霧は生物準備室から立ちこめる
「学園祭の部活動対抗戦に、戦争部もご出場いただきます」
佐藤さんは、たしかにそう言った。
言った、はずである。
少なくともわたしの鼓膜は、そのように振動した。
のちにわたしは、この一文を始末書の冒頭に書くことになる。
†
九月。
残暑という語は、暑さがまだ居座っていることの婉曲表現である。
婉曲にしたところで、暑い。
生物準備室の窓は全開で、しかし風は一分子たりとも入ってこない。
ホルマリン漬けの標本瓶は、去年から一度も動いていない位置で沈黙している。
扇風機は、ある。
首も振っている。
ただし送出しているのは熱風で、これはもはや暖房の一種ではないかとわたしは思う。
わたしは涼波唯。散花学院一年、戦争部所属。
入部の経緯は、勧誘の一言に尽きる。
「せいそう部に入らないか。せいそうはいいぞ。気分がすかっとする」
わたしはそれを、清掃部と聞いた。
実際は、戦争部だった。
せんそう。せいそう。
仮名にして一字である。
放課後に校庭のごみを拾って帰るはずだった人生と、いまの人生を隔てているのは、その一字だけだ。
なお、わたしはいまでも、先輩はわざと清掃部と発音したと確信している。
管掌は作戦参謀、会計、書記。
そして本日の業務は、一学期末の球技大会が交戦に発展した件についての始末書の執筆である。
「唯。何枚目だ」
「十四枚目です」
「多いな」
「十四枚で足りると思っておられるところに、そもそもの認識の甘さがあります」
球技大会だったのである。
球を使う競技のはずだったのである。
黎先輩は答えなかった。
答えるかわりに、消火器の底部を万力で挟んでいた。
「・・・・・・先輩。何を」
「二酸化炭素消火器はな、噴射すると気化熱で周囲の温度が下がる」
「存じております」
「もっと下げたい」
「下がりません」
「バルブを外せば下がる」
「下がるのは室温ではなく、先輩の生存確率です」
時雨黎。二年。戦争部部長。
黒髪、長身、薄灰色の瞳。
同性のわたしが見ても、造形だけなら完璧な人である。
造形だけなら。
ちなみに、この人に手合わせを申し込んで自分の足で帰った生徒を、わたしはまだ見たことがない。
だから誰も、面と向かって指摘できない。
「唯ちゃん、こっち来てごらんよぅ」
窓際から間延びした声。
三脚に据えた双眼鏡を、芙美ちゃんが顎で示す。
「男子バレー部ですか」
「二年の相沢くん。さっきねえ、サーブのミスを一年生のせいにしたんだよぅ」
「それで、なんで双眼鏡が固定されてるんですか」
「継続観測だよぅ。卑劣さは一日にして成らずだからね」
舞風芙美。一年。通信兵、謀略防諜担当。
薄紅茶色のセミロングと、僅かに色味の異なる瞳。
制服の下に汗ひとつかいていない。
この人は暑くないのではない。
沸点が、まったく別のところにあるだけだ。
「ねえ唯ちゃん。あたし、ずっと考えてたんだけどね」
「はい」
「人を三十七度まで冷やしたら、それは冷却なのかな。加熱なのかな」
「対象によります」
「相沢くんだよぅ」
「加熱です。後輩にミスを押しつける人間の平熱が、三十七度もあるはずがありません」
†
誰も働いていない。
全員が、働いていないことについて誰からも咎められない立場にいる。
これを平時という。
クラウゼヴィッツは戦争について膨大な考察を残したが、平時の部活動については一行も書かなかった。
賢明な判断だったと思う。
「ちょっと戦争部のみなさん! お話がございます!!」
引き戸が、開いたのではなく敗北した。
亜麻色のポニーテールが跳ねる。
佐藤莉奈。生徒会監事。
うちの学年で、たぶんいちばん背が低い。
リボンが体格に対して一回り大きく見えるし、声はよく通るけれど児童のように高い。
先月、来校した他校の生徒に初等部と間違えられて、三日間わたしと口をきいてくれなかった。
わたしは何もしていない。隣にいただけである。
ただし、その小さな器の内側には、この学校の会計の九割が詰まっている。
「学園祭ですわ」
「知らん」
「知らんで済ませないでくださいまし! 貴部にも参加していただきます!」
「戦争部が学園祭に何を出すんだ。射的か」
「実弾を使う気でしょう」
「使わずに何を撃つ」
「だから参加していただくのは模擬店ではなく、部活動対抗戦のほうですのっ!」
佐藤さんが手帳を開く。
紙の手帳である。この人は電子の利器を一切信用していない。
「今年から、来年度の部費が対抗戦の順位で傾斜配分されますの」
部屋の温度が、二度ばかり下がった気がした。
消火器のせいではない。
「一位の部には、次年度予算の増額枠が付きます」
「増額」
「増額ですわ」
「唯」
「はい」
「また飛行機が買えるな」
「買えません」
「買えるだろう」
「買えたとしても、その飛行機を買うために増額された予算は、飛行機を買うためのものではありません」
我ながらいいことを言った。
誰も聞いていなかった。
†
「で、何をやるんだ」
黎先輩が万力から消火器を外しながら訊いた。外してくれてよかった。
「はい?」
「対抗戦だ。種目は何だ」
「・・・・・・。それが」
佐藤さんの声が、はじめて小さくなった。
「まだ、決まっていませんの」
「決まっていない?」
「議事録には『詳細は追って各部に通達する』とだけ」
「では貴様は何をしに来た」
「参加意思の確認ですわっ! 書式上、先に取る必要がありますのっ!」
佐藤さんは黎先輩を見上げて怒鳴っている。
身長差がおよそ三十センチあるので、構図としては陳情である。
それを本人がいちばん気にしていることを、わたしは知っている。
なるほど。
役所の論理だ。
中身が決まる前に、参加の署名だけが先に走る。
「まあ、あたしは聞いてるよぅ」
双眼鏡から目を離さないまま、芙美ちゃんが言った。
「模擬店の売上を競うんだって。三年の子が言ってた」
「は?」
佐藤さんが振り向く。
「わたくしが伺ったのは、来場者投票ですわよ」
「私が聞いたのは攻城戦だが」
三人が、三人とも違うことを言っていた。
わたしは自分の耳を疑い、次に三人の頭を疑い、最終的にこの学校の伝達系統を疑った。
「先輩。攻城戦は、誰から」
「森先生だ」
「顧問が言ったんですか」
「いや。森先生がそう言っているのを、廊下で聞いた」
「盗み聞きじゃないですか」
「戦場において情報は取るものだ」
「取り方に問題があると申し上げているのです」
というか、問題は取り方ですらない。
三人が三人とも、自分の聞いた話をひとつも疑っていないことのほうだ。
わたしはノートを開いて、三つの証言を並べて書いた。
模擬店の売上。
来場者投票。
攻城戦。
どれか一つが正しいなら、二つは間違っている。
三つとも間違っている可能性も、当然ある。
「唯。何を書いている」
「情報の整理です。ってゆうか先輩、これ、たぶんまだ誰も本当のことを知りません」
「なるほど」
黎先輩は満足そうにうなずいた。
この人がうなずくときは、だいたい良くない。
「では、こう言えるな」
「言わないでいいです」
「戦場の霧だ」
言った。
†
クラウゼヴィッツは書いている。
戦争において、行動の基礎となる情報の大部分は不確実であり、しばしば誤っている、と。
だから指揮官には、その霧のなかで方向を見失わない判断力が要る、と。
立派な話だと思う。
ただし彼は、その霧が学園祭の実行委員会から立ちのぼる可能性については、やはり一行も書き残していない。
そして翌週。
わたしたちは、この学校で唯一、間違った競技の練習を始めていた部活になる。




