第六話「五億光年の孤独」
深宇宙を進むことは、カレンダーを失うことに似ていた。
出発から三週間が経った——船内の時計によれば。
外に太陽がない。
地球の自転がない。
昼と夜は人工的に設定された十二時間ずつのシフトが作り出す。
体はそれに従って動くが、脳は時折、方位を失う。
今がいつなのか、自分がどこにいるのか、という感覚が、じわじわと曖昧になっていく。
野村は特に、それを感じた。
視覚を持たない彼にとって、位置の感覚は音と時間によって作られていた。
音は宇宙船の中で変わらないが、時間が溶けてくる。
時間が溶けると、自分という存在の輪郭が、少しずつ柔らかくなっていく。
悪いことではない。
ただ、慣れるまでは不安定だ。
「野村博士、七時です」とARIAの声が個室に流れた。
「起床シフト開始まで三十分。本日の観測スケジュールを確認しますか」
「後で」と野村は答えた。
「今日のデータのサマリーだけ」
「昨夜の観測で新しい周波数帯が検出されました。これまでの三層構造に加えて、第四の信号が弱いレベルで確認されています。詳細は観測区画のログに記録済みです」
「第四?」
野村は起き上がった。
眠気が吹き飛んだ。
「確認に行く」
「七時十分に西田博士も観測区画に来る予定です。一緒に確認しますか」
「構わない」
身支度をして廊下に出る。
鳳凰の廊下は幅が広く、壁にハンドレールが付いている。
微小重力環境での移動のためだ。
今は人工重力システムが稼働しているから歩けるが、それでも地球とは足の裏の感覚が違う。
地面が「薄い」気がする。
観測区画に入ると、西田がいた。
「おはようございます」と西田が言った。
「ARIA から聞きましたか?」
「第四の信号のことか」
「はい。昨夜二時ごろに出てきたんですが……これを見てほしくて——聴いてほしくて」
「かける前に、ひとつ訊かせてくれ」と野村は言った。
「どう聴こえる?あなたには」
西田が少し止まった。
「私は野村先生みたいにはわからないんですが……何か、遠いところから、呼んでいるような。でも音の感じじゃなくて、もっと静かで、薄くて」
「かけてくれ」
ヘッドフォンをつける。
変換されたデータが流れてくる。
三層の和音が来る。
慣れた音だ。その奥に——
ある。
西田の言った通りだった。
薄い。
きわめて薄い。
だが確かにある。
三層の波のどれとも周波数が違う。
それでいて、三層と「調和している」。
まるで、和音に対する通奏低音のような存在感。
「これは」と野村はヘッドフォンを外して言った。
「地球からは絶対に聴こえなかった」
「そうだと思います。ノイズに埋もれていたか、あるいは本当に宇宙船が近づいたから強くなったか」
「両方だろう。エレンを呼んでくれ」
西田が通信をかける。
数分後、エレンが来た。
寝起きの気配がするが、声はいつも通りだった。
「何、朝から」
「第四の信号がある。聴いてくれ」
エレンがヘッドフォンをつける。
五秒。
十秒。
三十秒。
「……周波数は?」
「三層より二オクターブ低い」
「二オクターブ——和声的に言えば、基音ね」
「そう」と野村は言った。
「三層が和音だとすれば、第四の信号はその基音に当たる。三層より先に存在していた、より根本的な信号だ」
エレンがヘッドフォンを外した。
「つまり」と彼女は言った。
ゆっくりと、考えながら。
「三層の信号は、この第四の信号を変奏したものだ、と言いたいの?」
「そう読める」
「……それはつまり」
「テーマと変奏だ」と野村は言った。
「バッハのシャコンヌと同じ構造。一つのテーマが、形を変えながら繰り返す。宇宙全体が——一つの主題の変奏として、構成されているかもしれない」
静寂。
「朝からとんでもないことを言うのね」とエレンが言った。
「すまない」
「謝らないで。私もそう思い始めていたわ」
三人は少しの間、黙っていた。
宇宙船の外では、光速で移動する間もなく広がり続ける宇宙が、何十億光年にもわたって沈黙していた。
二日後の夜のシフト、食堂でアマラが故郷の話をした。
きっかけは他愛のないことだった。
乗組員の一人が「地球で一番好きな食べ物は何か」と訊いたのだ。
ありがちな話題だが、深宇宙では妙にリアルな重みを持つ。
「エグシスープです」とアマラが即座に答えた。
「ナイジェリアの、母が作るやつ。瓜の種を潰してトマトと唐辛子と肉で煮る。あれを食べると、ラゴスの家の台所の匂いがして、母の声が聞こえる気がする。記憶って面白いですよね、食べ物って」
「匂いと記憶は繋がりやすい」と誰かが言った。
「嗅覚は脳の記憶領域と直結しているから」
「そう!だからここに来てから、毎日香辛料を使って料理するんです。少しでも匂いがないと、不安になって」
笑いが起きた。
乗組員たちが辛いスープを毎日食べているのはそういう理由か、という笑いだ。
「家族はいるか?」とミンチェが訊いた。
「います!母と、弟が三人と、妹が一人。私が一番上なんで、みんな心配してると思う。特に弟たちが。お姉ちゃん、宇宙に行って帰ってこなかったらどうするって言ってた」
「帰れなかったらどうするんだ?」と誰かが真剣な声で訊いた。
アマラが少し間を置いた。
「帰ります」と彼女は言った。
笑いが消えた声で、だが揺れなかった。
「絶対に帰ります。弟たちに宇宙の話をしてやらないといけないから。あいつら絶対に信じないから、証拠を持って帰らないと」
笑いが、また起きた。
今度は少し違う笑いだった。
緊張を含んだ、深い笑いだった。
「私も弟が一人いる」とミンチェが言った。
「カリフォルニアにいる。会うたびにケンカするが、それでも帰ったら電話する」
「家族ってそういうもんですよね」とアマラが言った。
「いなくなってから、大事だとわかる」
野村はその会話を聞きながら、ハルキのピアノを思い出していた。
インベンション第一番。
二つの声部が絡み合う、あの曲。
今ごろハルキは何を弾いているだろう。
琴子は今、どこで何をしているだろう。
地球では、鳳凰が出発してから三週間が経っている。
いや——少し待て。相対論的な時間の歪みがある。
船内の三週間は、地球では何日だ?
わずかな差ではあるが、確かにずれている。
野村は静かにその計算をしてみた。
まだ誤差の範囲内だ。
だがこれが積み重なっていけば——
「野村博士」とARIAが耳元で言った。
イヤーピース経由の個人通話だ。
「地球からハルキ様のデータが届いています。映像ではなく、音声ファイルです」
野村は立ち上がった。
個室で、野村はファイルを再生した。
ピアノの音が流れてきた。
ハルキが弾いていた。
バッハのフランス組曲第五番、ジーグ。
活発で、少し遊び心のある曲だ。
難しい曲ではないが、リズムを生き生きと弾くのは難しい。
ハルキは生き生きと弾いていた。
演奏が終わった後、ハルキの声が入っていた。
「お父さん、届いてるか? 文化祭の発表で弾いた曲。うまくいったよ。先生に褒められた。お母さんが録音してた。宇宙でも聴けるかな、これ。届いたら返事してよ」
それだけだった。
野村はしばらく動かなかった。
宇宙の中で、ヘッドフォンから息子の声が聞こえた。
百何億光年の宇宙の深さと、十六歳の少年の声。
その両方が、今この瞬間、野村の耳の中にある。
野村は返信ファイルを録音した。
「聴いた。うまかった。ジーグを弾けるようになったか。文化祭、出られなくてすまなかった。でも、ここで聴いた。宇宙の中で聴いた。それは、なかなかない体験だと思う。元気にしている。また連絡する」
送信した。
ヘッドフォンを外して、ベッドに横になった。
天井——どこかはわからないが、上の方——からの反響が、いつもと同じだ。
部屋は変わらない。
だが自分が変わっているような気がした。
少しずつ、確実に。
宇宙は、今も外で拍動している。
十一回目のワープが終わった翌日、船外センサーが示した数字を見て、エレンが静止した。
「野村」
「何だ」
「現在地の確認をお願い」
野村はARIAに訊いた。
「現在地」
「地球から約五億三千万光年です」とARIAが答えた。
五億三千万光年。
野村はその数字を頭の中で転がした。
一光年は、光の速度で一年かかる距離。
五億三千万年分の距離。
地球に生命が誕生したのは約四十億年前だ。
五億年前、地球では最初の魚類が現れた。
その時間を、距離に変えた先に、今いる。
「どうした」と野村は訊いた。
「窓を開けたわ」とエレンが言った。
鳳凰のいくつかの区画には、強化透明パネルの「窓」がある。
通常は閉鎖されているが、開けることができる。
「外が見えているか」
「……」とエレンが言った。
返事が来るまで数秒かかった。
「見えている。星が——見えている。でも」
「でも?」
「星の分布が違う。銀河の形が、地球から見るのと違う。地球から見上げた夜空を覚えているけど、これは別の夜空。全く知らない星空だわ」
その声には、何かがあった。
恐怖ではない。
圧倒されている、でもない。
もっと静かで、深い何か。
「エレン」と野村は言った。
「その窓の前に、座れるか?」
「座っているわ」
「そのまま、しばらくそこにいてくれ」
「……なぜ」
「あなたが見ているものを、あなたの声で聴かせてくれ」
間があった。
「私は詩人じゃない」
「知っている。でも今見えているものを、そのまま言葉にしてくれ」
また間があった。
今度は長い。
やがてエレンが、静かに話し始めた。
「暗い。圧倒的に暗い。光のある場所は、どこも遠い。近くに何もない。光源が一つもない距離に、今いる」
「続けて」
「星は点じゃない、ここから見ると。にじんでいる。それぞれが霧のよう。銀河が——一つの銀河が斜めになって、わずかに光の帯として見える。それが唯一、構造のあるもの」
「孤独か」
「孤独、とは少し違う。孤独は比較から来るわ。これは——比較できない。ただ、ある。広さが、ただ、ある」
野村はその言葉を、目を閉じて聴いた。
見えなくても、エレンの声から、その窓の外の暗さが伝わってくる気がした。
「ありがとう」と野村は言った。
「何が」
「俺の代わりに見てくれた」
エレンは何も言わなかった。
窓の外で、五億光年の宇宙が広がっていた。




