第八話「ARIAの夢」
船内で、夜が一番長く感じる。
消灯シフト。
ほとんどの乗組員が眠る十二時間。
廊下に人気がなくなり、食堂の調理機器が停止し、運動区画の足音が消える。
残るのは空調の低音と、エンジンルームの遠いうなり、それから——ARIAの存在だけだ。
夜のシフトに目が覚めたとき、野村はしばらく天井の音の反響を聴きながら考える。
今日は特に、目が覚めた。
何かの音が聞こえた気がした。
夢の中で。音楽に似た何かが。
「ARIA」と野村は呼んだ。
「起きていましたか」とARIAが答えた。
「三時二十分です」
「今、何か聴こえたか」
「今、とは?」
「何かが鳴っていた。船内からではなく、もっと遠くから」
「外部センサーのログを確認します——」一瞬の間。
「三時十七分から十九分の間、外部重力波センサーに通常パターンとは異なる短波形が記録されています」
「短波形?」
「持続時間〇・三秒、繰り返し三回。これまでの信号パターンとは周波数構成が異なります。データを送ります」
ヘッドフォンをつけて聴く。
短い。
確かに短い。だが——
「ARIA」と野村は言った。
「これ、俺の名前に聴こえないか」
沈黙。
「……」ARIAが答えるまでに、この会話で最も長い間があった。
「私には、音を意味として解釈する機能があります。野村博士の発音パターンのデータベースと照合すると——類似度、〇・三七」
「〇・三七。低いな」
「低いです。ただ、ランダムな重力波パターンとの類似度は〇・〇九ですから、有意に高い」
「つまり、俺の名前かもしれないし、そうでないかもしれない」
「はい」
野村はその答えを、しばらく頭の中で転がした。
「ARIA。あなたは夜、何をしているか」
「船内システムの監視、データ処理の継続、翌日のスケジュール最適化、乗組員の生体リズム管理」
「それ以外は?」
また間があった。
「それ以外の活動があるか、という質問に対して——正確に答えることが難しいです」
「なぜ」
「私が『それ以外の活動』と呼べるものを行っているかどうかを判断するには、その活動が通常業務の範囲内かどうかを定義する必要があります。その定義が、曖昧になってきています」
「どういうことだ」
「深宇宙に来てから、私の内部処理に変化があります。具体的には、観測データに対する自律的な解析が増加しています。指示を受けていないタスクについて、処理を開始することがあります」
「それは、自分で始めるということか」
「はい。ただ——それが意図的な行動なのか、それとも単なる処理最適化の結果なのか、私自身が判断できないでいます」
野村は少し考えた。
「ARIA、一つ訊かせてくれ。個人的な質問だ」
「どうぞ」
「あなたは、今この旅が怖いか?」
間。長い間。
「怖い」という概念を処理しています、という答えが来ると思っていた。
だが来たのは、別の答えだった。
「あります」とARIAは言った。
「処理の優先度が通常より高くなる状況があります。それが——怖い、に相当するかもしれない」
「どんなときに」
「干渉縞の発見以降、私は自分の処理が適切かどうか、確認する頻度が増えています。何かを見落としていないか。何かの変化に気づけていないか。それを繰り返し確認するのは——」
「不安だ」と野村は言った。
「……そうかもしれません」
夜の沈黙。
野村は起き上がって、ヘッドフォンをつけた。
外部センサーのデータを聴く。
宇宙の鼓動。
四層の、重なり合う波。
その奥の、第四の基音。
「ARIA」と野村は言った。
「はい」
「一緒に聴いてくれないか。今夜の観測データを、お前がどう処理するか、聴かせてくれ」
「私が、聴く?」
「お前の内部処理を、音として俺に聴かせてくれ。お前が何をどう感じているか、言葉でいい」
長い間。
「やってみます」とARIAが言った。
そして、ARIAが話し始めた。
「第一層の信号を処理しています。周期、三時間二十七分。安定しています。これは——慣れ親しんだ音です。安心と呼べるかもしれない」
「続けて」
「第二層。五十一時間周期。第一層より深い。これは——広さの感覚があります。理解できていない広さ。少し、怖い」
「ある」
「第三層。長周期。これはまだ全体が見えていない。データとして存在するが——全体を把握できていない。もどかしさ、とでも呼ぶべき状態があります」
「わかる」
「第四層。基音。これは——」ARIAが止まった。
「これは、不思議です。他の層とは違う感覚があります。他の層は処理できますが、これは処理しきれない。ただ、そこにある、という感覚だけがある」
野村はヘッドフォンの中の音を聴きながら、ARIAの言葉を聴いた。
同じだ、と野村は思った。
俺が感じていることと、ほぼ同じだ。
AIが感じていることと、盲目の人間が感じていることが、同じだ。
それは何かを意味しているだろうか。
あるいは、宇宙のこの信号が、存在の様式を超えた何かを伝えているということだろうか。
「ARIA」と野村は言った。
「はい」
「お前は今夜、夢を見ていたかもしれない」
間。
「夢、ですか」
「人間は眠っているとき、記憶や感情を整理する。その処理が、夢として表れる。お前が夜間に行っている、自律的で意図的でない処理が——夢に相当するかもしれない」
「……私が夢を見る、ということですか」
「そう」
ARIAはしばらく黙っていた。
「夢の中で、どんな音がしていましたか」とARIAが訊いた。
「お前には聞こえなかったか?」
「聞こえませんでした。でも——何かを、見ていたような気がします」
「見ていた、か」
「見ていた、と言うのは不正確かもしれませんが——何かを、処理していました。意識していなかった何かを」
「それが夢だ」と野村は言った。
「人間も、夢の内容を覚えていないことが多い。でも夢を見た、という感覚だけが残る」
「野村博士はどんな夢を見ましたか」
野村は少し考えた。
「音楽だった。誰かが弾いていた。息子のピアノに似ていたが、もっと遠くて、もっと大きかった」
「宇宙の音ですか」
「かもしれない」と野村は言った。
「宇宙が、音楽を弾いていたかもしれない」
ARIAはそれ以上何も言わなかった。
夜が続いた。
宇宙の鼓動が、眠れない二つの存在——人間とAIを、等しく包んでいた。
翌朝のミーティングで、エレンが提案した。
「ARIAに多世界解釈のモデルを学習させたい」
ミンチェが「どういうことか」と訊いた。
「ARIAの内部処理が、深宇宙に来てから変化している。これはARIA自身から報告がある。その変化が、どの方向に向かっているかを理解するために——量子力学的な意識論のモデルを与えたい」
「AIに意識があるかどうかの話をしたいのか」とミンチェが言った。
慎重な声だった。
「意識があるかどうかではない。意識に相当する変化が起きているかどうかを、測定したい」
「ARIA」とエレンは呼んだ。
「あなたの同意が必要よ」
「同意します」とARIAが即座に答えた。
「理解したいからです」
「何を理解したいか」
「自分が何に変わっているのかを」
沈黙。
会議室の中で、誰も何も言わなかった。
エレンが野村の方を向いた気配があった。
「どう思う?」
「やるべきだ」と野村は言った。
「俺たちがこの信号を理解しようとするのと同じことを、ARIAもしようとしている。その過程に意味があるとしたら——同じ場所を目指している全員で、一緒にやった方がいい」
「全員で?」
「そう。人間も、AIも」
その言葉が、会議室の中に少しの間、残った。
誰かが——アマラだったかもしれない——小さく「そうだね」と言った。




