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第九話「パスワード」

 出発から三ヶ月が経った。


 七十八回目のワープを終えた鳳凰は、地球から約二十億光年の位置にいた。

 目標まで、まだ八十億光年。

 数字は依然として気が遠くなるほど大きいが、信号は劇的に変化していた。


 野村が最初に「拍動」と感じた宇宙の律動は、今や明確な構造を持ちつつあった。

 四層の信号は、近づくにつれてそれぞれの輪郭を鮮明にし、互いの関係を露わにしていた。

 それは、音楽を遠くから聴いていたのが、少しずつ近づいて、ようやく楽器の一つひとつが聴き分けられるようになっていくような体験だった。


 エレンは三ヶ月間、毎日新しいデータと格闘していた。

「信号には三つの層がある」から始まった彼女の理論は、今や「信号は宇宙の量子状態を記述している」という仮説まで進んでいた。

 毎夜書き直し、毎朝新しいデータで検証し、また書き直す。

 その繰り返しが、彼女の中で何かを変えていた。


 三ヶ月前のエレンは、「直感を信じない」と言い切っていた。

 今の彼女は、違う。


 野村はそれを、声の変化で感じていた。

 以前は数字を読み上げる声に感情がなかった。

 今は、データを説明するときに微かな「感触」が混じる。

 驚き、逡巡、興奮、不安——それらが数字の間に生まれている。

 科学者として後退したわけではない。

 むしろ、より深いところで考えるようになった、と野村は感じていた。


 転機は七十九回目のワープの夜に来た。


 野村は観測区画で、いつものようにヘッドフォンをつけていた。

 エレンは隣で計算を続けている。

 ARIAは船内の監視をしながら、エレンが与えた多世界解釈モデルの処理を続けていた。


 その夜の信号は、違った。


 最初は微妙な変化だった。

 第一層の波形が、ほんの少し「揺れている」気がした。

 揺れ、というのは正確ではない。

 ブレている。

 周期が、コンマ数パーセントだが不規則になっている。

 野村はそれを十分聴いてから、ヘッドフォンを外した。


「エレン」

「なに?」

「第一層が変化している。波形を見てくれ」

 エレンが画面を確認する音。

 キーボードを叩く音。

「……揺れている。でもこれは観測機器のブレじゃない?」

「違う。センサーの誤差とは違う揺れ方だ。もっと、内側から来ている感じ」

「内側から?」

 エレンがそれを数値で表現しようとして、止まった。

「……確かに、誤差にしては規則性がある。二・一秒の揺れが、繰り返している」

「二・一秒」と野村は言った。

「人間の安静時の心拍数に近い周期だ」

「まさか」

「そうは言っていない。ただ——この揺れが、偶然ではないとしたら。第一層の波形が、何かに応答して変化しているとしたら」

「何に応答していると?」

「わからない。ただ——」

 野村が言いかけたとき、ARIAが口を開いた。


「野村博士。エレン博士」

「何だ」

「私が多世界解釈モデルを使って過去三ヶ月のデータを再解析した結果、気になる構造を発見しました。報告してよいですか」

「してくれ」

「第一層から第四層のすべてのデータを重ね合わせて、位相を合わせてみました。それぞれの周期の最大公倍数のタイミングで、信号が全層同時に特定の配列を取ることがあります。その配列を取り出して並べると——」


 ARIAが一瞬止まった。

「並べると?」と野村が言った。

「数学的な構造を持ちます。具体的には、素数の列と——対応しています」


 静寂。


 野村は椅子から立ち上がる気配を感じる前に、すでに立っていた。

 エレンが画面を操作する音。

 確認している。

 何十秒かの沈黙。


「……合っている」とエレンが言った。

 声が、これまで聴いたことのない低さになっていた。

「素数の列よ。二、三、五、七、十一、十三——最初の百個以上が対応している」

「素数は」と野村は言った。

「自然界で自発的に生成される数列ではない。計算によってのみ、得られる」

「そう」

「これは——」

「情報だ」とエレンが言った。

「信号に、情報が埋め込まれている。素数の列は、その情報の先頭部分——受け取った相手に『これは自然現象ではなく、知性によって生成された信号だ』と伝えるためのヘッダーよ」

「パスワード」と野村は言った。


 エレンが少し止まった。

「パスワード?」

「合言葉だ。俺たちが確かに解読できる存在だと証明した瞬間——次の情報が開かれる。素数の列は、その確認だ。『お前たちは理解できるか』という問いに、三ヶ月かかって俺たちは答えた。ARIAが答えた」

「確認できますか」とARIAが言った。

「素数列の検出と同時に、第二層の信号に新しいパターンが出始めています。三十分前から。今まで存在しなかったパターンです」

「出して」と野村は言った。


 ヘッドフォンをつける。

 第二層が流れてくる。いつもの波形。

 そして、その中に——


「」


 野村は息を止めた。

 構造だ。


 これまでとは別の構造が、第二層の中に現れ始めていた。

 素数列より、はるかに複雑な。

 素数列が「名刺」なら、これは「本文」だ。

 まだ断片的で、全体は見えない。

 だが確かに、そこにある。


「聴こえる?」とエレンが訊いた。

「聴こえる」と野村は言った。

「まだ全部じゃないが——始まった。何かが、始まった」

「どんな音?」

 野村は少し考えた。

「問いかけのような音だ」と彼は言った。

「答えを求めているような——でも怒鳴っているわけでも急いでいるわけでもない。静かに、ただ問いかけている」

「何を問いかけているの?」

「まだわからない」と野村は言った。

「でも近づけばわかる。もっと近づけば」

 エレンが立ち上がる気配がした。

「ミンチェを呼ぶ」と彼女は言った。

「全員に報告する」

「ああ」

 エレンがドアに向かう。

 そして、一瞬止まった。


「野村」

「何だ」

「あなたが正しかった」と彼女は言った。

 声に、三ヶ月分の何かが込められていた。

「感覚が先に来て、数字が追いつく。あなたのやり方が——正しかった」

 野村は何も言わなかった。

 だが、彼女が廊下に出ていく音が遠ざかるまで、少しの間、立ったままでいた。


 宇宙の鼓動が、変化した。

 百億年前から刻まれてきた信号が、今この瞬間、別の何かに変わりつつあった。

 それは呼びかけだった。

 そして今、鳳凰はその呼びかけに、答えようとしていた。

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