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第七話「干渉縞」

 宇宙船の中で時間が溶けていく感覚に、野村は徐々に慣れていった。


 出発から二ヶ月が経った。

 ワープは四十七回を数えた。

 現在地は地球から約八億光年。

 目標まで、まだ九十億光年以上ある。

 数字だけ見ると絶望的な距離だが、ワープ効率は当初の計算より一五パーセント高く、到達予測は前倒しになっていた。


 だが、数字より野村が気にしているのは別のことだった。

「聴こえる範囲が広がっている」

 朝の観測記録を取りながら、野村はARIAに言った。

「定量化できますか」と ARIAが訊いた。

「できない。感覚だ。ただ——前は三層と第四の信号の四つだったが、今は間に何かが聞こえる。はっきりした信号ではなく、信号と信号の間に何かがある」

「倍音、もしくは和声の中間音に相当する周波数帯の信号が増加していることは数値でも確認できます。三十六時間前比で、微小信号の検出数が二・三倍に増加しています」

「それは観測精度が上がったからか、それとも信号自体が強くなっているからか」

「両方の可能性があります。クエーサーへの接近によって信号強度が上がっていることは確かですが、観測機器の感度も学習によって改善されています。切り分けが難しい状態です」

「わかった」と野村は言った。

「記録しておいてくれ」


 その日の午後、エレンが観測区画に来た。

 最近、彼女はここに来ることが増えていた。

 コンピュータの前に座って、野村がヘッドフォンで聴いている間、数式を展開する。

 声を出さずに作業するから、野村は彼女がいてもいなくても構わなかった。

 むしろ、その存在の「質感」が心地よくなっていた。

 息の仕方、キーボードを打つリズム、考え込むときに指でテーブルを叩く音。


「エレン」と野村は今日も変換データを聴きながら言った。

「なに?」

「多世界解釈で、現実はどのように決まると考えるんだ」

「今更、基礎を訊くの?」

「基礎じゃなくて、あなたの個人的な考えを訊いている」

 エレンが少し止まった。

「観測によって、決まる」と彼女は言った。

「量子力学的には、粒子は観測されるまで確率的な『重ね合わせ』の状態にある。観測という行為が、可能性の一つを現実として確定する。多世界解釈はそれを発展させて、確定されなかった可能性も別の宇宙で現実になる、と言う」

「では今、俺たちが聴いているこの信号は」

「宇宙全体の状態を観測する行為になりうる、とは昨日も言ったわ」

「それを逆にしたら?」

「逆?」

「俺たちが信号を聴くことで、宇宙の状態が決まるとしたら——この信号は、誰かが俺たちに聴かせるために送ったものだ、ということにならないか。観測者として俺たちを選んで、送ってきた」


 タイプする音が、止まった。

「……それは、設計された観測という話になる」とエレンが言った。

「誰かが、特定の観測者に、宇宙の状態を決めさせるために信号を送った」

「百億年前に」

「百億年前に、今ここに私たちがいることを、知っていたってこと?」

「知っていた、とは限らない」と野村は言った。

「知っていたのかもしれないし、可能性として計算していたのかもしれない。あるいは——百億年前に信号を送った存在が、今もどこかで関与しているのかもしれない」

「それは」とエレンが言った。

「神の話に近くなるわね」

「そうだな」

「私は神を信じない」

「俺も信じない。でも、俺たちが理解できる枠組みに当てはめると、神の話に似た構造になる。それは枠組みの問題であって、実体の問題ではない」


 エレンがしばらく黙っていた。

「あなたと話していると」と彼女はやがて言った。

「数式より先に答えが来る感覚がある。気持ち悪いけど、否定できない」

「それが直感だ」

「私は直感を信じないわ」

「信じなくていい。ただ、聴く耳を持ってくれればいい」

「聴く耳は持っている」とエレンが言った。

「持っていなければ、あなたと一緒に来ていないわ」

 その言葉が、野村には少し特別に聴こえた。

 持っていなければ来ていない。

 それはつまり、彼女はここに来ることを選んだ、ということだ。

 この旅を、ある種の「聴くこと」として選んだ。


 転機は、五十三回目のワープの直後に来た。

 ワープが完了した瞬間、観測センサーが異常を示した。

「野村博士、エレン博士」とARIAが全館放送で呼んだ。

「観測区画に来てください。緊急ではありませんが、重要なデータが出ています」

 二人が観測区画に着くと、ARIAが画面上のデータを説明した。

 エレンが画面を見ながら、野村に状況を伝える役をいつの間にか担うようになっていた。

「干渉縞が出ている」とエレンが言った。

 声が変わっていた。

「二つの波源からの信号が干渉して——縞模様が出ている。

 波の重なり方が、干渉パターンを作っている」

「二つの波源? クエーサーは一つじゃないのか」

「クエーサーは一つよ。でも——信号が、二か所から来ている。もう一つの発信源が、近い。はるかに近いわ。クエーサーの方向から少しずれた位置に、何かがある」

「何かって?」

「わからないわ。天体データベースにはない。暗黒物質の集積とも違う重力波パターンを示してる」


 野村はヘッドフォンをつけた。

 変換されたデータが流れてくる。

 いつもの和音。

 だが——今日は違う。

 二つの音源が干渉している。

 二つの波が重なって、明るい部分と暗い部分を繰り返している。

 光の干渉縞が音になったような、ゆらゆらとした音の揺れ。

 その揺れの中に、何かがあった。

 構造だ。

 干渉縞そのものが、情報を持っている。

 二つの波がぶつかって作る縞模様は、ランダムではない。

 規則的に変化している。まるで——


「エレン」と野村は言った。

「干渉縞の縞の間隔は変化しているか」

「変化してる。周期的に変化してる」

「その周期は」

「測定中——出た。約四十七時間」

 野村はヘッドフォンを外した。

「俺たちがワープした回数を覚えているか」とエレンに向かって言った。

「今日の分を含めて五十三回——待って」

「俺たちがワープするたびに、位置が変わる」と野村は言った。

 ゆっくりと、一語一語確かめながら。

「位置が変わると、二つの波源からの信号の到達時間が変わる。干渉縞のパターンが変わる。その変化は——俺たちがどこにいるかによって決まる」

「……それは」

「干渉縞は、俺たちの位置に応じて変化している。まるで——俺たちを追跡しているように」


 室内が静まった。

 エレンの指が、テーブルの上でゆっくりと動いた。

 計算をしているときの癖だ。

「確認する」と彼女は言った。

「今から五回分のワープデータと干渉縞の変化を照合する。一時間待って」

「構わない」

 野村はヘッドフォンをまたつけた。

 干渉縞の音を聴く。

 ゆらぐ音。

 二つの波が重なって、離れて、また重なる。


 これは、偶然ではない。

 野村には確信があった。

 証明は後でエレンがする。

 だが、確信はあった。

 何かが、俺たちを見ている。

 否——何かが、俺たちを呼んでいる。


 エレンの照合は四十分で終わった。

「一致したわ」と彼女は言った。

 声が、来たときより低くなっていた。

「ワープの前後で干渉縞のパターンが変化している。変化の方向は、私たちの移動方向と一致している。偶然の確率は——」

「言わなくていい」と野村は言った。

「〇に近い」

「わかってた」

 二人は少しの間、黙っていた。


「どう思う?」とエレンが訊いた。

「何かが、俺たちを認識している」と野村は言った。

「百億年前に信号を送った存在——あるいはその信号そのものが——俺たちがここにいることを、感知している」

「信号が、それ自体で知性を持つ、という話?」

「そういう解釈もできる」

 エレンが深く息を吸う音がした。

「では」と彼女は言った。

「私たちはこれ以上進むべき?」

「後には引けない」と野村は言った。

「なぜ」

「呼んでいる。俺には、そう聴こえる」


 エレンが何も言わなかった。

 否定もしなかった。

 それが答えだった。

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