルトが、優しく彼女を導いていく。
目の前に広がるのは、ゆるやかな緑の草原と、そこにぽつんと立つ小さな白い壁の家。庭には秋の花が穏やかに咲き、その奥には、こぢんまりとした菜園が見える。
(どうしてここに、わたしに会わせたい方がいるのでしょう)
レティシアは首を傾げる。この国に来て、交流の幅が広がったと言っても、まだその輪は小さなものだ。
この南方の地にレティシアの知り合いがいるはずもない。グランチェスターの交流関係は論外だ。
でもどうしてだろう。レティシアはなぜか、この景色を知っている気がした。
二人が家へと歩み寄っていくと、扉が静かに開いた。
出てきたふたりの姿に、レティシアは目を瞠る。
髪を緩く結い上げた女性がそこにいた。ずっと会いたいと思っていた、あの懐かしい侍女が。
「……マーサ?」
驚きと喜びが、そのまま声になって零れる。
「元気そうでよかった……!」
思わず駆け寄りそうになるレティシアに、マーサはこわばった面持ちのまま、深く一礼を返してくる。
いつものマーサらしくないよそよそしいほどの礼節に、レティシアはわずかに首を傾げた。マーサの瞳の奥には、何か言いたげな揺らぎが残っている。
彼女の隣には、以前顔を合わせた騎士のバルナバスもいて、彼もまたいつになく緊張した面持ちだ。
「マーサ、どうかした……?」
戸惑いつつ近寄ろうとして、レティシアは、ふとマーサのエプロンに目を留めた。その裾には細やかな刺繍が施されている。
マーサがレティシアに教えてくれた、あの翼草の意匠だ。
ああ、やはり、マーサだ。
安堵に胸を撫で下ろしたレティシアは、改めて目の前の女性をまじまじと見つめ直した。柔らかな顔立ち、優しい眼差し、唇の端に滲む笑みの形。どれも、幼い頃の記憶のなかにいるあの侍女と寸分違わない。
けれど、ひとつだけ違うものがある。
その髪を見ているうちに、レティシアの胸の奥で、何かがざわりと揺れた。
(あら……? マーサって、こんな髪色だったのですね。わたしと同じ)
幼かった自分は、マーサの髪の色まで正確には覚えていない。彼女の髪はいつも侍女のヘッドドレスに覆われていて、その下をまじまじと見つめたことはなかった。
けれど、いま結い上げられているこの淡い銀の白金は、まぎれもなくレティシア自身と同じ色だった。
『マーサ? そんな名前の侍女、この城にはいないわよ』
『お前に仕えたい者などいないのにねえ。お前の妄想か夢でしょう』
マーサに会えなくなり、『マーサに会いたい』と泣きながら訴えていた幼いレティシアに、姉たちは冷ややかな笑みを浮かべてそう言った。
言い返す術を持たなかったレティシアは、ただひとり、布団の中で泣いた。
マーサに会えない寂しさを、誰も分かってくれない、いや、誰も認めてくれなかった。あれは本当に、夢だったのかもしれない。そう自分に言い聞かせて、レティシアはマーサのことを心の奥にそっと閉じ込めてきたのだ。
(ひどい意地悪だと、あの時は思ったけれど。お姉様たちが、本当のことを言っていたとしたら……?)
そして、もうひとつ、思い出すことがある。
いつだったか、宮殿の庭園のずっと向こうに、近づくことを決して許されなかったひとりの女性の姿を、遠く垣間見たことがあった。
第二妃マルシアーナ。あのとき、陽光のなかで揺れていた彼女の髪の色は、いま目の前のマーサとまったく同じ、淡い白金だった。




