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第五話「最初のワープ」

 宇宙船の中で眠ることに、人間はどれだけで慣れるのだろう。


 野村は出発から三日目の夜——正確には消灯シフトが始まってから二時間後——まだ眠れずに個室のベッドに横になっていた。

 音が、地球とは違う。

 それが問題だった。

 地球では常に背景音があった。

 風、虫、遠くの車、隣室の気配。

 それらは無意識のうちに「今、地球にいる」という感覚を脳に伝え続けていた。

 ここにはそれがない。

 あるのは空調の低いうなり、配管の微かな振動、隔壁の向こうで誰かが寝返りを打つ気配だけだ。

 慣れるまで時間がかかる。


 三日間、鳳凰は月軌道から核融合エンジンで加速を続けていた。

 乗組員全員がシートに固定される「加速フェーズ」を終え、今は巡航速度——光速の約〇・一パーセント——で深宇宙に向けて進んでいる。

 この速度では、目標まで何千年もかかる。

 重力波推進モードへの切り替えと、ワープ技術が鍵だ。

 最初のワープが、明朝に予定されていた。


「眠れないのか」とARIAの声が個室に流れてきた。

 野村は少し驚いた。

「呼んだか?」

「呼んでいない。生体センサーが非睡眠状態を検知した。干渉が不要なら設定を変える」

「いや、構わない。何か言いたかったか」

 一瞬の間。

「明日のワープについて、事前に知っておくと有用な情報がある」とARIAが言った。

「提供するか」

「してくれ」

「ワープ中、乗組員は外部センサーから切断される。窓がない個室では変化に気づかないかもしれないが、野村博士のように聴覚によって空間認識をしている場合、短時間の感覚断絶が発生する可能性がある。持続時間は推定〇・三秒から二秒」

 野村はそれを聴いて、少し考えた。

「感覚が消える、ということか」

「音の届く媒質としての空間が、ワープ中は一時的に異なる位相に入るため。船内音は継続するが、野村博士が空間認識に使っている微細な反響パターンが変容する可能性がある」

「怖いか、と訊きたいか」

「訊いていない。ただ、準備があれば対応しやすいと判断した」

「ありがとう」と野村は言った。

「正直に言うと、少し緊張している」

「記録する」

「しなくていい」

「了解」

 そのやりとりが、妙に面白かった。

 野村は少し笑って、ヘッドフォンを手に取った。

 バッハをかける。

 シャコンヌではなく、今夜は無伴奏チェロ組曲の第一番。

 重力が低い、ゆっくりとした曲。

 それを聴きながら、野村はいつの間にか眠っていた。


 翌朝——消灯シフトが終わり、乗組員が起き始めるころ——鳳凰の航行指令室には全員が集まっていた。

 定員十四名。

 椅子の軋み、ヘルメットの着脱音、酸素マスクの確認をする手袋の音。

 野村はそれらを一つひとつ、頭の中で配置した。

 ミンチェが正面の操縦席。

 エレンが野村の右側、二席分の距離。

 アマラがエンジン管理卓の前。

「全員着席確認」とミンチェが言った。

 低い声で、静かな確認だった。

「ARIAシステム、ワープ前チェックリスト開始」

「了解」とARIAが答えた。

「核融合炉出力、定格の百二パーセント。重力波収集パネル、展開完了。位相変換コイル、温度正常。乗組員バイタル、全員正常範囲。外部センサー、記録モードに切替済み」

「目標座標の確認」

「QSO J0906+6930方向、第一ウェイポイント。現在地から三・二光年」


 三・二光年。

 その距離を、野村は頭の中で変換した。

 光の速度で三年と少しかかる距離を、一回のワープで跳ぶ。

 核融合エンジンで加速しながら、重力波のエネルギーを使って空間を折り畳む。

 理論は知っている。

 だが理論を知っていることと、体で感じることは別だ。

「カウントダウン開始」とミンチェが言った。

「三十秒前」

 室内が静かになった。


 人間が静かになるとき、呼吸の音がする。

 ふだんは意識されないが、全員が息を詰めるとそれが聴こえる。

 十三人の、緊張した呼吸。

「二十秒」

 野村はシートベルトを確認した。

 背もたれに背中を押しつけた。

 ヘッドフォンは外していた。

 この瞬間は、生の音で感じたかった。

「十秒。九。八。七——」

 ARIAのカウントダウンが、静かに続く。

「三。二。一。ワープ、エンゲージ」

 その瞬間。

 音が、消えた。


 完全な静寂、ではなかった。

 空調の音は聞こえていた。

 自分の心臓の音も聞こえた。

 だが——空間が消えた。

 野村の聴覚が日常的に感じている「空間の手触り」が、消えた。

 壁の反響がない。

 床の振動がない。

 まるで、音だけが残って、音を包む空間が蒸発したような感覚。

 それは、一・七秒間続いた。

 そして、戻った。


 空調の音。

 ヘッドフォンをテーブルに置いた音の反響。

 誰かが息を吐く音。

 空間が戻ってきた。

「ワープ完了」とARIAが言った。

「現在位置確認中——確認。第一ウェイポイント到達。誤差〇・〇〇三光年。予定内」

 誰かが声を上げた。

 歓声というより、圧縮された息が一気に出た感じだった。


「全員バイタル確認」とミンチェが言った。

「異常なし?」

「なし」

「なし」

「問題ない」と声が続く。

「野村博士」とミンチェが呼んだ。

「どうだ」

「空間が消えた」と野村は言った。

「一・七秒間」

「それは——」ミンチェが少し止まった。

「体感か?」

「体感だ。ARIAの予測は〇・三から二秒だったから、範囲内だ」

「ARIAに事前に聞いていたのか」

「昨夜教えてくれた」

 ミンチェが小さく笑った気配があった。「ARIAらしい」

「ありがとう、ARIA」と野村は言った。

「どういたしまして」とARIAが答えた。

 その「どういたしまして」の言い方が、微妙に——ほんの少し——温かみがあった。

 野村は、それを気のせいとは思わなかった。


 ワープから六時間後。

 野村はひとり、観測区画に来ていた。

 鳳凰の観測区画は船体後部にある。

 重力波収集パネルからのデータをリアルタイムで処理する専用スペースで、野村のために音響変換システムが設置されていた。

 ヘッドフォンをつければ、船外の重力波を直接聴ける。

 かけた。

 最初の一秒、野村は何も言えなかった。

 違う。

 地球で聴いていた「宇宙の音」とは、質が違う。

 地球からでは大気のノイズ、電磁場の干渉、月や太陽の引力がすべてフィルターとなって届く。

 ここは三光年離れている。

 太陽の重力場の外側に近い。

 信号が、直接来る。

 深い。

 低く、深く、揺れる。

 それでいて、揺れの中に構造がある。

 

 野村は目を閉じて——閉じることに意味はないが——耳だけになった。

 短周期の波が、表面を走っている。

 その下に中周期。

 さらに奥に長周期。

 三つの波が、互いに干渉し合いながら、巨大な和音を作っている。

 そして。

 何か、別のものが聴こえた。

 三層の構造とは別に、もっと奥に、何かがある。

 音ではない。

 音になっていない何かが、音の間に存在している気がした。

「気がした」というのは、野村にとって珍しい言い方だ。

 彼は普通、「聴こえた」か「聴こえなかった」か、二択で感知する。

「気がした」は、感知の閾値のぎりぎりにある何かだ。


 ヘッドフォンを外して、ログを取った。

 今日のこの感覚を、忘れないうちに記録する。

 キーボードに向かいながら、野村は考えた。

 三光年離れただけで、これほど鮮明に届く。

 百億光年の距離まで近づいたとき、この音はどれだけの大きさになるのだろう。

 それは、怖いか?

 聞き返すように、野村は自分に問いかけた。

 答えは——否、だった。

 怖くない。

 聴きたい。

 ずっと聴きたかった音が、少しずつ近づいてきている。


 その夜の食堂で、エレンが待っていた。

「観測区画にいたわね」と彼女は言った。

「わかったか」

「六時間戻ってこなかったから」

 野村は向かいに座った。

 アマラが作ったというスープが置いてある。

 ナイジェリア式のピリ辛スープで、船内に香辛料の匂いが充満していた。

 最初は乗組員の数名が顔をしかめていたが、今は黙って飲んでいる。

「どうだった」とエレンが訊いた。

「変わった」と野村は言った。

「音が変わった。地球で聴いていたものと、質が違う。もっと直接的に来る」

「私もデータを見たわ。ノイズ比が劇的に改善している。地球観測の五倍以上の精度よ」

「分析できそうか」

「今夜中に」

 スープを飲む。

 辛い。

 だが体が温まる感じがした。


「最初のワープ、どうだった?」と野村は訊いた。

 エレンが少し止まった。

「……怖かった」と彼女は言った。

 珍しく、そのまま言った。

「窓がないから視覚的な変化はないわ。だが一・七秒間、確かに空間の質が変わった。多世界解釈的に言えば、あの瞬間に私たちはどの世界にも属していなかった」

「どの世界にも属していなかった」

「位相空間の外側にいた。量子的には——」

「エレン」と野村は言った。

「何?」

「今、理論で怖さを覆おうとしている」

 沈黙。


「……そうかもしれないわ」とエレンが言った。

 今度は小さな声だった。

「怖かった、というのは本当よ。あれは、初めて感じる感覚だったわ。存在の根拠が消える、というような」

「俺には逆だった」と野村は言った。

「存在の根拠が消えるのは、毎日感じている。目が見えないと、自分がどこにいるかわからなくなるときがある。だから、音がない一・七秒間は——怖くなかった。ただ、静かだった」

 エレンが何かを言おうとして、止まった。

 そのまましばらく、二人はスープを飲んだ。


「地球に家族はいるか」と野村は訊いた。

「いないわ」とエレンが答えた。

 間がなかった。

「両親は?」

「父は六年前に亡くなったの。母とは疎遠のまま」

「離婚したと聞いた」

「そう。五年前。相手は物理学者じゃなかった。私の仕事を理解しようとはしてくれた——でも、理解できなかった。私も、理解させる努力をしなかった」

「子供は?」

「いないわ」

 また間が入った。

 今度は違う種類の間だった。

 後悔ではない。

 だが、何かを見ている間だった。

「あなたは」とエレンが訊いた。

「家族がいる」と野村は言った。

「帰る場所がある」

「羨ましいか、と訊かれると思った?」

「そうは思っていない」

「実際、羨ましくはないわ」とエレンが言った。

「私には私の帰る場所がある。プリンストンの研究室。あそこの、朝の光の入り方が好き」

 野村はその言葉を、しばらく黙って聞いた。

 朝の光の入り方、か。


 目が見えない野村には、それはわからない。

 でも、その場所が彼女にとって何であるかは、わかった。

「そこに帰ろう」と野村は言った。

「二人とも、帰る場所に」

「当然」

 エレンがスープを飲み干す音がした。

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