霧はこちらからも出ている
翌日の放課後、生物準備室の黒板に図面が描かれていた。
全長四メートル。車輪四つ。先端に鉄。
「先輩。これは」
「破城槌だ」
「なるほど」
「わかるか」
「わかりません。わかりたい気もおこりません」
黎先輩はチョークを置いて、満足そうに黒板を眺めた。
この人が満足そうにしているときは、だいたい誰かが始末書を書く。
だいたい、わたしが書く。
「攻城戦と決まった以上、城門を破る手段が要る」
「決まっていません」
「決まった」
「昨日、誰も何も決まっていないと確認したばかりです」
「一晩考えた」
「新しい情報が入ったんですか」
「入っていない」
「では、何を根拠に」
「攻城戦のほうが面白い」
「先輩。それは考えたのではありません」
「では何だ」
「寝たのです」
黎先輩は少し黙った。
黙ったあと、うなずいた。
うなずかれると困る。この人がうなずくのは、納得したときではなく、話題を終わらせたいときだ。
†
「そもそも先輩、攻城戦には城が要ります」
「校舎がある」
「校舎は城ではありません」
「石造りだ」
「鉄筋コンクリートです」
「似たようなものだ」
「似ていません。そして破ってはいけません」
「安心しろ。城門は正面から破るのが定石だ」
「その定石はどこで学ばれたんですか」
「深夜だ」
「時間帯を聞いたのではありません」
「アニメだ」
わたしは黒板の図面をもう一度見た。
先端の鉄の部分に、丁寧な吹き出しで「ここが一番いい」と書き添えてある。
この人の戦術知識の出所は、九割がこれである。
残りの一割がクラウゼヴィッツで、それも読んだのは序論だけだと本人が言っていた。
そして残念なことに、この人は強い。
「唯。資材の見積もりを出せ」
「何の資材ですか」
「今朝、佐藤に発注書を回した分だ」
「・・・・・・見積もりは、発注の前に出すものです」
「では急げ」
わたしは会計である。
会計を通っていない発注書が、会計より先に生徒会を通っていた。
そして会計の仕事は、それを後から辻褄の合う数字にすることらしかった。
†
「唯ちゃん、情報取ってきたよぅ」
引き戸の隙間から、薄紅茶色の頭だけが入ってきた。
「ありがとうございます。どなたに聞いたんですか」
「三年の宮下先輩。演劇部の人」
「それで、なんて聞いたんですか」
「今年の対抗戦、攻城戦なんですかって」
「・・・・・・」
「そしたらねえ、たぶんそうじゃないかなあ、って」
「芙美ちゃん」
「なぁに」
「それは情報収集ではありません」
「じゃあ何だよぅ」
「流布です」
芙美ちゃんは首をかしげた。
本気でわかっていない顔である。この人が本気でわかっていない顔をするときは、たいてい本気でわかっていない。
「だってさぁ、宮下先輩、否定しなかったよぅ」
「知らないから否定できなかっただけです」
「知らない人が否定しないのは、知ってる人が肯定したのと同じくらいの情報だと思うけどねぇ」
「同じではありません。まったく同じではありません」
「あ、ついでに相沢くんの件も進めてきたよぅ」
「進めないでください」
†
「議事録がありませんのっ!」
引き戸が敗北した。二日連続である。この戸はそろそろ交換したほうがいい。
「生徒会の書庫、全部あたりましたわ。過去三年ぶんも。部活動対抗戦の種目に関する決議は、一件もございませんの」
「では誰が攻城戦と言った」
「それが分かれば苦労いたしませんわ!」
佐藤さんが手帳を開いて、次の頁で止まった。
「それどころか、そもそも学園祭実行委員会が、まだ発足しておりませんの」
「発足していない」
「発足は来週月曜ですわ」
わたしは頭のなかで、順番を組み直した。
種目を決める機関が、まだ存在しない。
存在しない機関が決めていない種目について、この学校の三箇所以上で、すでに具体的な名前が流通している。
「佐藤さん。ひとつ伺っていいですか」
「なんですの」
「今朝、うちの部から発注書が回りませんでしたか」
「回りましたわ。木材と鉄材。承認いたしました」
「用途欄には」
「『攻城戦用』と」
「疑問に思いませんでしたか」
「思いましたわよ。思いましたけれど」
佐藤さんは、少しだけ視線を下げた。
「戦争部がそう書いているのだから、そういうことなのだろうと」
背中が冷えた。
消火器のせいではない。
†
わたしは生物準備室を出て、廊下の掲示板の前まで歩いた。
学園祭実行委員会の準備告知が貼ってある。日程だけが印字されていて、種目の欄は空白のままだ。
その前で、一年生らしい二人が立ち話をしていた。
「今年の対抗戦、攻城戦なんだってさ」
「なんでわかるの」
「戦争部がもう準備してるから」
わたしはそこで足を止めた。
情報の源流を遡っていたつもりだった。
遡った先に、自分たちがいた。
†
クラウゼヴィッツは、戦場の霧のなかで方向を見失わないことを指揮官に求めている。
立派な要求だと思う。
ただし彼は、霧を吸う側についてしか書いていない。
吐く側については、一行もない。
三日後、学園祭実行委員会が発足する。
発足したその委員会が最初に処理することになる議題が、すでに校内で完成していることを、わたしたちはまだ知らない。




