第四話「鳳凰、起動」
宇宙船「鳳凰」を、野村は音で知った。
種子島宇宙センターの、新設された第三ドックに入った瞬間、響きが違った。
廊下の音の跳ね返り方が、これまでの建物と全く異なる。
天井が高い。
空間が広い。
そして、遠くから低いうなり声が聞こえる。
機械の声だ。
眠っているが、生きている何かの声。
「大きい」とエレンが言った。
珍しく、率直な感想が口から出た。
「全長二百七十メートル」とそこに立っていた男が言った。
「幅は最大で四十メートル。現時点で人類が建造した最大の有人宇宙船です」
声は若い。
だがよく通る。
自信がある。
「船長の李明哲です。野村博士、リード博士、よろしくお願いします」
「よろしく」と野村は英語で返した。
「中国語と英語、どちらが楽ですか」
「英語で問題ありません。生まれはカリフォルニアなので」とミンチェが答えた。
日本語が流暢だったので、野村は少し驚いた。
「日本語も話せます。JAXA訓練中に覚えました」
「三か国語か」
「必要に迫られて。この船には六か国語が飛び交うので」
鳳凰には野村とエレン以外に、船長のミンチェを含む正規乗組員十二名が乗る。
パイロット二名、エンジニア四名、医療担当一名、生命維持システム担当二名、そして量子エンジニアのアマラ・オカフォー。
「まず動力システムを見てほしいと思って」とミンチェが言った。
歩きながら話す。
「アマラが担当なので、彼女に説明させます」
エンジンルームに向かう廊下。
足音の反響が、だんだん変わっていく。
壁の素材が変わった。
いや、密度が変わった。
重い。
「オス!」
勢いのある声が来た。
「量子エンジニアのアマラ・オカフォーです。ナイジェリア出身、MIT博士課程修了。この船のエンジンは私の子供みたいなものなので、悪口は言わないでください」
野村は思わず笑った。
「俺は悪口を言う前に、まず理解する方だ」
「それは安心した!」とアマラが言った。
「じゃあ説明します。鳳凰の推進システムは三段階になっていて——まずは通常の化学燃料推進で大気圏を離脱、次に月軌道まで核融合エンジンで加速、そして深宇宙では重力波推進モードに切り替えます」
「重力波推進は実証済みか」と野村は訊いた。
「無人試験機での実証は完了しています。有人は今回が初めてです」
「初めて」
「ご安心ください。シミュレーションは三万回以上回した。私が一番怖いと思ってるので、私が一番安全に作ってある」
「自分が怖い、と認めるのはいいことね」とエレンが言った。
「そうでしょ! 怖くない人は危険なことをする」
アマラが笑う。
よく響く笑い声だ。
エレンが小さく笑った気配を、野村は感じた。
二週間で、そういうことがわかるようになっていた。
鳳凰のコックピット——より正確には「航行指令室」と呼ばれる——に入ったとき、野村はARIAと初めて話した。
「ARIAです」と声がした。
穏やかな、落ち着いた女性の声。
「Autonomous Reasoning and Integration Architectureの略称です。この船の航行・管理システムを統合的に担当しています。野村真一博士と、エレン・リード博士のプロフィールは登録済みです」
「ARIAと呼んでいいか」と野村は訊いた。
「はい。そのように呼んでください」
「俺の視覚補助をしてほしい。周囲の状況を、必要なタイミングで音声で教える。過剰な情報は要らない。判断が必要なときだけ」
「理解しました。野村博士の行動パターンと必要情報の種類を学習します。最適化には数日かかる見込みです」
「わかった」
「一点、確認させてください」とARIAが続けた。
「何だ」
「野村博士は、重力波データを音として処理されるとのことです。深宇宙での観測に際して、私の内部センサーデータをソノグラム形式に変換して提供することを検討しましたが、それは有用ですか?」
野村は少し驚いた。
事前情報を単に使うだけでなく、それを応用して提案してきた。
「有用だ。試してみたい」
「了解しました。テスト変換を後ほど準備します」
エレンが隣で何かを書いている音がした。
「ARIAに感情はあるの?」と彼女が唐突に訊いた。
一瞬の停止。
コンマ数秒。
人間なら「間」と呼ばれない短さだが、野村には感じ取れた。
「感情の定義によります」とARIAが答えた。
「特定の状況に対して、処理の優先度が変化することはあります。それを感情と呼ぶなら、あると言えるかもしれません」
「巧みな答え方ね」とエレンが言った。
「そう言われます」
エレンがまた小さく笑った。
これは長い旅になる、と野村は思った。
二年間。
この人間たちと、この声と、ともに過ごす二年間。
出発の前夜、野村は家に帰った。
最後の夜だから特別なことをしよう、とは思わなかった。
いつもと同じ夕食を食べたかった。
いつもの音が聴きたかった。
琴子が作ったのは、野村が好きな鯖の味噌煮だった。
「なんで」と野村は言った。
訊くつもりはなかったが、口から出た。
「好きでしょ」
「なんでわかった」
「十九年一緒にいたから」
それだけ言って、琴子はまた台所に戻った。
三人で食べた。
会話は少なかった。
ハルキが学校の話を少しして、野村が相槌を打って、琴子がそれを聞いていた。
いつもの夕食と変わらない。
食後、ハルキが言った。
「弾いてもいいか」
「弾け」と野村は言った。
電子ピアノのスイッチが入る音。
ハルキが弾き始めた。
シャコンヌだった。
ヴァイオリンのためにバッハが書いた曲を、ピアノで弾いている。
本来の音ではない。
でも、確かにシャコンヌだった。
野村は目を閉じた。
ハルキの演奏は、まだ荒削りだ。
テンポが揺れる。
音量のコントロールが難しい。
でも——この曲の核心にある何か、繰り返し、変奏し、それでも戻ってくるという構造を、ハルキは感じながら弾いている。
それが伝わった。
曲が終わった。
「うまくなった」と野村はまた言った。
「二回目だよ、それ」とハルキが笑った。
「本当のことだから、また言った」
沈黙。
「絶対に帰ってきてよ」とハルキが言った。
静かな声だった。笑いの余韻が消えて、素の声になっていた。
十六歳の、まだ少年の声が。
「帰る」と野村は言った。
「約束?」
「約束。シャコンヌを最後まで聴いてから帰る」
「……曲じゃなくて」
「知ってる。でも約束は本当だ」
ハルキが何も言わなかった。
代わりに、また鍵盤を叩いた。
今度は、インベンション第一番。
父に聴かせた、あの曲。
野村は立ち上がって、台所に行った。
琴子が洗い物をしていた。
水の音。
野村は後ろからそっと、肩に手を置いた。
琴子は振り返らなかった。
ただ、手を止めた。
二人はしばらく、そのままでいた。
「気をつけて」と琴子が言った。
「うん」
「——帰ってきて」
同じ言葉を、母と息子が言う。
野村は何も言わなかった。
言葉より、手のひらで伝えた。
翌朝、五時。
野村は出かける前に、一人でリビングに座った。
ヘッドフォンをつけた。シャコンヌをかけた。
音が降ってくる。
変奏が積み重なる。
ひとつのテーマが形を変え、広がり、深まり、そして戻ってくる。
十五分の旅。
バッハが三百年前に書いた宇宙。
野村はそれを最後まで聴いた。
それから立ち上がり、バッグを手に取り、ドアを開けた。
朝の空気が冷たかった。
遠い宇宙の彼方で、何かが鼓動している。
野村は歩き出した。




